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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

手術入院の記録

去る2011年6月6日-15日の間、手術入院しておりました。その覚書であります…^^;

今回の件では、割と不安&ストレスがありまして、手術前日ギリギリまで「開腹手術という事実」を意地でも考えたくなかったので、他の事を一生懸命考えて、気を紛らわしておりました…のでありました(アセアセ)。

貧血の原因は、子宮筋腫であります。ここ最近、貧血の進行が早くなっており、生活面でも支障が出ていたので、根本的な改善を期待して、手術に踏み切った次第でありました。

貧血の進行がどれくらいかと言うと…半年も経たずにヘモグロビン値が11レベルから10レベルに落ちるくらいです。たかが貧血…と考えておりましたが、かくも急に数値が低下してみると、やはり恐怖を覚えるものでありました…(一番ヘモグロビン値が低下したときの数値は8レベルで、あと1ヶ月で7レベルに落ちるところでありました)…^^;;;

…とりあえず、手術入院の覚書です(手術そのものは、広く普及している様式だと思われます)。

◆2週間前から1週間前◆

鉄剤を処方され、通院のたびに採血検査。ヘモグロビン値が「400ml自己血貯血」に耐えられるレベルに回復したのを確認して、手術の際の出血に備えて、400ml貯めました…(=そうすると、1500mlという大量出血の事態にも対応可能と言われました。血液ってすごいパワーを持ってるんだなと思うと、吸血鬼ドラキュラの気持ちがよく分かるような…^^;)

この時のヘモグロビン値は、鉄剤の力で、10.1から10.9に上昇していました。11レベルに近づくと身体が楽だというのが、よく分かりました(…筋腫も一応、良性とは言え「腫瘍」の仲間で、その周囲には多くの栄養血管が発達しているので、少し出血しやすくなっているそうです。筋腫も太ったのだろうなと思うと、複雑な気持ちでした)…^^;

◆6月6日(月)◆

午前に入院。夕方、主治医さんより手術説明を受ける。MRI画像を見せられて、改めて筋腫の大きさにビックリ。一番大きいもので、新生児の頭サイズ(=直径10cmくらい=)なので、帝王切開スタイルになるという話。21:00以降、飲食禁止。良く眠れるように、睡眠薬を処方される…^^;

ちなみに前の日、日曜夜のTVドラマ『仁-JIN-』を視聴していて、野風さんの帝王切開手術を麻酔なしでやる場面…というのを、ジーッと見ていました。それで余計に、次の日の手術に対する恐怖が大きくなったような…(=寝入るまで、ちょっと泣いておりました…^^;)

◆6月7日(火)◆

朝一番で手術。手術室に徒歩で向かい、手術用ベッドに横たわり、麻酔処置を受ける。8:45開始-12:30終了。気が付いたら人工呼吸器をくわえておりました。執刀医さんが筋腫を見せてくれて、ボーッとしたまま拝見。何となく大きいのが2コあったような…、その後は意識が飛び飛びで、未だによく思い出せないです(=「何が起きたのか分からない」と言うような、怪訝な顔をしていたそうですが)…^^;

意識が連続してハッキリしているのは病室に戻ってからで、意識がクリアになった瞬間、猛烈な吐き気に襲われました。麻酔の副作用だと言う話でした。3回吐きましたが、一体何を吐いたのか疑問…(妙に赤っぽい色だったので、「血が混ざった何か」だろうとは思いますが・汗)、そして一日中、点滴が続きました。夜になるに従って、痛みが強まりました…^^;;;;;;

※後で聞きましたが、子宮に穴を開ける方法だった割には大きな出血は無く、スムーズに終了したという話。でも元から貧血状態だったという事があり、手術相応の出血もそれなりにあったという事で、手術後に残っていた自己血は、そのまま体内に戻したそうです。

◆6月8日(水)◆

未明から、激痛と発熱で寝返りも出来ず、涙を流してウンウン言っておりました。「酸素マスク」なるものを付けて頂きましたが、熱が出ていた事もあって何となく邪魔で、「早く外れないかなー」と考えておりました。痛み止め(点滴)をしょっちゅう注文。初めて経験する激痛で、すっかり動転しておりました。夜明け方ぐらいがピークだったでしょうか。要は、一睡もしてなかった(らしい)ということで…^^;

朝になって主治医さん(=執刀医さんと同一人物=)が来て、「今日は歩行の練習をしましょう」と言われたのでありますが…、その時はまだ痛みのピークを抜けていなかったので、正直言って、「orz(バッタリ…)」という気分でした。

それでもお昼前には、痛みがスーッと薄れて来ました。痛み止めのお蔭もあって少し寝返りが出来たので、右、左、右…と寝返ってみて、自信が付いてきたところで、お腹の痛みと相談しつつ慎重に起き上がってみたのでありました。一応、腕とかは何とも無かったので、ベッド脇の柵をうまく使えば起き上がれました(=物理学の法則ですね)…^^;

昼下がりの頃に看護師さんがいらっしゃって、歩行練習にトライ。トイレ前まで到達可能な事をチェックし、尿道カテーテルが抜かれました。女性の看護師さんだったので、その点は良かったです(赤面)。この時点、傷口からのまとまった出血は、結構ありました(=自己血を戻して頂いていたので、血液の余裕という点では、良かったと思います)。

お腹が動いていることをチェックされました(=水を飲む事は可)。次いで痛み止め用の点滴針が、固定テープごと背中から剥がされる。その時まで「背中に何か変なものが刺さっている」という感覚が無かったので、とってもビックリしました。「何だか背中が辛いような気がする」というのはあって、おそるおそる手を背中に回してみたので、「何か変なチューブが背中に張り付いている」というのは分かっていたのですが…まさか点滴針が刺さっていたとは…^^;;;;;;;;;

この日の点滴量は3分の2に減少。ついでながら、歩行練習の後、しばらくしてお腹のガスが出て、夜から食事開始。流動食(=重湯=)でしたが、そのときは全身の疲労感が大きくて、あまり食欲がありませんでした…^^;

◆6月9日(木)◆

引き続き歩行練習。点滴用支柱につかまりつつ、2倍の距離まで伸ばす。傷口からのまとまった出血も続いており、痛み止め(内服)を割と注文。点滴の量は3分の1に減少。食事内容も流動食から軟食に変わってきました。

夜になって最後の点滴が終わり、点滴針が抜かれたときは嬉しかったです。ただ、点滴針を押さえていたテープがものすごく強力なテープで、テープを剥がす時に皮膚の毛も一緒にゴッソリと引き抜かれたので、涙が出るほど痛かったです…^^;;;

◆6月10日(金)◆

点滴なし。抗生剤も点滴から内服に変わる。この頃、抗生剤の影響なのか、少し下痢がありました。思えばこの下痢が、後の苦労のサインだったのだなあとシミジミです。

体調は割と良く、傷のチェック(=エコー検査など=)で「シャワー許可」が出たので、早速、お昼頃にシャワーにトライ。しかし、シャワー直後、急に発熱が始まりました。急に動くと熱が出ると言う、虚弱体質的・不安定な状態ではあったようです。

シャワー程度の身体作業で疲労困憊してしまう…という事態そのものが驚きでした。ベッドに辿り着いた後、少し失神。38度-39度くらいの発熱と共に、手術痕の痛みが再開したので、再び痛み止め(内服)を注文。この痛み止めには解熱作用もあったので、割と楽になりました。

◆6月11日(土)◆

午前中は体調が良かったので、引き続きシャワーにトライしましたが、またしても直後に発熱が始まり、ベッドの上でグッタリ。それでもこの日の発熱は前日よりも軽く、夕方には再び、歩き回れる程度に回復。通話可能コーナーまでヨタヨタと出かけていって、ケータイで天気予報など見たりしておりました。

しかし夜になってから、抗生剤の影響で腸内環境が激変したらしく、激しい下痢がスタート…orz

※前駆症状(?)=下痢が始まる直前、乗り物酔いのような症状に見舞われました。非常に気分が悪く、身体を動かすたびに吐き気を感じる…という状態です。さすがに不安になって、トイレに行って嘔吐を試してみたのですが、お腹にモノが残ってなかったせいか、実際の嘔吐はありませんでした…^^;;;;;

◆6月12日(日)◆

前日の夜から続いていた下痢がハイペースになり、ついには1-2時間に1回と言うペースで下痢をするという状態になりました。前日の夜には一睡も出来なかったので、寝不足でヨロヨロ状態でした。体力温存のため、シャワーは中止。午後、整腸剤(ビオフェルミンR)を処方されました。夜になって緩和に向かったらしく、下痢症状が少し穏やかになりました…^^;;;

◆6月13日(月)◆

下痢症状が落ち着いて、気分も落ち着いてきたので、往診にいらっしゃった主治医さんに、カルテの内容や筋腫の写真を見せていただきました。

一番大きい筋腫は10cmサイズと聞いていたものの、写真でその「ゴロッ」とした様子を見て、絶句。二番目に大きい筋腫は、幾つかの筋腫がくっついて大きくなったような感じで、何だかダリの絵を思わせるシュールな形。奨膜下、筋層内、粘膜下の3種類のフルコース…(汗)

写真記録されていた筋腫は6コでした。よく出血が少なくて済んだなとシミジミ。腕の良い執刀医さんに手術を担当してもらえて、良かったです。ついでに、おそるおそるシャワーをしてみて、熱が出なくなったので一安心。

◆6月14日(火)◆

主治医さんが往診にいらっしゃって、お腹の傷を保護していたテープを剥がして行きました。痛そうな傷跡をしっかり目撃(しかも何か、皮膚の裏地を縫ってあるっぽい)。溶ける糸で縫ってあるので、抜糸は不要だとか。10cmの傷跡がタテに一直線に入っていました。取り出した筋腫の最大サイズがそれくらいなので、「成る程」と納得しましたが、こういうのはちょっと苦手です。自分の身体なのに、「ジーッ」と見ていて気分悪くなりました…^^;;;;;

「消毒はしっかりしてあるけど、ずっと洗ってない傷跡なので、シャワーで流したほうが良い」という主治医さんのアドバイスを受け、再びシャワーにトライ。発熱は無く、シャワーに耐えられる程度の体力は付いたらしい…と判断。しかし、ものすごい疲労感があるのは確かで、下痢症状は体力を非常に奪うものらしいと理解しました…(2-3時間に1回下痢する…というペースに延びていましたが、それでもゆっくり寝られなかったので・汗)…^^;

◆6月15日(水)◆

下痢の原因である抗生剤が出なくなり、ホッとしました。整腸剤(ビオフェルミンR)と鉄剤(フェロミア)を山ほど頂き、退院したのであります…^^ゞ

◆《その他》◆

体調を観察して出した数字ではありますが、手術直前のヘモグロビン値は、11の低い方かなという感じです。そして主治医さん曰く、手術直後のヘモグロビン値は9レベル。多分…ですが、9の低い方では無かろうかと。

抗生剤を服用し始めてすぐ下痢が始まったので、そんなにヘモグロビン値が回復していないのでは…と考えています。でも、一番低いときの8.1という数字に比べれば、だいぶ良い数字ではあります。貧血の原因は無くなったので、ジワジワ回復してくる…と、思われるのであります…

貧血の直接の原因である粘膜下筋腫は、取り出された中では一番小さいサイズの筋腫で、2cm程度でした。一番小さい筋腫が、貧血の一番の原因だった…というのは真に驚きでして…、人は見かけによらない、と言うか、筋腫は見かけによらない…という事で。「筋腫は再発しやすいらしい」というのが心配の種ですが、今はこれで良しとしたいと思います。

頻繁な発熱、長期間の下痢、そして結構なレベルの貧血で、予想以上に体力が落ちておりました(アセアセ)…;^^ゞ

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更新停止のお知らせ・一時的?

《2011.6.15追記》・・・15日付けで退院してまいりました。またブログ再開致しますので、どうぞよろしくお願い致します^^ゞ

ちょっと頭が浦島太郎状態であります。ブログやネット情報をあれこれ拝見して、事態が思ったより進展している部分とか、相変わらず膠着している部分とか、いろいろと驚かされております。

手術入院のお話は、次回のエントリにて…^^;


管理人は病院で手術を受けております。

切腹なので、出血量は多いそうです。

当サイトの休業期間(※管理人の入院期間)=6月15日まで(予定)?

インターネット環境からは、完全に隔離されている見込みでございます(ケータイは可?)

どうぞよろしくお願い申し上げます。


FriendFeedコメントより転載(コメントありがとうございます)

な、な、なんと、しかし貧血が手術にまで至る、とは~。どうかひとつお大事に。 - 丸山光三
《返信》ご心配おかけして申し訳ありませんでした(アセアセ)。ただ今、結構元気に退院してまいりました^^またブログ再開いたしますので、どうぞよろしくお願い致します♪
ブログ、拝見しました。まずは、手術の成功、おめでとうございます。大変でしたね。まだ入院中ですか?こういうご病気はストレス(精神的、肉体的)がよくありません。何事も「がんばらない」をモットーに気楽に行きませう。一日も早いご回復を願っています。どうぞお大事に。 - 丸山光三
《返信》丸山さま、早速のコメントありがとうございます。6.17現在は、自宅療養中であります(=入院期間は15日まででした)。いささか疲れ気味という点を除けば、だいたい日常の感覚が戻ってきたようです。来週には職場復帰できそうかな…と、思案しております*^^*
《管理人の余談》・・・自分が入院していた病室は6人用の相部屋でした。バイク事故を起こして骨折した女子高生、糖尿病の治療中の老女、検査入院の中年女性、足の皮膚の治療中の老女(火傷か何かでしょうか)、介護の必要なすごく高齢の老女(皮膚科・90才超え?)、そして自分(婦人科・手術入院)でした。女子高生はさすがに若いこともあって回復が早く、その病室からは早々と居なくなり、次の日には神経麻痺の障害女性が入院して来ました。医療関連の話題でベッド数の不足が取り上げられていましたが、この回転の速さは、「成る程」と納得させられる光景でありました。自分については、15日退院コースと16日退院コースがあったのですが、抗生剤が終わるのが15日だったので、15日退院コースを選択。体力的にはちょっとキツかったですが、割と乗り切れたので、「これで良し」と思っております…^^;

詩歌鑑賞:謝朓

晩登三山還望京邑詩/謝朓
灞涘望長安
河陽視京縣
白日麗飛甍
參差皆可見
餘霞散成綺
澄江靜如練
喧鳥覆春洲
雜英滿芳甸
去矣方帶淫
懷哉罷歡宴
佳期悵何許
涙下如流霰
有情知望郷
誰能鬒不變
《読み下し》晩(ひぐれ)に三山に登り、還って京邑(みやこ)を望む
灞(は)の涘(ほとり)より長安を望み
河陽より京縣(みやこ)を視(み)る
白日は麗(うるわ)しく甍(いらか)に飛び
參(たかき)も差(ひくき)も皆(ことごと)く見る可(べ)し
餘霞(よか)散じて綺(き)と成り
澄江(ちょうこう)靜かなること練(れん)の如し
喧鳥(けんちょう)春洲(しゅんしゅう)を覆い
雜英(ざつえい)芳甸(ほうでん)に滿つ
去らんかな 方(まさ)に帶淫(たいいん)せり
懷しきかな 歡宴(かんえん)罷(や)めたるを
佳(よ)き期(とき)は何許(いつ)なるかと悵(うれ)い
涙下ること流るる霰(あられ)の如し
有情 望郷を知るものぞ
誰(たれ)か能(よ)く鬒(くろかみ)を變(か)えざらん
《解釈》夕暮れに三山に登る
灞水(はすい)の岸辺より長安を望み
河陽より京縣(みやこ)を遥かに眺めやる
白日の光は甍(いらか)に散乱反射して
高く低く続く屋根の連なり
名残りの夕焼けは散じて綺(あやぎぬ)となり
澄める江(おおかわ)は静かなること練(ねりぎぬ)の如し
喧(かまびす)しき鳥は春の洲(なかす)を覆い
雜(まじ)れる英(はなばな)は芳(かぐわ)しき甸(のやま)に滿つ
去らんかな 長居しすぎた野辺よ
懐かしきかな 過ぎ去りし楽しき宴よ
再びの時は何許(いつ)なるかと憂い
涙は下りて霰(あられ)の如く流れる
情(なさけ)有れば望郷の心を知ろう
誰が黒髪を変えずに居られよう