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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

「知」に関する覚書&雑考

★下記のtwitter群が連続して興味深い内容だったので、メモさせて頂きました。

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121728549236383744
自分の歩む道を自分で意識するということは、実は、歩いている本人の目線からは行いにくい。歩いている自分の姿を上空から俯瞰的にみつめてみて、はじめて自分の歩む道は意識できる。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121728915004854273
客観的にみるというのは、そんな風に自分の姿を上空から俯瞰的にみるということであって、まわりの枠組みに安易に自分を当てはめてわかったつもりになるということではない。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121730774490820608
他人のことを考えるというのも単にいま目の前に起きていることを自分の立ち位置からみたことをベースに相手を評価するということではありえない。そうではなく上空から俯瞰した自分の歩みと他者とをぶつけてみた際に何を考えられるかが、相手を考えるということだろう。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121731592896000001
そういう俯瞰的にみるということを考えた際に思い当たるのが、漱石が文学はローカルだと言った際の考えだ。漱石はおそらく言語がローカルであるがゆえに文学がローカルだと言ったのではない。マクルーハン的な意味でグーテンベルク革命の結果としての文学が俯瞰を可能にする知だからそう言ったのだ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121732315142569984
つまり、客観的にみるというのは、本来、普遍的にみるということとは同じではない。それは実はグーテンベルク革命が充分に普及して、その知の具体的な応用方法を模索した18世紀の活動を通じて作られた加工物である。本来、客観的にみるというのは、漱石的な意味でローカルなのだ。

《コメント》・・・「客観的思考もまた、主観的な条件の下に偏向したローカルな思考スタイルである(普遍的思考では無い)」という思索は、興味深いものでした。

戦略的思考はたぶんに客観的思考のスタイルを取る傾向がありますが、こうしたローカルな主観性が糊付けされているから、各人ごとに異なった思考(戦略デザイン)が見られて、なお興味深いのだろうと思いました。

活版印刷の技術革命(グーテンベルク革命)が人間の思考に如何に大きな変容をもたらしたかというのは未だよく分からない状態です。ただ、話し言葉が主流だった頃の時代と、書き言葉が主流になった時代とは、世界観や価値観が大きく異なってくるだろうというのは想像できました。例えば、過去と未来の時間軸の明確化とか…

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121786311983104000
車に乗せてもらっていったり、人に連れて行ってもらった道はなかなか覚えられないものだけど、自分で迷いながらたどり着いた道とはいうのは案外しっかり覚えているもの。プロトタイピングによる知というのはまさにそれ。体験しながら考えられることを増やしていくのだ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121786387669323776
失敗を恐れて自分で体験をすることを避け、人に教えてもらうことばかりを望んでしまうと、その類いの知はいつまで経っても獲得できない。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121786398993956864
デザイン思考的なトライアンドエラーというのはまさにそういう意味。ただ、それは何もデザイン思考に限った話ではなく、人間の知の獲得の仕方として、それが1つの形ということだと思う。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121787492167987200
何かを知るためにその知り方を調べるためのスキル。つまり、それは道に迷った際や暗闇で何か探し物をする際に「手探りする」という方法を知っているかどうかということ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121787517824532480
「自分で手探りをする」という方法を知らず、「他者に正しいやり方を教えてもらう」という方法にのみ頼ってしまうのが、文字/文章中心の知のあり方。まさにグーテンベルグ革命以降に起こった知そのもののあり方の変化の影響を受けたままの状態がそれ。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121787857177288704
「グーテンベルグ革命以降に起こった知そのもののあり方の変化の影響」というのが、ブログ(http://gitanez.seesaa.net/article/228703702.html)に書いた“「実践より理論」をベースとしたデザインを、ほんのすこし「理論もいいけど実践もね」という側にシフトしたのがデザイン思考”ということの意味。

《コメント》・・・これはそのまま、うなづけました。教条主義、マニュアル人間とも申しますが

言葉以前の不完全なイメージ、直感に留まっているものを、実際の表現スタイル(言葉・絵画・音楽・身体作業など)を通じて現実の世界に引き降ろすのは、やはり人間自身の、教科書無き実践によるものであります。その方法に関する知は、まさに「手探り」で探し当てていく知のジャンルに入るだろうと思います。

ただこういった「現場力(或いは即戦力)」と言っていい「知(ナレッジ)」は、人間の生身の身体を使うものだけに、感覚をつかむのに非常に苦労するであろうという事が予想されます。

形にしにくい、体系化しにくい、普及しにくい…そういう類の知かも知れません。少し前に「ナレッジマネジメント」という言葉が流行ったと記憶していますが、要はそういう事を理論化して、実際の経営に応用しようとしていたのですね。今はどうなっているのでしょうか…

現代のコスト至上主義の考え方からすると、時間や労力のロスは無視できないと思いました(表現のクオリティや厚みを生み出すのが、こうした「無駄な要素」だったりするので、非常に悩ましいところですが…要は学習とのバランスなのかも知れません)。

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121798823868760064
自分が何かを行う時や行わない時の理由と考えるものが、本当に理由となりえるかどうかは考えてみた方がいい。◯◯だから××する(あるいは、しない)というロジックが、自分のなかでしか成り立たないものか、他者にも受け入れてもらえるものか、という意味で。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121799831588048896
特に◯◯だから××しない(あるいは、できない)という場合はそう。こう言ったら、他の人に何を言われるか怖いから自分の考えを口にすることができない、なんてのは、まさにそう。怖いとか不安になる気持ちはわかる。けれど、だからといって、できないにはならない。怖くても勇気を出す人はいる。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121800763658874880
そもそも行動をすることやしないことに理由があるというのを当たり前のことと捉えるのが近現代に特有の思考だと考えたほうがよい。マクルーハンやオングが指摘するように、それは印刷文化以降の思考だ。江戸期の文章をみると、「だから」のような接続詞はない。原因と結果を結ぶ思考がない。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121801608404283392
こうすればこうなるというのは、まさに近代以降の機械的な思考だ。宇宙を生体として捉えた中世までの思考から機械として捉える近代の思考が「だから」という接続詞の使用を可能にする。ボタンを押すと特定の結果が出るし、一つの問題に一つの正解があるような思考。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121802344961818624
いまの僕らもさすがに機械的な一つの正解を求めるまではいかないまでも、何らかのイデア的なものを前提にしてしまう意味では近代以降の魔術に囚われたままだ。原因に対して結果を想定してしまい、行動に理由を想定してしまう。だが、中世まではそうでない世界があったことは理解する必要があるはず。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/121803113844834305
魔術に囚われたままの状態を自覚することが、自分の姿を正しい鏡にうつす作業の第一歩だ。

《コメント》・・・自/他を見極めるというのは、実際は困難だと思います^^;

そもそも人間の「自我」が、どこまでのものを適用するのかが分かっておりませんし…(これはどちらかと言うと、心理分析や精神分析や宗教の話になるかも知れない…)

一対一の原因と結果を求めるのが近現代に特有の思考かどうかというのは、人間の思考・感情や行動そのものの曖昧さがあって、容易に結論は出せないと思いました。古代中世においても、一対一の原因と結果を求める思考はあったと思います…

(というか、数学ジャンルでもそれが一番、基本的な思考方法になるのです。個人的には、古代ギリシャで最初に「数学という思考」が生み出された時、この一対一の問答を求める思考が強烈に働いたはずだ…と、考えております…)

ただ、世界を解釈するためのごく総合的な思考スタイルとして、近代に著しく発達したニュートン的思考、科学的思考…法的思考、イデオロギー的思考…というものを例に取るなら、上の指摘は、極めて精確であると思いました(それが、「一般人の間で新たに普及してきた〝近代〟という名の魔術的呪縛」かどうかは別にして)。

http://twitter.com/#!/et_toi/status/121940302855536640
やっぱり単純に多くの人たちが、自分自身が物事を感じる仕組みや、アイデアが思いつく仕組み、他人の言動がムカつくものに感じてしまう仕組みがわかっていないのだろう。それもわからず獣のように流されるまま、まわりに怯えながら生きている。そのあたりの仕組みの謎がとけるから人間なのに。
http://twitter.com/#!/et_toi/status/122111806851391488
他人の意図を汲める人とそうでない人がいます。どういう違いかというと、結局は他人に対して求められるような心遣いと同じような配慮を、普段から自分自身にも向けているかどうかということでしょう。自分の心の動きについての考察が足りなければ、他者にそれを適用することなんてできないということ。

《コメント》・・・「成る程」という部分が、いっぱいありました。自分の心の動きについての考察…これは、禅で言うディープな「悟り」が必要かも知れません。

この部分のtwitter群は、大雑把なところでは、朱子学の考え方に似ていると思いました^^

Wikipediaによれば、朱子学は〝自己と社会、自己と宇宙は、理という普遍的原理を通して結ばれており(理一分殊)、自己修養(修己)による理の把握から社会秩序の維持(治人)に到ることができるとする、個人と社会を統合する思想を提唱した〟となっています^^

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読書:平安の宗教文化・前篇

読書ノート『平安時代の宗教文化と陰陽道』山下克明・著、岩田書院1996

《第三部「星辰信仰と宿曜道」を中心に覚書》

★星辰信仰の系譜-1.インド占星術と仏教★

インド固有の天文・占星術は、紀元前6世紀頃からヴェーダの祭式を補助する学として発達した。黄道を星座によって区分した27宿ないし28宿を中心に各宿の性質や宿と日・人との関係によって占うものだった。

紀元前2-3世紀頃、ギリシャ・バビロニアの占星術が伝わる。それは曜日の概念と個人の誕生時における黄道12宮上の日月・惑星の位置関係により個人の運勢を占うホロスコープ占星術だった。それ以後、インドでも惑星の位置関係などを割り出すため、数理天文学が発達する。

仏教は、このようにして発達したインド占星術の知識を受け入れ、そして次第に、仏教伝来の波に乗って、中国に伝わっていくのである。

以下、代表的な経典

【3-4世紀の訳出】…27宿ないし28宿について、各宿を主宰する神格や所属する氏族、その宿に月が位置する日(=宿直日・しゅくちにち)の行動の善悪、その宿の下に生まれた人物の性格や運勢について述べる。また、日月五惑星(=七曜)にインド発案の架空の日蝕&月蝕を起こすとされた悪神「羅睺(らごう)」、彗星「計都(けいと)」を加えた九曜にも言及する。

  • 『摩登伽経(まとうがきょう)』…呉の竺律炎と支謙による翻訳(『大正蔵』第21巻399頁)
  • 『舎頭諫太子二十八宿経(しゃずかんたいしにじゅうはっしゅくきょう)』…西晋の竺法護による翻訳(『大正蔵』第21巻410頁)

【5世紀初頭の訳出】

  • 『大智度論』…後秦の鳩摩羅什による翻訳
    第八(『大正蔵』第25巻117頁上)に、28宿を4つのグループに分け、月が各宿に存在する日と地震の関係への言及がある
  • 『大方等大集経』…隋の那連提耶舎による翻訳
    宝幢分・日蔵分・月蔵分(『大正蔵』第13巻138頁,270頁,371頁)に28宿・7曜について『摩登伽経』と同様の詳細な説明がある。また12宮の梵名も記す

【盛唐】…密教伝来と共に内容が豊富になる。27宿9執(=9曜)に基づく吉凶善悪+新しい占星術要素が見られる。密教では特に現世利益や不祥災厄を攘(はら)う修法の効験が説かれる。

  • 『金剛峯樓閣一切瑜伽瑜祇經(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』…金剛智による翻訳/下巻第九(『大正蔵』第18巻259頁)
  • 『大毘盧遮那成佛經疏』(『大日經疏』)…善無畏による説、及び一行による記述/第四(『大正蔵』第39巻616頁)

・・・《メモ》・・・

密教で説かれている「不祥」の内容は、不空による翻訳『熾盛光息災陀羅尼経(しじょうこうそくさいだらにきょう)』(『大正蔵』第19巻337頁)によれば、次のようである。

若有国王及諸大臣所居之及諸国界、或被五星陵逼、羅睺彗孛妖星、照臨所属本命宮宿及諸星位、或臨帝座於国於家及分野処、陵逼之時、或退或進作諸障難者、

また、同じく不空による翻訳『葉衣観自在菩薩経(ようえかんじざいぼさつきょう)』(『大正蔵』第19巻447頁)によれば、次のようである。

若国王男女難長難養、或薄命短寿、疾病纒綿寝食不安、皆由宿業因縁生悪宿居、或数被七曜陵逼本宿、令身不安

以上、要するに、日月五星・羅睺・計都(彗孛・すいはい)等の惑星が個人の本命宮・本命宿を侵犯する現象を、国王以下の災厄とする…という認識であった。

本命宮とは、12宮のうち個人の誕生時刻に東の地平線に昇ろうとする宮のこと。西洋占星術で言う「アセンダント(上昇宮)」で、元はバビロニア占星術の重要な要素だった。一方、本命宿とは、誕生時刻に月が所在した27宿のうちの1つで、インド固有の要素である。本命宮と本命宿は、共に個人の一生を支配する星とされ、九曜(九執)の侵犯によって生起する厄難の消除が、密教の一課題とされた。

こうした最新のインド占星術の知識をまとめたのが不空による翻訳『宿曜経』(=『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』=)とされているが、原点が存在せず、実際は部分的な記述に留まっているという。『宿曜経』だけだと、インド占星術の初歩的な概説に留まるため、全貌が分からない状態だという事が、矢野道雄氏の研究によって明らかにされている。惑星の計算法も記述されておらず、ホロスコープ占星術を行なうには内容が不足し過ぎていると言う。

しかし、唐代の高僧・不空の指導的地位・影響力は、当時は非常に大きなものであったと言われており、日ごとの吉凶や行動タブーを割り当てるといった分野では、わが国にも大きな影響をもたらしたであろうという事が推察されている。

★星辰信仰の系譜-2.中国天文家説と道教の星辰信仰★

殷周革命以来、中国では天帝を至上神として尊び、占星術は天帝が起こす天文現象の中に天の意思を読み取る術とされてきた。『史記』天官書によれば戦国期は不安な世相を反映して多くの天文家が現われ、秦では太白(金星)、呉・楚では熒惑(火星)の運行で予兆を占ったという(=諸国ごとの占星術があった)。

漢代の頃、従来の諸国の占星術は、天人相感の思想の下に体系化された。

全天の星座は北極星を中心に北斗七星など周辺の星座を含む中官、28宿を四方に7宿ずつ区分した東西南北官に分けられた。それらを皇帝・太后・太子・官僚・官曹或いは公的施設に対応させ、それぞれの星座に関わる変異を、地上における国家的変事の予兆と見なしたのである。特に前漢末期に緯書(神秘的予言集)が流行した時は、天変に際して緯書の内容を典拠として天文占いが行なわれた。

(変異の例=惑星の星座侵犯現象、彗星の出現と接近、星の増光・減光など)

公的祭祀においては、北極星=北辰が最も重視され、緯書の思想の中で天皇大帝と同一視された。鄭玄の礼学で、儒教の至上神=天帝(昊天上帝)とも習合したが、唐代には分離し、星辰は天帝の下位に位置づけられた。

他に、日・月・参辰(おそらくオリオン座三ツ星)・南北斗・熒惑(けいわく・火星)・太白(金星)・歳星(木星)・塡星(ちんせい・土星)・28宿の祭祀があった。農業神としての霊星の祭祀もあったという。

緯書はその後の弾圧で散逸したが、唐代天文類書『天文要録』『天地瑞祥志』『乙巳占』『開元占経』などに、天変の種類ごとに諸書の予言が分類されており、太史局の天文家はこれを使って前兆を占ったという。この天変を占う占星術が7世紀ごろ日本に伝わり、律令体制下の陰陽寮の天文博士の職務となった。

漢代以降の道教では南斗星・文昌星・老人星など様々な星辰が信仰されたが、最も重要視されたのは北斗七星である。北斗七星は、夕刻に出る柄の方角により季節の変化を知る目印となり、生活と密着した星座でもあった。南北朝時代の北斗七星は、北極星と同様に人の生命を司る「司命神」と見なされていた。

例えば、隋の粛吉撰『五行大義』第16-論7政によれば「黄帝斗図云、一名貪狼、子生人所属、二名巨門、丑亥生人所属、三名禄存、寅戌生人所属、四名文曲、卯酉生人所属、五名廉貞、辰申生人所属、六名武曲、巳未生人所属、七名破軍、午生人所属」となっている。この配当は緯書に由来するものであったらしいが、生まれ年によって決まる属星が人の運勢を支配するという内容は、道教の星辰信仰で主流を占める要素となっていった。

(北斗の祭祀儀式を記述した道教経典…『北斗延生醮説戒儀』『北斗七元星燈儀』『太上玄霊北斗本命延生真経』『太上北斗二十八章経』『北帝七元紫庭延生秘訣』etc)

★星辰信仰の系譜-3.中晩唐期の星辰信仰★

  • インド占星術=27宿・12宮・12位の黄道座標の上に個人の誕生時より本命宮・本命星を定め、9執(9曜)の所在により個人の運命を占う。惑星の位置計算を必要とする
  • 中国占星術=官曹と対応する星座上における変異を以って国家及び為政者の未来を占う。惑星の位置計算を行なう必要性はあまり無い
  • 道教占星術=北極星・北斗七星を主な要素とする。惑星の位置計算を行なわない

密教が隆盛した8世紀末頃から、密教と道教信仰の習合が目立ってくる。中晩唐期のいわゆる唐代後期密教は極めて道教民俗化の様相を示すが、それは特に星辰関係において顕著であり、数々の混合的な星辰祭祀関連の書籍が現われる(=例=『宿曜儀軌』『北斗七星念誦儀軌』『北斗七星護摩秘要儀軌』『仏説北斗七星延命経』『七曜星辰別行法』『北斗七星護摩法』『梵天火羅九曜』etc)。

庚申三尸説と仏教との習合時期=9世紀半ばと推察されており、道教の信仰を特に濃厚に取り込んだ雑密儀軌の成立もあったとされている。

安史の乱以降、社会不安の中で星暦を習う者が増加し、七曜吉凶説と共に九曜を使うホロスコープ占星術も流行した。密教と道教の習合の中で、互いの要素が互いに浸透し合ったのである。

ホロスコープの作成には九曜の位置計算が必要であるが、中国の官暦法にはインドで想像された羅睺・計都の二隠星は載らなかった。ここで利用されたのは『七曜符天暦』(8世紀末頃、術者の曹士蔿=そうしい=が作成)だったと考えられている。唐代から民間で流行し、五代には準公暦的な地位を占めていた。

また、密教の書籍では『七曜攘災決』(9世紀、金倶吒=きんぐた=が撰する)があった。七曜の災厄及び攘災法、十二位と七曜の組み合わせによる吉凶、さらに28宿を座標に毎月一日における九曜の位置を記した表を含み、仏典としては特異な内容になっていた。九曜ホロスコープを前提とし『符天暦』と親密な関係を持っていたが、精密なものでは無く、特定日時の九曜の位置を知ることは出来なかった(この書を以って個人のホロスコープを組むことは困難とされている)。

平安時代以降に日本で隆盛した陰陽道や密教の星辰祭供は、以上の要素を元に形成されたと言われている。

後篇へ続く

2011.10.3暁の夢

何だか意味深&テツガク的な夢を見まして、記録

今回は、管理人が主人公では無く、誰かの夢を見させてもらっている感じでした。主人公は10才くらいのポニーテールの少女なのですが、その少女の肩の辺りでフワフワ浮いていて、その状態で、あれこれ見聞きしたという感じです。

(何だか、少女の守護霊をやっていたような感じです。スピリチュアル的には、あの世の人間がこの世の人間の守護霊をやっていたりするというので、多分、管理人も、あの世に居た頃に、この少女の守護霊を務めていたのでは無いかしら…などと、思案しておるのであります)

・・・さて本題です。

最初のシーンは、少女の家出から始まりました。少女は大きなリュックサックを背負い、行き先の分からない長距離バスに乗り込み、難しい顔をしていました。

長距離バスの中は、ほぼ満員です。お勤め帰りのサラリーマンとか、これから旅行に行くような雰囲気の女子大生のグループとか、フリーのシンガー・ソング・ライターのあんちゃんとか、バラエティ豊かな乗客が居ました。

長距離バスは夜の道を走り続けていましたが、やがて物凄い衝撃が来て、その後何も分からなくなりました(=いきなりのブラックアウトという感じ)。少女の肩の上でフワフワしていた自分も、完璧に気絶していたようで、その間のことは分かりませんでした。

やがて気が付くと、バスの中の照明が消えていて、乗客は全員シートの上で寝静まっているのか、物凄く静かでした。少女はパッチリと目が開き、バスの中を見回して「???」状態でした。フワフワと浮いていた自分も、同じように「???」状態で、戸惑ってしまいました

…深海の底のような、青黒い静寂の中を、バスは走り続ける…

少女はずっとバスの床の上で呆然としていたのですが、やがてシンガー・ソング・ライターらしき、ギターっぽいものを抱えていた無精ひげのあんちゃんが少女に気付き、「シートに座りな」と親切に声をかけてきました。

その時、少女の肩の上でフワフワしていた自分は、理由は分からないのですが、いきなりゾッとした気配を感じ、慌てて少女の耳をつかみ、「シートに座るな!寝るな!頑張れ!」などと叫んでいました(=その時の状況からすると、自分は、手乗りインコか、それくらいのサイズに縮んでいたらしい…)。

少女は呆然としたままシートに近づいていましたが、どうやら自分の警告(?)に気付いたようで、無言であんちゃんに首を振って見せて、不安そうな様子で少し後退。あんちゃんは不思議そうな顔つきでした(=うーむ、当然でしょうか…)。

やがてバスは、前方をふさぐように見えてきた白いガードレールを、フワリと飛び越えました。その次に現われたのは…、数千億という星々のきらめく宇宙でした。遥かに遠い星雲の形も、くっきりと見えるのであります。

自分は、「《世界》と《世界》の境界って、宇宙で出来てるのか…」と圧倒されていました

ただ、その星々の境界は一瞬で終わり、長距離バスは、いつの間にか見慣れない海岸のようなところを走っていました。時間的には、夕方に近い午後のようです。いつまでも終わらない黄昏のような、淡い黄色っぽい光があふれている…という雰囲気です。

そしてバスは、走っているうちに消えてしまいました(=どのようにしてバスが消えたのかは夢の中だけに上手く説明できないのですが、ジワジワと、外の光景に心を奪われているうちに、バスから降りたのか降ろされたのか、ともかくも、そういう感じなのです)。

乗客は思い思いに水辺を散策し始めました。少女も水辺に降ろされた状態で、ゴツゴツ岩の海岸と思しき場所を、不安そうに眺めていました。黄色い淡い光の状態といい、植物が見当たらない広漠な水辺の光景といい、どうにも「この世のものならぬ光景」という感覚が抜けないのです。

(恐山のあたりに広がる石だらけの荒野を、だだっぴろい平原に引き伸ばして、広い広い海を向こう側に置いてみたら、ちょうどあんな感じの水辺になるかも知れない)

少女はだんだん切迫感が強くなっていました。ハッと気が付いて背後を振り返ると、時空が歪み出しているのか、それまでバスが走っていた道路やガードレールが、みるみるうちに水辺から遠ざかっていっていたのです。

少女も、少女の肩の上でフワフワしていた自分も、「超ヤバイ!」と思って、慌てて石の上を伝って、ガードレールの上に戻ろうと、走り出しました。

すると不思議なことに、走っても走っても、ガードレールが近くならないのです。全速力で頑張って走っているうちに、石だらけの水辺を抜け出せたのか、幸いにしてなだらかな砂浜になり、足を取られつつも、ガードレール直下の、石で出来た崖に取り付くことが出来ました。

しかし少女は、身体がものすごい勢いで冷え始めており、ぐったりと動かなくなりました(=多分、低体温症というものでは無いかと)。少女の肩の上でフワフワしていた自分は大慌てで、少女の身体をガードレールの上の道路に引き上げようとしましたが、身体のサイズの限界があるのか、なかなか動かせませんでした

そうこうしているうちに、道路の上に大きな象が2頭ばかり、フッと現われました。自分は大変ビックリしました。呆気に取られて見ているうちに、象は鼻で少女を抱え、少女をパクリと丸呑みしてしまいました。肩の上でフワフワしていた自分も一緒に象の口の中に入ってしまい、「これはマズイ」と、象の口の中でジタバタしました。すると象は、何を思ったのか、ガードレールの上の道路に少女を吐き出し、そのまま居なくなりました。

ガードレールの上まで戻るという目的は達したものの、何とも不思議な経過であります

少女はやがて目を覚まし、ヨロヨロと立ち上がり…着ている物や身体全体に、血のような汚れがびっしりと付いていることに気付きました。少女は戸惑いつつ、ガードレールの上から水辺を見やりました。今度はもっと不思議なことに、あれほど遠く離れていると思った水辺との距離が、ずっと縮まっているように見えるのです。ちょっと歩けば、すぐに水辺に到達できそうな感じなのです。

(この辺りは、やっぱり普通の時空構造をしていないようです)

水辺で身体を洗いたいと思いつつも、水辺からガードレール上に戻るときの異様な恐ろしさを思い出して、道路を歩きつつ、逡巡しているらしい少女でした。ちょっとでも水辺に近いところで、ガードレール下に降りた方が良いかも…という感じです。

ガードレールの下を見ながら歩いているうちに、いきなりガードレールの傍の岩の上に、骸骨が現われました。骸骨は、「あんた、死んでないのに良く此処へ来たね」と驚いたように話しかけて来ました。

少女も、少女の肩の上でフワフワしていた自分も、骸骨がいきなりしゃべったのでビックリです。「ここは何処?」と尋ねると、骸骨は「三途の川だよ」と答えてきたので、ますます驚き、かつ混乱してしまいました。「あんた、深夜のバス事故で死んでる筈だが…」と、骸骨は不審そうな表情です(=骸骨に表情があるとは思わなかった…)。

そのうち、骸骨は、少女の肩の上でフワフワしていた自分に気付いて、「あ、成る程…」などと納得している様子でした(=実はこの時に、自分が少女の守護霊をやっていたらしい事に、初めて気付きました)。

「身体が汚れているので水で洗いたいんだけど」と少女は骸骨に聞きましたが、骸骨はカチャカチャと手を振りました(=手も骨だけなので、カチャカチャという音がするのです)、「水に触れたら、あんた帰れなくなるよ…そのガードレールの上と、この水辺とじゃ、時間の流れが違うんだ」

「浦島太郎の話は知ってるだろう?水辺での1分は、現世での1日に相当するんだわ。そして時間のズレがますます広がっていくんだ。浦島太郎の時代は、まだそのズレは穏やかだったがね。今は時間加速のプロジェクトがかかってるから、恐ろしいズレに成長しとるな。あんた水辺に一度は降りたのに、よくガードレールの上まで戻れたねえ。何でだか?」

(ここでの「時間加速のプロジェクト」というのは、どうも最近のスピリチュアル関連で言われている、時間の加速現象の事のようです。…と言いますか、時間加速って、あの世のプロジェクトか何かだったのでしょうか)

〝象が出てきて、その象に食べられちゃったけど、その象が私たちをガードレールの上に吐き出して行ったんです〟と念を送ってみたところ、骸骨はその念をピピッと受け取ったようで、「ああ」などと言っています(この部分は、便利ですね…)。骸骨からお返しの「念」の内容が伝わって来ましたが、インドとか、ゼロ概念とか、輪廻転生とか、よく分からない難しい話だったので、大部分は忘れてしまいました。ですが、ともかく非常にラッキーな出来事だったようです

「まあ、とにかく他の乗客を見てみな…みんな水辺に入って現世のケガレを清め、そして三途の川の向こう側…黄泉の国へ渡るんだ。彼らは1時間ぐらい水に浸かっている…現世だと、50日かな?それとも49日というヤツか?あんたのそのケガレは現世へ戻るために必要だし、現世で生きてる者は、みんなそのケガレを持っている」と説明していました(=ずいぶん話し好きの、親切な骸骨であります…)。「何でか、考えてみな」

…何だかすごく哲学的な話であります…

少女は長い事考えていましたが、10才という年齢には、この問答は難し過ぎたようです。自分は思い当たる事があり、「食物連鎖?」と念を送ってみました。骸骨は「うんうん」と言っています。当たりだったようです。骸骨は少女に、「食物連鎖って知ってるだろ」と説明していました。

「食べるのがケガレになる?」と問う少女。「うん」と答える骸骨。少女は納得していない様子でした(=それは、この年齢からして、当たり前ではありますね…^^;)。

「人間に関わらず、細菌から大型動物に至るまで、生きている者は生きている間だけ、生きている量だけ、ケガレを積み重ねるんだよ」と、妙に教師風な骸骨であります。「あの乗客たちが水辺で落としているケガレが、それなんだ。そこで落とし切れなかった残りのケガレは、閻魔が…いや、各自の中に自前で持っている裁きの神とかいうヤツが、現世に居る内に犯した罪として裁く。裁くという形で清めるらしいね。まあ、人間ならではの罪と言うか、いわゆるヤハウェだか天使だか閻魔大王だかが裁く事になっている罪とか、ああいう内容らしいが、何とも細かいことよ」

「地獄の閻魔大王が裁くんじゃ無いの?」と、何とも常識的な質問をする少女。

「地獄とか閻魔大王とかいうのは多くの人間から良く聞かれるが、ここでは、人間が想像しているものの他には、見たことは無いねえ。人間の想像力が作り出した存在なんじゃ無いの」と答える骸骨であります。「人間の想像力ってのは、ひとつの世界を…宇宙をこさえるくらいの力があるからね。あの世に地獄を設計するくらいだよ、現世にも地獄を作り出すことなんざ、人間に取っちゃ、お手の物だろ?」

(この辺りは、さすがに自分も考えさせられました…)

「長居をし過ぎたぜ」と骸骨。「あんたも現世に戻りな」と手をカチャカチャ。「来た道を戻れば現世に帰れるから、急ぎな。この会話は、生き返っても覚えてるだろ…まあ、個人的なプレゼントと思ってくれて構わないよ」

何とも不思議な骸骨であります。単なる三途の川の渡し守とも思えませんし、一体何者なのか、興味シンシンでありますが…ともあれ、そこで目が覚めたのでありました。少女がどうなったのかは分かりませんが、多分、親元のところに戻っていると思うのであります

以上、不思議な夢の内容でした。今回の夢語りは、ここでおしまいであります