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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

古代ヨーロッパ考・中篇

《ヘレニズムの動揺・・・コスモポリタンの発生》

ヘレニズム時代とは、激しい文化的シンクレティズムと、社会&人心動揺の時代であります。エポックメーキングは、コスモポリタン(世界帝国市民)意識の発生。現在は「無国籍の人」という事になっているそうですが…

これはどういう文脈で言うかというと、以下のようなもののようです
「お前は何処のポリスの者か?」
「私はどのポリスの者でもない。この世界(コスモス)こそが我がポリスだ」
※コスモス+ポリス+人=コスモポリタン(世界市民)

アレクサンドロス大帝国の発生は実に、世界「普遍」帝国の発生でありました。おおむね、その言語基盤――国際共通語は、古典ギリシャ語が変形した「コイネー(共通語)」であります。

コイネーは、同時に、エリート言葉でもありました。ゆえに、この頃から上層/下層の人々の言葉環境(イントネーション等)の差や、上/下の階層の文化的距離が広がり始めた可能性がある…と申せましょう。

アテナイの平和崩壊、ポリス間紛争、文明終末期に入っていた古典ギリシャ文明。

そこに彗星の如く現れた、マケドニアのアレクサンドロス大王・・・

ヘレニズム時代をことさらに神秘化するつもりは無いのですが、実に神秘と言えるほどのタイミングでヘレニズムの激動が起きた事に、驚異の念を禁じえないのであります。

さて、そのアレクサンドロス大王がくわだてた人種融合、集団結婚式…ここで、「諸民族の宥和」、「世界市民の共存」の宣言がなされました。

※このスローガンを「民主主義の拡大」とか「資本主義拡大」に置き換えれば、何だか現代のアメリカを見ているようです

つまり、ローマ帝国成立より300年も前に、ユーラシア東西文明の混淆と、それによって立つ共通(コイネー)世界の発生があった事を意味しているのです。続くヘレニズム宇宙において、「共通の市民」、「普遍」という理念が確立しました。

後のローマ帝国の版図よりも、ずっと広大な地域で起きた出来事でした。実に、シルクロード諸国全体を巻き込んだ、世界的な潮流。シルクロード経済の興隆(共通貨幣の広域流通)に見られるように、政治だけでなく経済方面においても、あまねく行き渡った変容でありました。

こうして確立したヘレニズムの諸理念を、後のローマ帝国が継承したのです。パックス・ロマーナの奇跡の影に、かように先立つ広範な物語があったことは、絶対に外せないと思われます。

西欧の文明理念、「西欧は普遍である」という強迫的なまでの理念の発祥を、この激動のヘレニズム時代に求める事さえ出来るのです。

しかし、怒涛のボーダーレス化、コイネー(共通語)の言語環境の中にあって、伝統的ポリス社会で育まれてきた古典ギリシャ哲学は、激しく衰退します。古典ギリシャ文明を担う共同体であった筈の人々・文化が、社会的に断絶・溶解していった、混迷の時代でもあったのです…

(もっとも、ソクラテスに毒杯をあおらせた件を取り巻く事情に見られるように、ポリス政治は以前から激しく分裂し、党略的・利権的なものに堕していたという事が指摘されています)

それは、正しく、恐るべき歴史伝統の分断でした。「ポリスに属す」という伝統的結合体を構成していた人々が、根無し草の、バラバラの有機体、コスモポリタンたる個人個人となって、「普遍世界」の中に漂流したのです。

自然、ヘレニズム諸王国の政治は、ポリス共同体を背景にした権威支配ではなく、コスモポリタンの囲い込み、軍事力・経済力による権力支配でありました。(実際は、ポリス的な要素も多分に残っていたと思われますが…ローマ帝国の頃には、すでに権力支配のスタイルが完成したと言えるでしょう)

こうして、ポリス的なものに価値を置く古代伝統社会は崩壊します。恐るべき伝統の断絶…ヘレニズムの混迷の中、「人はいかに生きるべきか?」という、苦悩に満ちた問いが浮上しました。倫理の確立や個人の内面といったものに注意がゆき、ゆき過ぎて絶望し、自殺を選んだ哲人さえ数多くありました。

ヘレニズム時代からローマ前期の時代に起きた神秘主義・オカルティズム・密儀、バッカスの祭りなどの熱狂的な流行は、この恐るべき伝統断絶感、崩壊感を埋めるがためのものでもあったのです。

当時の人々がひたすら求めたのは、「個人」の安心立命でした。それほどに当時の人々は、ボーダーレス化するグローバル社会の中において、孤独と絶望にさいなまれた「絶対的な個人」でありました。伝統の根を絶たれて、果てしも無く動揺するコスモポリタンであったのです…

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古代ヨーロッパ考・前篇

《歴史の大いなる裂け目・・・ヘレニズム時代》

ヨーロッパ世界の歴史を「それ以前/それ以後」に分断した大きな境界は、マケドニア・アレクサンドロス大王(前356~前323)…つまり、古代のハイパー・シンクレティズム・グローバル社会の爆発…

―前333年―

アレクサンドロス大王が、イッソスの戦いに勝利しました。アケメネス朝ペルシャ帝国ダレイオス3世の軍隊と衝突したもので、これを描いたモザイク画は有名。(ポンペイから出土)

はるか東アジアの果てでは、諸子百家のうち縦横家の蘇秦という人が、秦を封じ込めるという、六国合従策に成功した年でもあります。

秦はそれに対抗して、同じく縦横家の張儀という人に連衡策をやらせている。これは、各国と秦との間に、密約よろしく二国間同盟を結んでゆくと言うものだったそうです。現代の外交&陰謀とあまり変わらない、という印象です。

―前330年、ついにペルシャ帝国は滅亡します。アレクサンドロス大王強し!

―前325年―

インダス川まで進軍したアレクサンドロス大王が、反転して故国を目指した年です。延々続いたこの大東征、行軍距離は何と1万8000キロメートル。地球周囲が、およそ4万キロメートルです(汗)

秦の恵文王が「秦の王なり」と初めて称した年でもあります。恵文王は、始皇帝の前の秦王です。当時の秦は、中原では最西端の位置にありました。この位置関係をつらつらと想像してみるに、恵文王はアレクサンドロス大王の急な引き返しを知ると、天まで飛び上がって歓喜の舞を舞ったに違いないのです…

―前324年―

かの名高い、集団結婚式が行なわれます。ペルシャ人の貴婦人とマケドニアの貴族との集団結婚が行なわれました。アレクサンドロス大王自身は、ダレイオス3世の娘スタティラと結婚です。

(これは強引過ぎる政策でもあったような印象がぬぐえません。文化的背景も違いすぎるのに、結婚生活はうまくいったのだろうかという、微妙な疑いが湧いてまいります。実際、個人的には、アレクサンドロス大王はあまり印象よろしくない…)

―前323年。―

アレクサンドロス大帝国は、アレクサンドロス大王が死ぬやいなやでババッと3つの国に分裂。これは超重量級ショックかも。ちなみに、集団結婚式のカップルも、この年に多くが離婚したそうです(やっぱり!)

3つの国=アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア。うち、セレウコス朝シリアは領土が広大すぎて、その後、分裂しました:

  • 前255年=バクトリア(ギリシャ系移民国。ヘレニズム諸王国の一。)後に「大月氏(系統不明の民族)」に呑み込まれる。
  • 前248年=パルティア(イラン系遊牧騎馬民族、国名は安息。ヘレニズム諸王国には含まれない)

こうして、おそるべき歴史の断層、ヘレニズム時代が明けました。

小アジア(現在のトルコ地域)は、ヘレニズム諸都市が最も栄えたところです。数々の名高い哲人が、ここから出ました。そして、当時の最大のハイテク都市・国際都市として名をとどろかせたのが、プトレマイオス朝エジプト・アレクサンドリアであります。

幾何学の祖ユークリッド。物理学の祖アルキメデス。地球周囲測定者エラトステネス。地動説アリスタルコス…

ヘレニズム美術は、前時代よりもずっと華やかなものになりました。あの超セクシィなミロのビーナスも、この時代のものです。建築様式では、装飾に贅を尽くしたコリント式が全盛を迎えます。

まさしく、文化におけるギリシャ風=ヘレニズム旋風、経済的には、ヘレニズム・バブルが行き渡ったのでありました。…ですが、この事象は、これまでの伝統的なポリス社会の枠組みの中で生きていた人々にとっては、恐るべきショックだった筈なのです。

ポリスの無い北方の蛮族マケドニアの民に、あっという間に征服された事。そして、またたく間にギリシャ・ポリス都市が打ち捨てられ、ペルシャ風・エジプト風・アジア風が混ざっている、異形とも言ってよい新興ヘレニズム諸都市に、地中海交易の主導権をにぎられた事…

しかも、それまでの貨幣が価値を失い、アレクサンドロス大王発行の新貨幣経済に置き換わっていたのです。それは、シルクロード経済の発達をも促しました。

・・・ヘレニズム諸王国時代、およそ300年。

ここに、ヨーロッパ・アラブ二千年の基が築かれたのです…

古代ヨーロッパ考・前書篇

古代ヨーロッパについての、長年の疑問は、「何故、元は多神教であった地が、一神教に染まったのか?」です。同じ疑問は、アラブ方面にも言えます。

この変化を可能ならしめたのは、歴史の分断であった…とすれば、では、その歴史の、「謎の分断」は、どこにあるのだろうか?

という事で、手の届くかぎりの範囲で、調べてみました。

(資料と言ったら殆ど、高校歴史教科書と年表資料と百科事典ですが)

ヨーロッパがキリスト教に染まり始めたのは、ローマ帝国の代になってからです。ですが、ローマ帝国の頃に流行した新興宗教を見てみると、結構これが大混乱という感じで、それこそ何でもありというありさま。

「エレウシス」とか「ミトラ教」とか、神秘密儀ジャンルが大流行しているのです。イシス崇拝やゾロアスター教も流行しています。エレウシスは死と再生の女神に関わる密儀。ミトラ教の象徴は金の牡牛。

(もちろん、ギリシャ風も人気で、ギリシャとエジプトの混ざったような神様も作っていました。代表的なのがセラピス神。このセラピス神は、彫刻を見ると少し繊細で、両性具有っぽい顔つきです。でも、彫刻なのだからして色々あって、真男っぽいのもあるとは思います)

当時のキリスト教の本場もエジプトにあって、「コプト教会」というのがありました。あとは、グノーシス派とか、エッセネ派とか…原始キリスト教の世界。

ちょっとどころじゃなく興味深いのが、キリスト教とミトラ教の入れ替わりのタイミングが殆ど同時という現象。おまけにその内容を見ると、神の御子の誕生日が同じ…

聖書が偶像崇拝を戒めるエピソードに、黄金の牡牛崇拝の話があるのでもう何をかいわんやです。キリストとミトラ…、まさしく合わせ鏡ですね(キリスト教とミトラ教の関係を論じるのは一種のタブーと言う噂も?)

それはともかく、ローマ帝国市民の精神社会…、この状況は明らかに、古代から営々とあったギリシャ社会やポリスの伝統が分断されて、混乱しちゃってる社会だろう、と、さすがに見て取れる訳です…もう国際的と言うか、無国籍と言うかコスモポリタン。

それはもう、自国も外国も何が何だかわからないくらい溶解していて、共通の「故郷」を改めて設定しなければ、根無し草で漂流で不安でしょうがない、という心理にもなるはずで、その根っことなる新たな故郷(天国)を「積極的に」提供しようとしたのが、新進気鋭の福音教、キリスト教であった…と。

古代ギリシャから続く、ポリス伝統社会の溶解と崩壊……それは、唯一絶対神の宗教にすがらざるを得ないほどの、社会的動揺であったろうと「想像&結論」するものです。

※当時の人々の思いは結局のところ、想像する以外に無いのですが、ローマ社会を期に、国教が多神教から一神教に入れ替わった訳ですから、それほどの社会的動揺、人心クライシスだったのだろうと結論する訳です。

そして、当時のキリスト教は、すさまじい迫害と殉教の時代でもありました。ネロ帝のキリスト教迫害は有名な話になっています。

殉教者の生き様(死に様?)を多く見てきたローマ帝国市民の間で、キリスト教を信じれば、死も怖くないのだ、という「憧れ」めいたものが生まれ、広がっていた…という可能性は大きいと思います。

以上のような社会&人心クライシスをもたらした淵源を探してみると…、

ヨーロッパ・アラブ両世界を駆け抜けた大激震、急転直下の国際情勢、と言えるほどに大きな動乱の時代がありました。

それこそが、ヘレニズム時代。アレクサンドロス大帝国の急激な成立と、その急激な崩壊。アレクサンドロス大王こそが、ヨーロッパに(アラブにも)深刻な精神動揺をもたらした、「謎の分断」の正体では無いだろうか…と、考察するものであります。

次は、ヘレニズム時代を物語ってみようと思います…