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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

ガロ=ローマ時代の覚書(2)

ガロ=ローマ時代の覚書(1)から続きます^^

さてこのガロ=ローマの繁栄をものした属州ガリアですが、地続きという条件のもと、次第にゲルマン民族の姿がちらほらと見られるようになります。

ゲルマニアの方面からゲルマン民族が流入してきた訳なのですが、当時のゲルマニアが具体的に、ローマ帝国から見て何処にあったのか?は、ウィキペディア「ゲルマニア」の項をご参照くださいまし。ゲルマニアは、ローマ帝国の版図には遂に含まれる事の無かったエリアで、最初からゲルマン的要素の濃密なところでした。


フランスとドイツの境界を定めた重要な戦いが、「トイトブルクの森の戦い(西暦9年)」だそうです。トイトブルク(現・オスナブリュック近郊)の森は、フランス・ドイツの国境付近(?)にあります。以後のガリア語がロマンス語にシフトしていったのに対し、ゲルマン語は父祖からの言語を強く引き継ぎました…だそうです。

19世紀はとりわけ国粋主義が燃え上がった時代でしたが、フランスがケルト民族に源流を見出したのに対し、ドイツはゲルマン民族に源流を見出したわけで、西暦9年という昔の出来事であるにも関わらず、ローマ帝国がもたらした因縁の深さが、十分に伺えるものであります。

(19世紀は、ローマ帝国の方が良く知られていて、フランク王国の実態については、研究があまり進んでいなかったと思われます。何せシュリーマンの時代ですしね…^^;)

言語的資料フランス語とドイツ語の分布境界の歴史的経緯についての概観](ブログ)


ゲルマン人の流入は、パックス・ロマーナの絶頂の2世紀から急速に拡大しました。狩猟生活から農耕生活への転換のため、人口爆発があり、いっそう大量の土地を必要としたのが理由だと言われています。

ローマ帝国がゲルマン侵入・第一陣(235年~)への対応で不手際を重ねるようになり、属州支配どころでは無くなったのが、3世紀。俗に「3世紀の危機」とも言われています。

この異民族流入という出来事…、すごく身につまされるような気配がします^^;
現代のアメリカで言えばヒスパニック系の流入であり、現代の日本で言えばシナ系の流入でありましょうか(敢えてバランスを取るためシナという事で・汗)。うむむ、日本の中央政府、超・頑張ってほしいです。

この3世紀、ローマ帝国は滅亡もかくや、という程の迷走と混乱を極めました。軍人皇帝と僭帝の時代です。あらゆる政治的暗殺&社会動揺のドラマの種を、ここから取材できるのでは無いでしょうか?異民族侵入に対抗するための重税、蛮族の略奪による耕作地の放棄と荒廃、そして入れ替わり立ち替わる数多の皇帝と、属州政治の機能不全…

ここも身につまされるところです。日本も、地方財政が危機だと言われてます(汗)。夕張は破綻してしまいましたし…大阪も何だか騒いでいますし。中央政府も「審議拒否」か何かで、首相がコロコロと替わって、国政の機能不全を起こしかけているらしいし…

3世紀の危機を通じてローマの財政を支えていた奴隷制度が乱れ、税収も上下身分も確定しない社会が出現します。そのため、この時代のローマ皇帝は、たびたび奴隷を耕作地に拘束するための勅令を出しています。この部分は、重要だと考えられます。なぜなら、後の封建制度へ移行する可能性を秘める、多数の因子のうちのひとつであったと考えられるからです。

ローマ帝国・3世紀の危機について詳しいページを見つけました:
http://members.jcom.home.ne.jp/0425590601/ca12.htm
解説がテンポ良く、詳細かつ面白かったです。キャラも可愛いです(笑)^^
長い内容になっていますので、ゆっくりどうぞ。他ページも見物かと。

さて、ガリア属州では、未来の姿を予兆させる、重要な出来事がありました。

3世紀の混乱の中、ササン朝ペルシャが時のローマ皇帝を捕虜としてしまい、その息子が帝位についたものの、「ローマ皇帝、敵の手に落ちる!」というニュースは、属州全体(ブリタニアの西端からゲルマニアの東端まで)をあっという間に駆け巡りました。

この衝撃が何をもたらしたかと言うと、いっそうの異民族の活動とローマ帝国の分裂です。

属州はローマ中央政府をあてに出来なくなったため、自らの領土と安定を守るため結託し、あるいは地元の軍事的リーダー(僭帝)の下に何となく集まり(?)、最終的には「ガリア帝国(トランサルピナ系属州の派閥が中心)」、「ローマ帝国(元老院の派閥)」、「パルミラ帝国(パルミラ地縁の派閥)」という3つの帝国ができました^^;

ガリア帝国は、もともとの政治的根拠が脆弱だったため独立を維持できず、後に復活したローマ帝国の権威に再び服属することで、たった15年(260~275年)で解体しましたが、ガロ=ローマ時代が生み出したガリア帝国こそは、微妙にフランク王国の前身とも言える帝国では無いでしょうか。その首都は、現ドイツ南東部の辺境、ラインラント=プファルツ州のトリーアにありました。

ガリア帝国の版図は、ウィキペディア「ガリア帝国」の項をご参照ください^^

その後のローマ中央政府に現れたのが、統治の天才、ディオクレティアヌス帝。官僚制度を整備し、皇帝権力の強化(専制君主制・ドミナートゥス)を図り、もとは40程度であった属州を100以上に細分し、「分割して支配する」という手法でローマ帝国を統治。

この属州再編で、属州の自立性は奪われました。(地方政府の首長の権限を制限したようなもの。これが後々の混乱を呼ぶことになります。これもまた、封建制度成立の種子となった…と考えられます^^;)

西暦375年は、ヨーロッパ激震の年です。ゲルマン第二波に続いてフン族が侵入、この時、西ゴート族がフン族に追われて西進をスタート。フン族が世界最強の騎馬民族(ゲルマン族より強かった!)だった事もあり、ゲルマン諸族は西に南に追われてローマ帝国とその属州に次々に流入。アッティラ大王の件は有名です。

ウィキペディア「アッティラ大王」の項目にあるフン族の勢力範囲のすごさにびっくりして下さい^^

そんな訳で、ヨーロッパ全体が、本格的な民族大移動で大混乱になりました。当然、ローマ帝国を支えていた各種のローマ制度は、完膚なきまでに崩壊。ガロ=ローマ文明は、またたく間にゲルマン色に覆われてゆきます。

この頃、各地でやたらと城壁の建設(ゲルマン風かな?いずれにせよ、中世っぽい城壁かも。)が進んだそうです。事実上の暗黒時代にふさわしく、ゲルマン諸王国の前身となる統治組織――後に封建制度に変わってゆく統治組織――があちこちに作られてゆく、戦国乱世下にあったと言えるでしょうか。

後にフランク王国を打ち立てることになるフランク族が、遂にベルギカ(現・フランス北部辺境)に達したのも、この375年であります。ここから、中世の雄、フランク王国は始まったのです。

総じて、ガリア北部&東部からゲルマン民族の定着と支配が進むという流れがあり、海を隔てたブリタニア(現イギリス)ヘも、ゲルマン諸族(特にアングロ=サクソン)が組織的に出没するようになっていました。
※アングロ=サクソンが先で、ノルマン人は後の時代のようです^^;

こうした中、軍管区といった軍事的保障のある将軍が常駐した区画では――特に以前からゲルマン族の将軍が優勢だった地域においては――ゲルマン社会の伝統的な構造も考慮すると、必然として、属州将軍から封建領主への移行ルートが開けていた筈です。

中世ヨーロッパ全体に均一な封建制度が広まった基礎的要因として、このローマ帝政末期の改革の一として、属州全体で分割支配のための行政区の細分化が行なわれていた事実は、注目に値するのでは無いでしょうか。

西暦395年、ローマ帝国の東西分割。西暦476年、西ローマ帝国滅亡。

そして、この混乱の中で、ヨーロッパ中世前期が幕を開けたのであります^^
上手くまとまったかどうかは分かりませんが(汗)、こうしてざざっと見てみると、ガロ=ローマ文明の繁栄と3世紀の混迷は、まことに重要なチェックポイントであったと考えられるのであります。

〔おまけの想像〕ローマ滅亡の原因=官僚制度の肥大化?

末期ローマに起きた統治組織上の大きな変化が、専制君主制・ドミナートゥスの成立に伴う、元老院から官僚制への変化です。この官僚制度、どうも恐ろしく財政を食うもののようで、それ以後、ローマの財政は見る見るうちに資金繰りに苦しむようになりました。

それで、属州に派遣された税官吏がいっそう中産階級から税を取り立てるようになり、しまいには税官吏と異民族が結託して、ガロ=ローマの中堅農民の子供をさらって、奴隷市場に売り飛ばして、不足金額を埋めるなんていう出来事も、多々起こっていたようです。(何だか、北朝鮮が絡んでいる拉致問題を思わせるようで、嫌ですね・汗)

これが官僚タイプ利権食いとか、マフィアの始まりだったのでは無いか、という指摘もありますが…複雑な気持ちです。

そして、ますます肥大する官僚組織を維持するための税金の高騰に伴い、ローマ帝国の財政を最後まで支えていた、中産階級の崩壊が起こります。その後に生まれたのは、異常なまでの格差社会であり、犯罪多発の荒廃社会でした。

中産階級の喪失と共に起こったのは、中堅教育界の崩壊です。ある地域では大理石などの建材を綺麗に刻む熟練の職人がいなくなった為、奴隷をかき集めて、過去の壮麗な建造物を分解して、パーツだけ組み合わせて、官僚や資産家のための邸宅を造成する、という出来事もあったそうです。ローマ文明&文化の広範な維持が不可能になっていたのです。ローマの「知」の伝承の断絶…、これこそ、まさしくゲルマンの優越を可能とした、暗黒時代(ローマから見て)と言えるものでありましょう。

格差の激化と利権争い含む犯罪の増加は、同時進行で従来の社会を大きく損なってゆき、異民族の安価な労働力に頼らないと、財政維持も治安維持も不可能な状態にまで追い込まれていたであろう、ということは確かに言えます。(実際に、奴隷や傭兵に関しては、人件費の安いゲルマン人の割合が多かったそうです)

深刻な危機の中にも関わらず、いや逆に深刻な危機に放り込まれてしまったからこそ、なおも財産と権限の安定を要求するローマの官僚組織自体が、異民族勢力を積極的にローマ領内に引き込み、ローマ帝国内の内乱を頻発させ(今で言えば、外国人犯罪&振り込め詐欺の増加)、売国よろしく領土は失われてゆき、結果としてローマ帝国を滅ぼしてしまったのだと、そういう風に言うこともできるかも知れません。

以上の事は、あくまでも「異民族の流入」、「帝国内の略奪と混乱」、「ローマ財政の崩壊(税金の高騰)」、「官僚制度の維持」といった要素から編み出してみた物語的占いであって、歴史の真実はどうだったのかは分かりません。ローマ帝国衰亡の原因としては、水道管の鉛毒とか、気候変動とか色々あるみたいですし…

金融危機といった混乱の中に放り込まれると、かえって財産と権力に必死にしがみつき始める(ますます大きな利権を欲する)…という心理や、人間の行動パターンというものが、昔も今もあまり変わらないものである、とすれば、こういう想像も割と有効なのかも知れません。

しかし…、とりわけ日本に関しては、最大級の不吉な結末を暗示するものでもあるので、本当は有効な想像であって欲しくないです。ここの部分は、是非とも他の人に考察して頂いて、「それはみな杞憂である」と余裕で論破して頂きたいところです^^;

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ガロ=ローマ時代の覚書(1)

今回はホームページの「星巴の時空」シリーズに関して、資料を読んで軽くノートしました。
※「華夏の時空」は、手に入る限りの古代史資料を読みまして、後はどのように語(=騙)ろうかなと考えている段階。

簡単な歴史ブックを読み込んでみて、ヨーロッパ中世の飛躍を支えた要素が何だったのか、うっすらと分かってきたような気持ち。

ヨーロッパ中世の飛躍の謎は、ヨーロッパ中世前期に確立した要素にあると予想。

ヨーロッパ中世の大きな飛躍が見られる例として分かりやすいのは、建築です。中世中期の頃、それまでには見られなかった大きな教会建築、例えばシャルトル、モン・サン・ミッシェル、ノートルダムとかが建立されるようになります。

中世中期のドイツでは、既にクレーンを使った巨大建築技術が進んでいました。ドイツ・ポーランド地域の諸都市でクレーン建築などの諸工学が異常に進んだ背景には、カール大帝、もといシャルルマーニュが大いに関わっていた筈である…と、思考中。
(専門的かつ詳細な資料で調べてみると、とっても興味深い事業があるのです。後世への影響度は大きかった筈なのですが、注目度は低いみたいで、謎です…)

さらにロマネスク・ゴシックを経て、中世後期には、こうした建築技術が更に進歩し、ベルサイユ宮殿やクレムリン宮殿などの大掛かりな造成も、現実的なものとなった…と言えるようです。
集大成がノイシュヴァンシュタイン城でしょうか?*^^*

これらの進展の始原となった中世前期と言えば、ゲルマン諸王国の時代。

ですが、そもそも何も無い(当時のヨーロッパは大森林と岩山の世界が多い)ところに、インド=ヨーロッパ語族の後発組、ゲルマン諸族が入ってきた筈が無いし、即座にゲルマン諸王国が華やかに繁栄できた筈が無いのです。ゲルマン諸族が入り込んだのは、その当時、既に十分に都市開発がなされ、後の繁栄の基礎がしっかりと確立していた土地であった筈です。

タイトルにもある「ガロ=ローマ時代」、ここにヨーロッパ中世前期におけるゲルマン諸王国の繁栄と封建制度の成立を生み出したものの存在を、読み取りたいと思います。

考古学的には、「ガロ=ローマ時代」と言われているこの時代は、カエサルのガリア征服後から、西暦500年位までの期間に当たります。ケルト=ローマ融合文明の全盛期でもあり、この時代に、ケルト(ガリア属州)とローマの文化的融合が進みました。

種子がまかれたのは2世紀、ローマ・アントニヌス朝がもたらしたパックス・ガリアの頃で、その絶頂期は2世紀から3世紀。それまでは「アルプスの彼方(トランサルピナ)」と曖昧に呼ばれていた辺境でした。

当時のローマ地図では、南側(地中海沿岸)から順に「ナルボネンシス」、「アクイタニア」、「ルグドゥネンシス」、「ベルギカ」となっています。「ベルギカ」の東部地方が「ゲルマニア」…現代のドイツで、西の海の彼方の島が「ブリタニア」、現代のイギリスです。当時のスペイン&ポルトガルは「ヒスパニア」と呼ばれていたようです(間違っていたら訂正ください^^;)。

当然ながら、ローマ化の早かった「ナルボネンシス」州が、一番地位の高いローマ属州だったそうです。(厳密に言えば、ナルボネンシス州はガリアでは無いようです。通常、ガリアというのは、それより北側の3属州をまとめて言うようです)

ブリタニア、ガリア、ゲルマニア…それにヒスパニア。いずれもケルト文明が栄えた土地ですが、カエサルの頃のローマ帝国においては、異民族の辺境と見なされていました。

そんな訳で、ガロ=ローマ時代のガリアでは、ローマ化プロジェクトが推し進められるところとなりました。ローマ道路が敷かれ、ローマ風都市が作られ、ローマ支配の下で「パックス・ロマーナ」を享受しており、大いに繁栄する事になりました。そこでは、ローマ帝国の誇る土木技術が、惜しみなく注ぎ込まれたのであります。(大森林は結構、大量に伐採されています。後にゲルマン民族が拡散しやすくなったのは、この開発による森林地帯の減少にも、いささかの理由があるのではと思います・汗)

名のある大都市(ナルボンヌ、リヨン、ニーム、トゥルーズ、オータン、ランス)では、人口2万人から3万人。中規模の都市は約20あったと考えられており、推定人口5000人~2万人。小都市は不明ながら数が多かったようで、平均推定人口6000人未満。公用語はラテン語。内陸部の河川輸送ルートも、この頃から開かれていました。

ガリア人の殆どは農民だったそうですが、その詳細は研究が進んでおらず、よく分かっていないそうです。ただ、乾燥した地中海沿岸部で、エジプト及びスペインからの農作物や、地中海貿易に頼っていたローマ人に比べると、農耕に向く豊穣な土地に長く住んでいたガリア(ケルト)人は、必然として、各種の農業技術に優れたであろうという事は、かなりの確度で言える筈です。この時代に、犂(すき)、刈り取り機、土壌改良剤といった技術がローマに流入しています。

ローマ軍の食糧となった小麦は、ほぼガリア産の小麦だったと言われています。ガリア(ケルト)人はブドウ園の経営の習熟も早く、ガリア産ワイン(今で言えばフランス産ワイン)は、早々にローマ人の賞賛するところとなったようです。

しまいにはローマで消費するワインの8割がガリア産ワインという状態になり、後のドミティアヌス帝はローマの葡萄栽培を保護するため、ガリアの葡萄の木を半分抜かせる命令を出した程であったと言われています。もっとも、西暦270年に、プロプス帝がガリアの葡萄栽培権をガリア人達に与え、再びガリアでのワイン造りは活気を取り戻すのでありますが。

※ちなみに、カール大帝、もといシャルルマーニュは、「ワイン中興の祖」の異名も与えられているそうです。ゲルマン諸王国・乱世の時期は、さすがに葡萄栽培も低調だったのでは無いかと思われます^^;

・・・ガロ=ローマ時代の覚書(2)に続く・・・

異世界ファンタジー試作24

異世界ファンタジー7-2王宮神祇占術省:鉄拳を振るう神祇官

「吐け。白状しろ。キリキリ吐いてしまえッ!」

一言ごとに拳が振るわれ、中高年の男性神祇官の顔が、赤く腫れあがって行った。

――此処は機密会議室。老ゴルディス卿とガイ〔仮名〕占術師が、ライアナ神祇官及びファレル副神祇官と会談したところである。

機密会議室には、先日と同じ四人が集まっていた――そこに、もう一人が加わっていた。

新しく加わった一人こそ、誰あろう、王宮の諜報員が泳がせていた、いわゆる不良神祇官である。その不良神祇官、名前を士爵ウルヴォンと言い、ライアナ神祇官とは、長きに渡る学生・修行時代の同窓だったのだが――

ライアナ神祇官は恐ろしい剣幕でウルヴォン神祇官につかみかかり、鉄拳をお見舞いしているのであった。その見事な懲罰たるや、老ゴルディス卿とガイ〔仮名〕占術師が、二人して恐れ入って、壁に背を張り付ける程である。ライアナ神祇官が激怒した時どうなるかは、弟子になって長いファレル副神祇官にとっては、先刻承知の事実であったのだが。

「フ、ファレル副神祇官よ…ライアナ神祇官は、ずいぶん性格がお変わりになったようだな」
「あれこそ師匠なんですが、老ゴルディス卿様。昔の師匠は、一体どんな人だったんです?」
「ああ、彼女は、かつて日陰に咲く花の如き楚々たるうら若き乙女、ささやくような声で話す大人しい淑女だったのだ。あのように声を荒げて、無抵抗の男に暴力を振るうところは見たことが無かったんだよ」

猫をかぶっていたんじゃ無いだろうか…などと、ファレル副神祇官は、ある意味、罰当たりな事を思った。あるいは、かつての権力闘争による混乱の影響で、大切な人を次々に失ったという強烈な体験が、人格にも変化をもたらしたのかも知れない。そして――民間で神祇官としてやってゆくには、貴族相手とはまた別の率直さと逞しさが必要だ。

いずれにせよ、ファレル副神祇官にとっては、ライアナ神祇官は尊敬すべき師匠なのであった。

手首をあらかじめ縛られていたため、ウルヴォン神祇官は、ほぼ無抵抗だった。今や顔はボロ雑巾も真っ青という風である。

――ユーフィリネ大公女の尋問が終わりに近づき、ヴィクトール老公の派閥の半分以上が崩れた。 きっかけはユーフィリネ大公女の墓穴発言だったとは言え、余りの展開のスピードに疑念を抱いたライアナ神祇官が、老ゴルディス卿に不良神祇官との面会を申し入れた。老ゴルディス卿があっさりと承知したのは驚きではあったが――ライアナ神祇官にとっては、表も裏も知り尽くす同窓生だったのだからして、老ゴルディス卿の考えている事は、何となく予想はできたのである。

ウルヴォン神祇官は、最後にドウと床に叩きつけられ、涙と鼻水と流血をまき散らしながら、情けない声で抗議し始めた。

「ひ、ひどい。本当にライアナなの?僕の知ってるライアナは、こんな人じゃない」

少年がそのまま中高年になったみたいだ。神祇官となってその後、政争に無関係な研究者の一人として、安全な王宮の一角でぬくぬくとした環境に恵まれて暮らしていたためか、成長が見られないのであった。

ライアナ神祇官は、「な・さ・け・な・い!」と一語ずつ切って強調した。ダン、と足を踏み鳴らし、腰に手を当てて仁王立ちする。

「ひどいのは、どっちよ!人の研究結果を私的利用した上に、被害者を出しやがって!まあ死人は出なかったけどね、あんたのせいで半殺しの重傷者と複数の怪我人が出たの!我々が神祇官などという超困難なコースを選んだのは、こんな情けなくて下らない事をやるためじゃ無いでしょう!」

ウルヴォン神祇官は、必死そのものの形相で、ブンブンと頭を振った。なけなしの良心はあるようだ。

「そうだよ、僕だってそうなんだよ。僕は何とかして《天人相関係数》を極めて、この世の真理を解き明かそうとしてたんだ。偉大なる先達、士爵ライアス殿のように。ライアス殿は、どういう手法を用いて《逆ライ=エル方式》を導き出したのか、それは《死兆星》以外の個別の狭い事象にも及ぶものなのか、僕が、それを明らかにして証明したいと思ったんだ」

ライアナ神祇官は深いため息をついた。それは、《ライ=エル方式》の奥義に辿り付いたライアナ神祇官を含め、同世代を生きたという幸運があって、その叡智の一端に触れえた全ての研究者が、かつては抱いたであろう望みだった。

――しかし、それは大それた望みでもあった。

「で?それで、その証明は上手く行ったと思ってるの、ウルヴォン神祇官?あんたが《天人相関係数》に介入して、人工《死兆星》を現出させる羽目になったのは分かってるのよ。王宮の一角に流血と混乱を生み出した末に、得たものはあったのかしら?」

ウルヴォン神祇官は、上手い具合に周囲の内出血が進んでパンダ目になった目を、パチパチさせた。うーん、と考え込んでいる。

「実は、あれは失敗だったのかなと考えてるんだよ。僕が意図したのは《死兆星》じゃ無いんだ。全く別の謎の解明の方が、僕にとっては一大事だったからね。うーん、《神祇占術関数表》のレベルでは100%に近い確かさで証明できたし、それをグレードアップして…理論的には自信は、あったんだけどなぁ…変だなぁ」

ライアナ神祇官は再びウルヴォン神祇官の胸ぐらをつかみ、無慈悲に揺さぶった。ウルヴォン神祇官の鼻血が飛び散った。

「吐け。白状しろ。キリキリ吐き尽くせ。でなきゃ、あんたが15才の時やらかした、超絶☆キャー恥ずかしい事をバラすわよ」
「そんな、止めてよ!僕の人生がメチャになる!言う、言うから、止めて!」

老ゴルディス卿もガイ〔仮名〕占術師も、ライアナ神祇官の尋問の、想像以上の手際の良さに口をあんぐりしていた。だいたい神祇官と言う存在、やたら優秀な頭脳の持ち主なのである。《宿命図》なぞというとんでもない代物に日常的に関わっている人々、尋問のはぐらかしなどお手の物という、特殊な意味で面倒な連中なのだ。

「超絶☆キャー恥ずかしい事って何だろ?」
「聞かない方が幸せかも知れません」

ガイ〔仮名〕占術師の質問に、ファレル副神祇官が妙に青ざめた笑みで応じた。「"男"に関わる黒歴史って、そういう物でしょう?」