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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

政教分離・考/中国の呪術

「政教分離・考」の余談として、「中国」についても種々思いついたことがあったので、まとめてエントリです。

「政教分離」の反対は「祭政一致」ですが、祭政一致の社会の極北として、どうしても「中国」…「中華システム」を連想してしまいます。

政教分離に必要な「識別能力」を徹底的に不必要とし、完全に削除してしまった社会が、「中国社会」のような気がします。政教分離…ではなくて、政教混沌…の大国。どうも現代の「中国」文化をじっと見ていると、「自己本位」とも言うべき「訳の分からない宗教呪術」の存在が、ほの透けて感じられます。

「訳の分からない宗教」をかもし出している「言語呪術」を、「中華」という名の言語呪術、青銅時代に由来する中原の神の恐るべき呪縛、「ロードスの呪い」…と、名付けてみています。あくまでも「個人的に観察して個人的に感じた事」なので…、他の人には、他の感じ方&考え方があると思います

(『シナにつける薬(http://marco-germany.at.webry.info/)』が、一番リアルな「中国」に迫っている論考集だと思います…)

ここで「ロードスの呪い」…と名付けてみた「訳の分からない宗教(思考癖)」、その異質さをどう表現しようか…と随分迷ったのですが、言ってみれば「あくなき正当化」、周りがどうなろうが、地球が無くなろうが(地球が無くなれば火星を「中華という器」に入れればよい)、さほど困らない…という印象を受けるのです。「私物」と「私物化」の区別がつかない社会…組織なき社会。

環境汚染に対する、恐るべき無関心さ。歴史の自己同化、権威の自己同化、国土の自己同化…万物の自己同化(または私物化)。

夏目漱石の「則天去私」は、「私」の透明化を通じて天との無限連結を期するものですが、中国の「自己本位」は、「自己同化の領域(己の意のままになる領域)」の、天に至るまでの無限膨張を期するものであるようです。「中国人」にとっては、いわゆる「組織」「環境」「体制」というのは存在しない、理解できない概念なのでは無いか…という疑念が湧いてまいります。

それは、「自己同化観念による政治支配」を無意識的に可能とする…という、恐るべきカルト性を持っているかも知れません。辺境の穏やかな農耕社会に留まっているうちは、それでも良いかも知れませんが、ハイパワー・テクノロジーを縦横に操る高度文明社会となると…やっぱり、大問題です。

たとえば、書道。中国の書道は、巨大な崖に文字を刻んだり、古人の作品に自分の讃を書き込んだりする事を尊ぶようです。いわば、自然の人造物化・私物化…人の意のままに「自然」をヒョイヒョイと動かせる事に価値がある(実際に動かせなくても、派手な政治パフォーマンスでも可)…という事になりますでしょうか。

(日本だったら、風景の無闇な人造物化や、他人の世界へのあまりにも野放図な干渉は、程々のところで控えると思うのですが…「日本列島改造計画」がかつてあった手前、あまり自信ないです…)

儒教に対する理解も、禅に対する理解も、仏教に対する理解も、もしかしたら何百年もの古(いにしえ)から、ずっと異なっていたのかも知れない…(一部の人たちの間だけの話…と思いたいですが)、そういう恐ろしい疑念も、ジワジワと湧いてまいります…

疑念はさておき…自己本位な生き方が癖になっている人々…というのは…いささか、というよりも…かなり厄介な存在です。

パートナー心理の知識に基づいての応用推察になりますが、自己本位な生き方が癖になっている人々というのは、無意識的に「自分のステータスを上げてくれそうだ」という条件が整っている環境を見つけていこう…とするので、尋常で無いくらいの影響力をもつ他人、または他国に寄生しようとする傾向があります…

だから、少し言葉はおかしいけれども、中国大陸の各地各地の「中国的民族」の人々にとっては、現在の「中華人民共和国」も他国のひとつにしか過ぎないのであり、かつ、自分の生活に甚大な影響力を及ぼす他国だから、そこに寄生している…という感覚なのかも知れない…

そして、「中華人民共和国」よりもっと強い他国があれば、あっさりと「じゃ、そこに寄生しよう」的に、服を着替えるのと同じような感覚で、国を取り替えるのかも知れない…

中国共産党はそういう傾向を良く知っているから、「我々が世界で一番強くて、偉大な国だよ」という政治パフォーマンスを繰り返しているのかも知れない…(チベットの悲劇も、そういう政治パフォーマンスの延長でしか無いとしたら…それは、『クトゥルー神話』の邪神崇拝の光景よりも、遥かに遥かにおぞましい光景だと思います)

その思考癖の上に、さらに「損得勘定」に速攻で反応する性質の人の場合、更に厄介です。自己本位という基礎がガッチリとあるだけに、「私は特別な人間だ」というプライドだけは異様に高く、その後に本当に反省する事が無いからです…そぶりだけは見せるけれども…実際には心の底から反省し、人として成長する事は、決して、無い。

他人から学び、自己啓発を通じて、苦労してまで人間的に成長したい…とは思わない。だけど、相手の成長・財力・心身に依存し、寄生し、執着して、相手を最大限利用して、自分のステータスを最高のものにするためには、どんな努力も厭わない。それが不可能になれば、寄生先の相手を切り捨てる事に、抵抗は無い。その一方で、自分ほど高貴で、気高く、情け深く、思いやりのある心の持ち主は居ないという、大きな自信と自負がある…

心理学から推察する限りでは、得てして、「自らのステータスを上げる」という目的が第一に来る場合、歴史については、意外なほどの保守的な傾向を見せます。だから…そういった人々が「新たな業績」を生み出せた(と思っている)場合、それは、他人(他民族)の衝撃、または成長の勢い、権勢、革新ぶりに寄生した末での業績である事の方が、殆どでは無いでしょうか…

以上のような、「訳の分からない思考癖・強烈な執着性」をもたらす「何か」…それは思考の可能性の呪縛・封印に他ならない「何か」であり、その想像上の永遠の牢獄を、仮に「ロードスの呪い」と名付けてみています…

想像ですが、歴史すら、自分のステータスを上げる「道具」でしかない、という習慣があるかも知れません。「ロードスの呪い」に染まった「民族」は、それ以後は、政治的ごり押しや心理的駆け引きには大活躍する事はあっても、人類史に残るような、偉大な業績を為す可能性は…おそらく無いのではないか…と、思います。

あとは…わずかな希望としては、人間と人間の相対性。最終的には、やっぱり「神」としか表現できない何か…大きな運命の導きが、「ロードスの呪い」を破り、変容と成長を促すのではないかと思います。

問題は…そういう運命の変容のビッグウェーブに乗れる感覚を、「中国人」が持っているかどうか…だと思います。(ここは、自分でも…観察していて、割と悩むところです)

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政教分離・考/聖職と言葉

思考は言語によって構成される――

自分の使用している言語がおかしくなってゆくという事、そしてそうした事象に自力で気づけなくなってゆくという事、それは、聖職者という「聖なる言葉の語り手=聖なる神の使徒」にとっては、常人以上に深刻な問題ではないだろうか…と思われます。

感触としては、マスコミにはまた別の問題があるのではないかと思います。でもその問題を掘り出したり分析したりする事は、マスコミ問題について詳しくない自分にとっては荷が重過ぎるので、専門家にお任せしたいと思います

・・・何故、文明社会は、政教分離を選んだのか。

その理由をあれこれと想像してみると、現代社会においては、宗教家ないしは思想家が、政治に口出しする場面が多すぎる…または、政治活動を起こして、それを意のままにあやつるという場面が多すぎる、と思いました。

確かに、聖職を志すものには、世界平和の壮大なビジョンがあると思います。
栄光の千年王国、極楽浄土、神の国、天国…新しいところでは、アセンション。

でもそれは所詮、宗教上の観念的理論…可能性の領域に留まるものです。

どんなに優れた宗教的理論、霊能力、霊的知識があったとしても、その「知」をどのような場合にどのように用いるべきなのか、そういう人間としての基本的なTPOにすら欠けているならば、それは、「魔」となるのでは無いでしょうか。

「悪魔よ、去れ!」…聖なる知に裏付けられた言霊を使う能力は、人間としての基本的な社会的基礎がしっかりと確立された上にある筈だ…と思います。人格ある言霊を以って、聖なる「場」を、聖なる「言葉の宇宙」を現出できない聖職者は、果たして聖職者たりえるのでしょうか…

むしろ、若年代に流行しがちな「にわかカルト」よりも、厄介な存在であるように思います。

聖職者自身が、「聖職にあるという事」を理由にエリート意識をひけらかすようになれば、それは「メサイア・コンプレックス」と呼ばれるに値する心理現象です――未熟な人間が必死に優位に立とうとし、優越感を満たそうとするときに、普遍に生じるメンタルの病(やまい)です。

「私は選ばれし聖職者だ、特別な人間だ」という事を盾にしないと、他人と渡り合えない、「不完全な大人」であるという事です…自然、「不完全な大人」は、他人の心を理解する能力に欠ける、という事です。「観念」に没頭する余り、「現実」を生きている人の心が見えなくなります…

「幽界」に入れ込むあまり、「現世」が分からなくなる、「現世」に帰って来れなくなる…というエピソードは、こういう恐るべき心理現象を、暗に言っているのではないでしょうか。

人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さが無く、粗雑になる。粗雑と言うのは、対象をまったく見ないで観念的にものを言っているだけという事であり、対象への緻密な心配りが欠けているという事である…

・・・善意でやっていると本人は思っているから、それに沿って人からありがたがられるときには上機嫌なのだが、反対者や批判者には、人が変わったように邪悪な言動を繰り返すこともあるわけだ・・・

心の緻密さが欠けるという事は、神を含む、いっさいのものが欠けるという事に他なりません…

メンタルを病んだ人は、「正当」と「正当化」との識別も出来ない…と思います。「現実」と「観念」の区別がつかなくなる…これは、心理学の方面からも、よく指摘されています。他人の善意の意見を「誹謗中傷」だと取る場合が多いのも、メンタルを病む人の特徴です。

聖職者もまた、普通の1人の人間です。その職の特殊さゆえに、常人よりもメサイア・コンプレックスに陥りやすい…ミノタウロスの「知の迷宮」に陥りやすい、という傾向を、強烈に自覚する必要があるのでは無いでしょうか。

科学者が、「科学的正しさ/科学的真理」を追求する余り、「知のミノタウロス」に食われてしまう…人間性を失ってしまうというケースは、結構よく見られます。(ニュートン的世界観から量子的世界観に移るときに、この反省が行なわれています。だから或る意味、科学&数学のほうが、宗教&哲学よりも、根源的な「神」に近いところにあるのかも知れません)

同じように、宗教者・聖職者・思想家が、「宗教的正しさ/宗教的真理」を追求する場合にも、己の抱く観念の無闇な正当化のために、全ての思考と言語を捧げ切ってしまうあまり、人の心を忘れてしまう…「知のミノタウロスに食われてしまう」という事象が、普遍に起こりうるのではないでしょうか。

実際、スピリチュアルを語るには優れていても、政治・軍事・外交を語ると、とたんに「言語」がおかしくなる…という宗教者の例は、歴史上に無数にあります。そして、宗教的情熱…現実直視を喪失した「観念(思考)」に突き動かされるが故に、繰り返される歴史の悲劇。

政教分離というのは、人の心の闇の深さ、ミノタウロスの迷宮の深淵をまざまざと直視したが故に、いつしか、文明社会の知恵として生じてきたものなのだ…と確信します。

宗教者・思想家が、観念的側面から、政治を支配しよう…という場面が多すぎる…そういう現在の日本の状態は、政教分離の観点からも、大いに憂慮されるべきものだ…と、思います。

歴史上の事例からすると、政治的な資質と、スピリチュアルな資質とは、全く別のものだ…と思われてなりません。政治は、徹底したリアリズム、現実直視・現実対応主義です。ひるがえってスピリチュアルは、基本的には、観念優先主義です(インドやチベットの聖者を考えると、良く分かります)。

…その昔のスピリチュアルの雄であった西欧キリスト教は、「神と人との再結縁」よりも、「神の代理人としての世俗支配権」を選択しました。その選択がもたらした、禍々しいまでに血塗られた歴史は、推して知るべしだと思われます。キリスト教における「世界(ゴッド)」と「人間」との遠大な距離感は、この選択が原因だと思います。また、現代の新興カルト登場の淵源でもある、と思います…

スピリチュアルを語るその口と同じ口で(多くは反戦活動&反日活動にかこつけて)、現実を直視して動くしかない政治を批判し、さらに宗教的論理・宗教的観念の下に支配しようとする事は、聖職者として間違っている、人々をかえって救いようの無い地獄に追いやっている行為なのではないか?と思うものであります。それはまた、かつての国家神道が歩んだ道であり、そしてその国家神道以上に、凄惨に血塗られてゆく道になるに違いない…と危惧するものであります…

異世界ファンタジー試作32

異世界ファンタジー9-2対面:その人の面差し

ロージーは緊張してしまい、いつもより茶器の片づけに手間取ってしまったが、無事メイドに茶器を引き渡せたのでホッとした。

令夫人は居間の扉の前でロージーを手招きした。ロージーは令夫人の後に従い、居間から玄関ホールに降りる階段に向かった。令夫人はロージーの先に立って階段をどんどん下りながら、「バカ息子にガツンと言ってやるわ」などと、こぶしを振り回して物騒な事を宣言しているのであった。

ロージーの心臓が、早鐘を打ち始めた。階段を下りているのだから、足をシッカリ踏みしめようとするのだが、頭がフワフワしているせいか、身体全体の感覚が頼りない。ショールをしっかり巻いているはずなのに、気が付くと震えていた。

(――ジル〔仮名〕様って、どんな人かしら?)

ロージーは階段の中ほどから、緊張しつつ、玄関ホールの方を眺めた。

先に玄関ホールでスタンバイしていた執事が玄関の扉を開け、「お帰りなさいませ」というような事を言い、一礼する。ジル〔仮名〕と思しき黒髪の若い男が、大股で入って来た。背が高く、宮仕え風のカッチリとした衣服を着ている。すっきりした体格だが、一見しただけで、その衣服の下の身体は良く鍛えられたものである事が分かった。

ロージーの前に居た令夫人が早速、息子を説教し始めた。これが日常らしく、誰も驚いている様子はない。

「まあ、まあ、ジル〔仮名〕!今頃、執事の速達に気付いたんでしょ!気付くのが遅すぎるわよ、このバカ息子!ローズマリーが、いったい何日、お前を待っていたと思ってるの!」

背の高い男がピタリと足を止め、面を上げた。心持ち長めの黒髪が揺れる。何かを言いかけるように口を開き――

令夫人の後に続くロージーと、階段の中ほどを振り仰いだ男の目が、合った。男は綺麗な顔をしていた。

「――ロージー」

低く、滑らかに響く声。余りにも深く記憶に刻まれた、あの声――ロージーは、頭が真っ白になった。

切れ長の深い青い目が、ロージーをじっと見ていた。玄関ホールの中央に立って見上げて来る男は、確かにあの監察官だ。

令夫人は、なおも説教を続けようとしていたが、ジル〔仮名〕の「ロージー」という呼び掛けに気付いて、不意に言葉を呑み込んだ。次いでジル〔仮名〕の視線の先を辿って、自分の後ろに居るロージーを振り返った。ロージーは、真っ白を通り越して蒼白になっていた。再びジル〔仮名〕を見、サッとロージーを見る。令夫人は目を見張ったまま、口をポカンとさせていた。

たっぷり一分は経過しただろうか。

若い二人は、彫刻か何かのように固まってしまったまま、お互いから視線を外そうとしない。令夫人は、キョロキョロしながらも「ね、ねえ」と声を震わせた。

「ロージーって?あなたたち、いつの間に、そんな関係に?」

知ってみれば成る程、「ローズマリー」の愛称は「ロージー」に違いないだろう。しかし、平民社会よりも遥かに様々なルールに縛られている貴族社会――愛称を呼ぶのは、余程、特別な関係で無ければ有り得ない事なのだ。そして平民出身とは言えロージーは、貴族社会に足を踏み入れるに際し、その細々としたルールを了解していたはずなのだ――

白いショールの端を、ブルブル震える手で固く握りしめていたロージーは、遂に糸が切れた操り人形のように、カクンと膝を折った。誰かが息を呑む音がした。ロージーは失神したようだ、身体がゆらりと傾き、頭が身体の傾きに従って沈んだ。ロージーの頭は、階段の手すりにぶつかってゴツンという音を立てた。

ロージーは階段の上にくずおれ、そして半ば仰向けになる形で倒れた。

令夫人が、「イヤァ?!」と叫んだ――

*****

ロージーの意識が遠くなったのは、緊張の余り息を止め、そして呼吸することを忘れていたのが原因であると言っておこう。

監察官――今や、ジル〔仮名〕卿と同一人物である事が分かった訳だが――の、動きは早かった。一段飛ばしで階段を駆け上がるとサッとロージーの身体を抱え上げ、物問いたげに令夫人の方を見やる。

令夫人は、「とりあえず居間のソファに」と指示した。