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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

青銅華炎の章・古代6

【諸子百家の時代・・・文明の大断絶と思想の大混乱】(後)

かつての古代シナ神話は、古代ギリシャ神話と同様、数多くの物語に満ちていました。

今日、ギリシャ神話が体系的に伝わっているのに対し、シナ神話は不完全な、断片的な形でしか伝わっていません。怪力乱神を語る事を拒否した儒教思想も大いに与るものでありますが、神話断絶に最も決定的な影響を与えたのは、戦国時代に台頭してきた陰陽五行思想であったろうと考えられています。

〈前シナ文明〉の暦・・・殷・周時代の暦は、農耕生活に密着した暦でもありました。ところが、春秋戦国時代に入ると、昔ながらの世界観も暦も断絶し、混乱を極めます。

(この頃、大きな気候変動があり、華北地域の急激な寒冷化&乾燥化が進んだと言われています。遊牧騎馬民族の侵入もあり、中原に広がっていた「前シナ世界」の崩壊は激しいものであった…と想像するものであります。その怨念が今、西域辺境自治区に対する暴政などの事象として現れているとしたら…これはこれで、背筋が寒くなる事象であります… > <;;)

諸子百家の時代を生きた陰陽五行思想家らは、当然ながら、バラバラになってしまった世界観や暦の統合作業に入りました。その過程で、あらゆる自然現象と人事現象とを総合的に捉え、その循環によって世界を説明しようとする一派が、最も勢力を誇るようになります。

この一派の説が、司馬遷『史記』太史公自序に、次のように記されています。

「そもそも陰陽家によれば、四時(四季)・八位(八卦)・十二度(黄道十二宮)・二十四節には、それぞれ教令がある。これに順(したが)う者は栄え、逆らう者は死ななければ国を滅ぼす」

上に曰く「それぞれの教令」の事を、月令(ガツリョウ・ガチリョウ)または時令と言います。

この「時令」系統のルールは秦・漢時代に至って完成され、秦代の『呂氏春秋』十二紀や漢代の『淮南子』時則訓、『礼記』月令篇などとして見られます。

かくも奇妙にして厳格なルールが組織されてきたのは、春秋戦国時代において、相手国を如何に完全に滅ぼし、後々に渡って抵抗力を奪うか、という戦略・政治の発達とも関連していた筈です。

古代社会は同時に祭祀社会でもあり、相手国を蚕食するに対して最も効果を発揮したのは、都城の徹底的な物理的破壊では無く、その神々に対する祭祀権を奪う事による習俗の破壊および精神的破壊でありました。

・・・まさしく春秋戦国時代とは、陰陽五行家らが完成した「時令」という時空ダイヤグラムの中で、多様な神話・習俗が分断され、滅びていった時代でありました・・・

その中で辛うじて生き延びた神話伝承が、「夏」です。上古の「夏」の権威を受け継ぐ諸族という意味で、「諸夏」と名乗ったという事も、当時の記録にあります。

しかし、秦の天下統一に至って、前シナ王権の記憶を受け継いでいた「諸夏」という観念も、滅んでゆきました。「諸夏」は、前シナの伝統を受け継ぐ諸部族をまとめるには適切な観念でしたが、西域出身の帝国・・・中央集権を目指す秦にとっては、もはや無意味、かつ弾圧すべき存在でした。

代わりに立ち上がってきた観念が、「夏」を思想操作した末に造られた「天命」です。ただ一人の皇帝、ないしは一つの王朝による一極支配を伴う観念として、潤色されてゆきました。実に「天命」こそは、〈シナ文明〉を彩る事になる言葉であり、新たな時代の呪術的観念であります。

その言葉の登場は、部族社会の消滅と時を同じくしています。そしてその時から、義烈の精神で結びつくという、おそらくは前シナの気風を受け継ぐ秘密結社〝幇(パン)〟が、歴史の暗黒街道を歩み始めます。

〈シナ文明〉。
恐るべき一極支配と一斉反乱の歴史が、まさにこの時、幕を開けたのです。

いわゆる「中華文明」の中世において、古代シナ神話のルネサンスは起こりませんでした。一方、ゲルマン文明の栄えた中世欧州では、例えば『アーサー王伝説』や『聖杯探求伝説』などの物語として、古代のケルト・ゲルマン神話が復興する、という現象が広く起こりました。

「華夏」と「星巴」の運命を分けたのは、正しく《神話》に他ならぬ、と詩想するものであります。


詩想の過程で、しみじみと思い返した箴言を以下に引用:

・・・日本語は物を詳細に述べようとすると不便だが、簡潔にいい切ろうとすると、世界でこれほどいいことばはない。簡潔ということは、水の流れるような勢いを持っているということだ。・・・
・・・「白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける」という歌があるが、くにの歴史の緒が切れると、それにつらぬかれて輝いていたこういった宝玉がばらばらに消えうせてしまうだろう、それが何としても惜しい。
他の何物にかえても切らせてはならないのである。
そこの人々が、ともになつかしむことのできる共通のいにしえを持つという強い心のつながりによって、たがいに結ばれているくには、しあわせだと思いませんか。
ましてかような美しい歴史を持つくにに生まれたことを、うれしいとは思いませんか。歴史が美しいとはこういう意味なのである。・・・
・・・どうもいまの教育は思いやりの心を育てるのを抜いているのではあるまいか。そう思ってみると、最近の青少年の犯罪の特徴がいかにも無慈悲なことにあると気づく。これはやはり動物性の芽を早く伸ばしたせいだと思う。学問にしても、そんな頭は決して学問には向かない。・・・

いずれも『春宵十話』、岡潔(おか・きよし)著より抜粋

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青銅華炎の章・古代5

(追記)アムゼルさまのご指摘により、一部修正です

【諸子百家の時代・・・文明の大断絶と思想の大混乱】(前)

春秋戦国時代(前770年~前221年)の思想革命とは、「怪力乱神を語らず」・・・人間理性の自覚とその普及にあります。合理的思考と太古の呪術的思考との闘い。思想的大混乱。その結果が、諸子百家の旺盛な活動でした。

周の政治権力が弱まると、文字もまた統一性を失い、地方ごとに異なる字体が発達しました。

一般に複雑な字体の方を「籀文(ちゅうぶん)」と言い、簡便な字体の方を「六国古文」と言います。漢字(=と言うより、「文字」の地域的流用=)が爆発的に広まったのは、殷・周による文字の独占が終わってからの時代・・・春秋戦国時代の事でした。

地方で発達した多様な字体は、後世に天下統一した秦によって、再び規格統一される事になります。

◆秦の字体=篆文(てんぶん)。
◆焚書は異体字を滅する為の政策という説もあり。
◆坑儒は周代以来の諸夏思想を滅する為の政策という説もあり。

春秋戦国の時代には、王道/覇道という概念が論じられました。

天下統一するには、法律(法術)・軍事・経済・外交・官僚体制といった多種多様な統治技術が必要であり、これらの成熟が、巨大帝国「秦」の誕生を促します。

「覇道」とは、大陸交易圏の急速な拡大に伴って生じてきたものであり、実に徹底した合理的思考の結晶でありました。


(少しの私見)

中国史における春秋戦国時代末期=前3世紀から前2世紀、アレクサンドロス大帝国の衝撃によって、トランスオクシアナ=マーワラーアンナフルを横断する大陸交易の市場のすさまじい拡大がありました。このことは、東アジアの果てで、「覇道」という概念が何故に発生したのかを考える際に、重要になってくると思います。

何故ならこの時期から、ユーラシア大陸交易路を横断する遊牧民族&騎馬民族の活動が大きくなり、シルクロード交易や、騎馬民族による大帝国(たとえば匈奴帝国)の時代が始まっているからです。ソグドの民、匈奴=フン族の民、クシャーナ氏の民、エフタルの民、いずれもトランスオクシアナの交易路に栄えた民でありました。

「覇道(中央集権による統治の技術)」もまた、西域から到来した概念では無かったでしょうか。東アジアもまた、アレクサンドロスによる、大いなる歴史分断の衝撃から逃げられなかったのです。

(私見、終わり)


群雄割拠と同時に起きた、思想的大混乱。この文明的カタストローフが、〈前シナ文明〉の断絶を引き起こしました。

その文明断絶の深い痕跡を、古代シナ神話の大断絶という事象に見る事が出来ます。

〈前シナ文明〉と〈後シナ文明〉とは、青銅祭祀の始原たる〈上古諸州〉の神話(=古代シナ神話=)伝承の〝血〟を受け継いだか否かによって、決定的に分断されます。

殷・周の諸王国は、〈前シナ文明〉。そして、秦・漢といった諸王国は、〈後シナ文明〉です。そしてこの間に、連続はありません。

春秋戦国時代に起きた文明的カタストローフ・・・古代シナ神話の大断絶とは、それ程に大きな出来事であったのです。秦・漢は、殷・周の後継者では、決して、あり得ないのです…

つづきは次回。古代シナ神話の断絶、という事象を、詩的・物語的に考察です

青銅華炎の章・古代4

今回は、東アジア大陸の東端を外れて、ユーラシアをひとっ飛びに横断して調べてみました。主に青銅器から鉄器への移り変わりに注目して、騎馬民族の拡大にフォーカスを当てています^^

【青銅器時代から鉄器時代へ・・・ユーラシア情勢と金属文化の変遷】

殷・周の時代と、春秋戦国の時代とで、大きく異なるのは金属です。ことに、鉄の登場は、その武器としての強さからしても、大いなるエポックメーキングでありました。

鉄剣は、青銅器を易々と断ち切ってしまいます。その衝撃が、当時の人々にとって、如何に大きいものであったか…それは今となっては、想像によるしかありません。

それまでの〈前シナ文明〉の世界は、青銅祭祀に支えられてきました。鉄の衝撃によって、その青銅に付随する霊威もまた、ゴルディアスの結び目よろしく断ち切られていったのかも知れない、と想像するものであります。

例えば、呉の干将・莫邪、ないしは眉間尺(みけんじゃく)の物語に登場する、雌雄の剣。鉄の剣です。

新しい歴史神話『史記』・「刺客列伝(第26)」に登場する秦の王は、鞘から抜けないほどに強大な剣を背負い、ついにそれを引き抜き、刺客の股を切断したと語られています。その大いなる剣は、新しい金属…鉄で出来ていました。堂々たる鉄の剣。新たな時代の神話を彩る事になる、新たな主役であります。

ではどうして、その頃に、鉄が西域から到来したのでしょうか。そこにもまた、広大なるユーラシア大陸の情勢の激変が絡んでいた、と考えられています。アーリア民族の大移動、次いで遊牧騎馬民族の拡大です。最大の衝撃が、アレクサンドロス大帝国の発生です。

鉄そのものは、紀元前3500年頃には、メソポタミアで既に使われていました。当時の鉄は、隕鉄を流用したものが殆どではないかと推測されており、本格的な鉄生産・鉄使用には至らないレベルであったようです。

それでも、紀元前2000年頃には小アジアにハッティという鉄の国が出来ており、技術的には幼いながら、製鉄を行なっていたようです。

紀元前2000年を過ぎた頃の小アジアに、東からアーリア民族が侵入してきました。インド=イラン人とも言われています。彼らはハッティの製鉄の伝統を拡大し、初めて鉄鉱石を溶かす溶鉱炉で鉄を量産して、ヒッタイト文化を作ったと言われています(エジプト新王国時代・アマルナ文書、前1400年~前1350年頃)。

やがて、メソポタミア及びインダスの古代帝国は、アーリア民族の侵入で動乱時代(ゾロアスター、リグ・ヴェーダ時代)に入り、古代の青銅文明を支えていた青銅ロードが崩壊したのでは無いか…と推測されています。

青銅の衰退と共に浮上してきたのが、新たな金属、鉄でした(前1200年頃)。

次の時代の西アジアにおいては、ハッティに由来する鉄の技術が、インド=ヨーロッパ語族の間で安定して確立し始めていました。その鉄を使って大いに勢力を振るったのが、例えばアッシリア帝国であります(前8世紀頃)。

鉄文化の成熟では、中央ユーラシアの遊牧騎馬民族が大いに関わりました。

新たに発生したスキタイの騎馬民族は、黒海を通じてギリシャと青銅交易を行なっていましたが、騎馬となると、鐙(あぶみ)、轡(くつわ)などに使うには青銅は重過ぎ、薄く作る事も不可能でした。

【#】スキタイの青銅文化は、黒海沿岸に進出した古代ギリシャ植民都市の影響を強く受けた文化です。この青銅文化は、スキタイ勢力の拡大と共にユーラシア大陸を東進し、黄河中流域のオルドスに広がっていたチュルク系民族に伝わりました。(豆知識=イラン系民族の原郷はウクライナあたり。チュルク系民族の原郷はバイカル湖あたり。)東アジアのそれは、ギリシャ系スキト=シベリア文化として知られています(前7世紀頃)。

青銅文化を押しのけて、新しく登場した鉄の文化。カフカスの雄、スキタイ民族が、これを見逃すはずはありませんでした。

スキタイは速やかに鉄器文化を取り入れ、鉄製の馬具を作ったと言われています。それらを、遊牧型鉄器文化として成熟させたのが、ウラル・アルタイ族です。

アルタイ系統の鉄器生産の中心にいたのが、トルコ系の祖族であるアシナ氏族。チュルク神話に登場する始祖伝承によれば、人間と「蒼き狼」との間に出来た子孫が、後にアシナ氏族を築いたという事です。後世の高車族や突厥(チュルク)族は、ここから出たと言われています。

ちなみに、オルドス青銅器文化(前6世紀~前1世紀)は、スキト=シベリア文化の後継であると考えられており、旧地名にちなんで、綏遠文化とも呼ばれています。青銅器と鉄器の併用があったと言われている文化です。地理的には秦の故地とされる地域と近く、周の時代には、相互影響もあったと推測されています。(注意:直接の歴史記録はありません。考古学的知見による推測のみです)

殷・周の記録では、オルドスの異民族は狄と総称されています。匈奴と関係があると言われていますが、実際は明らかではありません。紀元前3世紀には、オルドス以西の地域に月氏が入り込みました。月氏の正確な系統は不明ですが、サカあるいはスキタイの系統とする考えもあるそうです。

[以上]

今のところは、ここまで…^^