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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

アムゼルくんのプラタナス

http://amselchen.exblog.jp/19226211/
アムゼルくんの世界「AF Nikkor 50/1.8Dの淡い光」より

この写真は、ツイッターを通じて、写真専門サイトに公開されていたのを見たのが最初でした。

何か大きな木だな…と思いつつ、上から下に向かってつらつらと鑑賞していました。光の具合が、非常に好みな雰囲気であったのです。

そのまま、写真を見て「プラタナスの木蔭で…」という状況フレーズを連想しつつ、下に向かって鑑賞していると、突然不思議な感覚がやって来ました。写真の下部スペース1/3くらいの領域で、いきなりスパッと雰囲気が変わったように、無形の闇に呑まれたような感覚が来ていたのです。

幽顕のあわい…

その感覚は一瞬だったのですが、自分自身がビックリしました。普通は、「プラタナスの木蔭で…」の後に、「自分が何を感じた」とか「町の様子が」とか、意味のある状況フレーズ(=写真鑑賞のためのフレーズ)をくっつけるのですが、その時は何も思い浮かばなかったのです。

「プラタナスの木蔭で…」――そして、無形&無底&未生の混沌。

改めて写真を見直してみて、「普通に意味のある光景」が写っていたのを確認しましたが、それでも、一瞬到来していた「無形&無底の領域」の感覚の方が強烈で、ずっとその残響を引きずっていました。

突然「プッ」という感じで到来した、その「或る領域」は、一体何だったのだろう…?

幾ら考えてみても、「それ」を言語化することが出来ませんでした。「プラタナスの木蔭で…闇&混沌…」という風に言語化してみても、何だかピッタリしない…まるで、「プラタナスの木蔭で…」のフレーズが、その「言語化できない領域」を引きずり出して、目にも明らかに吊り下げて見せた、ような感じなのです。

心を凝らしてみる限りでは、「言語化しなければならないという役割そのものも、全く理解していない」という風な、妙な無貌のモヤモヤが、「のてっ」と“在る”…

「その領域(?)」を「思考の指」のようなもので、チョンチョンと突付いてみて…

「これは、言語化できない“何か(モヤモヤ)”である」と感じました。

『アムゼルくんの世界』ブログに写真作品がアップされ、感想コメントを送らせて頂いた後も、続けて考えていました。そして、突然パッと閃きました。「木の根っこの部分に何かを感じる」という似たような状況を、何処かで聞いたことがある…

〝いましがた私は公園にいたのである。マロニエの根は、ちょうど私の腰掛けていたベンチの真下の大地に深く突き刺さっていた。それが根であるということが、私にはもう思い出せなかった。言葉は消えうせ、言葉とともに事物の意味もその使用法、また事物の上に人間が記した弱い符号もみな消え去った。いくらか背を丸め、頭を低くたれ、たった一人で私は、その黒い節くれだった、生地そのままの塊と向かい合って動かなかった。その塊は私に恐怖を与えた。それから、私はあの啓示を得たのである。それが一瞬私の息の根を止めた。この三、四日以前には、<存在する>ということが何を意味するかを、絶対に予感してはいなかった〟

サルトルの『嘔吐』の一部分です。

どうも、「木の根っこの部分で、いきなり無形&無底の何かを感受する」という意味で、サルトル描く主人公と同じモノを感受したのでは無かろうか…

「モノ」。考えれば考えるほど、写真に映った木の根っこで自分が感受した異様な「モヤモヤの領域」は、まさしく「具象化(言語化)される前の」「物」であるような気がしてきました。

そして、ここでまた閃いたのは、『日本語の哲学へ』の一部分です:


@参照=読書ノート:『日本語の哲学へ』
http://mimoronoteikoku.blog.shinobi.jp/Entry/556/(当ブログ編集)

具体的な事物を「もの」と言うとき、それは決して具体的な事物を具体的にとらえた言い方ではない、と結論する。例えば、「木」と言うとき、それは厳密には、その木の具体相(紅葉している、風が吹くたび葉が散るといった様子)を全て切り捨てて抽象化して言っている。それが「木」という語の意味である。

まして、それが「もの」ともなれば、「木」ということも切り捨て、「人間が感知し認識しうる」すべての具体相を消し去って、はじめて可能となるとらえ方である。「物」は「具体語」であるどころか、すでにこれ自体、究極の「抽象語」と呼ばなければなるまい。…物を「物」としてなり立たせているのは、この〈具体相を消し去る〉はたらきなのである。

「物」という語の意味は漢字の意味から類推も可能である。「物」は「牛」と「勿」に分解できる。「牛」は最も身近な家畜であった。「勿」は「こまごまとした雑布でこしらえた旗。色も形も統一がなく、見えにくい」さまと説明される。

◇藤堂明保『漢字語源辞典』:
朱駿声が、牛の雑色→いろいろな形・さまざまな色→形質や事類、という派生の経過を説いているのは、ほぼ正しいと思う。特定の色や形を持たず、漠然とした形色を呈している所から、物は「もの」という大概念を意味するようになったのであろう。

…何で、自分は「モヤモヤの何か」をずっと感受していて、サルトルの主人公のように「嘔吐」しなかったのだろうという事も、また妙な話ではありますが…^^;

多分、日本語の思考で写真を鑑賞し、ついでその「モヤモヤ」を感受して、日本語で意味分節していたからでは無いか、と結論。日本語には既に「モノ」「コト」という抽象的な言葉があり、言葉と化す前の未生の状態で、既に意味分節している訳です。その根源的・無意識的な意味分節があったので、「嘔吐」というような激烈な気分までは行かなかったのでは無かろうか?と思ったのでありました。

日本語の「存在」に相当する「モノ」という言葉は、「もののあはれ」というように、「万物の根底に広がる巨大な虚無」の認識を想起する言葉でもありますが、インド=ヨーロッパ語族に由来する西洋諸語では、「存在」は「在/有」の認識を想起する言葉を使っているようです(※ギリシャ語の「ウーシア(存在)」≒「所有物・財産」または「実体」「本質」)。

…想像するだに、サルトル描くところの主人公が感じた「存在」は、よっぽど不気味な代物であったらしい…と、同情…

1枚の写真で、ここまで不思議な体験をするとは思わなかったです。感謝なのです…

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