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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『日本語の哲学へ』

《長谷川三千子『日本語の哲学へ』(ちくま新書2010)から、興味深い部分を取りまとめ》

言葉という道具は、その道具のかたちによって哲学の中身が方向づけられてしまうような道具である。哲学が、自分では自らの「知の希求」につき動かされて探求の道を歩んでいるつもりでいるときも、実はただ、言葉の背にゆられて、言葉の歩むとおりをたどっていたにすぎなかったりする

◇和辻哲郎『日本精神史研究』で論じられた論文「『もののあはれ』について」

「もののあはれ」とは、かくのごとき「もの」が持つところの「あはれ」―「もの」が限定された個々のものに現わるるとともにその本来の限定せられざる「もの」に帰り行かんとする休むところなき動き―にほかならぬであろう。…とにかくここでは「もの」という語に現わされた一つの根源がある。そうしてその根源は、個々のもののうちに働きつつ、個々のものをその根源に引く。…「もの」は意味と物とのすべてを含んだ一般的な、限定せられざる「もの」である。限定せられた何ものでもないとともに、また限定せられたもののすべてである。…「もののあはれ」とは畢竟この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ。

◇和辻氏の問い:

第一は「こと」である。何ゆえに我々はこの問いを「あるというものは……」として問うことができないのであるか。「こと」を問うのは何ゆえであるか。総じて「こと」と「もの」とはいかなる差別を持つか。第二は「いうこと」である。何ゆえにこの根本的な問いが「いうこと」を問うて「すること」を問わないのであるか。「いうこと」と「すること」とはいかなる差別を持つか。第三はこの「いうこと」を何人がいうかである。(中略)第四は「ある」である。「ある」ということを問う場合にすでに「…であるか」として問うのは何ゆえであるか。問わざる「ある」と問う「ある」とは同一であるか、異なっているか。異なっているとすればどう異なっているか。

これら四つの問いは「あるということはどういうことであるか」という問いを形成する言葉自身の含む問題である。我々はこの本来の問いに達する前にまずこれらの四つの問題を解かなくてはならぬ。が、これらの問題は実は本来の問いに本質的に属するものである。だからこれらの問題を順次に考察することによって、恐らく本来の問いに対し日本語が与える回答を探り出し得るであろう。

☆ここで和辻氏がいうところの「本来の問い」は、ハイデッガーの『存在と時間』で問われている「哲学の根本問題」のことである。「存在」という問いである。

◇ハイデッガーの問い:
いったいわれわれは「存在する」という言葉で何を意味するつもりなのか、この問いに対して、われわれは今日なんらかの答えを持っているのであろうか。断じて否。だからこそ、存在の意味に対する問いをあらためて設定することが、肝要なのである。
長谷川氏の着眼点:
「もの」や「こと」の意味をさぐろうとするときには、いったい「意味」というものを どのように理解したらばよいのだろうか?
国語学者・時枝誠記氏の説明:『国語学言論(昭和16年)』の「各論」第四章「意味論」より
以上の如く、言語に於いて意味を理解するといふことは、言語によつて喚起せられる事物や表象を 受容することではなくして、主体の、事物や表象に対する把へ方を理解することとなるのである。その様な把へ方を理解することが、我々に事物や表象を喚起させることとなるのである。

…つまり「もの」や「こと」の意味を考えようとする時、〈それはものごとに対するどんな把え方を示すのか〉という問い方をするならば、答えが可能である…と長谷川氏は論じる。

◇大野晋『日本語をさかのぼる』での結論:
コトが、時間的に推移し、進行して行く出来事や行為を指すに対して、モノの指す対象は、時間的経過に伴う変化がない。存在としてそのまま不変である。この特性が、モノの具体から抽象へという変化の場合に強く現われてくる。モノとは時間的に普遍な存在であるから、抽象化された場合には、確実で動かしがたい事実、不変の法則を指すことになった。
◇荒木博之『やまとことばの人類学―日本語から日本人を考える』での結論:
(モノ・コトについての思考は大野氏の結論と全く同じ/万葉集の「モノ」「コト」使用例を考察した上で)日本人はこのようにその言語活動において原理的・恒常的な客観世界と、非原理的・可変的・一回的なそれとを厳しく区別しながら、前者を「もの」という言葉によって表現し、後者を「こと」という言い方によってあらわしてきた。
長谷川氏の反論:
上代の人の「もの」という言葉の使い方には、〈無のかげ〉とも言うべきニュアンスがあり、「もの=原理的・恒常的な客観世界」と結論することはできない。「もの」という語は、端的に「無の原理」をそれとしてさし示す語である。〈無の共鳴板としてのモノ〉の用法もある。
例:吾が身こそ関山越えて此処にあらめ心は妹に寄りにしものを(15-3757)
自分の身体こそ関や山を越えてここにありもしよう。心は妻のもとに寄っているのに
…「もの」は、自らの「心」のありかと「吾が身」のいま置かれているこの場所との、はるかなる遠さを印象づける。おおむね「不在」を特徴付けるニュアンス。
例:旅にして物思ふ時にほととぎすもとなな鳴きそ吾が恋まさる(15-3781)
旅にあって物思いをしているときにほととぎすよ、いたずらに鳴くな。私の恋しさがつのるから
…この「物」は一般的な不変の法則といったものではない。妻の不在を嘆くことが「物思い」であることは明らか。この「もの」にも「不在」の意識を負いかぶせている。上代の「恋」は、相手の不在を強く意識して使うものだった。

具体的な事物を「もの」と言うとき、それは決して具体的な事物を具体的にとらえた言い方ではない、と結論する。例えば、「木」と言うとき、それは厳密には、その木の具体相(紅葉している、風が吹くたび葉が散るといった様子)を全て切り捨てて抽象化して言っている。それが「木」という語の意味である。

まして、それが「もの」ともなれば、「木」ということも切り捨て、「人間が感知し認識しうる」すべての具体相を消し去って、はじめて可能となるとらえ方である。「物」は「具体語」であるどころか、すでにこれ自体、究極の「抽象語」と呼ばなければなるまい。…物を「物」としてなり立たせているのは、この〈具体相を消し去る〉はたらきなのである。

「物」という語の意味は漢字の意味から類推も可能である。「物」は「牛」と「勿」に分解できる。「牛」は最も身近な家畜であった。「勿」は「こまごまとした雑布でこしらえた旗。色も形も統一がなく、見えにくい」さまと説明される。

◇藤堂明保『漢字語源辞典』:
朱駿声が、牛の雑色→いろいろな形・さまざまな色→形質や事類、という派生の経過を説いているのは、ほぼ正しいと思う。特定の色や形を持たず、漠然とした形色を呈している所から、物は「もの」という大概念を意味するようになったのであろう。

長谷川氏の弁=この「物」の漢字の定義は、日本語の「もの」とぴたりと一致するのであり、古代人がこの語を「もの」に当てはめたのも納得のできる選択である。もし日本人がギリシャ語を話す民族であったら、「物」という漢字を選択しなかったであろう。

ギリシャ語の「もの」に相当するのは、「存在」を表す動詞の分詞形を語源とする「ウーシア」という語であるが、これは「所有物・財産」または「実体」「本質」といった意味を伴っている。むしろ「有」「在」という漢字が選ばれたであろう。

和辻氏の「もののあはれ=永遠への思慕」論は正鵠であった。〈具体相を消し去る〉という「もの」の根本義は、その根底に、万物の根底には目も鼻もない巨大な無が横たわっている、という認識を含んでいる。「もののあはれ」は、決して単なる文芸論の一テーマに帰着するものではない。哲学の根本動機である「驚き(タウマゼイン)」とひきくらべられるべきなのである。

「もの」という言葉の〈意味の水深〉は、おそろしく深い。「もの」はそのまま、目も鼻も口もない混沌の姿―いまだ有と無が分離していない領域の消息―へとつながっている。そしてわれわれ日本人は、「もの」という一語によって、その〈意味の水深〉のもっともふかいところから、もっとも表面に至るまでを、自由に往き来しているのである。このような言語をもって思考するとき、パルニメデスがあらわにしてみせたような〈「ある」の難関〉はそもそも成り立ち得ない。「あるものはある」と言った瞬間に、その「ある」は「もの」によって「無」と通底していることになるからである。

※ただし、このような性質を持つ言語では、論理的思考が成り立たない。ここで「こと」という語が重要になってくる、と論じる。

「こと」の用法として「そいつは、ことだ!」という例では、「こと」は、何らかの目立つ、或いは際立つ事物や事象を示している。「こと」は時間的・一回的な出来事をあらわすということにとどまらず、何かくっきりと目立つ、という意味が含まれている。「もの」が〈具体相を消し去る〉のとは対照的に、「こと」はくっきりとした輪郭を描いて立つ、という風に特徴付けられる。

「こと」は更に「言(言葉・言語)」の意味も含む。これは一般的な〈言語の自己理解〉ではない。

ギリシャ語では言葉を「ロゴス」という。これは「集める」「束ねる」という意味を持つ動詞「レゲイン」に由来する語彙である。森羅万象を束ね、秩序付けるというはたらきをもって、言葉の本質とする…としたのが、ギリシャの〈言語の自己理解〉である。「ロゴス」は更に論理、計算、理性などという意味を含む(例:「論理」=ロジック)。

ヘブライ語では言葉を「ダーバール」という。「前へと駆り立てる」という意味で、動的な性格を帯びている。ヘブライ語の存在動詞「ハーヤー」に由来し、「ダーバール」も「言(言葉)」というよりは「言行」というニュアンスがある(これはヘブライ神話『聖書』で、「光あれ」と神は言った。光があった。というくだりに良く表現されている)。

ギリシャ語では言葉は「束ねる」、ヘブライ語では「駆り立てる」という風に、それぞれ了解されているが、日本語では言葉は「こと」に由来し、「こと」の意味を解読しないと〈言語の自己理解〉ができない状態である。

そこで「こと」の意味を、上代の人が当てはめた漢字から考察する。上代の人々は、「こと」に漢字を当てはめる時、「言」と「事」を整然と書き分けていた(現代の用法とは多少異なるが、ほぼ現代と同じような書き分けがされていると言っても良い)。

つまり、現代と同様に、「こと」は、「事」がより根源的な意味であって、「言」はその派生物であるという暗黙の共通理解が成り立っていたという事である。

◇和辻氏の洞察:

それでは「言」の特性はどこにあるか。それは「言」が人々の間に話され、聞かれ、理解されるというところにある。人はその「したこと」を人に話すことはできる。しかし話すのは「したこと」自身ではなくして「言」においてあらわにされた「したこと」である。かくのごとく「こと」が「言」においてあらわにされ、従って人々の間に分かち合われるというところに、「言」の特性が認められねばならぬ。このことはすでに「こと」の語義に、「ことごとしく」というごとくあらわに目立つという意味、あるいは「こと」(殊、異)というごとく他と異なって目立つという意味が存することとも何らかの関連を持つであろう。しかしながら「言」のこの特性は、それが本来「こと」の性格として存するのでないならば、「言」と「事」とが本質的には同一であるとの前言を覆すことになる。「こと」が本来「あらわにする」という性格を持ち、それが「言」として現われるのであるとき、初めて「言」が本来の「こと」でありつつしかもそれ自身の特性をもつゆえんが理解されるのである。

長谷川氏の弁(和辻氏の洞察を受けて):

「こと」は動作であれ状態であれ、それをそれとして取り出し、保持するはたらきをもつ。このはたらきは、一つの文章を丸ごと一くくりにするというかたちでも使われる。例えば「一時間前に一番星が現われた」といった出来事であれ、「三角形の内角の和は二直角である」といった純粋に非時間的な原理であれ、ひとたび「こと」でくくってしまえば、ひとしく「事柄」として扱うことができる。それを人に伝達したり、それを証明したり、それを問題にしたりすることができるのである。このように「こと」の内に含まれている、それをそれとしてくくり、保持するはたらきは、われわれの知的な営みの全てを支えてくれる。「こと」は、言葉の〈不変性〉の基盤をなしているのである。

「言」は、「保持」という基盤の上に、事の目立ちが成り立たなければ生まれてこないという関係にある。そこでまた和辻氏の〝「こと」の持つ第二の語義は出来事である〟という洞察に戻る:

和辻氏の洞察:
「出で来る」は生ずる、起こるの意味であって、しかも最もあらわに生起の本質をあらわした言葉である。あたかも肌に腫物が出来るように、「こと」もまたどこよりか出で来る。そうしてどこかへ過ぎ去って行く。しからば出来事としての「こと」は時間を本質とするべきであろう。この意味においては「出で来る」のは何人の作為をも持たず、何人も左右し得ないこととして、自ら生起し経過することである。

長谷川氏の弁:

「こと」のもつ「あらわにする」はたらきの原動力は、まさしくこの出来事としての「こと」の「自ら生起」する力にあるのだということになる。その「自ら生起」する力につき動かされて、「言」が生み出され、それがまた、「言」を受け取る人々に何ごとかを「あらわにする」ということになるのである。

漢字本来の意義としては「事」は「つとめ」「つかえる」という意味であり、音読みとして「事業」「事大」「師事」など数多い。しかし日本語(訓読み)としては「仕事」のみである。日常語においては、「事」を「つとめ」「つかえる」と読み下すことはなかったのである。

上代の人は、「旗を定位置に立てている」「竹筒にくじを入れている」というような原義を持つ「事」という漢字の中に、「すっくと立っている」「屹立している」という、「立つ」という古い基本義の一つを見出し、「こと」を表す文字として選択したと考えられる。

日本神話でも、「こと」の原初として「ウマシアシカビヒコ」の神が登場する。「「こと」もまたどこよりか出で来る。そうしてどこかへ過ぎ去って行く」「何人の作為をも持たず、何人も左右し得ないこととして、自ら生起し経過すること」と和辻氏が洞察したように、「ウマシアシカビヒコ」の神も、ひとりでに出現したかと思うと、ひとりでに「身を隠したまいき」と語られる。

長谷川氏の最終的な結論として:

「もの」と「こと」はどちらも時間的なものである(大野氏や荒木氏が、「もの」=原理的、「こと」=時間的と区別したのは正確なものではなかった、と言う弁)。

「こと」は時の到来し出現する、その次々に成り行く側面に目を向けているのに対して、「もの」は出で来ったものが過ぎ去って行く、その後姿を眺めやっている。さらには、それが「いづくにか」去りゆく、その「いづくにか」のかなたを眺めやっている。

「もの」「こと」のどちらが欠けても、われわれの世界観は成立しない。われわれは「もの」「こと」という二つの語を持つことによって、この世界を、事物と事象という二つのジャンルに分けて眺めることができるのと同時に、この世界の生成と消滅との二つの側面を二つながらに凝視できるのである。

ハイデッガーの難問は「存在(ザイン)」の意味についての問いである、と紹介されている。

「存在者の存在は、『現われない』或ものがその『背後』になおひかえているようなものでは、断じてありえない」「存在者をその存在においてとらえるという課題にとっては、たいてい言葉が欠けているばかりでなく、なかんずく『文法』が欠けている」=存在者の底、あるいはむしろ、存在者の無底を示す言葉が欠けている、と解釈。

一方、日本語の「もの」は、〈存在の具体相を消し去る〉ベクトルを本質的な性質として持ち、「存在者(ザイエンデス)の無底」を示す言葉としてはたらく。「もののあはれ」は、そうした「おのれを示さない」ものがそれとしてあらわになることを、ズバリ表現した言葉である、と論じる。

最後に、長谷川氏は、助詞「てにをは」のはたらきを、「もの」「こと」のはたらきと合わせて、「わかりの形」を哲学することの必要性・興味深さを説いている。

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