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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

資料メモ:密教の呪術

密教の呪術、その理論と哲学/空海が生涯をかけて目指した秘密瑜伽とは何か

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58796

人工知能やロボットなど科学技術など目覚ましい発展は、産業革命、イノベーションの時間的なサイクルをますます短くさせている。

そうした時代にも、古来より存在する人間の祈り、そしてその力が何らかの作用を及ぼす祈念、そして呪術は、夢幻、つまりは単なる空想の産物ではなく、世界の至る所で連綿と生き続け、存在している。

これは、一つの事実である。

空海が1200百年前に日本に招来した真言密教は特に、その力を大観、遵奉しながら秘密裏に師資相承され現在もその力は生き続けている。

祈りが憎悪に向かえば対象に悪影響を及ぼし、慈愛に向かえば病魔を追い払うといった、理屈や科学では説明できないことは、太古の昔から現在も変わらず生じている。

密教の祈り、例えば、祈念について、その理論の概略は、大いなるものと祈念者が同化することで、祈念者が人智を超えたエネルギ―を操ることが可能になるというものである。

私は、弘法大師空海が開いた真言密教の沙門である。

沙門というのは僧侶のことだが真言密教では僧侶のことを密教行者と呼ぶ。それは、顕教と密教の違いに由来する。

密教は心の状態や、その価値観といった段階を細分化し、最終段階は大日如来のレベルに到達する即身成仏をとなることを目的とする。

また、曼荼羅的な思想が中心で暗示的伝達、つまり言語などの表現に頼らない感覚的な共有により師資相承、その秘法が伝えられてきた。

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真言密教は、元は中国の皇帝が帰依した正統なる密教を源流としているゆえに純密といい、同じ仏教でも、真言密教以外は顕教とし一線を画している。

現代社会では、先述したように最先端技術や学問が進歩しているが世界規模で宗教を見てみると2500年前の釈尊、2020年前のイエス・キリスト、1400年前のマホメットなど古代の教えが、いまだに信じられている。

経典やバイブル、コーランなどに書かれていることが、現代の生活に合致していなくとも、科学的に矛盾していることが解明されていても、宗教は最先端科学のような、革新的な変化に歩調を合わせるように、変革を遂げることもなく、いまだに多くの人々が、古(いにしえ)から続く教えを守り続けている。

そして、いまだに信仰する誰もが、釈尊やキリスト、マホメットのようなレベルで悟ったり、信じることで悩みがなくなるといったこともなく、多くの人々は悩みや苦しみにとらわれ、往々にして、その生涯を閉じることになる。

宗教や哲学が、人を一気にかつての宗教の始祖たちのような深い覚りの世界へといざなう教えが出現しない中、昨今、周囲を見まわせば、特に伝統宗教などにおいて、宗教離れが加速している。

「墓じまい」という言葉も最近ではよく耳にする。わずか10年前には聞かれなかった言葉であり、現象である。

昨年度の日本の出生率はさらに低下し、新生児は90万人を下回った。

現在、高齢者で支えられているといっても過言ではない檀家寺は近い将来、消滅する恐れが高いことも予想され、真言宗やそれ以外の伝統宗教は、観光寺を除き、そう遠くない将来、壊滅的な状況になると私も危機感を抱いている。

空海の請来した高野山真言宗において、喫緊の課題はかつてがそうであったように、宗教が実際に人を救える力を取り戻すことである。

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真言密教には「事」と「理」があり「事」は行の実践、「理」は教学、つまりどのようにして人が救われるのかといった原理を解説したものを指す。

密教の核心ともいえるものは行の実践、つまり、祈ることで悪い状況から良い方向へといざなう祈り「事」であり、密教が復活するためには、かつて、始祖が、そうしたように人々を救える力を取り戻すことが急務といえる。

私が高野山大学の学生だった頃、真言宗では、まだ、加持祈祷といった人を救える力のある祈りは確かに生きていた。人を救える祈り、夢や希望を実現する祈りは、他の宗教を凌駕する密教のアドバンテージといえる。

キリスト教やイスラム教、他の仏教など、他の宗教は一般的に、祈願者が神に救いを求め救済を期待する構図である傾向がある。

つまり、神や仏の力で現在の状況からの救済を求める、といった「他力」によるものといえる。

だが、真言密教の考え方としては加持祈祷により派生する神秘の力を祈念者である真言行者がまとい、その力を操ることによって祈願者を救済するというもので、それが、密教と他の宗教との決定的な違いといえる。

密教行者が仏と一体となり祈願者の思いや願いを叶える。

それは「他力」という神仏のご利益を待つという構図ではなく、神仏と一体となることで、神仏の力を自在に操るという「自力」によって、すぐさま祈願者の悩みや苦しみを除去する、それが密教の特徴である。

私が学生の頃は真言宗の老僧はよく、「自分は真言行者」といっていたものである。

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だが、いまでは「私は真言行者だ」と胸を張っていえる僧侶を、高野山の本山でも見かけなくなってしまった。

では、真言行者とは何者なのか。それは秘密瑜伽の実践者を指す。真言密教の原点は秘密瑜伽の観法にあり、それは弘法大師空海の生涯の目標でもあった。

瑜伽とはヨガのことだが、中国の漢語では「相応(そうおう)」と訳す。

弘法大師空海は『即身成仏義』の中で「瑜伽(ゆが)とは翻(はん)じて相応という。相応渉入(そうおうしょうじゅう)はすなわち是れ即の義なり」と示している。

「相応(そうおう)」とは相応ずる、つまりお互いに応じることを指す。

瑜伽とはインド・サンスクリット語「योग」が原音で、感覚器官が自らに結びつくことを指すが、もともとの意味は馬を結び繋ぐ、という意味がある。

ヨガとは馬を繋いで、後、馬を暴れさせる。そして、それをコントロールするものである。

ではなぜ、馬を暴れさせるのか。

それはおとなしい馬は何をしても動かない。何をしても動かなければ何も成し遂げることはない。つまり、暴れるということはエネルギーそのものを示している。

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それは煩悩にも通じ、あるいは情熱ともいえる。まずは情熱を燃やす。そして、制御する。

密教に準えたならば、苦行に挑む人が、最初は情熱や意思、意欲が、やがては苦しみに覆われる。そしてしばらくすると思考や感覚の深奥から安寧が訪れる。

つまり情熱や意思、意欲がなければ、安寧の境地に至ることもなく、煩悩がなければ覚りに至ることもないのである。

秘密瑜伽の観法とは、たとえ煩悩に塗れた人間であっても、内在する神仏を自分自身に具現化させることで神仏の境地に至る。

つまり「即身成仏」とは、内なる神仏と一体化することで、生きながら人間が仏自身になることを示している。

それは自分自身に備わる人間の本質に到達するために、自身の精神を、肉体を磨きに磨き、精製し続けることで、炭素が高温、高圧で合成されプラズマ化され、やがては金剛石(ダイヤモンド)となる如く、煩悩に覆われた人間の精神や意思を純度に純度を重ね上げて精製しつづけることで、最高に、最上級に本質が顕れることを意味する。

それが弘法大師空海が生涯かけて目指した真言密教の原点、秘密瑜伽の観法である。

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