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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

装束・官位の資料ノート

物語設定の都合上、平安時代末期から鎌倉・室町期の服飾・官位をマゼマゼ。

★公卿・貴族・役人(首都エリアに限る)

―【元服前の男子】

  • 日常着=童水干、半尻(=子供版の狩衣)
  • 晴れ着=童直衣(童殿上に着用。童殿上とは、公卿・重臣・重役の息子たちが元服前に宮中へ出勤すること。露頭スタイルで無冠。小姓・小間使いなど、仕事見習い的な扱いだったらしい。赤紫色の若年直衣を着用)

―【元服後の男子】

  • 日常着=「直衣」、「狩衣」、「水干」、「直垂」(※直垂は室町になってかららしい。若年ほど模様が小さく細かい)
  • 正式な出勤用=「衣冠」(天皇=濃ハシバミ系、皇太子=オレンジ系、親王&重臣=黒、五位=赤、六位&秘書系=紺、それ以下&無位無官=水色から薄黄。後ろに引きずっている長い布は無し)
  • 略式の出勤用=「冠直衣」(地方のもっと実用的・作業的な場所では、狩衣や水干でもOKだったらしい。年齢によって直衣の色合いのパターンが変わる。夏季直衣は二藍=紫系カラー。若年ほど赤が強い紫で、老年に近づくにつれて藍色が強くなり、ホワイト系になる。冬直衣は表白裏紫。若年直衣の裏地は赤味が強く、壮年になると裏地が紫、老年に近づくにつれて裏地が紺色になる)
  • 国家的儀式用=「束帯」。長い引きずる布を後ろにくっつける。官位による色のパターンは衣冠と同じ。長い引きずる布は、夏季は赤系、冬季は白系。無位無官はそもそも宮中儀式に出席できなかったので、長い引きずる布は無かったと思われる。
《一般的な着物模様》
@上半身=輪無唐草、轡唐草、繁菱、三重襷(男子の着物模様は幾何学系で、堅めの文様が多い。現代のスーツと同様に、案外バージョンが少ない感じ)
@下半身=鳥襷、八藤丸、エトセトラ。皇族クラスに限り雲立涌
@六位から着物の文様が上下共に消える。但し蔵人クラスは麹塵(黄緑カラー系で禁色)の上半身を着用可能だった

・・・さすが宮廷カースト制。男子制服に課せられる制限の多さは、頭が痛くなりますね…^^;;

「殿上人」の感覚がよく分からなくて、アレコレ考えていたのですが、重臣や重役の息子さんが「童殿上」という特権を与えられていたという資料を見て、「あ、これは、大企業の会長室や社長室や重役室に、フリーパス&カジュアルなスーツで入れる立場の人々のことなんだ!」と、ピンと来ました。

そうすると、蔵人(=天皇の秘書さんみたいな役職)が六位の紺スーツで殿上人であるという感覚が、よく理解できるのでした。侍読(天皇の家庭教師みたいな役職≒大学教授)はカジュアルな冠直衣で殿上していたという記録がありましたが、蔵人(秘書さん)の方は、正式なスーツでお勤めしていた筈であります。

ちなみに、安倍清明が鬼に注文している有名な絵巻では、清明は「黒の束帯・引きずる布付き」を着用しているのですが、清明の官位を調べると、彼は最終的には、「従四位下」に出世しているのですね。四位なので、黒のスーツで良かったんだと納得しました。

でも、陰陽師は結構、複雑な作業を要する職業ではあるので、神職や舞楽と同様に、狩衣&直垂の方が日常活動のメインだったのかも知れません。

―【布地は何だった?】

布の種類は現在に比べるととても少なくて、絹、麻、葛布がメイン。木綿は鎌倉後期から室町の頃に輸入が始まったという話。元寇の頃には、「話題の新製品」という感じで、既に広く知られていたようです。海運業の発展と共に木綿利用のエリアが広がっていたとすれば、木綿衣料は文字通り、戦国時代の交易の中で急成長を遂げたと言えるかも。

当時の庶民クラスの着物は麻がメインで、冬季は麻クズや絹クズ、蒲の穂をワタに利用していたという話で、冬季は寒くて辛かったのでは無いかと思います。

あとは、コモ(ワラ編み)がとても暖かかったというお話がありました。屋根の無い乞食や流浪民は、コモを巻いて冬をしのいだのかも知れないと想像されるものでした(現在のホームレスが、新聞を巻いてベンチで寝ているのと一緒ですね・汗)。そういえば、蓑笠や藁沓は、よく知られていたのでした…^^;;

おまけですが、漁網は、藁や麻、カラムシ(苧)、葛糸がメインだったようです。天然繊維ですし、海の中は微生物の宝庫ですし、腐りやすかっただろうなあ…と、想像。夏場の腐敗臭の凄まじさを想像すると、ちょっと頭がクラクラして参ります(鴨川などで使われていた漁網は、さすがに水質清浄だったので腐りにくかったと思いますが…どうやって管理したのだろう?)…^^;;;

★官位(適当に)

@正一位=太政大臣、総理大臣、伏見稲荷大社w(゚o゚)w、一品親王(多分、皇太子)

@従一位=親王クラス(皇太子の兄弟)、摂関家に連なる大貴族、二品親王

@正二位=左大臣、右大臣(多分、内閣の官房長官クラス)、三品親王

@従二位=内大臣、副社長・専務クラス、四品親王

@正三位=大納言、伯爵、統帥&元帥(国軍トップ)、取締役クラス、上流貴族クラス

@従三位=各大臣クラスでは無いかと…会社としては常勤役員クラス相当と推測

@正四位=平安末期の頃は、貴族で無いものとしては最高位だったらしい。院政期に入ると、次第に武士が占有するようになるので、多分、近衛兵のトップや、江戸の大名クラス。地方の領主(地方王国の王)。非常勤役員クラスとか、監査役とか、そんな感じ?

@従四位=重臣の嫡子が蔭位(=親の七光りみたいな)で自動的に与えられた。親王の子は「従四位下」からスタート。庶子は一階降ろす。安倍清明のケースからして、特務官僚など、重臣&重役の秘書・相談役レベル?

@正五位=高位高官クラス。「奏上(というか、種々の正式な報告)」はこの地位。本部長クラス相当と推測。

@従五位=貴族の嫡男クラス。重役・重臣の息子や、皇族の血を引く「王」の息子が「従五位下」からスタート。庶子は一階降ろす。自動的にセットされる殿上人としては初級レベルで、多分、ハンコ押したりサイン(花押)したりするだけの名誉部長とか、そんな感じ。でも実務の観点からは、有能じゃないと勤まらなかった筈なので、長年勤め上げているベテラン官僚が多かったと想像。

@六位以下=六位は蔵人。皇族の遠い親類にあたる「諸王」の息子が、「従六位下」からスタート。庶子は一階下ろす。こちらは所長といった感じ。ずっと末席の王族になると「従八位上」からスタート。多分、課長や係長、主任といったクラスで、以下ヒラ官僚(普通のサラリーマン)が続く。


☆古代~中世の官僚のお給料の調査。時価換算でどれくらいの年収になるか:

  • 太政大臣(正従一位)…年間収入=7億円~8億円
  • 左大臣・右大臣(正従二位)…年間収入=5億円~6億円
  • 大納言(正三位)…年間収入=3億円~4億円
  • 中納言(従三位)…年間収入=1億円前後
  • 親王クラス・各省長官(正従四位)…年間収入=5000万円前後
  • 各省次官・幹部クラス(正従五位)…年間収入=1000万円~3000万円

------超えられない壁(貴族と地下人を分ける特権&身分の境界)------

  • (正従六位)…年間収入=800万円前後(副業で成功すれば1000万円以上の年収)
  • (正従七位)…年間収入=500万円~600万円
  • (正従八位)…年間収入=400万円~500万円
  • 末端の長レベル・獄吏長など(大初位)…年間収入=200万円~400万円
  • 末端のスタッフ(少初位)…年間収入=100万円~200万円

屋敷の維持費や衣料代、使用人のお給料は年収の中から出すわけだから、お金の回転はかなり良かったのでは無いかと想像。使用人1名あたり、部屋代や食費を天引して実費で年間平均100万円程度のお給料を出すとして、公家クラスはだいたい100人~200人の使用人を持っていたというが充分雇えるレベル

※貴族身分の人々には、お馬さんの維持費(今で言えばタクシー代・交通手当)も支給された。地方勤務の官僚の収入は、都より一ランク落ちる傾向があったようです

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