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〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)
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《都から関宿まで(東海道の一部)》
都⇒土山宿⇒鈴鹿峠⇒坂下宿⇒関宿
鈴鹿峠(ウィキペディア)・・・鈴鹿山脈のなかで最も低い位置にある峠で、古くから畿内から東国への重要なルートであった。壬申の乱に際しては、大海人皇子に味方した伊勢国司の兵が鈴鹿山道(鈴鹿峠)を封鎖している。飛鳥時代に現亀山市関町に鈴鹿関が置かれ、以後これより東を関東と呼んだが、当初は伊賀国を経由する加太越えの道が用いられていた。仁和2年(886年)、斎宮繁子内親王の伊勢行きを契機として鈴鹿峠を経由する新道(阿須波道)がひらかれ、その後明治にいたるまで東海道の本道として機能した。また、「鈴鹿山」と呼ばれる鈴鹿峠とその周辺の山地は、『後撰和歌集』以降歌枕として多くの和歌に詠まれた。
盗賊の横行する場所としても名高く、新道開通12年後の昌泰元年(898年)には伊勢神宮への勅使一行が襲撃され、以後鈴鹿山の盗賊はたびたび史書に現れることとなる。こうしたなかで、坂上田村麻呂による鬼退治や、女盗賊立烏帽子(鈴鹿御前)の伝承が生まれた。峠をへだてて滋賀県側には土山の田村神社が、三重県側には坂下の片山神社があり、それぞれ田村麻呂や鈴鹿御前を祀り、室町時代・江戸時代を通じて東海道の旅人たちの守護神として崇敬された。
▼伊勢別街道
関宿(東の追分)⇒伊勢別街道(椋本宿)⇒津(江戸橋)
(津市ホームページより)・・・伊勢別街道は、関宿東追分(関町)から東海道と分かれて、楠原・椋本・高野尾・窪田・一身田を通り、江戸橋西詰めで伊勢街道(参宮街道)と合流する5里半(約22キロメートル)の街道である。なお、伊勢別街道という名称が定着するのは明治時代になってからのことで、それまでは「山田道」「いせみち」「伊勢参宮道」などと呼ばれていた。
この道が開かれたのは平安時代のことで、仁和2年(886)に鈴鹿峠越えのルートが開通すると、東海道として発達し、京都方面から伊勢への参宮道となった。そのころの伊勢別街道は、椋本(芸濃町)から安濃川沿いに南下し、殿村付近に至るものでした。現在のように豊久野を通るルートとなるのは室町時代のことで、応永25年(1418)には将軍足利義持が伊勢参宮をした時に、豊久野・窪田・部田(津市上浜町辺り)を通過したことが記録にみられる。
江戸時代には、「脇往還」の一つとして整備され、途中には楠原(芸濃町)・椋本(芸濃町)・窪田の宿場が設けられ、本陣や問屋場が置かれた。京都方面からの参宮道としてにぎわい、街道沿いには参宮の講が常宿とした旅籠が並び、常夜灯や石柱などが寄進された。客が往来したことが知られる
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