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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

2011.10.3暁の夢

何だか意味深&テツガク的な夢を見まして、記録

今回は、管理人が主人公では無く、誰かの夢を見させてもらっている感じでした。主人公は10才くらいのポニーテールの少女なのですが、その少女の肩の辺りでフワフワ浮いていて、その状態で、あれこれ見聞きしたという感じです。

(何だか、少女の守護霊をやっていたような感じです。スピリチュアル的には、あの世の人間がこの世の人間の守護霊をやっていたりするというので、多分、管理人も、あの世に居た頃に、この少女の守護霊を務めていたのでは無いかしら…などと、思案しておるのであります)

・・・さて本題です。

最初のシーンは、少女の家出から始まりました。少女は大きなリュックサックを背負い、行き先の分からない長距離バスに乗り込み、難しい顔をしていました。

長距離バスの中は、ほぼ満員です。お勤め帰りのサラリーマンとか、これから旅行に行くような雰囲気の女子大生のグループとか、フリーのシンガー・ソング・ライターのあんちゃんとか、バラエティ豊かな乗客が居ました。

長距離バスは夜の道を走り続けていましたが、やがて物凄い衝撃が来て、その後何も分からなくなりました(=いきなりのブラックアウトという感じ)。少女の肩の上でフワフワしていた自分も、完璧に気絶していたようで、その間のことは分かりませんでした。

やがて気が付くと、バスの中の照明が消えていて、乗客は全員シートの上で寝静まっているのか、物凄く静かでした。少女はパッチリと目が開き、バスの中を見回して「???」状態でした。フワフワと浮いていた自分も、同じように「???」状態で、戸惑ってしまいました

…深海の底のような、青黒い静寂の中を、バスは走り続ける…

少女はずっとバスの床の上で呆然としていたのですが、やがてシンガー・ソング・ライターらしき、ギターっぽいものを抱えていた無精ひげのあんちゃんが少女に気付き、「シートに座りな」と親切に声をかけてきました。

その時、少女の肩の上でフワフワしていた自分は、理由は分からないのですが、いきなりゾッとした気配を感じ、慌てて少女の耳をつかみ、「シートに座るな!寝るな!頑張れ!」などと叫んでいました(=その時の状況からすると、自分は、手乗りインコか、それくらいのサイズに縮んでいたらしい…)。

少女は呆然としたままシートに近づいていましたが、どうやら自分の警告(?)に気付いたようで、無言であんちゃんに首を振って見せて、不安そうな様子で少し後退。あんちゃんは不思議そうな顔つきでした(=うーむ、当然でしょうか…)。

やがてバスは、前方をふさぐように見えてきた白いガードレールを、フワリと飛び越えました。その次に現われたのは…、数千億という星々のきらめく宇宙でした。遥かに遠い星雲の形も、くっきりと見えるのであります。

自分は、「《世界》と《世界》の境界って、宇宙で出来てるのか…」と圧倒されていました

ただ、その星々の境界は一瞬で終わり、長距離バスは、いつの間にか見慣れない海岸のようなところを走っていました。時間的には、夕方に近い午後のようです。いつまでも終わらない黄昏のような、淡い黄色っぽい光があふれている…という雰囲気です。

そしてバスは、走っているうちに消えてしまいました(=どのようにしてバスが消えたのかは夢の中だけに上手く説明できないのですが、ジワジワと、外の光景に心を奪われているうちに、バスから降りたのか降ろされたのか、ともかくも、そういう感じなのです)。

乗客は思い思いに水辺を散策し始めました。少女も水辺に降ろされた状態で、ゴツゴツ岩の海岸と思しき場所を、不安そうに眺めていました。黄色い淡い光の状態といい、植物が見当たらない広漠な水辺の光景といい、どうにも「この世のものならぬ光景」という感覚が抜けないのです。

(恐山のあたりに広がる石だらけの荒野を、だだっぴろい平原に引き伸ばして、広い広い海を向こう側に置いてみたら、ちょうどあんな感じの水辺になるかも知れない)

少女はだんだん切迫感が強くなっていました。ハッと気が付いて背後を振り返ると、時空が歪み出しているのか、それまでバスが走っていた道路やガードレールが、みるみるうちに水辺から遠ざかっていっていたのです。

少女も、少女の肩の上でフワフワしていた自分も、「超ヤバイ!」と思って、慌てて石の上を伝って、ガードレールの上に戻ろうと、走り出しました。

すると不思議なことに、走っても走っても、ガードレールが近くならないのです。全速力で頑張って走っているうちに、石だらけの水辺を抜け出せたのか、幸いにしてなだらかな砂浜になり、足を取られつつも、ガードレール直下の、石で出来た崖に取り付くことが出来ました。

しかし少女は、身体がものすごい勢いで冷え始めており、ぐったりと動かなくなりました(=多分、低体温症というものでは無いかと)。少女の肩の上でフワフワしていた自分は大慌てで、少女の身体をガードレールの上の道路に引き上げようとしましたが、身体のサイズの限界があるのか、なかなか動かせませんでした

そうこうしているうちに、道路の上に大きな象が2頭ばかり、フッと現われました。自分は大変ビックリしました。呆気に取られて見ているうちに、象は鼻で少女を抱え、少女をパクリと丸呑みしてしまいました。肩の上でフワフワしていた自分も一緒に象の口の中に入ってしまい、「これはマズイ」と、象の口の中でジタバタしました。すると象は、何を思ったのか、ガードレールの上の道路に少女を吐き出し、そのまま居なくなりました。

ガードレールの上まで戻るという目的は達したものの、何とも不思議な経過であります

少女はやがて目を覚まし、ヨロヨロと立ち上がり…着ている物や身体全体に、血のような汚れがびっしりと付いていることに気付きました。少女は戸惑いつつ、ガードレールの上から水辺を見やりました。今度はもっと不思議なことに、あれほど遠く離れていると思った水辺との距離が、ずっと縮まっているように見えるのです。ちょっと歩けば、すぐに水辺に到達できそうな感じなのです。

(この辺りは、やっぱり普通の時空構造をしていないようです)

水辺で身体を洗いたいと思いつつも、水辺からガードレール上に戻るときの異様な恐ろしさを思い出して、道路を歩きつつ、逡巡しているらしい少女でした。ちょっとでも水辺に近いところで、ガードレール下に降りた方が良いかも…という感じです。

ガードレールの下を見ながら歩いているうちに、いきなりガードレールの傍の岩の上に、骸骨が現われました。骸骨は、「あんた、死んでないのに良く此処へ来たね」と驚いたように話しかけて来ました。

少女も、少女の肩の上でフワフワしていた自分も、骸骨がいきなりしゃべったのでビックリです。「ここは何処?」と尋ねると、骸骨は「三途の川だよ」と答えてきたので、ますます驚き、かつ混乱してしまいました。「あんた、深夜のバス事故で死んでる筈だが…」と、骸骨は不審そうな表情です(=骸骨に表情があるとは思わなかった…)。

そのうち、骸骨は、少女の肩の上でフワフワしていた自分に気付いて、「あ、成る程…」などと納得している様子でした(=実はこの時に、自分が少女の守護霊をやっていたらしい事に、初めて気付きました)。

「身体が汚れているので水で洗いたいんだけど」と少女は骸骨に聞きましたが、骸骨はカチャカチャと手を振りました(=手も骨だけなので、カチャカチャという音がするのです)、「水に触れたら、あんた帰れなくなるよ…そのガードレールの上と、この水辺とじゃ、時間の流れが違うんだ」

「浦島太郎の話は知ってるだろう?水辺での1分は、現世での1日に相当するんだわ。そして時間のズレがますます広がっていくんだ。浦島太郎の時代は、まだそのズレは穏やかだったがね。今は時間加速のプロジェクトがかかってるから、恐ろしいズレに成長しとるな。あんた水辺に一度は降りたのに、よくガードレールの上まで戻れたねえ。何でだか?」

(ここでの「時間加速のプロジェクト」というのは、どうも最近のスピリチュアル関連で言われている、時間の加速現象の事のようです。…と言いますか、時間加速って、あの世のプロジェクトか何かだったのでしょうか)

〝象が出てきて、その象に食べられちゃったけど、その象が私たちをガードレールの上に吐き出して行ったんです〟と念を送ってみたところ、骸骨はその念をピピッと受け取ったようで、「ああ」などと言っています(この部分は、便利ですね…)。骸骨からお返しの「念」の内容が伝わって来ましたが、インドとか、ゼロ概念とか、輪廻転生とか、よく分からない難しい話だったので、大部分は忘れてしまいました。ですが、ともかく非常にラッキーな出来事だったようです

「まあ、とにかく他の乗客を見てみな…みんな水辺に入って現世のケガレを清め、そして三途の川の向こう側…黄泉の国へ渡るんだ。彼らは1時間ぐらい水に浸かっている…現世だと、50日かな?それとも49日というヤツか?あんたのそのケガレは現世へ戻るために必要だし、現世で生きてる者は、みんなそのケガレを持っている」と説明していました(=ずいぶん話し好きの、親切な骸骨であります…)。「何でか、考えてみな」

…何だかすごく哲学的な話であります…

少女は長い事考えていましたが、10才という年齢には、この問答は難し過ぎたようです。自分は思い当たる事があり、「食物連鎖?」と念を送ってみました。骸骨は「うんうん」と言っています。当たりだったようです。骸骨は少女に、「食物連鎖って知ってるだろ」と説明していました。

「食べるのがケガレになる?」と問う少女。「うん」と答える骸骨。少女は納得していない様子でした(=それは、この年齢からして、当たり前ではありますね…^^;)。

「人間に関わらず、細菌から大型動物に至るまで、生きている者は生きている間だけ、生きている量だけ、ケガレを積み重ねるんだよ」と、妙に教師風な骸骨であります。「あの乗客たちが水辺で落としているケガレが、それなんだ。そこで落とし切れなかった残りのケガレは、閻魔が…いや、各自の中に自前で持っている裁きの神とかいうヤツが、現世に居る内に犯した罪として裁く。裁くという形で清めるらしいね。まあ、人間ならではの罪と言うか、いわゆるヤハウェだか天使だか閻魔大王だかが裁く事になっている罪とか、ああいう内容らしいが、何とも細かいことよ」

「地獄の閻魔大王が裁くんじゃ無いの?」と、何とも常識的な質問をする少女。

「地獄とか閻魔大王とかいうのは多くの人間から良く聞かれるが、ここでは、人間が想像しているものの他には、見たことは無いねえ。人間の想像力が作り出した存在なんじゃ無いの」と答える骸骨であります。「人間の想像力ってのは、ひとつの世界を…宇宙をこさえるくらいの力があるからね。あの世に地獄を設計するくらいだよ、現世にも地獄を作り出すことなんざ、人間に取っちゃ、お手の物だろ?」

(この辺りは、さすがに自分も考えさせられました…)

「長居をし過ぎたぜ」と骸骨。「あんたも現世に戻りな」と手をカチャカチャ。「来た道を戻れば現世に帰れるから、急ぎな。この会話は、生き返っても覚えてるだろ…まあ、個人的なプレゼントと思ってくれて構わないよ」

何とも不思議な骸骨であります。単なる三途の川の渡し守とも思えませんし、一体何者なのか、興味シンシンでありますが…ともあれ、そこで目が覚めたのでありました。少女がどうなったのかは分かりませんが、多分、親元のところに戻っていると思うのであります

以上、不思議な夢の内容でした。今回の夢語りは、ここでおしまいであります

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差別と区別・考

【差別と区別】http://homepage2.nifty.com/Daiou2/インターネット研究会Jさまより転載

「インターネット研究会J」の管理人さまは、トラブル処理のような事をやっておられるようなのですが、最近の記事に、非常に考えさせられた内容があったので、今後の思案のために保存させていただきます…m(_ _)m

―以下、転載(読みやすさのため改行加工させて頂いております)―

私が調査を苦手とする事件はいつも共通している。それは、ある特定の外国人犯罪。いわゆる在日系とかいう人が行為を行うと、困難が一つ増えるので困る。
悪い事をした人がいる、そして、その人には何らかの仲間がいる…とする。証拠をコツコツ集めて解明したとしましょう。すると…「差別するヒドい人」のレッテルが貼られる時がある。悪い事をした人が、たまたま在日系であり、仲間に在日系が多くいただけの事。調べたらそう出たのだから仕方がない。私がしたのは差別ではなく区別である。
どうやら、これを混同する人たちが多いようだ。現在、日本では特に偏重しているように見える。
差別と言うのは理由説明なく「在日は悪質」と言ったり「あいつはXXだ」と言い放つケースの事を言う。別に国籍は関係ない。日本人同士が根拠なく言いあっても同じことなのだ。
被害者は実際に被害に遭っているので、こういう理屈も理解が早い。
問題は『区別』を『差別』と勘違いしている人たちだ。「差別するな」と憤る人は正義感が強いが、少し踏みとどまって読んでほしい。
何十万の人がいて、犯罪率は日本人の○倍とか、なぜ在日外国人でも国別の傾向があるのか? どうして犯罪率に差が出るのか?ある特定の国が増える、この原因を知っているだろうか。
犯罪をするかどうかのギリギリの境界にいる人は多い。どの国の人でもだ。
その時に一回は偽名が使えるとしたらどうだろう。簡単に犯罪に走る人が出てくる。偽名というと悪いイメージかもしれない。偽名は「通名」と言って銀行などのカードが本名と2枚作れる。凶悪犯罪で一回逮捕されても、別の名で生きれば別人としてお天道さまの下を堂々と歩ける。一回逮捕された経験から、次はこの程度で止めれば逮捕されないなど把握し、スキルが高くなる。問題だ。
逮捕された在日アメリカ人が通名を使ったとしよう。微利・呂(ビリー・ロー)で写真は目が青い。ハッキリ言って恥ずかしい。だから在日アメリカ人は本名がメインで殆どの人が通名を使わない。不要だ。
国によるんだが、通名を好んで使う○○系があるからこそ問題となっている。私は一つだけを使えばいいじゃないかと思うし、どうしても二つ必要と言う理由は理解しにくい。
環境が人を変えることも多い。社会で出世したらその立場に似あうように頼りがいが出たりする。逆に、悪いことをするのに有利な法律があれば、悪者へと簡単に落下するのも同じだ。調べたことがあるのに差別と言うなら問題はない。知らないのに差別を正義感で使うのは、間違ったことをしでかすケースが多い。
犯罪率が6倍というケースがあるようだが、こういう場合を「区別する」という。原因になっている法律があるのなら、修正していくのが必要だ。犯罪は少ないに越したことはない。
悲しいことに、被害者が声を上げても、被害を受けてない第三者が「差別するな」と抑える傾向がある。「差別しない」というのは立派な姿勢である。それを私は否定しているわけではない。私自体、60か国以上を訪問し国籍で人間を見ないのに、差別主義者と言われて閉口したこともある。
よく共通するのは、加害者が「差別されて私は悲しい」というので同情心に訴えかけられて、いつの間にか加害者に加担してしまったというものだ。悪い結果が出てからでは遅いんだ。加害者は本当に差別されていたのか?具体的に悪さを指摘されてたのじゃないか?いい加減ではなく確かな根拠があって悪さを指摘されていたのなら、それは差別ではなく区別である。
何の根拠もなく○○系は悪いとするのが差別である。ネットの記述を含め、特にこれの区別が必要。
知るキッカケがあったら勉強すればいい。間違えてたら学びなおせばいい。
くどいほど「差別と区別」の繰り返しをしてますが、わざとです。

―以上、転載終わり―


(コメント)・・・人間はどうしても事前調査を怠り、人の意見に流されて、楽な判断をしたがる生き物であります。こういうバランスある姿勢を養うのは非常に大切だけど、ものすごい根気と忍耐力が必要で、日常生活に追われる一般人には、困難なことでもあると思いました。

最近は、「電力は足りたか?」「足りていなかったか?」で論争が起きているのを見かけましたが、このモノの見方にも、差別と区別が混同されているケースの方が、ずっと目立っているように思いました。

あとは、放射能に関する様々な意見がネットに広がっているようですが、これは、意見を述べた人物の「その前後の行動」を、じーっと観察して判断するしかないと思います。

こういう時代なので、ツイッターでもブログでもホームページでも、「その意見(情報)を選択した責任」というのが生じてまいります。「解釈には責任が伴う」という事であります。それは言論の時空を構成する、我々自身の責任でもあり。

個人的には、自らの専門分野の話を分かりやすく論じること無く、いつの間にか、人気取りのための一方的な主張や政治的なアジテーションに移行したりしていたら、「その人物は信用できない」という基準を設けて、判断しておりますが…(その論で言ったら、マスコミは殆ど「信用できない」グループに入るかも)

占い的なモノの見方になりますが、基準のハッキリしないテーマに関しては、「善人が悪人になり/悪人が善人になる」という奇妙な逆転現象が増える傾向があるので、決定や判断についてはくれぐれも、一呼吸置いて、慎重に…という事しか言えないですね(「思い込み」が一番怖いです)

意識と変容・雑考

この記事は、当ブログ=《思案:匿名・実名と社会責任》という文章化がきっかけとなった「全くの不意打ちの、或る悟り」があり、その内容を文章化してみたものとなります。実際は膨大な量とも思える悟りがあったのですが、とりあえず、今の時点で公的に文章化できるものだけ文章化

社会のあらゆる中間プロセス・中間構造に対して想像力が欠けている人は、だいたい過激な言葉で過激な意見を出す人が多いようです(ナントカ維新とか、徹底的な政権交代とか)。そして、膨大な中間プロセスを省いた、一ッ飛びの「結論」を好む。

それは残念なことに、社会をいっそう混乱させ、普通の人々を苦境に追いやる「ラディカルな意見」である事の方が多い…その過激さで、我が身の未熟性・浅い見識を呈していることに自分で気付かない人が多い…というのも、まま見られることです。

個々の社会現象を連結している膨大な中間プロセスの要素に対して、想像力が働くかどうか。「点と線」を繋げる強力な思考力があるかどうか(=古代人は、この思考力を豊かに持っていた。間違い無く)。それが、人の見識の大小を、そしてひいては、決断する政治家の質を決める、決定的な要素である…と自分は思うのであります。

社会…政治、マクロ経済とミクロ経済、国内外の情勢の変化、折節の季節の要素…

それは阿頼耶識の深淵の底から、各種の膨大な数の意識要素が立ち上がるプロセスにも似て。

中間プロセスや因果律の構造を軽視する人は、それだけ表面的な、点在的な思考にもなりやすい。モノゴトの一面しか見ようとしない、見えない…今見えている表層的な現象を支えている、中間層や深層といった、水面下の多様な繋がりや要素を見ようとしない。でも、時間に、空間に追われている人間としては、多くの要素をシャットアウトして生きていくしかないのも現実。

人間は見たいものを見る生き物、信じたいものを信じる生き物。そして「自分がどう見られるのか」をさえ、コントロールしたい生き物。だから宗教があり、信念があり、個人のポリシーがあり、無意識的・意識的な演技や演出があるのです。それは全て、個人レベルの阿頼耶識から生まれ出でたものが、決めるもの。

ソクラテスは「無知の知」という事を言っている。人が賢明になれるとしたら、その「無知の知」の奥義を極めた後の事なのでは無いかと思いました。それは、意外な事に「正しい恐怖心(=精神の一極集中により、鋭敏な予見力を発揮する)」ないし「未知のものに対し、正しく畏怖する心」なのです。

その心が弱い人は、「何が原因か?」「次に何が起こるのか?」という因果律的な想像力を働かせる力が弱い。未来が見えないことがとても不安であるが故に、予言にも振り回されやすい。個人レベルの生命としては、「死にやすい生命体」に区別されるのだと思う。人類文明社会の圧倒的な構造力がもたらす強力な保護が無ければ、野生自然状態では、あっという間に淘汰される存在です。

革命。それは、人類文明社会の基盤を破壊しない様式で成されるべき「変容」です。

社会の基盤システムとは何か。その前提、定義、存在、中間構造にすら想像力が及ばない人々は、自らの手で自らの保護システムを破壊し、荒らぶる自然環境の中にさらされ、国際社会環境の中にさらされて、淘汰される存在になるのです。

その意味で、我が手で我が死をもたらす「思考停止ゆえの革命」集団自殺は存在します。その革命の意義を支える狂気の暴走の前では、あらゆる論理、あらゆる思考が停止する。

自分の正義を信じる人は、概して、自分の意見を点検することなく相手にだけ譲歩を求める。それは言ってみれば、「退かぬ!媚びぬ!!省みぬ!!!」(by『北斗の拳』)です。

自分の、帝王の如き正義感や高貴さを信ずる余り、自分が思考停止していることに気付かないのです。不愉快な相手をやり込めるためだけに過激な言葉を使い、過激なレッテル張りを使い――そして、しまいには相手の言論弾圧にまで及ぶ。「お前は既に死んでいる…by『北斗の拳』」というレッテル張りをすることもある。

そうして、自分だけの論理を永遠にループする。それが思考停止。新しい要素や変化した前提を自分の思考に織り込むことができなくなっているのに、それにも気付かずに、もはや次元上昇も変容もしない思考経路を、全力で走り続ける。無意識のうちに、同じ行動を永遠に繰り返す。

それもまた、個人レベルの阿頼耶識が決めるもの。他人は、その人の阿頼耶識が表層意識にまで現われてきた「何か」、つまり「その人を構成している各種の要素」に気付き、指摘するだけです。しかし、同時に、気の遠くなるほどの膨大な中間層・深層の要素に、意識的に気付くこともある。「魂(自我の座)を読む」。非常に珍しいことだと思うけれど、案外、無意識領域では頻繁に起きていることなのかも知れない。

「変容しない」という事が、その人にとっての幸いならば、その人にとっての世界は逆転する。「人類社会という特殊な人工環境」は、そのような逆転現象をも、広い範囲で許容するのです。「何故?」を自分で考えなくても、誰かが、答えを出してくれる。それが人類社会が進化した方向。我々は皆、「我々そのものである社会」を、上から目線でけなし、批判しつつも…肝心の自分は何をしたら良いのか分からないまま、完全に依存している

現在、地球環境は激変しつつあります。地球は、「変容しない存在」を淘汰し始めるという事なのかも知れません。それはあくまでも、地球にとっては、「思考停止ゆえの革命」ではありません。「変容」なのです。

自分が、その地球の変容にシンクロ出来るのかどうかは、自分にも分かりません。これは「生きてある存在」ゆえの、答えの無い問題です。この道の専門家はおらず、自分で考え、思いつく限りの多様な対処をするしかありません。「次に何が起こるのか?」と緊張しつつ、自分の知らない「あらゆる方向」に、アンテナを伸ばすのみです。

思うに、社会を支える膨大な中間プロセス・中間構造に対して想像力が欠けている人というのは、自分以外の何処かに「理想的な答え」を見出すのが上手い人でもあるのかも知れません。

「理想的な答え」「決定的な瞬間」を見出した時、意識は、それ以上考える事をやめる。平板化・硬直化が起こる。その過程で、その場でしか有効では無い瞬間沸騰的な「浅い見識ゆえの高揚」が生じた場合、「思考停止ゆえの革命」に発展し、場合によっては、集団自殺をもたらす。

利点と欠点は、同じものの「表」と「裏」なのです。タロットカードに正位置と逆位置があるように、それはいずれとも決めがたい。場の状況に振り回されるままに、あっけなく価値逆転する要素ではあるけれど。

…瞬間的な、脆弱な意識を持つ人をも、人類社会は守る。地球環境の激変が、社会基盤の破壊にまで及ばない事を祈るものではありますが

以上のような事を、現状の前提のもとに、自分は思考しました。

自分は、まだまだ「学ぶべきもの」が多い者であります。

前提が変われば、今回の結論も変わると思います

《補足》

「信じる」というのは真に貴きこと、大切なことだと思います。

「何を信頼性の基本とするか」です。身分?言葉?行動?フィーリングの一致?

判断基準は、人によって異なる。自分の判断基準が何なのか、多様な状況に応じて、自分で決める。未知の状況にも応じて自律できる柔軟な精神状態であれば、それで良いのです。

しかし、未熟な精神状態にある「精神的赤子」のうちは、「自分がこの人と決めた」精神的指導者に、指導を仰ぐという事が絶対的に必要です。多くの場合、それは親であり恩師であります。或いは忘れられない本とか。

精神的指導者にも色々ありますが、自分の無意識的なビジョンに応じて変化するので、内容に関しては、余り確定して言える事は無いと思います。

自分のビジョンや意識が成長すればするほど、それに応じた人物や出来事と出会うものです。一貫するものがあるとすれば、それは「シンクロニシティ」に他なりません。そうして畏怖すべき未知の世界もまた、広がってゆく。おそらくは無限に。

「縁」というものの神秘は此処にあり…と思えるほどです。

http://twilog.org/t_ota/date-121105"
太田俊寛さまの2012.11.5ツイート

>小林和彦『ボクには世界がこう見えていた 統合失調症闘病記』(新潮文庫)を読了。巻末の解説によれば、著者の病状は現在の精神医学では「統合失調感情障害」と呼ばれるものとのことだが、パラノイア的な世界観がきわめてクリアな文体で描き出されており、とても参考になった。

>パラノイアの思考様式においては、対象の範囲を限定して綿密に考察することができなくなり、世界全体を「救済か破滅か」といった単純な二元論で捉える傾向が顕著となる。こうしたパラノイア的世界観は、統合失調症のみならず、その他の精神障害、カルト宗教の教義や陰謀論にも見受けられる。

>また、精神障害者ではない普通の人であっても、何かの切っ掛けで極端に心の余裕を失ってしまうと、同種の思考法に陥ってしまうのではないだろうか。その意味において、パラノイア的世界観は、実は人間理性にとって原始的な思考様式の一つではないだろうかと感じさせられた。

☆単なる趣味のメモ(YouTube動画)

伊勢神宮秋季神楽祭・迦陵頻迦
http://www.youtube.com/watch?v=3O2HrtKQv5s