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〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)
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《この記事は、2012.11.7に書いたものです。個人的都合により此処に移動》

☆「思案:匿名・実名と社会責任」という今回の論文風の記事については、可能な限り自己制御は出来たと思うのですが、少し筆に乱れがあるかも知れません。ブログ『アムゼル君の世界』の「世界は光と影だと告げるDA40 Limited」エントリの写真を鑑賞し続けて、やっと気持ちが落ち着いた…という程の深刻な事情があり、この記事も、写真を見て気持ちを落ち着けつつ書いたという事情がございます…


8月メール事件で思案した内容を整理。

匿名と実名に関して、どちらの情報が信頼できるのかと言う議論が発生しました。

結論から言えば、「責任を取ることと、実名公表はリンクしない」。

実名だろうが匿名だろうが、その「名前」は、特に「社会的意味」「社会的責任」を持っているもので無ければ意味が無いという事です。

※逆に言えば、サイバースペースにおいて、プライバシーポリシーや正当な理由も無く実名を要求するサイトは、怪しいという事です。犯罪のための個人情報収集が目的…と疑われるに値する程の疑惑の濃い行動なのです。ところが、新興カルトとなると、この敷居が下がってしまいます(主に信者の盲目的な行動によって)。

「実名を表示する」という事は、「責任の所在を明らかにする」事です。

あくまでも、「社会的責任を取る」事とは結びつかないのです。

これを混同してはならないのです。

実名公表はしていても、それに相応する社会的責任を取らない、という行動は普遍的に見られます。例えば一部のマスコミは、記者が署名入り記事を書いていても、その内容に責任を取らなくなりました。

誤報や捏造記事が氾濫する現状。それに対して社会的責任を取らなくなってきたという事実。そして、中立な立場を表明していながらも、その現実はダブルスタンダード。現在のマスコミへの信頼低下の、理由のひとつです。

これは、我々個人にも当てはまる事です。

実名を明記し、責任の所在を明らかにしていても、その発言や行動が一貫しないという人物を、「社会的な意味で」信じることが出来るのでしょうか?

いきなりの逆切れ(「レイシスト」呼ばわり等)、過剰なレッテル張り、筋の通らぬ誹謗中傷、粘着…そのような行動が見られるという人物を、「普通」と見なせるのかどうか。自分の発言や行動に対して、社会的責任を全うする覚悟があるのか?それとも、「自分だけは」責任を免れると確信しているから、その人物は、そのような行動を繰り返す事が出来るのか。

新興カルトの教祖と、その信者の、歪んだ関係。それは「教祖の発言などの社会的責任を問わない」という、異常な状態が続く関係でもあります。信者は教祖を疑わない…妄信する。そこに、多くの死傷事件に繋がるという、かつてのオウム真理教事件が発生する要因がありました。

繰り返しますが、「責任を取ることと、実名公表はリンクしない」のです。

人物の匿名性/実名性よりも、その人物の信頼性で判断しなければなりません。これが、「普通」の社会人としての基本です。「普通」とは、そういう基本的な判断を含む、極めて広い領域に渡るモノゴトなのです。

「普通」とは何か。自らの人生経験の全てをかけて、よくよく思案しなければなりません。

匿名記事と実名記事。いずれも、情報の信頼性を保証するものではありません。

実名公表を通じて責任の所在を明らかにしていても、その人物が事実を述べているという証拠にはならない…これをきちんと押さえておく必要があります。

実名が公表されていれば、その記事が信頼できる…という判断は、極めて危険なのです。個人ジャーナリスト界における誤報・捏造記事の氾濫と言う、明らかな事実があります。

文章を読み、その書き手の判断行動を通じて人格を推し量り、その内容が信頼に値するか判断する。その「判断」がどれだけ的確なものになるかは、やはり本人の見識、人生経験、直感…などという複数の要素に左右されると言えます。

その道に通じた達人の判断が、非常に信頼性の高い確実なものになるのは、着実に考え悩みつつ歩んできた、その経験値が豊富だからです。「高貴は、高貴を知る」のです。直感だけに頼る者や、社会から逃げてばかりでまともに生きてきた経験が浅い者には、到底辿り着けない領域であります。それは「普通」という事を極めた、その更に奥にある領域なのです。

一般的な領域においては、人の状態が普通であれば、おおよそ社会的に意味のある、正常な判断がもたらされます。人の状態が異常であれば、やはりその判断も普通では無くなります。

俗にそれはクラスタという形を取ります。「似たもの同士」「類は友を呼ぶ」「同じレベルのスピリチュアル的要素があって引き寄せあう」と言われる状態です。

「その場における平均的な判断」で固まるクラスタが、(種族)集団依存、国家依存…運命共同体です。一方、異常な判断で固まるクラスタは、カルト集団でもあります。「依存症」で成り立つクラスタです。

ここで問題です。個人が、ある情報を流した。別の個人がその情報を信じて拡散した。

ツイッターで良く見られる光景です。

もし、それがデマだった場合、その「個人」である彼らは、「デマを流した」という行動に対して責任を取れるのでしょうか。デマの影響で、各種の被害を受けた人々が、多方面にわたるものだった場合は?(根拠の無い「持ち上げ」「称賛」についても共通)

(匿名・実名に関わらず)「デマを流した奴等は責任を取らない」。或る人物の指摘です。

そして、自己保身のために更に余計な装飾を加えたり、不都合な情報を操作したり、という情報発信者は、基本的に信頼できません。ダブルスタンダードを取るマスコミが信頼できないのと、同じです。

特にネットの中では、言葉で幾らでも飾る事ができるのです。

その身分や言葉では無く、その行動で判断すること。行動は誤魔化しが効かないから。

(とは言え、既に「普通」を失い魔境に落ちた者には通じない…という諦観も、無きにしも非ず。これ以上近づく気も起こらないし、何か指摘したいとも思いません)

各種の件については、真に色々とありましたが…、これにて思案を終えます。

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