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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

2010.12.9暁の夢

8日の夜から9日の朝にかけて、久しぶりに変わった夢を見たので、記録です…^^;

夢は、急な勾配の、曲がりくねった林道の光景から始まりました。

毎度、プロフィール風の小人でした(夢の中では、そういう格好が定番らしい)

白いミニサイズのワゴン車で、何人かと一緒にその森に包まれた山道をドライブしていたのですが、一緒に乗り合わせている人が、何故かみんな自分に似た感じの小人たちでしたので、多分、見覚えの無い「自分の分身たち」かも知れないと思いつつ…

「シュレーディンガーの猫」状態と言いますか、何だか自分と分身とでイメージがぶれまくっているのですが、目的地に着くと何となく合体状態になったりして、不思議な気持ちでした。

その山の上が目的地だったのですが、何となく歪んでいて変なイメージでした。標高はそんなに高くなくて、ふもとの町が望遠鏡が無くてもバッチリ見えたりするので、多分標高200メートルか300メートルくらいの山だと思います。山の上の天守閣から城下町を見下ろしたら、ああいう感じかも。

お天気の良い山の上では、カラフルな見知らぬ人が大勢ワラワラと集まって歩いていたり、何となく観光地の雰囲気です。やけに整備が進んでいて、何処かの「なんちゃってヨーロッパ風」大邸宅の石造りの庭とか、公園っぽい感じ。何となくピンク系統の石畳が続いていて、派手だなあと思いました。

夢の中の光景をキョロキョロしているうちに、メインコースに移動していたらしく、順番待ちの行列に入りました。そうすると、右側に石造りの水路が見えました。その水路を見て、「とっても間違っている…」と思ってしまいました。

急な勾配に水路がしつらえてあるのですが、その水路を、なんと下から上に向かって、水が逆さまに流れているのです。あまりにも変な光景なので、ついマジマジと観察してしまいました。幾ら見直してみても、「下から上に向かって」水が流れ、山の最高地点まで登っていたので、逆流の魔法みたいだと思いました。

他の行列の人たちは、この超常現象を不思議に思っていない様子…

行列に並んだまま水路と平行してメインコースを辿っていくと、行く手に巨大な灰色の岸壁が見え、その岸壁から滝が流れていました。岸壁の高いところに3つの大小の神秘的な洞窟が横に並んでうがたれていて、そこから滝が出ているのです(=この滝は、ちゃんと重力の法則にしたがっていた)。

「ははあ、あの妙な水路は、この滝の水源でもあったのか」と納得してみたものの、やっぱり重力の法則に逆らっている水路の存在は、落ち着かないものでした。

ガイドさんかどうか知らなかったのですが、キンキラキンの金色のパーカーを着ている訳知りの人が、「この滝は〝龍底の滝〟って言うんです」と何度も熱っぽく説明していました。「リューテイ」という発音を聞いて、すぐに漢字のイメージがパッと浮かぶのも変な気持ちですが、夢の中なので、それもありかも知れません…^^;;

それで、「あ、この山は中国なんだ」と何故か確信していました(理由は不明)^^;;;

滝と滝つぼの周りは何故か神聖な雰囲気で(=水が綺麗だったからかも知れない=)、脇に正体不明の神秘的な祠が立っていたので、思わず手を合わせてしまいました…^^;

※あとでイメージをつらつらと思い出してみると、どうもお稲荷さんや道祖神の祠みたいなのですね。何だか場違いだと思ったものの、その時は不思議に思わなかったです。お稲荷さんにしてはおキツネさまの像が無いし、道祖神にしては相当する像が無いし…というスタイルで、元は名前が彫刻されてあったみたいなのですが、その部分も乱暴に削り取られているし、妙にカラッポな感じでした…^^;;;;

滝の前を散策していると、キンキラキンのガイドさんに次の建物に入るように促され、通路を左側へ折れました。すると、階段状になった段々の花壇に囲まれている庭園の中に入りました。ツツジか何かの低い潅木が等間隔に植えられているのですが、葉っぱが赤っぽくなっていて花が咲いておらず、人工物なのか天然なのか、ちょっと分かりませんでした。

次の建物は高層建築で、「なんちゃってヨーロッパ風の石造りの円塔」っぽい感じでした。中に入ると、黄土色の土壁がしつらえてある、吹き抜けのとても高い塔になっていました。「つま先しかかからないなあ」というような細い板が、塔の中をグルリと螺旋階段のようにセットされていて、右旋回で、遥かな屋上まで上がれるようになっていました。

何だか不吉な感じがして、「何だろう?」と思って螺旋階段を見ていると、螺旋階段をぞろぞろと歩いているみすぼらしい雰囲気の人々の行列が見えてきました。青と赤の布をまとった役人のような人に鞭打たれながら歩く、奴隷のような大勢の人々。

奴隷のような大勢の人々は、腰回りの布しか着けていないという、一見、古代エジプトの奴隷のようなスタイルで(=古代エジプトには奴隷は居なかったらしいですが=)、黙々と、何か重たそうな球状のものを肩に抱えて、螺旋階段を続々と登っていったのです。

何とも意味不明な光景で、「球状のもの」って何だろうと焦点を合わせてみて、それが思いがけない物体だったので、ギョッとしました。

何とも気味悪いことに、奴隷が運んでいた「球状のもの」は、切断された人間の生首でした。

まさか…と思って、土壁の塔内部のずっとずっと上の方を双眼鏡で見てみると、無数の穴がうがたれていて、その中に、白骨化した頭蓋骨や、白骨化途中の生首や、まだ生々しく血が滴っている生首がずらりと並べてあって、まるで「首だけのカタコンベ状態」で、夢の中ながら、気分が悪くなりました…orz

その「なんちゃってヨーロッパ風の石造りの塔」の中身って、首塚だったというか、時代錯誤の古代的な呪術的な首棚というか、犠牲祭祀のための塔だったらしいのですね(…何故、こんな光景を夢に見たのか、とても不思議です)。

そして、横の方で、「お土産がある、買っていかないか?」と陽気に行列に呼びかけている土産物屋の主人がおり、行列に居た何人かは塔の中の土産物店ではしゃいでいましたが、自分は、塔の中の生首をはっきりと認識したショックが強すぎて、塔を飛び出したのでありました…orz

更に左側へ折れて、少し暗い廊下を通り、やがて大きなホールのような建物の中に入りました。その中は開けっぴろげな大広間でありました。夢の中では真昼の時間帯で明るい筈なのに、大広間の中は分厚くて暗いカーテンで締め切られていて、夜のように暗い状態でした。

唖然とするほど高い天井に巨大なシャンデリアの群れ、しかし全部灯りがついていないという妙な大広間でした。北側の舞台ステージの周りだけやたらにギラギラと明るいので、不思議に思って観察すると、スポットライトのような極端に明るすぎる照明を持ってきて、間近で当ててるのですね。あれだと舞台の人も暑いと思いますが…

舞台ステージの周りに7つか8つくらいの、食事用の中華風円卓がありました(=洋風円卓かも。ターンテーブルかどうかは分からなかった=)。その円卓の上には白い贅沢な布が掛けられていて、とりどりのキラキラした食器や高級そうな料理が並べられていました。とは言え、広い広い大広間に、目立つ物と言えばそれだけの設備しか無かったので、がらんとした感じ。

最後の部屋らしい巨大な大広間の中身が、以上のような感じだったので、ものすごく不審に思ったのは、言うまでも無く。

7つか8つの円卓にはすでに見知らぬ人々が着席していて、食事をしていました。顔はあまりよく見えなかったですが、本当に食事を楽しんでいるのかどうかというと、ちょっと怪しい雰囲気。食事よりも会話(か、打ち合わせ)の方に夢中な感じでした。

やがて、ギラギラと明るすぎるステージの上に、首周りとお腹周りのふっくらしたシルエットの人物が出てきて、何か演説をしていました。あのシルエットからして、現在、次の主席だと名指しされている人物かなあと思ってしまいました。向かって右隣に女性らしきシルエットが来てるのですが、誰だかよく分かりませんでした(何だか変な疑問かも知れませんが、あの人は結婚していたのだろうか…)。

その次に賛美歌みたいな滔々とした音楽が流れてきたのですが、演奏テープが逆回しにでもなっているのか、妙にチグハグな感じのメロディーでした。

自分の横にやって来た、半分白髪頭のアナウンサー(語り部)のような人物が1人、「素晴らしいステージではないか」と歌うように、謎のアナウンス。自分はそれに対し、何故か「みんな頭のてっぺんから足のつま先まで間違っている!」と抗議していました。

夢の中が少し朦朧としてきたので、あまりよく覚えてないのですが、どうもプンプン怒っていたようで…

長いこと、半分白髪頭のアナウンサーのような人物と「間違っている」/「間違っていない」で議論していて、なかなか決着がつかず、自分は終いには、「あなたの〝白髪三千丈の頭〟がとっても間違っている証拠に、この大ホールの端から端まで走ってみせる」と宣言し、本当に走り回ったので、夢の中ながら、さすがにえらく疲れたのでありました。

※何故、端から端まで走り回ることが、反論になるのかは不明でした(ニガワライ)…

夢の中で朦朧として、次に気が付いた時は、行きの時に乗っていた白いミニワゴン車に揺られて山を下りるところでしたので、どうやって山の上の不思議な建物から出てきたのかは覚えていないです。

説明がつかない夢ですが、こんな感じの、非常に疲れる夢でありました…^^;

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詩的カメラ・オブスキュラ論

カメラ・オブスキュラ。

カメラを覗き込む時間は、不安定な夢の時間にも似ているかも知れない。

暗い押入れの戸に空いた小さな節穴を通して、此処ではない何処かに広がる世界を覗き込んで心躍らせている子供たち、その幼な心と、何も変わるところが無い。

それは、ある意味では、闇に沈んだ無垢な眼差しであり、人の世を演出する無数の言語に疲れた眼差しであり…

その眼差しが見るのは、漆黒の闇の中を放浪する夢、現在の中を同時進行する無数の過去と未来のかけら、無限の光彩と遠近法に彩られた混沌たる化学実験室、今まさに現実を創造しようとする未生の時空の裂け目。己の内なる意識と、外部の光景とは、まさに「眼差し」によって結び付けられる筈である。

…眼差し…

それは、人がこの現世(うつしよ)に生まれ出でて初めて表現する自己意識であり、また、老いて消えてゆこうとする瞬間にも表現される、最期の自己意識である。

ゲーテは言えり、「もっと光を…!」

清算されえぬ過去、危ういまでに不条理な現在(いま)、夢と未来との間を微塵に散らばる遠近法の系列、無数に裁断された時空の中で乱舞を続ける未生のコラージュの群れ…その重層する漆黒の意識の流れの中で、なおも狂おしく回転し続ける眼球が、カメラ・オブスキュラ。

未来など何処にも存在しないと知りつつ、それでも、未来なるオブジェを求めて、忙しく回転し続けるレンズ…カメラ・オブスキュラのシステムを収める様々な筐体、異形の杖の如き三脚、フード付きマントよろしく頭から被る黒布…それは、能役者の肉体に似ている…そして、レンズ。

…レンズは、フラジャイル。その〝眼差し〟こそが、フラジャイルなるもの…

写真家は、よく、「思ったとおりの写真になった/ならなかった」と言う。

己の内なる〈コトバ〉と、外なる〈カタチ〉とを結ぶ不安な「眼差し」…カメラ・オブスキュラ。

己が周縁を覗き込むのか、それとも、周縁が己を覗き込むのか…危ういばかりの、内外意識の緩衝地帯。

「眼差し」の中で、光彩の軌跡を辿って、究極まで圧縮された内外意識の遭遇が生み出す、世界公理の火花。

〈偶然〉と〈必然〉の出会いの結果としての、目眩めくような〝フォトジェニック〟…

それは、闇の中に生み落とされたひとつの遠近法の詩、または、時空を切り裂いたシャッターのエピソード。

フィルム写真は因数分解の詩歌に似ており、デジタル写真はフーリエ変換の詩歌に似ている、でも、そのカメラ・オブスキュラとしての、〝時光〟を結ぶ〈コトバ〉の呪術的本質は、ひとつも変わらないのかも知れない。

世界を乱舞する〈生〉と〈死〉が、ひとつの火花として結ばれ、焼き付けられるとき、それはカラーを持っていながら、モノクロームの深みに達することがある。

モノクロームとは、本質的に、冬の眼差しであり、死者の眼差しであり…

死の境地から生を眺めるとき、カメラ・オブスキュラという〈フラジャイルのコトバ〉は、無限に圧縮されたカラーの意識の中で、〝光〟と〝闇〟の本質を語り始めるように思われるのである。

それは生ける者が見る死者の夢…それとも、死せる者が生者をよそおって語る夢。

ときとして、カメラ・オブスキュラは、無限遠に分かたれた意識の断層を飛び越えることがある…

カメラ・オブスキュラ。眼差しのポエジー。

それは、ひとときの「眼差しの物語」…〝時光の幕間劇〟に他ならないのだ。

(ひとつの詩的な考察である)

装束・官位の資料ノート

物語設定の都合上、平安時代末期から鎌倉・室町期の服飾・官位をマゼマゼ。

★公卿・貴族・役人(首都エリアに限る)

―【元服前の男子】

  • 日常着=童水干、半尻(=子供版の狩衣)
  • 晴れ着=童直衣(童殿上に着用。童殿上とは、公卿・重臣・重役の息子たちが元服前に宮中へ出勤すること。露頭スタイルで無冠。小姓・小間使いなど、仕事見習い的な扱いだったらしい。赤紫色の若年直衣を着用)

―【元服後の男子】

  • 日常着=「直衣」、「狩衣」、「水干」、「直垂」(※直垂は室町になってかららしい。若年ほど模様が小さく細かい)
  • 正式な出勤用=「衣冠」(天皇=濃ハシバミ系、皇太子=オレンジ系、親王&重臣=黒、五位=赤、六位&秘書系=紺、それ以下&無位無官=水色から薄黄。後ろに引きずっている長い布は無し)
  • 略式の出勤用=「冠直衣」(地方のもっと実用的・作業的な場所では、狩衣や水干でもOKだったらしい。年齢によって直衣の色合いのパターンが変わる。夏季直衣は二藍=紫系カラー。若年ほど赤が強い紫で、老年に近づくにつれて藍色が強くなり、ホワイト系になる。冬直衣は表白裏紫。若年直衣の裏地は赤味が強く、壮年になると裏地が紫、老年に近づくにつれて裏地が紺色になる)
  • 国家的儀式用=「束帯」。長い引きずる布を後ろにくっつける。官位による色のパターンは衣冠と同じ。長い引きずる布は、夏季は赤系、冬季は白系。無位無官はそもそも宮中儀式に出席できなかったので、長い引きずる布は無かったと思われる。
《一般的な着物模様》
@上半身=輪無唐草、轡唐草、繁菱、三重襷(男子の着物模様は幾何学系で、堅めの文様が多い。現代のスーツと同様に、案外バージョンが少ない感じ)
@下半身=鳥襷、八藤丸、エトセトラ。皇族クラスに限り雲立涌
@六位から着物の文様が上下共に消える。但し蔵人クラスは麹塵(黄緑カラー系で禁色)の上半身を着用可能だった

・・・さすが宮廷カースト制。男子制服に課せられる制限の多さは、頭が痛くなりますね…^^;;

「殿上人」の感覚がよく分からなくて、アレコレ考えていたのですが、重臣や重役の息子さんが「童殿上」という特権を与えられていたという資料を見て、「あ、これは、大企業の会長室や社長室や重役室に、フリーパス&カジュアルなスーツで入れる立場の人々のことなんだ!」と、ピンと来ました。

そうすると、蔵人(=天皇の秘書さんみたいな役職)が六位の紺スーツで殿上人であるという感覚が、よく理解できるのでした。侍読(天皇の家庭教師みたいな役職≒大学教授)はカジュアルな冠直衣で殿上していたという記録がありましたが、蔵人(秘書さん)の方は、正式なスーツでお勤めしていた筈であります。

ちなみに、安倍清明が鬼に注文している有名な絵巻では、清明は「黒の束帯・引きずる布付き」を着用しているのですが、清明の官位を調べると、彼は最終的には、「従四位下」に出世しているのですね。四位なので、黒のスーツで良かったんだと納得しました。

でも、陰陽師は結構、複雑な作業を要する職業ではあるので、神職や舞楽と同様に、狩衣&直垂の方が日常活動のメインだったのかも知れません。

―【布地は何だった?】

布の種類は現在に比べるととても少なくて、絹、麻、葛布がメイン。木綿は鎌倉後期から室町の頃に輸入が始まったという話。元寇の頃には、「話題の新製品」という感じで、既に広く知られていたようです。海運業の発展と共に木綿利用のエリアが広がっていたとすれば、木綿衣料は文字通り、戦国時代の交易の中で急成長を遂げたと言えるかも。

当時の庶民クラスの着物は麻がメインで、冬季は麻クズや絹クズ、蒲の穂をワタに利用していたという話で、冬季は寒くて辛かったのでは無いかと思います。

あとは、コモ(ワラ編み)がとても暖かかったというお話がありました。屋根の無い乞食や流浪民は、コモを巻いて冬をしのいだのかも知れないと想像されるものでした(現在のホームレスが、新聞を巻いてベンチで寝ているのと一緒ですね・汗)。そういえば、蓑笠や藁沓は、よく知られていたのでした…^^;;

おまけですが、漁網は、藁や麻、カラムシ(苧)、葛糸がメインだったようです。天然繊維ですし、海の中は微生物の宝庫ですし、腐りやすかっただろうなあ…と、想像。夏場の腐敗臭の凄まじさを想像すると、ちょっと頭がクラクラして参ります(鴨川などで使われていた漁網は、さすがに水質清浄だったので腐りにくかったと思いますが…どうやって管理したのだろう?)…^^;;;

★官位(適当に)

@正一位=太政大臣、総理大臣、伏見稲荷大社w(゚o゚)w、一品親王(多分、皇太子)

@従一位=親王クラス(皇太子の兄弟)、摂関家に連なる大貴族、二品親王

@正二位=左大臣、右大臣(多分、内閣の官房長官クラス)、三品親王

@従二位=内大臣、副社長・専務クラス、四品親王

@正三位=大納言、伯爵、統帥&元帥(国軍トップ)、取締役クラス、上流貴族クラス

@従三位=各大臣クラスでは無いかと…会社としては常勤役員クラス相当と推測

@正四位=平安末期の頃は、貴族で無いものとしては最高位だったらしい。院政期に入ると、次第に武士が占有するようになるので、多分、近衛兵のトップや、江戸の大名クラス。地方の領主(地方王国の王)。非常勤役員クラスとか、監査役とか、そんな感じ?

@従四位=重臣の嫡子が蔭位(=親の七光りみたいな)で自動的に与えられた。親王の子は「従四位下」からスタート。庶子は一階降ろす。安倍清明のケースからして、特務官僚など、重臣&重役の秘書・相談役レベル?

@正五位=高位高官クラス。「奏上(というか、種々の正式な報告)」はこの地位。本部長クラス相当と推測。

@従五位=貴族の嫡男クラス。重役・重臣の息子や、皇族の血を引く「王」の息子が「従五位下」からスタート。庶子は一階降ろす。自動的にセットされる殿上人としては初級レベルで、多分、ハンコ押したりサイン(花押)したりするだけの名誉部長とか、そんな感じ。でも実務の観点からは、有能じゃないと勤まらなかった筈なので、長年勤め上げているベテラン官僚が多かったと想像。

@六位以下=六位は蔵人。皇族の遠い親類にあたる「諸王」の息子が、「従六位下」からスタート。庶子は一階下ろす。こちらは所長といった感じ。ずっと末席の王族になると「従八位上」からスタート。多分、課長や係長、主任といったクラスで、以下ヒラ官僚(普通のサラリーマン)が続く。


☆古代~中世の官僚のお給料の調査。時価換算でどれくらいの年収になるか:

  • 太政大臣(正従一位)…年間収入=7億円~8億円
  • 左大臣・右大臣(正従二位)…年間収入=5億円~6億円
  • 大納言(正三位)…年間収入=3億円~4億円
  • 中納言(従三位)…年間収入=1億円前後
  • 親王クラス・各省長官(正従四位)…年間収入=5000万円前後
  • 各省次官・幹部クラス(正従五位)…年間収入=1000万円~3000万円

------超えられない壁(貴族と地下人を分ける特権&身分の境界)------

  • (正従六位)…年間収入=800万円前後(副業で成功すれば1000万円以上の年収)
  • (正従七位)…年間収入=500万円~600万円
  • (正従八位)…年間収入=400万円~500万円
  • 末端の長レベル・獄吏長など(大初位)…年間収入=200万円~400万円
  • 末端のスタッフ(少初位)…年間収入=100万円~200万円

屋敷の維持費や衣料代、使用人のお給料は年収の中から出すわけだから、お金の回転はかなり良かったのでは無いかと想像。使用人1名あたり、部屋代や食費を天引して実費で年間平均100万円程度のお給料を出すとして、公家クラスはだいたい100人~200人の使用人を持っていたというが充分雇えるレベル

※貴族身分の人々には、お馬さんの維持費(今で言えばタクシー代・交通手当)も支給された。地方勤務の官僚の収入は、都より一ランク落ちる傾向があったようです