忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

2011.4.17ホームページ更新

《2011.4.22メモ》・・・ホームページにファイルをひとつ、追加。

◆詩歌制作/神々の身土=http://mimoronoteikoku.tudura.com/garden/waka/57tutae_03kami_sindo.html

・・・東日本大震災への、鎮魂の詩歌です。添付の解説は、過去ブログ記事の転載。

「身土」は「しんど」と読みます。「身土不二」という仏教用語があり、そこから採用しました。

Wikipediaによれば、〝身土不二(しんどふに)=仏教用語。「身」(今までの行為の結果=正報)と、「土」(身がよりどころにしている環境=依報)は切り離せない、という意味〟…という記述になっておりますね…

【身土不二(しんどふに)】
「因果応報」「世は人を映す鏡、人は世を写す鏡」と説明されることもある。
唐の僧・妙楽大師湛然の『維摩疏記』、北宋の僧・智円の『維摩經略疏垂裕記』(「二法身下顯身土不二-由依正不二故便現身即表國土-離身無土者荊溪云-此是法身身土不二之明文也」)、日蓮の『三世諸仏総勘文教相廃立』、無住道暁の『雑談集』(1305年(嘉元3年)頃)、親鸞の『教行信証』にもこの用語がみられる。
山下惣一の著作『身土不二の探求』(1998年(平成10年)、ISBN 4-88340-057-3)に『廬山蓮宗寶鑑』(普度法師、1305年)が初出であると記述され、広まっている。
「変容」、これこそ世界理解のキーワードであるとここ数年考え続け、そして「シナの変容」「世界の変容」について駄文を弄してまいりました。さてその「変容」の主体ですがご指摘のように、「神の力=大自然の力」であろうし、またその一部である人の意識でもあろうと思います。「百匹目の猿」の「変容」、これが期待されるシナですが、その培養となったのが皮肉にも東日本大地震であった、ということにでもなるのでせうか。またこの未曾有の大災難こそ変容の力が作用していると感じるのはわたしだけでせうか? - 丸山光三
PR

花ノ写真:震災後1週と1ヶ月

個人的な写真記録でありますが…;^^ゞ

3.11の出来事から1週間後に撮影したケータイ写真と、1ヶ月後に撮影したケータイ写真がデータフォルダに残っていたので、心理的印象の記録も含めて。

白木蓮

1週間後のケータイ写真は、公園にある白い木蓮の花でした。

何でこんなフォルムを選んで撮影したのかは、分からないのですが…

考えてみると、常緑樹は結構あって、そっちの方を撮影しても良かったような。あの日は雲ひとつ無い晴天で、東北の出来事が一瞬だけ、幻のように思えた日だったように思います。

前日のTVニュースでは、福島原発が次々に爆発したとか、火事が起きたとか…というような内容が報道されていました。こちらでは電力不足=情報不足だったため、何が何だか…でしたが、多分、情報が回っていた西日本では、大騒ぎだったんだろうなあと想像しております。

…何だか変でしたが、原発が次々に爆発したと聞いても、そんなにショックを感じなかったのです。多分、虚脱状態だったか、或いは、感覚が麻痺していたのだと思います。

いろいろ考えてみると、不安や恐怖などの感覚が麻痺していたお蔭で、割と「夢うつつ≒冷静」のような感じで、事故の推移を眺めて居られたような気がします。どうも、1週間を超えて感覚が麻痺していたらしいです…

計画停電があって、この日は、真昼の時間帯がずっと停電していました。お掃除を済ませた後はやれる事が無かったですし、日陰になって暗い部屋の中にいるとドンドンおかしくなりそうだったので、気分転換に外出していた…という風に記憶しております。

気持ちが落ち着かずに一緒に外出に付き合ってきた知人も、「あれが、単なる悪夢だったら良かった…」と、何だか虚ろ…といったような放心状態で、コメントしておりました。

…何とも暗いですが(汗)、そういう状況でありました…;^^ゞ

桜花

1ヵ月後のケータイ写真は、桜の花です。ちょうど満開でした。

こちらは、お勤め先に行くときに、撮影したものです。バス待ちの間にゲット。ふと上を見上げて、「春だなあ」と思って、撮影したのでありました。

逆光めいた位置ですが、桜の花びらが朝の光に透けているのが、何とも印象的だったので…さすがに、バラ科の花ですね…^^

最近は、知人もギクシャクながら、日常感覚を取り戻しているようです。でも、喪失感や虚脱感が深まるのは、これからかなあ…と、ボーッと、思ってみたりするのであります。

この1ヶ月の間の和歌制作。何となく、四首です。

  • 夢見から覚めない悪夢ぞ現実(うつつ)なれ人は言へりし真昼の底に…乱調。
  • まばゆくも虚ろに広き青空に君無き春の始まれるかな…ちょっとした事情。
  • 夢見つつ夜ごと記憶を折り返し断層深き海を思へり…この1ヶ月、何となく寝不足だったり。
  • 復興の掛け声高くなりぬれど虚ろな淵のますます深し…まだちょっと、そういう気分。

人曰く。〝9.11の出来事には、敵が居た。しかし、3.11の出来事の後に残ったのは深淵だった〟

「判断力」考・試論

判断力は「問われるもの」であり、自分の判断が正しかったかどうかは、周囲の影響や反応が返って来てから…で無いと分からない。つまり「歴史の検証」というフィードバックが必要な上に、タイムラグがある。

それなりのフィードバックを得るには、それなりの思考を投げかける必要がある。抽象的思考の能力が問題になると思われる。

★思考を発信する側=新たな判断が出来る程度に、抽象的思考が発達しているかどうか。

★思考を受信する側=発信されたサインを理解できる程度に、抽象的思考が出来るかどうか。

「見たまましか受け取れない」とか、事実であるかどうかに関係無く没頭できる「物語」だけを求めているようでは、洗脳されているのと変わらない。他人の考えに「へえ」と言うだけの状態では、戦略的な判断は無意味になる(=「空気読めない」というのは、この状態のことかと…)。

更に、調査データが読めないのは、非常に良くない。「事例」というのは生データを解析して初めて浮かび上がってくるものであって、具体的で分かりやすい事例を提示してもらいたがっている状態では、ケース・バイ・ケースに流されてしまう状態になり、生データを使って次の戦略(新たな物語)を立ち上げる事すら不可能。

戦略は最初からオープン系のシナリオを辿る(最初から参加メンバーを限っていれば、クローズ系のシナリオはありうる)。誰がステージに上がってくるのか、誰がどんなポジションにあるのかは未知数の状態のまま、シナリオが進む。人の運命は拘束できるものでは無いし、未来もまた拘束されていない。

逆に言えば、マスコミは、「報道しない権利」を使って(=情報の制限)、より操りやすいクローズ系のシナリオを「運命」に強制しているといえる。

ただ、こうしたマスコミの手法にも、メリットはある。次の反応が予想しやすい分、社会の安定化には便利な手法。余計なパニックを抑えるときは有効。ただし、情報制限もある限度を超えると、逆に情報を隠蔽していることで社会の発展を遅らせる原因になる。

本当に難しいのは、未知の事象と向かい合うときの姿勢。判断力よりも前に認識力が問われる。基本的には、未知のものに対する素直な感受性や好奇心があるかどうかが重要。

自分自身のポジションやヴィジョンを明確にしていることが重要(「自分は何をやりたいのか」というのを明確に)。日本国家の戦略を組み立てるのなら、最初に「日本をどのような国にしたいのか」をある程度決めていないと、デザインが曖昧になり、どんな判断も絵に描いた餅に終わる。

※あくまでも、「ある程度」である。将来の変化は予想できない。根底から変容しなければならない時は、必ずある。不変部分と可変部分を見極めること(不易流行)。

※原発問題が大問題なのは、日本国家のデザインに関わる要素だから。官僚にも、国家の安定的運営に責任を持つ立場ならではの理由があると思われる。

※理想的には「こんな事もあろうかと☆by『宇宙戦艦ヤマト』」というのがベストかも知れないが、そこまでの幸運は、期待しないほうが無難。所詮、人類の殆どは「普通の人間」である。

大体において、人間は完成された生き物では無いし、論理的な生き物でも無い。正義の思想を持っているからといって、その人が正しい行動をするとは限らない。

与件により道を踏み外したり、迷ったりするのが普通。よしんば熟考して判断した末に正しい行動が出来たとしても、その結果が将来に良い影響をもたらすものかどうかは、歴史の検証を経ないと評価できない。「今」という時点でパブリック的に判断できるのは、効率的・倫理的観点から見た局面のみ。

判断力を決める要素は、デザイン能力(時空構想力&編集力)、美的センス、感受性、異質なものへの想像力。判断力は結局、総合的な能力。「理想的には中庸が最も良い」という理由は、以上による。