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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

「判断力」考・試論

判断力は「問われるもの」であり、自分の判断が正しかったかどうかは、周囲の影響や反応が返って来てから…で無いと分からない。つまり「歴史の検証」というフィードバックが必要な上に、タイムラグがある。

それなりのフィードバックを得るには、それなりの思考を投げかける必要がある。抽象的思考の能力が問題になると思われる。

★思考を発信する側=新たな判断が出来る程度に、抽象的思考が発達しているかどうか。

★思考を受信する側=発信されたサインを理解できる程度に、抽象的思考が出来るかどうか。

「見たまましか受け取れない」とか、事実であるかどうかに関係無く没頭できる「物語」だけを求めているようでは、洗脳されているのと変わらない。他人の考えに「へえ」と言うだけの状態では、戦略的な判断は無意味になる(=「空気読めない」というのは、この状態のことかと…)。

更に、調査データが読めないのは、非常に良くない。「事例」というのは生データを解析して初めて浮かび上がってくるものであって、具体的で分かりやすい事例を提示してもらいたがっている状態では、ケース・バイ・ケースに流されてしまう状態になり、生データを使って次の戦略(新たな物語)を立ち上げる事すら不可能。

戦略は最初からオープン系のシナリオを辿る(最初から参加メンバーを限っていれば、クローズ系のシナリオはありうる)。誰がステージに上がってくるのか、誰がどんなポジションにあるのかは未知数の状態のまま、シナリオが進む。人の運命は拘束できるものでは無いし、未来もまた拘束されていない。

逆に言えば、マスコミは、「報道しない権利」を使って(=情報の制限)、より操りやすいクローズ系のシナリオを「運命」に強制しているといえる。

ただ、こうしたマスコミの手法にも、メリットはある。次の反応が予想しやすい分、社会の安定化には便利な手法。余計なパニックを抑えるときは有効。ただし、情報制限もある限度を超えると、逆に情報を隠蔽していることで社会の発展を遅らせる原因になる。

本当に難しいのは、未知の事象と向かい合うときの姿勢。判断力よりも前に認識力が問われる。基本的には、未知のものに対する素直な感受性や好奇心があるかどうかが重要。

自分自身のポジションやヴィジョンを明確にしていることが重要(「自分は何をやりたいのか」というのを明確に)。日本国家の戦略を組み立てるのなら、最初に「日本をどのような国にしたいのか」をある程度決めていないと、デザインが曖昧になり、どんな判断も絵に描いた餅に終わる。

※あくまでも、「ある程度」である。将来の変化は予想できない。根底から変容しなければならない時は、必ずある。不変部分と可変部分を見極めること(不易流行)。

※原発問題が大問題なのは、日本国家のデザインに関わる要素だから。官僚にも、国家の安定的運営に責任を持つ立場ならではの理由があると思われる。

※理想的には「こんな事もあろうかと☆by『宇宙戦艦ヤマト』」というのがベストかも知れないが、そこまでの幸運は、期待しないほうが無難。所詮、人類の殆どは「普通の人間」である。

大体において、人間は完成された生き物では無いし、論理的な生き物でも無い。正義の思想を持っているからといって、その人が正しい行動をするとは限らない。

与件により道を踏み外したり、迷ったりするのが普通。よしんば熟考して判断した末に正しい行動が出来たとしても、その結果が将来に良い影響をもたらすものかどうかは、歴史の検証を経ないと評価できない。「今」という時点でパブリック的に判断できるのは、効率的・倫理的観点から見た局面のみ。

判断力を決める要素は、デザイン能力(時空構想力&編集力)、美的センス、感受性、異質なものへの想像力。判断力は結局、総合的な能力。「理想的には中庸が最も良い」という理由は、以上による。

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