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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

2011.7.8暁の夢

最近見た奇妙な夢

自分は、お風呂を掃除する職人でした。

コンクリート打ちっぱなしの公共建物っぽいところへ、「見えない存在」に導かれて出張しておりました。結構モノは良いお風呂なのですが、基礎が傾いている上に、湯船にはびっしりと汚れがへばりついており、思わず「き、きたない…」と敬遠するほどのものでした。

しかし何故か職人であるからして、黙々とお掃除。完全に汚れが取れたとは言いがたいものの、何とか入浴可能なレベルと言えるくらいには、綺麗にしました。

その後、建物の管理人っぽい人と、「このお風呂は、もう取り替えろ」と言うようなことを議論していたような気がしますが、夢の中だけに、記憶はおぼろです…(ニガワライ)

…その後、何故か分からないのですが、問題のお風呂の傍で、「このお風呂は絶対に問題なんだからね」とぼやきつつ、一人でピョンピョン縄跳びしていました。

場面も登場キャラもしょっちゅう転換するという、奇妙な夢でした。脈絡の無いストーリーの割には記憶に残っているので、夢的には、意味があるのかも知れませんが


三陸沖でマグニチュード7.1(後に7.3に修正された)の地震が発生

発生日時=2011.7.10-09:57
震源地=三陸沖(北緯38.0度、東経143.5度、牡鹿半島の東180km付近)
震源の深さ=約10km

津波警報が発令されていたそうですが、小規模(10cm程度)で済んで良かったと思います。

その時、自分は図書館におりまして、あちこちの本棚の間を歩き回っていたせいか、気が付きませんでした。図書館の中も、節電中で暗くて少し暑いので、ちょっとしたお化け屋敷風なのであります。

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マニ教に関するノート(3)・終

『マニ教』(講談社選書メチエ2010)青木健・著より、ノート覚書

マニ教の中国伝来・・・一般には「684年に伝来」とされている

南宋時代の『仏祖統記』の記事より
・・・唐王朝第3代皇帝高宗(在位649-683)の時代に、ある慕闍(ぼうじゃ※1)が長安を訪れ、唐王朝が夷教を国家の統制下に置こうとしているのを知り、弟子で払多誕(ふたーだーん※2)の密烏没斯(ミフル・オフルマズド)を呼び寄せたという。彼が『二宗経』を携えて到着したのが則天武后(在位684-705)の初年に当たっていた。
  • ※1・・・慕闍(ぼうじゃ)=ソグド語「モーザク」。パフラヴィー語の「フェレスタグ」に相当するマニ教教会の第二位階。
  • ※2・・・払多誕(ふたーだーん)=ソグド語「アフターダーン」。パフラヴィー語の「イスパタグ」に相当するマニ教教会の第三位階。
【補足】・・・マニ教教会の位階制度(中世ペルシア語単数形/中国語表記)
デーン・サーラール/法王・・・クテシフォンの本部に1名
フェレスタグ/承法教道者・・・12名
イスパタグ/伝法者・・・72名
マヒスタグ/法堂主・・・360名
ウィズィータグ/一切純善人・・・無制限
――聖職者と一般信徒の仕切り――
ニヨーシャグ/一切浄聴者・・・無制限

則天武后の時代には「則天文字」なるものが使用された(689-705の間だけ)。敦煌出土の漢文のマニ教文献の一部には、則天文字を多数使って書かれたものがある。則天武后は自分を称える新しい宗教的イデオロギーを求めていたので、マニ教の需要もあったらしく、快く迎えられたと言われている。

しかし、則天武后の時代以降の、中国国内におけるマニ教の実態は謎であると言われている…(実際に来たのはソグド人商人であり、マニ教徒としての活動よりも商売活動の方に熱心だったためかも知れない)。しかし、それなりに布教活動はしていた模様。

唐王朝第6代皇帝玄宗(在位712-756)になると、マニ教の活動は皇帝の不信を買ってしまい、731年には朝廷がマニ教の教義の説明書の上程を求めた。これに応えて同731年7月16日に集賢院に提出されたのが『摩尼光佛教法儀略』。しかし、朝廷の高官を余り説得できなかったらしく、翌732年には、朝廷がソグド人やウイグル人を除く中国人へのマニ教布教を禁じる勅令が発せられた。

しかし、安史の乱(755-736)が勃発すると、乱の平定にウイグル人が活躍し、しかもそのウイグル人がマニ教を国教としたため、マニ教は一転して東アジアにおける黄金時代を満喫した。

※744年ウイグルの懐仁可汗が可汗を称し、遊牧ウイグル帝国(744-840)を建国。763年、第3代・牟羽可汗が、洛陽にてマニ教に帰依。長安で大雲光明寺(マニ教)が建てられた。

その後、中国ではウイグル人の勢力が弱まり、キルギス人の勢力が強まった。同時にマニ教も中国で弾圧される。ウイグル人は西へ敗走し、トルファンを首都として天山ウイグル王国を作る。そこでマニ教は、組織的なスタイルとして最後の繁栄を迎えた(後世、仏教勢力の反撃があってマニ教は衰退した。最終的には、モンゴルの襲撃に伴い、マニ教の書籍や芸術はトルファンの砂の中に埋もれる事になった)。

(参考)中国のマニ教のお寺・・・(写真あり)
「世界で唯一残ったマニ教のお寺へお参りに行く」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/yomimono/mani1.html
『摩尼光佛教法儀略』(唐代)の要約:
・・・摩尼光仏(マニこと光の仏陀)は、蘇隣国(バビロニア)の抜帝(パティーク)の王宮で、金薩健種(カムサラガーン家)の満艶(マルヤム)から生まれた。それは、後漢の献帝の建安13年2月8日(西暦208年3月12日)に当たる。彼の母は斎戒潔斎して、清浄なまま胸からマニを生んだ。彼は神験九徴、時代の人々に抜きん出ており、道を熟知していた。彼の体質は孤秀で、彼の叡智は日月を貫いた。彼は二宗三際の教義を開元し、その言葉は明快、その理論は直截、その品行は方正、その証拠は真実だった。

このように中国では、「仏陀生誕」をモデルにした「マニ生誕」が語られた。光の啓示や預言者としての召命、殉教といった西アジア的な要素はすっかり削除され、自分で優れた教義を作ったことになっている。

(※本の著者コメントより引用)・・・中国へやってきたマーニー教聖職者たちは、光と闇の神話の中の神格を孔子や孟子に置き換えるよりは、手っ取り早くマーニーを仏陀と見なすことにしたのである。孔子が冥界の軍団と戦って気絶したり、孟子が悪魔の間で全裸になって踊ったりするのでは、確かに中国人を呆然とさせただろうから、これは賢明な措置だった。(=非常にツボにハマッた、面白いコメントだったので、引用しました…^^;)

マニは、パフラヴィー語で「光の使者/フレーシュタグ・ローシュン」となり、中国語に音訳すると「仏夷瑟徳烏慮詵」となる。しかし中国語には、発音を重視すると字義が全く不明になるという問題があり、結局「摩尼こと光の仏陀」という風に提示する事になったらしい(ちなみに、マニ自身は「光の神の最終預言者」という立場で、仏陀とは名乗らなかった)。

更に西晋時代の頃には仏陀を老子の裔とする『老子化胡経』が書かれていたが、唐代になって、この書物にマニ教によるひそかな加筆が行なわれた。いわく、「老子は西方に赴いてマニとして誕生するであろう」という「再臨の予言」的な内容になっている。

『老子化胡経』(唐代の加筆部分)・・・450年後、私は蘇隣国(バビロニア)の宮廷に降下して、太子として誕生するだろう。私は家族を残して道に入り(捨家入道)、出家して末摩尼(マール・マニ)と称するだろう。私は大法輪を回し、戒律と智慧を説き、二宗三際の教えを宣教するだろう。マニから450年後、私の教えは西域からやってきて、儒教・道教・仏教は再び私に帰一するだろう。こうして、生きとし生けるものは全て救われるのである。

肝心のマニ教の教義の説明はわずかしか無く、「マニ=老子の生まれ変わり」に力点が置かれている。仏教徒からも道士からも反論された内容だったが、結果的には『老子化胡経』は、マニ教の名称と若干の儀礼が中国に根付くきっかけとなったと評価されている。この辺りは、後の弥勒教(弥勒下生=救世主待望論)と混同される原因になっていたかも知れない…

【補足】・・・他の地域へのマニ教の影響
759年作成の『宿曜経』・・・「マニ教徒は密の日に精進潔斎し、彼らはこの日を決して忘れない」
日曜日はマニ教の祭日であるが、「密」はソグド語の「mir」に由来しており、明らかにソグド人マニ教徒の影響であると考えられている。この表記方法は日本にも導入され、平安貴族の日記の具注暦でも日曜日が「密」と記されている。

唐代半ば以後、マニ教は道教の一種と見なされ、中国の民間信仰として広まった。特に「会昌の廃仏」など華北での宗教弾圧が激化した後は、江南地方への流入が大きくなったと言われている。宋代になると、中国東南部の福建省・浙江省の下層農民の間で、「明教」を名乗る「中国版マニ教」が復活していた。1120年の記録では「温州の明教徒は、暦の中に密日を導入していた」という言及がある。

明教は、下層農民の支持を得て、秘密結社化していった。良くも悪くも、宋代は宗教と民間呪術の時代でもあった。仏教や禅、道教、朱子学といった、東アジアを代表する多様な宗教思想が発達したのは、宋代になってからの話。媽祖信仰など、雑多な民間信仰が新しく生まれていた。明教も例外ではなく、おそらく道教と同じようなやり方で、多くの信徒を獲得したと想像される。

南宋の陸游(1125-1209)『渭南文集』いわく、宋代の官憲の認識では明教=宗教結社:
・・・「妖幻邪人が良民を誑(たぶら)かし、朝廷の憂となること、福建の明教が最もはなはだしい。その神号は明使で、肉仏、骨仏、血仏などの称号もある。白衣烏帽で偽経や妖像を流布し、怪しい術を駆使している。」

後の研究では、儒教や道教、仏教といった既存の大宗教が統合し切れなかった雑多な民間信仰を統合するシンボルとして、マニ教=明教の名称が利用されたのだという議論がある。「光の国への救済」という教義だけは伝わっており、下層農民の間での秘密結社化に都合が良かったのかも知れない。

当時の道教文献『道蔵』にいわく:
・・・「其教(=明教)大要在呼、清浄、光明、大力、智慧、八字而已」。

この「清浄、光明、大力、智慧」という八文字が、明教を示す有名なキャッチフレーズで、他の文献や泉州の摩尼教草庵の碑文でも確認可能だという。民衆の間でのマニ教の最終的な理解は、こういうものだったらしい。

いずれにせよ宋代末の明教は、何らかの誤解があって恐ろしげな妖術集団と見なされた。当時のマニ教徒は、周りの平均的シナ人とは生活習慣を全く異にしており、「喫菜事魔」と称された。北宋末の方臘の乱(1120-1121)では、リーダーの方臘は「明教の妖術を操る怪人」というイメージが固着している(=後世、明王朝の時代に書かれた『水滸伝』にも、そのイメージを見ることができる)。

ついでに言えば、元代においては、明教の一部は合法的宗教に転化していた節がある。モンゴル人は「雑多なローカル宗教」には、さほど関心が無かったらしい。福州と泉州に立ち寄ったマルコ・ポーロによって、「ゾロアスター教でもキリスト教でも仏教でもイスラームでも無い宗教集団を目撃した」と記録された。

元代の頃の明教は弥勒教とも混同される有様で、「涅槃(=マニ教で言う光の国?)への救済」を説いており、世間的には、仏教か道教の一種という理解がされていたらしい。明教と弥勒教は、「この世の悪からの救済を説く」という点で類似性を持っており、モンゴルに対する農民反乱の際は、合体しやすかったと考えられる(=紅巾の乱)。

明代の明教の記録については、明末の何喬遠・著『閩書』に言及あり:
・・・老子が西域の流砂の中に消えてから500年後、後漢の献帝の建安13年2月8日(西暦208年3月12日)に、抜帝(パティーク)の妻満艶(マルヤム)が清浄なまま胸から生んだのが末摩尼(マール・マニ)である。彼は大食(アラビア)、仏林(ローマ)、吐火羅(イラン高原東部)、波斯(ペルシア)で宣教し、西晋の司馬炎の泰始2年(西暦266年)に波斯で没した。彼の著書は7巻で、彼の教えは大慕闍に託された。

明代になると、明教は「王朝と同じ名前を使っていて不敬である」という理由で弾圧されたと言われている。清代に至って明教の記憶も失われてしまい、清朝の知識人の間では、明教は景教(ネストリウス派キリスト教)と混同されていたと言われている。

★ここで、マニ教に関する読解&研究ノートは、終わりです…^^ゞ


コメント・メモより転載

余談を一つ。日月教というのが明以降に改名された明教であります。「明」を「日」と「月」に分解したわけであります。この日月教は、香港の武侠小説の一人者・金庸の代表作の一つ『笑傲江湖』の背景に使用されています。南シナでは明教は比較的ポピュラーな存在であることがこれでわかります。また温州出身者が欧州の華人の大部分を占めることは幾度も提起しました。さる温州人オーナーのレストランが「日月」という名前なので、もしや明教信者かと訪ねてみたらどうもちがうようでした。ただしそのオーナーが自分でそういったのでどこまでほんとうなのかは不明でありますが・・・凹凸 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます^^『笑傲江湖』…「魔法使い・東方不敗」が出てくる作品ですね。映画のTV配信があった時にチラッと見ただけですが、人が空を飛んでいるシーンには驚かされました(笑)。話を聞いて、何となくですが、華北と華南の文化を分ける、もう一つの要素がマニ教らしい…と感じております。温州人とマニ教との間には、微妙な縁があるみたいですね。相性が良いのでしょうか…^^

マニ教に関するノート(2)

『マニ教』(講談社選書メチエ2010)青木健・著より、ノート覚書

◆マニ教の特徴◆

【人工の宗教】・・・ただ一人の教祖マニの頭脳の中で組み立てられた宗教。

教祖マニ自身がコスモポリタン的な環境の中で育った人物だったため、マニ教もコスモポリタン的な性格を持っており、どの民族にも受け入れられやすい傾向があった(※例えば、ゾロアスター教はイラン土着性が強く、生活文化の異なる他民族にとっては受け入れがたい性質を持つ)。

【書物中心の宗教】・・・マニが作成した書物を中心とする宗教。

一般に、ある宗教の聖典は後世の信徒たちが個別に編集してしまうのが常で、何処から何処までを聖典の範疇に含めるかで大論争が勃発するが、マニ教の場合は、教祖マニ自身が自分で聖典を執筆し、自分でその範囲を定義していた。最初から、後世の信徒が改変できないような完璧なスタイルを備えていたといえる(しかも、マニは絵も描いていた)。

【神話的表徴の宗教】・・・マニが指定した聖典は7冊だが、そのうち5冊までが神話論。

キリスト教の教義のような、一貫した論理性は無かった。マニは、同時期に広まっていたユダヤ・キリスト教、仏教、グノーシス主義、ゾロアスター教などに出てくる神話キャラクターを自由に組み合わせて、マニ独自のストーリーを持つ壮大な神話世界を作り上げていた(今のファンタジー系のパロディ作品や、二次創作のオリジナル作品に近いかも知れない)。

  • 『大いなる福音』=マニを最後の預言者とする預言者論
  • 『生命の宝庫』=マニ教の教義体系
  • 『伝説の書』=神話論。神々と人間の創造
  • 『奥義の書』=神話論。バル・ダイサーン派やユダヤ教神話への反駁
  • 『巨人の書』神話論。マニの教義を神話的に表現
  • 『書簡集』=マニが各地に派遣した使徒たちに与えた書簡集
  • 『讃歌と祈禱文』=アラム語の韻律による詩篇と祈禱

既存の大宗教の神話キャラクターを利用しつつ、その改変によって既存の物語の枠組みを崩して、マニ教の神話世界に連れ込む…という布教方法になっていたため、既存の大宗教から見ると「いかがわしい邪教」というイメージがあったらしい。

マニ教が栄えた範囲は既存の大宗教の栄えていた範囲と一致しており、「二次創作のオリジナル作品(但し、既存の宗教よりは、ずっとドラマチックで魅力的)」の地位を超える事は無かったと考えられる。

マニ教の場合、冠婚葬祭などの宗教儀式は既存の宗教に比べてずっと欠落しており、修行生活の他には、信徒の生活パターンを変えるほどのものでは無かったらしい。

但し、教祖の死をきっかけに始まった「べーマ大祭」は、教祖が冬の寒さのため食欲が無くなって獄死(病死)したことを記念して断食を含む祭礼となっており、時期的にも、イスラムの断食(ラマダーン)の原型になったのでは無いかという議論がある。教祖を称える春先の大祭という事もあり、アウグスティヌスは「キリスト教の復活祭の模倣だ」と非難している。

◆マニ教が語る、預言者と救済の歴史◆

マニ自身は、自分の教えを「キリスト教・ゾロアスター教・仏教を止揚した最後の宗教」と解説していたらしい。マニ教が語る世界的宗教史(のようなもの)は、以下のようになる:

【神聖史の時代】

我々の宇宙がまだ始まってもいない頃、北方・東方・西方では「時間の神(バイ・ズルヴァーン)」またの名を「偉大なる父(ピド・イー・ウズルギーフ)」が君臨していた。この光の王国は、平和で争いも無かった。南方では「悪の王アフレマン」が君臨していた。この暗黒の冥界には秩序が無く、互いに争い、荒れ放題に荒れ果てていた。しかし、ある時アフレマンは光の王国に気付き、侵入を企てた。神聖史はここに始まる。

偉大なる父ズルヴァーンは自分の中の光の要素に「大いなる呼びかけ(ウルズグ・フローフ)」を行なって「生命の母(マーダル・イー・ズィンダガーン)」を呼び出し、次いで「生命の母」が「最初の人間オフルマズド」を呼び出した。

※マニ教は生殖を邪悪な行為としていたので「呼び出し」という形になったらしい

呼び出された最初の人間オフルマズドは、エーテル(フラワフル)、風(ワード)、光(ローシュン)、水(アーブ)、火(アーテシュ)の光の5要素で武装し、暗黒の5要素で武装した冥界の軍勢と戦ったが、光の軍勢は敗北してしまった。

※光の5要素は「アマフラスパンダーン」と言い、ゾロアスター教では大天使に相当する

ズルヴァーンは再び「大いなる呼びかけ」を行なって「生ける精神(ワーフシュ・ズィンダグ)ミフル神」を呼び出し、「生命の母」と共に、冥界に落ちていたオフルマズドを救出させる。

研究によれば、ミフル神とオフルマズドとの詩歌的相聞のシーンがあり、マニは、ここで東アラム語韻文の美しい詩を挿入したらしい。この詩歌的相聞の結果、オフルマズドは「自分が何処から来たのか、何者なのか、何処へ帰還すべきか」を悟り、光の王国に救済された。しかし残りの光の要素は、他の人間たちの中に捕囚されている状態であった。

「生ける精神ミフル神」=光の要素を救済する使命を持つ(冥界の物質で形成された人間の中に光の要素が捕囚されている)。

ミフル神は「叡智の世界の主(西方系資料によれば「光のイエス」)」に依頼して、アダムに「光の王国」を啓示した。啓示を受けたアダムはイブに宣教するが、逆にイブの誘惑に負けて、人間が増殖した(カインとアベルを生んだ)。

【人類史の時代】…「生ける精神ミフル神」から「光の要素の救済」を依頼されていた「叡智の世界の主=光のイエス」は、次々に人間界に預言者を送り込むが、失敗が続く。

  1. アダムに続き、セト、ノア、アブラハム、シェーム、エノシュが送り込まれる…皆々失敗
  2. ニコテオス…マニ教でだけ預言者とされているグノーシス主義者である…失敗
  3. エノク…失敗
  4. ザラスシュトラ…ゾロアスター教によって部分的に成功したが、弟子たちが誤解
  5. 仏陀…仏教によって部分的に成功したが、弟子たちが誤解
  6. イエス…キリスト教によって部分的に成功したが、弟子たちが誤解
  7. マニ…「イエスの使徒」にして「預言者の封印」であるマニが、人類への最後の呼びかけを行なっている

・・・《コメント&考察》・・

マニ教が語る神話物語や思想が、当時の西アジアの人々にどう受け入れられたのかを想像してみると、1990年代後半の「エル・カンターレ」布教のような感じだったのでは無いか?…と考えられる部分があります。

…ウィキペディアでざっと調べただけですが、1996年から1997年にかけて、「エル・カンターレ=大川氏(?)」は『太陽の法』や『黄金の法』など、数々の壮大な神話論的な書籍(=聖典?)を発行しているそうです。その主張パターンの内容を見る限りでは、殆どマニ教と同じパターンだと思われます…^^;;;

(ウィキペディア注釈より引用)・・・経典『黄金の法』で著者の大川は約2800年後に再び下生すると予言しているが、それはエル・カンターレ意識の分身であると解釈される。簡単に説明すれば、幸福の科学の理論においては、人の魂は一個体で生まれ変わるのではなく、特に九次元霊(人間の霊界で最高位の次元の霊)のような巨大な意識体では、意識体全部が人体に宿ることはなく、意識体を分割した一部が魂として人体に宿り、地上に誕生すると考える。大川隆法は、釈迦やヘルメス等の魂として分割して生まれた、元の意識体と同一意識体であり、その同一意識体の中心の存在とされている。(引用・終)

マニ教は、古代社会の終焉という、不安定な社会環境の中で生まれた宗教であります。マニ教が広がった時代は、ユーラシアの東西でゲルマン族やフン族、エフタル・突厥・ソグド人といった、人々の大移動があった時代でもあります。コスモポリタン的な人々が急速に増えていたのです。そしてマニ教は、ソグド人などのコスモポリタン的な人々に支持された宗教でした。

ヘレニズム時代以来、ひっきりなしに古代王朝の交代が起こり、更に民族大移動の結果、それまでは無かったような、複雑で混沌とした社会が形成されていたという事実があります。ユーラシア大陸交易に関わる騎馬民族や商人の活動も活発化していました。「中世」という新たな時代の幕開けに向かって、〈世界〉は変容を続けていました。

そして同時に、自然環境も不安定になっており、「将来の見えない漠然とした不安」が覆っていたと考えられます(=グノーシス神話に見られる「この世=悪」という反宇宙的な内容は、この不安感を見事に反映しています)。古代の生活基盤は現代に比べるとずっと貧弱なものであり、気象変動に非常に敏感でした。医学などの学問も、十分に発達していたとは言いがたいものでした。

こうした、奇妙に平衡を欠いた世界の中では、様々なタイプの終末論が流行しやすいのでは無いでしょうか。宇宙論を含む壮大な神話体系を組み上げたマニ教が爆発的に広まる素地は、当時の〈世界〉には、十分にあった…と考えられるものであります(キリスト教の論理学さえ、まだ無かった時代だった…)。