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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

プレ中世・北東アジア史メモ

歴史研究のため、北東アジア史★を意識した年表を整理。

主に、『渤海国』(上田雄・著2008、講談社学術文庫)を参照して、あとは独自にコマゴマと追加。

北東アジア史・プレ中世年表
633ソンツェン・ガンポ王、都をラサに定め、吐蕃王朝を開く(-877滅亡)
668★高句麗滅亡(唐・新羅連合軍による)
672★壬申の乱
676★新羅、朝鮮半島全土を統一(唐軍を破る)
690則天武后、国号を周と改める(自らを聖神皇帝と称する)
696★契丹の李尽忠の反乱。営州にて(現在の遼寧省の朝陽。当時は高句麗王族や協力勢力の靺鞨族の流刑地だった。 唐が服属させていた北方異民族もここに強制移住され監視されていた)。 契丹族に呼応して、高句麗の末裔であった大祚栄をリーダーとして旧高句麗人も反乱する。
697★唐は契丹軍に大敗し、遼東・遼西から全面撤退
698★高句麗人・大祚栄、振(震)国を建国=後の渤海国
727★第一渤海使(新羅を牽制するための軍事同盟的なもの。 後半は繊維・毛皮etcの貿易。渤海特産の毛皮が平安京の市で取引される。毛皮ファッションは平安貴族のステータスだった。 渤海使の往復による人員・物資の移動は920年まで、34回続く)
741西突厥の阿史那氏が滅ぶ。その後は突騎施(テュルギシュ)や葛邏禄(カルルク)が実権を握る。 それに伴い、北アジアの勢力図変わる。渤海、北満州の靺鞨を征服
744ウイグル帝国建国
745東突厥滅亡(突厥、ウイグルの勢力下に入る。ウイグル帝国、モンゴル高原を統一)
755-763安史の乱(ウイグル族、乱を平定)
759★藤原仲麻呂(恵美押勝)、新羅征討計画を進め、大宰府に戦時動員 (安史の乱に乗じたものだったが、武断政治から文治政治に変わりつつあった渤海の非協力により、立ち消えになる。
764年に藤原仲麻呂の乱を起こして自滅。代わりに僧・道鏡が勢力を拡大)
780★日本と新羅の公的国交断絶
784長岡京遷都
785★渤海、上京龍泉府から東京龍原府に遷都
794平安京遷都
840ウイグル帝国滅亡
875-884黄巣の乱
877吐蕃滅亡(仏教をめぐって内紛、また王位継承問題から南北に分裂)
889★新羅各地で農民暴動
894★遣唐使廃止(菅原道真の建議※901道真、大宰府に左遷される)
907大唐帝国滅亡(五代十国に移行。古代的門閥貴族の王国の衰退)
916★契丹の耶律阿保機、契丹帝国を建国(漢風国号=遼)
918★高麗建国(王建が開城を都とする※当時の北半分は渤海王国、南半分は三国分裂していた)
925★渤海王室の内紛激化、渤海の大官、豪族数千人が南下し、高麗に亡命
926★渤海滅亡(契丹に滅ぼされ、徹底的な破壊を受ける)
928★耶律阿保機、陣中没。契丹の権力抗争激化
935★新羅滅亡、高麗による朝鮮統一、平将門の乱
960宋建国(趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国)
1038西夏建国(タングートの首長・李元昊が建国)
1115金建国(遼帝国の支配下にあった女真族・完顔部の阿骨打が遼に反乱を起こして建国)
1260チンギスハンの孫クビライ、モンゴル帝国の第5代皇帝に即位、国号を大元とする
1392★高麗滅亡

素晴らしいタイミングで、興味深い記述を見かけたので転載メモ^^

[ギョっとする話(iza丸山光三或問集2011.8.13エントリ)]

東北アジアの心象風景は殺伐としている。そのせいかそこに住む人々のメンタリティはどうにもなじみにくいものがある。
しかしこれがゴビ砂漠を越えると日本の高原地帯のような爽やかな気候になるためか、人々もずっと親しみやすくなるのだ。
いまはゴビ以南、揚子江以北、いわゆる華北とよばれるシナ北部から朝鮮半島についていわんとしているのだ。
この地方に住む人々は、乾燥と寒冷という自然現象に痛めつけられ、また政治権力同士の抗争による社会の荒廃という歴史条件もあり、生き延びるためにはなんでもしてきたし、また今後もそのエートスに変化はないであろう。
だからその嘘を快く赦せ、というわけではないが、そういう人々が多く住む地域であるということの認識が、わが国のような近隣国でさえ不足している。況や遠く離れた欧米をや。
かってこの地域に政治的軍事的プレゼンスを有していた吾が国人は今よりずっと正確な認識を有していた。
しかし敗戦と同時に占領され、さらには第三国人などがその手先となって猖獗し、さらにはその占領体制が基本的には今に至るも継続しているため、正確な認識をすることが妨害され、それどころか誤った認識を強要されもしているのである。
ゆえに、「韓国の金星煥外交通商相は12日の記者会見で、「日本海」の名称問題について「日本による(韓国)植民地支配の残りかすだ」とし、韓国が主張する「『東海』に変更させるのが最終目的だ」と述べた。」
というような、厚顔で恥知らずな言説をその国の責任者が吐こうと、蛙の面に水がごとき無関心な荒廃が広がっているばかりなのである。
ギョっとばかりもしていられない国情ではないか凹凸

・・・将来、歴史エッセイをまとめる時に参考にさせて頂きます…m(_ _)m


★『地政学を英国で学んだ/判断力をつけるための七学派』がとても興味深かったです

自分なりにノート@「判断力」の身につけ方を教える学派

  1. 体験至上学派=色々な実地体験を生かす(経験しないと分からない事もある)
  2. メンター絶対学派=すぐれた師匠に従事して師匠の要素を吸収(マンツーマン、思考パターンの伝承)
  3. 知識集積学派=古典教養エッセンスを積み上げて応用(歴史的パターンの読み込み)
  4. 統計学派
    • ハード派=科学的かつ客観的な統計データの積み上げて応用
    • ソフト派=占星術、風水…など、統計的な占いデータを積み上げて応用
  5. 神託学派=霊能者の予言(オラクル・神託)などを参考にする
  6. 直感派=インスピレーション、第六感、霊感を磨く※多分、山伏修行が必要かと…^^;
  7. 運力向上学派=「自分が持つ自然な感覚(直感ではない)を磨くことを重視しており、運が上がればそれと共に正しい判断もできるようになる」by奥村氏による定義、詳細は『横綱論』

「判断力の上達」を真剣に考える学派があるとは知らなかったです

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深森イラスト遊戯「脇役たち」

九鬼氏に属する中年の男のカラーイラストです。

最初の登場は「第一部/第四章・伊勢道」の末尾部分。

物騒な人相書「欠き眉の豹」を、九鬼幸隆少年と一緒に配布して回っていた、謎の海坊主・中年男であります。何やらただ者では無い…という雰囲気のあるキャラです

このキャラ、最初は「名無し」でした。重要な脇役ですが、名前の考案が間に合わず…

名前の決定が間に合っていたら、カモさんと対面した時に、「それがし、九鬼家に仕える者で、***(役職名)の***(名前)で御座る」と自己紹介させていたのですが…(非常にビシッとしていて、律儀で、礼儀正しい性格のキャラクターなので…)…^^;;;

改めてこのキャラの名前を…、彼は、「迫(サコ)・正徹(ショウテツ)」です。

九鬼氏の有能な家臣という設定で、九鬼氏を「イマドキのナウい戦国大名」と見れば、「国衆」に当たる立場。ですが、この忠実で律儀な性格を主君に買われていて、役職は「目付/横目」みたいな…家臣団の監察役っぽいお仕事をしています。会社組織で言えば、バリバリの監査役(ただし非常勤)でしょうか。国衆の出なので、高位の家臣団の中では中の下か、末席の方でしょうか。割と自由行動の効く立場。

御影王のカラーイラストです。

この少年の場合は、考案に時間がかかりました…^^;

(多分、自分が「その筋のロイヤルな方々」と全く縁が無いのが、原因かも知れないです。本物の「やんごとなき方々」が見かけたら、多分、あまりにも非常識なので、卒倒するキャラクターだと思われます)

カモさんとは小さい頃からのお知り合いで、カモさんからは「ミイ坊」と呼ばれています。

中世の親王の呼び名がどうなっていたのか謎ですが、『太平記』を読むと、大塔宮・護良親王の場合で「大塔宮が、ああしたどうした」という科白が出て来ます。前半部の「何某の宮」という呼称が一般武士にも広がっていた状況かと思われました。この件に関わるアクティブな親王メンバーが多くて区別しにくかったからかも知れませんが、それでも、「護良どの」とか「護良さん」とか、後半部分が一般の呼び名になるまでには至らなかったようです。

一方で「王」の方は、「何某王」とか、「王」を抜いて「何某さま(さん、どの)」という風に本名で連呼されていたようです。この「何某王」呼称は、高位の武家(将軍家)の幼名にも広がっていた様子。えらい格差ではあります…^^;

ヤツマタに属する破邪の剣の使い手である呪術師、タスキさんのカラーイラスト。

分かりやすさのため(誤読を避けるため)、「タスキ」とカタカナで書いてますが、ちゃんと当てはまる漢字はあって、「翼」をタスキと読ませます。

この名前は、東洋占星術に出てくる「二十八宿」の中の「翼星(たすきぼし)/翼宿」に由来しています。陰陽道でお馴染みの四神で言うと、南方朱雀に属する星です。朱雀の翼と見立てられているそうです。

このイラストは、物語時間で言えば、同じヤツマタのアザミ衆である魚(イオ)さんと初めて出会った頃のイメージでしょうか。まだ髪を切っていない頃。線の細い中性的な容姿に加えて、女装その他の変装が上手…という設定のキャラクターです。

占星術の起源に関する覚書

◆出典◆わかってきた星座神話の起源-古代メソポタミアの星座(誠文堂新光社2012)近藤二郎・著◆

「天体観測と占星術」より

《天体観測の実施》

古代メソポタミアでは、天体の観測は国王に仕える神官によって実施されていました。神官たちは、国家的行事や宗教的行事と結びつけて、天体の観測をしていました。すなわち、古代メソポタミアでは、国家の命運や国を支配する王たちの運命を占うために観測を実施していました。
古代メソポタミアの都市国家には、「ジッグラト(Ziggurat)」と呼ばれる日乾煉瓦で造られた小高い基壇建築が存在していました。ジッグラトとは、アッカド語の「山の頂上」なども意味するziqquratuという語に由来していますが、英語ではtemple tower(聖塔)と一般的に翻訳される建造物です。こうしたジッグラトの頂部で天体観測が実施されたものと考えられています。
ジッグラトは、明らかに高い基壇を持つ神殿建築であり、古くは紀元前3000年紀初頭のウルクのアヌ神殿の例があります。
・・・(中略)・・・
古代メソポタミアでの天体観測は、もちろん肉眼で行なわれていました。そのためこうした高さが20メートル以上もあったジッグラトの上からは、とりわけ地平線上に位置する惑星や月の観測に適していたと考えられます。背景である固定された星座の間を複雑に動いていく惑星の軌道は、古代人にとって非常に興味深いものでありました。そして、惑星と星座との位置関係を詳細に観測、記録することで星占いとして利用したのでした。
また、古代バビロニアをはじめ、メソポタミア地域では、古来、太陰暦が使用されていたことから、月の初めの一日は、実際に夕空に新月を観測することで決定していました。こうした実際の観測で月の初めを決める事は、その後もイスラームの暦でも伝統的に続けられてきたものです。現在でも、断食を実施するラマダン月の始まりは、基本的には実地観測によって決定されているのです。
太陰暦の月初めを決める事は、夕空の地平線付近に日没後に見える細い月を観測する必要がありました。そのため、ジッグラトのような高さがある建物は観測に適していたのです。

・・・(中略)・・・

《「エヌマ・アヌ・エンリル(Enuma Anu Enlil)」》

古代メソポタミアには、「エヌマ・アヌ・エンリル」という名の天文前兆占文書が存在します。この「エヌマ・アヌ・エンリル」に関しては、…アンミ・ツァドゥカ王の金星粘土板の冒頭「エヌマ・アヌ・エンリル(アヌ神とエンリル神が…する時)」という言葉があることから、この名前が付いています。
現存する粘土板文書の多くが、新アッシリアの都が置かれたニネヴェのアッシュルバニパル王(在位:BC668-627)の王宮文書庫から発見されたもので、現在、大英博物館に所蔵されています。
「エヌマ・アヌ・エンリル」は約70の粘土板文書からなるもので、全部で約7000もの前兆が記録されている古代メソポタミアを代表する占星文書です。
「エヌマ・アヌ・エンリル」は四部に分かれており、それぞれ月神シン、太陽神シャマシュ、金星女神イシュタル、天候神嵐神アダト神の四神にあてられています。アンミ・ツァドゥカ王の金星粘土板がこの「エヌマ・アヌ・エンリル」の63番目の粘土板であることから、その起源は、少なくともバビロン第一王朝のアンミ・ツァドゥカ王(在位:BC1646-BC1626頃)の時代にまで遡ると言われています。
そして、新アッシリア時代に至るまでの天文観測を加えることによって、7000もの天文現象とその解釈とを編纂することが可能となったのでした。そのため「エヌマ・アヌ・エンリル」は古代オリエント世界における最初の占星術の手引書の役割を果たしていたと考えられます。
それは、新アッシリアの時期に注目すべき役職名があることからも明らかとなっています。新アッシリアのエサルハドン王(在位:BC680-BC669)やアッシュルバニパル王の治世には、トゥプシャル・エヌマ・アヌ・エンリルと呼ばれる称号を持つ人々が存在していました。
トゥプシャルとは、アッカド語の「書記」を意味するトゥプシャルに由来しており、この称号は「エヌマ・アヌ・エンリルの書記」という意味になります。…彼らは、ある特有な天体現象が起こると、「エヌマ・アヌ・エンリル」を使用して、関連があると見られる前兆現象が記された部分を探し出してきて、専門に占星術を行なっていたと推定されています。

・・・(中略)・・・

《国家の占星術から個人の占星術へ》

…古代メソポタミアでは天体観測は密接に占星術と結びついていました。それは極端に言えば、占星術のために詳細な天体観測が実施されていたともいえます。古代の天文学は現在の天文学とは異なり、私たちが考える「科学」とは別の領域に属していました。天体の動きなどは、地上世界の変化の前兆であり、それによって地上の国家や民族の命運を左右すると考えられていました。
やがて、国家や民族の行く末を占っていた占星術も徐々に、個人の運命を占う今日の占星術へと変化していきました。現在のような、個人の運勢を占う占星術、すなわちホロスコポスの最古のものは、BC410年頃のものです。アケメネス(ハカーマニシュ)朝ペルシア時代のものであり、メソポタミア地域がペルシアの支配下に組み込まれた時代なので、メソポタミアの国家や民族の命運を占う必然性が無かったことも、こうした占星術が個人の占星術へと転換するきっかけとなったと思われます。
実際に、個人の占星術(ホロスコポス)が急速に普及するのは、ヘレニズム時代以降のことになります。