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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

意識と変容・雑考

この記事は、当ブログ=《思案:匿名・実名と社会責任》という文章化がきっかけとなった「全くの不意打ちの、或る悟り」があり、その内容を文章化してみたものとなります。実際は膨大な量とも思える悟りがあったのですが、とりあえず、今の時点で公的に文章化できるものだけ文章化

社会のあらゆる中間プロセス・中間構造に対して想像力が欠けている人は、だいたい過激な言葉で過激な意見を出す人が多いようです(ナントカ維新とか、徹底的な政権交代とか)。そして、膨大な中間プロセスを省いた、一ッ飛びの「結論」を好む。

それは残念なことに、社会をいっそう混乱させ、普通の人々を苦境に追いやる「ラディカルな意見」である事の方が多い…その過激さで、我が身の未熟性・浅い見識を呈していることに自分で気付かない人が多い…というのも、まま見られることです。

個々の社会現象を連結している膨大な中間プロセスの要素に対して、想像力が働くかどうか。「点と線」を繋げる強力な思考力があるかどうか(=古代人は、この思考力を豊かに持っていた。間違い無く)。それが、人の見識の大小を、そしてひいては、決断する政治家の質を決める、決定的な要素である…と自分は思うのであります。

社会…政治、マクロ経済とミクロ経済、国内外の情勢の変化、折節の季節の要素…

それは阿頼耶識の深淵の底から、各種の膨大な数の意識要素が立ち上がるプロセスにも似て。

中間プロセスや因果律の構造を軽視する人は、それだけ表面的な、点在的な思考にもなりやすい。モノゴトの一面しか見ようとしない、見えない…今見えている表層的な現象を支えている、中間層や深層といった、水面下の多様な繋がりや要素を見ようとしない。でも、時間に、空間に追われている人間としては、多くの要素をシャットアウトして生きていくしかないのも現実。

人間は見たいものを見る生き物、信じたいものを信じる生き物。そして「自分がどう見られるのか」をさえ、コントロールしたい生き物。だから宗教があり、信念があり、個人のポリシーがあり、無意識的・意識的な演技や演出があるのです。それは全て、個人レベルの阿頼耶識から生まれ出でたものが、決めるもの。

ソクラテスは「無知の知」という事を言っている。人が賢明になれるとしたら、その「無知の知」の奥義を極めた後の事なのでは無いかと思いました。それは、意外な事に「正しい恐怖心(=精神の一極集中により、鋭敏な予見力を発揮する)」ないし「未知のものに対し、正しく畏怖する心」なのです。

その心が弱い人は、「何が原因か?」「次に何が起こるのか?」という因果律的な想像力を働かせる力が弱い。未来が見えないことがとても不安であるが故に、予言にも振り回されやすい。個人レベルの生命としては、「死にやすい生命体」に区別されるのだと思う。人類文明社会の圧倒的な構造力がもたらす強力な保護が無ければ、野生自然状態では、あっという間に淘汰される存在です。

革命。それは、人類文明社会の基盤を破壊しない様式で成されるべき「変容」です。

社会の基盤システムとは何か。その前提、定義、存在、中間構造にすら想像力が及ばない人々は、自らの手で自らの保護システムを破壊し、荒らぶる自然環境の中にさらされ、国際社会環境の中にさらされて、淘汰される存在になるのです。

その意味で、我が手で我が死をもたらす「思考停止ゆえの革命」集団自殺は存在します。その革命の意義を支える狂気の暴走の前では、あらゆる論理、あらゆる思考が停止する。

自分の正義を信じる人は、概して、自分の意見を点検することなく相手にだけ譲歩を求める。それは言ってみれば、「退かぬ!媚びぬ!!省みぬ!!!」(by『北斗の拳』)です。

自分の、帝王の如き正義感や高貴さを信ずる余り、自分が思考停止していることに気付かないのです。不愉快な相手をやり込めるためだけに過激な言葉を使い、過激なレッテル張りを使い――そして、しまいには相手の言論弾圧にまで及ぶ。「お前は既に死んでいる…by『北斗の拳』」というレッテル張りをすることもある。

そうして、自分だけの論理を永遠にループする。それが思考停止。新しい要素や変化した前提を自分の思考に織り込むことができなくなっているのに、それにも気付かずに、もはや次元上昇も変容もしない思考経路を、全力で走り続ける。無意識のうちに、同じ行動を永遠に繰り返す。

それもまた、個人レベルの阿頼耶識が決めるもの。他人は、その人の阿頼耶識が表層意識にまで現われてきた「何か」、つまり「その人を構成している各種の要素」に気付き、指摘するだけです。しかし、同時に、気の遠くなるほどの膨大な中間層・深層の要素に、意識的に気付くこともある。「魂(自我の座)を読む」。非常に珍しいことだと思うけれど、案外、無意識領域では頻繁に起きていることなのかも知れない。

「変容しない」という事が、その人にとっての幸いならば、その人にとっての世界は逆転する。「人類社会という特殊な人工環境」は、そのような逆転現象をも、広い範囲で許容するのです。「何故?」を自分で考えなくても、誰かが、答えを出してくれる。それが人類社会が進化した方向。我々は皆、「我々そのものである社会」を、上から目線でけなし、批判しつつも…肝心の自分は何をしたら良いのか分からないまま、完全に依存している

現在、地球環境は激変しつつあります。地球は、「変容しない存在」を淘汰し始めるという事なのかも知れません。それはあくまでも、地球にとっては、「思考停止ゆえの革命」ではありません。「変容」なのです。

自分が、その地球の変容にシンクロ出来るのかどうかは、自分にも分かりません。これは「生きてある存在」ゆえの、答えの無い問題です。この道の専門家はおらず、自分で考え、思いつく限りの多様な対処をするしかありません。「次に何が起こるのか?」と緊張しつつ、自分の知らない「あらゆる方向」に、アンテナを伸ばすのみです。

思うに、社会を支える膨大な中間プロセス・中間構造に対して想像力が欠けている人というのは、自分以外の何処かに「理想的な答え」を見出すのが上手い人でもあるのかも知れません。

「理想的な答え」「決定的な瞬間」を見出した時、意識は、それ以上考える事をやめる。平板化・硬直化が起こる。その過程で、その場でしか有効では無い瞬間沸騰的な「浅い見識ゆえの高揚」が生じた場合、「思考停止ゆえの革命」に発展し、場合によっては、集団自殺をもたらす。

利点と欠点は、同じものの「表」と「裏」なのです。タロットカードに正位置と逆位置があるように、それはいずれとも決めがたい。場の状況に振り回されるままに、あっけなく価値逆転する要素ではあるけれど。

…瞬間的な、脆弱な意識を持つ人をも、人類社会は守る。地球環境の激変が、社会基盤の破壊にまで及ばない事を祈るものではありますが

以上のような事を、現状の前提のもとに、自分は思考しました。

自分は、まだまだ「学ぶべきもの」が多い者であります。

前提が変われば、今回の結論も変わると思います

《補足》

「信じる」というのは真に貴きこと、大切なことだと思います。

「何を信頼性の基本とするか」です。身分?言葉?行動?フィーリングの一致?

判断基準は、人によって異なる。自分の判断基準が何なのか、多様な状況に応じて、自分で決める。未知の状況にも応じて自律できる柔軟な精神状態であれば、それで良いのです。

しかし、未熟な精神状態にある「精神的赤子」のうちは、「自分がこの人と決めた」精神的指導者に、指導を仰ぐという事が絶対的に必要です。多くの場合、それは親であり恩師であります。或いは忘れられない本とか。

精神的指導者にも色々ありますが、自分の無意識的なビジョンに応じて変化するので、内容に関しては、余り確定して言える事は無いと思います。

自分のビジョンや意識が成長すればするほど、それに応じた人物や出来事と出会うものです。一貫するものがあるとすれば、それは「シンクロニシティ」に他なりません。そうして畏怖すべき未知の世界もまた、広がってゆく。おそらくは無限に。

「縁」というものの神秘は此処にあり…と思えるほどです。

http://twilog.org/t_ota/date-121105"
太田俊寛さまの2012.11.5ツイート

>小林和彦『ボクには世界がこう見えていた 統合失調症闘病記』(新潮文庫)を読了。巻末の解説によれば、著者の病状は現在の精神医学では「統合失調感情障害」と呼ばれるものとのことだが、パラノイア的な世界観がきわめてクリアな文体で描き出されており、とても参考になった。

>パラノイアの思考様式においては、対象の範囲を限定して綿密に考察することができなくなり、世界全体を「救済か破滅か」といった単純な二元論で捉える傾向が顕著となる。こうしたパラノイア的世界観は、統合失調症のみならず、その他の精神障害、カルト宗教の教義や陰謀論にも見受けられる。

>また、精神障害者ではない普通の人であっても、何かの切っ掛けで極端に心の余裕を失ってしまうと、同種の思考法に陥ってしまうのではないだろうか。その意味において、パラノイア的世界観は、実は人間理性にとって原始的な思考様式の一つではないだろうかと感じさせられた。

☆単なる趣味のメモ(YouTube動画)

伊勢神宮秋季神楽祭・迦陵頻迦
http://www.youtube.com/watch?v=3O2HrtKQv5s

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2011.8.27ホームページ更新

制作日誌で記録した西洋中世史の私的研究をまとめて、ホームページに仕立てました。

ホームページ版の方は、かなり加筆をして容量が増えてしまったので、番外編を設けました。後から考えてみると、オカルト関係(錬金術やカタリ派など)でかなり興味深い様相が展開していたのも中世史の特徴だったので、この部分も盛り込んでみればよかったかなと、反省です。

星巴の時空4.・・・諸国暁闇ノ章
直通アドレス=[http://mimoronoteikoku.tudura.com/garden/history/europe_4.html
星巴の時空・番外・・・中世ルネサンス関連の添付資料
直通アドレス=[http://mimoronoteikoku.tudura.com/garden/history/europe_5.html

西洋中世史の私的な研究:

西洋中世研究の参考:

《以上》

◆歴史研究の付録【カタリ派をめぐる南仏情勢の覚書】=2009.11.29メモの再掲◆

【カタリ派をめぐる南仏情勢の覚書】

12-13世紀のプロヴァンスなど南仏地方では、地中海を通じた商業が盛んで、ユダヤ社会も繁栄していた。当時のナルボンヌ諸都市の記録に、ユダヤ人裁判官や商業者の名が見える。

また、中世カバラー思想(10のセフィラを持つセフィロトなどの神秘思想)もここで発生した。古代ユダヤ神秘思想とは系列が異なるものであったらしいが、『ゾハル(光輝の書)』、『セフェル・イェツィラー(創造の書)』、『バヒール(光輝の書)』などの主要なカバラ文献が、ユダヤ神秘思想史の表舞台に出てきた事は、注目される。

ユダヤ神秘思想の中心地は、スペイン、アキテーヌ、プロヴァンス、ラングドック、レヴァント、ナルボンヌなどの地中海沿岸であったらしい。ここからは、当時の地中海の南で急激に広がったイスラーム勢力との、広汎な交流の様子が透けて見えるものである。

(歴史説話の分野になるが、「トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)」を想起されたい。特にフランク軍がイスラームに反撃した際は、ラングドック地方は砂漠と化した、というくらいに大きな被害を受けたそうである。初期フランク人は野蛮人であったらしい。だからこそ、後に広大なフランク統一帝国を作りえたのではあるが…)

同じ頃、異端カタリ派も南仏、特にラングドック地方で繁栄しており、ユダヤ社会とは友好関係にあったらしい。小アジアやコンスタンティノープルを拠点とする東方教会とも、直接の交流があった。カタリ派の流れには、ユダヤ神秘思想やスーフィズム、オリエント神秘思想の要素が、確実に含まれてあったわけである。正確にマニ教グノーシス系統であったかどうかは、未だに議論のテーマであるらしいが、いずれにせよオリエント神秘思想を受け継ぐ「グノーシス的異端」だったのだと言えよう。

ここで、アルビジョワ十字軍1209-1229のきっかけについて記しておく。

教皇インノケンティウス3世が派遣した使節ピエールが、カタリ派の盛んなトゥルーズ伯レイモン6世の土地でカタリ派を根絶しようとしたが、結局、トゥルーズ伯の手の者に、背後から槍で突き殺された…という事件による。説話によれば、この顛末を聞いた教皇は、2日間、声が出ないほど怒り狂った後、フランス王に破門者トゥルーズ伯の討伐を訴えた。これがアルビジョワ十字軍の始まりである。

(ちなみに、トゥルーズ伯レイモン6世は、異端カタリ派支援貴族として、破門を受けた人物である。この破門宣告という代物は、最近の北朝鮮やイランなどの、テロ支援国家の指定に似てなくも無い。…いちじるしいデジャビュを感じるのは多分、気のせいでは無い筈だ…)

アルビジョワ十字軍はユダヤ排除も含んでおり、南仏ユダヤ・コミュニティーの弾圧も行なわれたと言われている。実際、十字軍とは、とどのつまり、欧州社会における一大ヒステリーであり、大規模なユダヤ排斥運動の一様式であったらしい、ということが指摘されている。

フランス・カペー朝は、この教皇からの討伐依頼を利用し、莫大な資金と軍隊とを運用して、南仏穀倉地帯を支配していた諸侯を制圧し、フランス統一を図ったのである。ブルゴーニュ、イル=ド=フランス、ノルマンディー地方の騎士たちは、過去の十字軍とは異なり、海を渡る必要も、他国の騎士と競争する必要も無く、南仏の豊かな商業の富が容易に手に入る事を夢想して、アルビジョワ十字軍に参加したのであった。

最も凶暴な十字軍で知られたのは、イル=ド=フランス出身のレステル伯シモン・ド・モンフォール勢力である。十字軍の殆どが帰郷したにも関わらず、シモンは新トゥルーズ伯になる事を望んで略奪と圧制の限りを続け、配下の騎士たちは血の海の中で、カタリ派の財産を奪ったのであった。インノケンティウス3世自身、自らの名において発した十字軍の残虐行為の有様に、不安になったそうである(ちなみにその後、フランス情勢は動乱を続け、圧制者シモンは、トゥルーズ伯の反撃の際に投石で殺された)。

同じ頃に、カトリック=スコラ学の尖兵としてドミニコ修道会が結成され、アルビジョワ十字軍に随行し、カタリ派を異端審問にかけ、殺害した事が知られている。皮肉なことに、「転向した元カタリ派」による異端審問が、最も苛酷なものだったそうである。

(ドミニコは死後わずか13年で聖人に列せられた。この辺りにローマ=カトリックの「清らかではない政治事情」を見てもよいと思われる。当時の聖職者の堕落ぶりは、大きな話題になっていた。その折に現世を悪と見るカタリ派が人気を博したという事実は、ローマ=カトリック側に深刻な危機感と醜い嫉妬心とをかきたてた筈である。ついでながら、ドミニコ会は中世スコラ学の巨人アルベルトゥス・マグヌスと、その弟子トマス・アクィナスを輩出した事で知られている。)

このアルビジョワ十字軍から始まったフランス南北戦争により、豊かな土地であった南仏は荒廃して大勢の死者を出した。南仏で最も有力であったトゥルーズ伯の子孫(圧制者シモンからトゥルーズを奪還した人物の息子)が、抗戦の末にフランス王に降伏し、上着を脱いだシャツ1枚の姿となり、「カタリ派の一掃、及びフランス王室との政略結婚に応じる旨」をノートルダム広場の前で誓った事をもって、南仏は正式にカトリック系フランス領土となることが運命付けられた。

こうした政治情勢の激変と並行して、魔女裁判があったことも、南仏カタリ派の崩壊に拍車をかけた。更に14世紀ペストの大流行があり、わずかな残党も壊滅したのである。カタリ派が完全に断絶し、異端審問所が無くなったのは、1350年頃のことである。

この後、カタリ派と同じくオリエント・グノーシスの影響を受けたユダヤ神秘思想(カバラ中心)が、スペイン=レコンキスタ運動に追われたユダヤ人のイタリア移住後、イタリア・ルネサンスの波に乗って一気にヨーロッパ全体に拡散し、中世崩壊以後の西洋オカルト思想に大きな影響を与えたのは、これまた皮肉な現象である。

最後になるが、この100万人以上にのぼった南仏大虐殺の歴史は、フランスではあまり重要視されていないらしい。フランス南北戦争の末に、強大な大陸型権力と、豊かな領土とが手に入った…というメリットの方が大きかった、という事であろう。

この辺りは、文革大虐殺の歴史を、共産党の歴史学界があまり重要視しないのと、構図は似ているのではあるまいか。いささか「シラケ」の感も否めないが、人間は、本来、直視したくない事象は捨像するものなのである。それが人格崩壊を防ぐのに必要な方法でもあるからだろう。

人間は、事実と「ありのまま」に向き合えるほど強い生き物ではないのである。

流行りのスピリチュアルが「事実をありのままに見る」…と言うとき、そこに、惨めに屈折した「幻想への隷従」を見ずにはおれない。

逆に言えば「いわゆる新世界秩序」は、各種宗教法人や2012年終末版スピリチュアルブームを通じて、そういう終末幻想の心理を煽っている、という事だろう。「彼ら」が、何の目的でそういう事をするのかは知らないが、社会歴史を紐解いてみる限りでは、総じてこういう心理が群集心理となった時が危険である…と、はっきりと述べることが出来る。

扱い方を間違えれば、アキバ事件の拡大版や文革など、十字軍的ヒステリーを爆発させる事になるからである。ついでながら、霊感商法や霊感コンサルタントなどの商売の場合は、それが商売になるから、終末幻想の流行をいっそう煽るのではあるまいか。彼らに明確な「霊的な意味での使命/自由意思」があるとは思えないのである。

必要なのは、時代の激変に耐えうる安定した精神(禅的流体的な精神)を鍛え養う事であって、ラディカルな革命思想に走る事でも、終末幻想にのめりこむ事でも無い、のである。日本人の精神は、元来、そういう高い境地を目指していたのである。

上の考えは、物語のシナリオで少しずつ提唱してゆく予定であったが、現代社会のヒステリー状態にさすがに不安になったので、あらかじめ、まとめて提唱しておくものである

詩歌鑑賞「犬吠岬旅情のうた」

犬吠岬旅情のうた/佐藤春夫

ここに来て
をみなにならひ
名も知らぬ草花をつむ。
みづからの影踏むわれは
仰(あふ)がねば
燈台の高きを知らず。
波のうねうね
ふる里のそれには如かず。
ただ思ふ
荒磯(ありそ)に生きて松のいろ
錆びて黒きを。
わがこころ
錆びて黒きを。