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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

深森イラスト遊戯「おじさんトリオ」他

◆カラーイラスト:おじさんトリオ

左から順に鹿深さん・八条さん・カモさん。朝廷の仕事場の一幕

◆カラーイラスト:現代バージョン・カモさん(賀茂高景)

古代の「大納言」は、現代で言えば、おそらく閣僚クラス

◆白黒イラスト:世紀末ファンタジー女戦士

参照イメージは、モータースポーツ系レースクイーン。ハイヒールは戦闘のための靴では無いので、非現実的なファッションになっているのは致し方ないところ

◆白黒イラスト:ラノベ系美少女

萌え絵の方でも見かける、あどけない印象の美少女

◆白黒イラスト(2点):ヒーロー仮面系、歴史ファンタジー系美少年

良く描けたと思うので、記念。ヒーロー仮面は、ヒーロー戦隊の類をイメージ。美少年は、いわゆる美麗イラストの方で活用できるタイプを意識して描き出してある

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読書ノート『正法眼蔵』現成公案

《正法眼蔵/現成公案》・・・《現(うつつ)を成す、あまねき理(ことわり)》

諸法の佛法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

《私的解釈》
大いなるものの中に、迷いと悟りがあり、生と死があり、光と闇がある。大いなるもの無ければ、迷いと悟りは無く、光と闇は無く、生成と消滅は無い。大いなるものは、この世の貧富を超越するところにあるが故に、大いなるものの中で生成消滅があり、迷いと悟りがあり、生ける神があるのだ。しかも、世界はこのようにあるとは言っても、花は惜しまれながら散り、草は嫌われながら生える、ただそれだけの事である。

自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。

《私的解釈》
自我に囚われたまま世界の相を知る事は迷いである。世界の相を学び自我を見極める事は悟りである。迷妄を克服するのは開けた意識である。克服せずに迷い続けるのは閉じられた意識である。さらに悟りの上に悟りを重ねる者があれば、迷いに迷い続ける者もある。世界の相に真に同化した時、自我は、世界の相と自己の相とを区別することはできない。そのようにあっても大いなるものはあるのであり、(我々は)大いなるものを悟ってゆくものなのである。

身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。

《私的解釈》
・・・(中略)・・・。(自我というのは)一方の現象に注目する余りに、もう一方の現象が見えなくなるものだ(木を見て森を見ず、森を見て木を見ず)。

佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり。法すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。

《私的解釈》
・・・(中略)・・・。大いなるものに同化するという事は、この小さき自我に属する主観と客観とが、共に抜き去られてゆくという事だ。大自然は沈黙(寂静)にあり、沈黙(寂静)なる大自然はじわじわと浸透してゆくものなのだ。人が初めて真理を求める時は、真理の周辺から遠く離れてしまっている。真理は既におのれの内にありと悟る時、人は真実の者となる。

人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を亂想して萬法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして箇裏に歸すれば、萬法のわれにあらぬ道理あきらけし。

《私的解釈》
・・・(中略)・・・。舟の進行を知る時と同じように、心身乱れた状態で大自然と臨めば、自我は永遠不変なりと誤る。坐禅(心身不動の状態)で大自然と臨めば、大自然は(そのような永遠不変と見られる)自我では無いという道理は、明らかである。

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、佛法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる佛轉なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

《私的解釈》
(大意)=大自然は諸行無常である。万物流転である。生の相があり、死の相があり、永遠に変わらないものなど無い。時代は後戻りすることは無い。日々新たに変容してゆくのである。

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も彌天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罜礙せざること、滴露の天月を罜礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿點し、天月の廣狹を辨取すべし。

《私的解釈》
(大意)=大いなる大自然は、小さき自己に反映する。この真理は完全に完璧であり、疑う箇所は無い。悟りの深い事は悟りの高い事と同等である。その悟りのタイミングの良し悪しについては、大いなる現象と小さき現象との兼ね合いをよくよく熟考し、判断するべきである。

身心に法いまだ參飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。かれがごとく、萬法またしかあり。塵中格外、おほく樣子を帶せりといへども、參學眼力のおよぶばかりを見取會取するなり。萬法の家風をきかんには、方圓とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

《私的解釈》
(大意)=悟りの不十分な時、悟りは十分であると早とちりするものである。十分な悟りを得ると、まだまだ悟りの不十分な事が分かってくる(=知れば知るほど、分からない事が出てくるものである)。大自然は無限にあり、多種多様な世界がある事を知るべきである。身の回りの事象は、見たままの浅きものでは無く、直下にも一滴にも、深いものがあると知るべきである。

うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく、處處に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水爲命しりぬべし、以空爲命しりぬべし。以鳥爲命あり、以魚爲命あり。以命爲鳥なるべし、以命爲魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修證あり、その壽者命者あること、かくのごとし。

《私的解釈》
(大意)=人は、人の世界から離れて生きてゆく事は出来ない。ただ生命の能力として、大小の(雑多な)環境に適応してゆくのみである。さらに(我々、命ある者は、悟りにおいて)進化変容してゆくべきなのである。大いなる道があり、その大自然から授かった寿命は、その道のためにある。

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑにかくのごとくあるなり。

《私的解釈》
(大意)=与えられた命の中で道を尽くし、疑念のままに道をはみ出してゆく(目的の為に手段を選ばず、手段の為に目的を忘れる)者は、悟りの境地を得る事は無い。この箇所を得心すれば、ありのままの日常の中に、世界が現成するのである。大小の差を超越し、主観と客観を超越し、過去と未来を超越するところに、「今この瞬間(一期一会)」の現実が生起するのだ。

しかあるがごとく、人もし佛道を修證するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、佛法の究盡と同生し、同參するゆゑにしかあるなり。得處かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。證究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

《私的解釈》
このように、人が大いなる道を証しようとすれば、一つの法、一つの道、一つの遭遇、一つの理解を歩むことになる。この境地に至る道によくよく通暁すれば、世界の未知の領域においても、同じように大いなる道がある事が察せられるのだ。ここで得たものは己の理解となり、知識としては知らなくても、自然に発揮する(自然に振舞える)ものである。世界がすみやかに現成するとは言っても、その世界は必ずしも目の前に、分かりやすくありありと現われるものでは無い。その本質に透徹する事が必要なのである。

麻浴山寶徹禪師、あふぎをつかふちなみに、きたりてとふ、風性常住無處不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。
師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。
僧いはく、いかならんかこれ無處不周底の道理。
ときに、師、あふぎをつかふのみなり。
僧、禮拜す。

《私的解釈》
禅師が扇を使っているところに、僧が来て問うた。「風の性は、常に此処にあって動かないものです。何故に殊更に扇を使うのでしょう」/師曰く「君は“風性常住”を知っているけど、“所として至らずという事の無き(無處不周)”という道理をまだ知らないね」/僧曰く「無處不周底の道理とは、どういう事でしょう?」/師はただ扇を使っていた(風が融通無碍に此処にある事を示すために、風を起こしていた)。/僧は礼拝した(=得心した)。

佛法の證驗、正傳の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、佛家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を參熟せり。

正法眼藏見成公案第一

これは天福元年中秋のころ、かきて鎭西の俗弟子楊光秀にあたふ。

建長壬子拾勒

読書ノート『賭博の日本史』(3)終

『賭博の日本史』増川宏一(平凡社1989)

・・・中世の賭博・・・

13世紀後半の賭博の隆盛の一端を、春日社をはじめ幾つかの記録から知る事が出来る。

春日社の博奕取締まり事件(文永9年/1272年)以後も、賭博遊戯が止む事は無かった。春日社の記録からは、少なくとも文永9年の博奕取締まり事件以来、十数年間もの間、常に博奕対策が重要な問題になり、政争にまで発展しかねない状況だったことがうかがえる。

【例】弘安元年(1278年)6月5日「当社(春日社)の落書により、上より仰せ下された条々」
「春日社条々制事」=16条からなる禁止令/鹿を殺してはいけない。鹿を襲う犬を見つけたら搦め捨てよ。神人は宝前で高声、雑談、狼藉をしてはならない。…白人ならびに神人は白衣、腰刀、博奕を永く停止する。(※白人は、雑役に従事した白丁の意味か)

文永10年(1273年)11月、『春日社記録』に再び賭博の記述が現われる。
今日、衆徒より慶知、幸忍をもって命ぜられたことは、以下のようである。先日命ぜられた御山の木を拾ったり鳥を獲ることなどが一向に止んでいない。次に神人の博奕のこと、もってのほかの流行である。社家の沙汰において落書で罰するべきである。これがおこなわれないならば、奉行で審議する(11月19日)
これを受けて翌20日に神主重元から代官泰長に触れさせたのは、昨日御詮議になった神人たちの博奕についてという内容で、社家などに通達している。さらに21日に次のような回文案が記されている。
社司、氏人、神人の博奕の主は、各々落書をもって申せしめるべきの旨、衆徒より命ぜられ候。明二二日の御神楽の御神事の時に、懐中にその状を持って御前に出席させるように。恐々謹言/一一月二二日/神主泰道
謹上-正預殿並びに権官氏人御中
追伸-若宮の神主殿も同じく御存知になられるように-謹言

理由は不明だが、指定された22日の落書の回収の時に神主は参加しなかった。26日になってから、衆議にはかるために博奕をした者の名を書いた落書が集められた。

先例に従えば集められた落書は両惣官(本宮、若宮の神主?)が封印するが、この時は常住神殿守の守安、奉行の2人が神主の下知によって封印した。「社司と氏人の落書二巻と神人三方(南郷・北郷・若宮)を一巻」に落書がまとめられた。

(春日社をはさんで三条通りの南を南郷、北を北郷と言った。つまり文永10年の取締りは、文永9年の取締りより広がっていた。神人だけでなく、春日社全域と社司、氏人も対象になった)

審議に若干の日数を要したらしく、12月21日になってから博奕の処罰の結果が『春日社記録』に記された。
今日、成氏(春松北郷)、末延(延命北郷)と氏人の泰氏修理亮の衆勘が終わった。神人二人は解職した。その理由は、先日の社家により命ぜられた博奕の罪科を蒙ったからである。昨二〇日に落書を衆中に披露した結果による。

神人2名と社司の子弟(氏人)1名が賭博で罰せられた。しかしこれで博奕が収束したわけでは無く、中臣祐賢は文永12年(1275年)2月25日の日記で、再び賭博について記している。

>>【博奕取締りの命令】>>
衆徒により中綱聖弥をもって命ぜられたのは、社頭のシトミ遣戸盗人のこと並びに社頭宿所にて四一半を打つ者があることを内々聞いていた。これについて衆中への披露がないのか。速やかに使者をもって四一半を打っている神人の名前を悉く注進せよ。社頭の盗人のことで三方の寄合をするように。
>>【命令への返事】>>
畏れ承りました。社頭のシトミ遣戸の件は去年に寺家から仰せ出されましたので、水屋社は一社同心に落書させました。其後は(盗みが止みましたので)仰せられることもありません。神主宿所において四一半を打つことについて、両惣官より神人の名前を注進させようとしていまして、今夜、戌の刻に衆徒より聖弥をもって重ねて命じられました。社頭で四一半を打っていた神人の春米、是永、末安等を速やかに解職するよう命じました。両惣官等にお命じになった書状をもっての摘発は終了いたしております。四一半を打った者の縁者の家ならびに寄宿所はすべて破却いたしました。これ(=縁者?)を見つけたならば、搦め捕るよう命令しております。

これ以降も賭博は流行し、建治3年(1277年)の記録にも現われる。しかし、この2年間に、諸々の問題をはらんでいた春日社では幾つかの事件が顕在化した。

【春日社の内紛状況…複雑な組織内での反目が存在していた】
●12世紀前半に分離した若宮と本宮との対立
●元来が同族であった南郷・執行正預-本宮中臣氏と北郷・神主家本中臣氏との反目
●南郷神人と北郷神人との対立
●本社の神人と在郷名主に所属する散在神人との差異
●武装した白衣神人と呼ばれる一団は興福寺に所属し、春日社の内紛に干渉

その後、正預側と神主側の対立を反映したのか、建治元年(1275年)に、神人間の紛争から南郷神人が皆逐電する(8月18日)という事態が発生した。8月20日には、対抗して北郷神人が「御成敗に背き逐電」と記されている。

11月11日に神主泰道が温病になり、若宮の中臣祐賢は政敵・泰道への敵意を持って次のように記した。
●始めは腫物と言っていたが、実は温病である。今朝神主の所従の小童が一人温病で死んだ。これも起請文に偽りを書いたためである。神主家中は皆病んでいるという云々…
(※温病/うんびょう=急性熱病の総称で、熱感や炎症性の症状が主に現れる)
●一四日夜新権神主泰家が温病で死んだ。これも偽起請文の故で、尤も恐れ入る。神主泰道も温病で一男の泰長も同様…
●(12月5日)大中臣方偽起請文のこと、神慮顕然…
●(12月13日)大中臣皆悉く起請文を偽った。早く御成敗を蒙るべきの由、これを申す…
このような政争を続けた後の、建治3年(1277年)1月18日、中臣祐賢の再びの記録
摂津守祐親が上洛した。その理由は、正預祐継は去年の冬の頃に次男祐員が四一半を打ったことで祐継が衆勘を蒙り、これについて(祐継が)正預職を辞退すると聞いたからである。(それならば)神宮預の祐貫を転任させるべきか、祐貫の跡の職を祐親が所望したいという。祐貫は(祐親に)先立って上洛したという云々…

祐親は若宮神主・中臣祐賢の弟である。一方、正預祐継は中臣祐賢の政敵であり、その正預祐継の次男・祐員が、賭博に関わったため辞職するのでは?という事で、神宮預の祐貫を正預に着任させて、中臣祐賢の弟である祐親が代わりに神宮預を務めたいと言うのである。春日社の最高幹部の子弟が四一半賭博をしたというスキャンダルを政争の具として、人事ポストの闘争がおこなわれたという可能性がうかがえる。

「上洛云々」とあるのは、春日社が伝統的に藤原氏の代々の氏長者の指示を仰いでおり、春日社の代表が京都まで行って、藤原氏の氏長者と接触する必要があった故だと言う。ただし、この時点では、数ヶ月神事に参列はしていなかったものの、正預祐継はまだ解任されておらず、在京であったらしい。彼は4月1日に、「執行正預祐継」の名前で、和泉国の神人の訴訟の件で各権官に3日以内に上京せよと触れている。


(興味深い記述を抜粋:文献93p-94p)

賽賭博である四一半は、春日社の神人だけが特別に愛好していたのでは無い。

金剛峰寺や高野山領においても賭博取締りがおこなわれていた。文永8年(1271年)6月17日の高野山領の「神野真国猿川三箇庄庄官連署起請文」には、庄内で流行している四一半賭博を禁止し、「博奕は盗犯のはじまりで、武家領でさえ制禁されているのに、まして禅徒の管領は当然」と言っている。この三箇庄は建治元年(1275年)にも四一半の禁止に触れている。

春日社の神人の落書に「悪党」と記されていたのは、当時近畿一帯に台頭した悪党を指しているのか不明であるが、いわゆる「悪党」と呼ばれた者たちのなかには、賭博と深く関わっていた者も少なくなかった。

弘安9年(1286年)に紀伊国荒河庄の悪党弥四郎為時は四一半打と非難され(『高野山文書宝簡集』)、為時自身の起請文――書いただけで全く実行していないが――にも「四一半を打たず、部類眷属にも固くいましめる」(『高野山文書宝簡集』)と記している。

同年の「東大寺三綱等申状案」は、伊賀国黒田庄の悪党大江清直が「憚ることなく博奕を業となし」(『東大寺文書』)と述べ、後の嘉元4年(1306年)の「大和平野殿庄雑掌幸舜重申状案」は、「(悪党の)清重は博奕を業となし、国中に憚るところなく、下司職を博打の賭で勝ち取ったと称し、種々の狼藉を致す」(『東寺百合文書』)と言上している。数十人を率いて庄家に打ち入り預所を追い出し、欲しいままに山木を伐りとる悪党の指導者は、賭博で下司職を奪い取ったという。下司職が賭物になっている興味深い記録である。

賭博は近畿だけでなく、たとえば13世紀後半の筑後国(現・福岡県)鷹尾社の支配権をめぐる紀氏と多米氏の抗争でも、互いに相手を雙六賭博の徒と誹謗しあい、具体的な賭博の事例を述べている。このように、各地で賭博は盛んであった。