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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『賭博の日本史』(3)終

『賭博の日本史』増川宏一(平凡社1989)

・・・中世の賭博・・・

13世紀後半の賭博の隆盛の一端を、春日社をはじめ幾つかの記録から知る事が出来る。

春日社の博奕取締まり事件(文永9年/1272年)以後も、賭博遊戯が止む事は無かった。春日社の記録からは、少なくとも文永9年の博奕取締まり事件以来、十数年間もの間、常に博奕対策が重要な問題になり、政争にまで発展しかねない状況だったことがうかがえる。

【例】弘安元年(1278年)6月5日「当社(春日社)の落書により、上より仰せ下された条々」
「春日社条々制事」=16条からなる禁止令/鹿を殺してはいけない。鹿を襲う犬を見つけたら搦め捨てよ。神人は宝前で高声、雑談、狼藉をしてはならない。…白人ならびに神人は白衣、腰刀、博奕を永く停止する。(※白人は、雑役に従事した白丁の意味か)

文永10年(1273年)11月、『春日社記録』に再び賭博の記述が現われる。
今日、衆徒より慶知、幸忍をもって命ぜられたことは、以下のようである。先日命ぜられた御山の木を拾ったり鳥を獲ることなどが一向に止んでいない。次に神人の博奕のこと、もってのほかの流行である。社家の沙汰において落書で罰するべきである。これがおこなわれないならば、奉行で審議する(11月19日)
これを受けて翌20日に神主重元から代官泰長に触れさせたのは、昨日御詮議になった神人たちの博奕についてという内容で、社家などに通達している。さらに21日に次のような回文案が記されている。
社司、氏人、神人の博奕の主は、各々落書をもって申せしめるべきの旨、衆徒より命ぜられ候。明二二日の御神楽の御神事の時に、懐中にその状を持って御前に出席させるように。恐々謹言/一一月二二日/神主泰道
謹上-正預殿並びに権官氏人御中
追伸-若宮の神主殿も同じく御存知になられるように-謹言

理由は不明だが、指定された22日の落書の回収の時に神主は参加しなかった。26日になってから、衆議にはかるために博奕をした者の名を書いた落書が集められた。

先例に従えば集められた落書は両惣官(本宮、若宮の神主?)が封印するが、この時は常住神殿守の守安、奉行の2人が神主の下知によって封印した。「社司と氏人の落書二巻と神人三方(南郷・北郷・若宮)を一巻」に落書がまとめられた。

(春日社をはさんで三条通りの南を南郷、北を北郷と言った。つまり文永10年の取締りは、文永9年の取締りより広がっていた。神人だけでなく、春日社全域と社司、氏人も対象になった)

審議に若干の日数を要したらしく、12月21日になってから博奕の処罰の結果が『春日社記録』に記された。
今日、成氏(春松北郷)、末延(延命北郷)と氏人の泰氏修理亮の衆勘が終わった。神人二人は解職した。その理由は、先日の社家により命ぜられた博奕の罪科を蒙ったからである。昨二〇日に落書を衆中に披露した結果による。

神人2名と社司の子弟(氏人)1名が賭博で罰せられた。しかしこれで博奕が収束したわけでは無く、中臣祐賢は文永12年(1275年)2月25日の日記で、再び賭博について記している。

>>【博奕取締りの命令】>>
衆徒により中綱聖弥をもって命ぜられたのは、社頭のシトミ遣戸盗人のこと並びに社頭宿所にて四一半を打つ者があることを内々聞いていた。これについて衆中への披露がないのか。速やかに使者をもって四一半を打っている神人の名前を悉く注進せよ。社頭の盗人のことで三方の寄合をするように。
>>【命令への返事】>>
畏れ承りました。社頭のシトミ遣戸の件は去年に寺家から仰せ出されましたので、水屋社は一社同心に落書させました。其後は(盗みが止みましたので)仰せられることもありません。神主宿所において四一半を打つことについて、両惣官より神人の名前を注進させようとしていまして、今夜、戌の刻に衆徒より聖弥をもって重ねて命じられました。社頭で四一半を打っていた神人の春米、是永、末安等を速やかに解職するよう命じました。両惣官等にお命じになった書状をもっての摘発は終了いたしております。四一半を打った者の縁者の家ならびに寄宿所はすべて破却いたしました。これ(=縁者?)を見つけたならば、搦め捕るよう命令しております。

これ以降も賭博は流行し、建治3年(1277年)の記録にも現われる。しかし、この2年間に、諸々の問題をはらんでいた春日社では幾つかの事件が顕在化した。

【春日社の内紛状況…複雑な組織内での反目が存在していた】
●12世紀前半に分離した若宮と本宮との対立
●元来が同族であった南郷・執行正預-本宮中臣氏と北郷・神主家本中臣氏との反目
●南郷神人と北郷神人との対立
●本社の神人と在郷名主に所属する散在神人との差異
●武装した白衣神人と呼ばれる一団は興福寺に所属し、春日社の内紛に干渉

その後、正預側と神主側の対立を反映したのか、建治元年(1275年)に、神人間の紛争から南郷神人が皆逐電する(8月18日)という事態が発生した。8月20日には、対抗して北郷神人が「御成敗に背き逐電」と記されている。

11月11日に神主泰道が温病になり、若宮の中臣祐賢は政敵・泰道への敵意を持って次のように記した。
●始めは腫物と言っていたが、実は温病である。今朝神主の所従の小童が一人温病で死んだ。これも起請文に偽りを書いたためである。神主家中は皆病んでいるという云々…
(※温病/うんびょう=急性熱病の総称で、熱感や炎症性の症状が主に現れる)
●一四日夜新権神主泰家が温病で死んだ。これも偽起請文の故で、尤も恐れ入る。神主泰道も温病で一男の泰長も同様…
●(12月5日)大中臣方偽起請文のこと、神慮顕然…
●(12月13日)大中臣皆悉く起請文を偽った。早く御成敗を蒙るべきの由、これを申す…
このような政争を続けた後の、建治3年(1277年)1月18日、中臣祐賢の再びの記録
摂津守祐親が上洛した。その理由は、正預祐継は去年の冬の頃に次男祐員が四一半を打ったことで祐継が衆勘を蒙り、これについて(祐継が)正預職を辞退すると聞いたからである。(それならば)神宮預の祐貫を転任させるべきか、祐貫の跡の職を祐親が所望したいという。祐貫は(祐親に)先立って上洛したという云々…

祐親は若宮神主・中臣祐賢の弟である。一方、正預祐継は中臣祐賢の政敵であり、その正預祐継の次男・祐員が、賭博に関わったため辞職するのでは?という事で、神宮預の祐貫を正預に着任させて、中臣祐賢の弟である祐親が代わりに神宮預を務めたいと言うのである。春日社の最高幹部の子弟が四一半賭博をしたというスキャンダルを政争の具として、人事ポストの闘争がおこなわれたという可能性がうかがえる。

「上洛云々」とあるのは、春日社が伝統的に藤原氏の代々の氏長者の指示を仰いでおり、春日社の代表が京都まで行って、藤原氏の氏長者と接触する必要があった故だと言う。ただし、この時点では、数ヶ月神事に参列はしていなかったものの、正預祐継はまだ解任されておらず、在京であったらしい。彼は4月1日に、「執行正預祐継」の名前で、和泉国の神人の訴訟の件で各権官に3日以内に上京せよと触れている。


(興味深い記述を抜粋:文献93p-94p)

賽賭博である四一半は、春日社の神人だけが特別に愛好していたのでは無い。

金剛峰寺や高野山領においても賭博取締りがおこなわれていた。文永8年(1271年)6月17日の高野山領の「神野真国猿川三箇庄庄官連署起請文」には、庄内で流行している四一半賭博を禁止し、「博奕は盗犯のはじまりで、武家領でさえ制禁されているのに、まして禅徒の管領は当然」と言っている。この三箇庄は建治元年(1275年)にも四一半の禁止に触れている。

春日社の神人の落書に「悪党」と記されていたのは、当時近畿一帯に台頭した悪党を指しているのか不明であるが、いわゆる「悪党」と呼ばれた者たちのなかには、賭博と深く関わっていた者も少なくなかった。

弘安9年(1286年)に紀伊国荒河庄の悪党弥四郎為時は四一半打と非難され(『高野山文書宝簡集』)、為時自身の起請文――書いただけで全く実行していないが――にも「四一半を打たず、部類眷属にも固くいましめる」(『高野山文書宝簡集』)と記している。

同年の「東大寺三綱等申状案」は、伊賀国黒田庄の悪党大江清直が「憚ることなく博奕を業となし」(『東大寺文書』)と述べ、後の嘉元4年(1306年)の「大和平野殿庄雑掌幸舜重申状案」は、「(悪党の)清重は博奕を業となし、国中に憚るところなく、下司職を博打の賭で勝ち取ったと称し、種々の狼藉を致す」(『東寺百合文書』)と言上している。数十人を率いて庄家に打ち入り預所を追い出し、欲しいままに山木を伐りとる悪党の指導者は、賭博で下司職を奪い取ったという。下司職が賭物になっている興味深い記録である。

賭博は近畿だけでなく、たとえば13世紀後半の筑後国(現・福岡県)鷹尾社の支配権をめぐる紀氏と多米氏の抗争でも、互いに相手を雙六賭博の徒と誹謗しあい、具体的な賭博の事例を述べている。このように、各地で賭博は盛んであった。
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