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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

詩歌鑑賞:ハウスマン「ウェンロックの丘にて」

On Wenlock Edge

On Wenlock Edge the wood's in trouble;
His forest fleece the Wrekin heaves;
The gale, it plies the saplings double;
And thick on Seven snow the leaves.

'Twould blow like this through holt and hanger
When Uricon the city stood:
'Tis the old wind in the old anger,
But then it threshed another wood.

Then, 'twas before my time, the Roman
At yonder heaving hill would stare:
The blood that warmed an English yeoman,
The thoughts that hurt him, they were there.

There, like the wind through woods in riot,
Through him the gale of life blew high;
The tree of man was never quiet:
Then 'twas the Roman, now 'tis I.

The gale, it plies the saplings double,
It blows so hard, 'twillsoon be gone.
Today the Roman and his trouble
Are ashes under Uricon.

ウェンロックの丘にて/A.E.ハウスマン・作/武子和幸・訳

ウェンロックの丘に森がざわめく。
リーキン山には森が羊の毛のように波打つ。
疾風は若い木を二つに折り曲げ、
木の葉はセヴァーン川に厚く散る 雪のように。

風は雑木林や山腹の森をこのように吹き抜けていったものだ
ユリコーンの町があった頃も。
むかしながらに吹きすさぶむかしながらの風だが、
それが吹きつけていたのは別の森。

そのころ、私の時代よりもむかしのことだが、ローマ人が
そこに波立つ丘を見つめていた。
ひとりのイギリス人の農夫に生命を伝えた血、
彼のこころを傷つけた想い、それらがそこにあった。

森を吹き抜けて荒れ狂う風のように、
生命の疾風が激しく彼を吹き抜けていった。
人間の樹は静まることなく、
当時はローマ人、いまは私。

疾風は若い木を二つに折り曲げ、
強く吹き、やがて静まる
ローマ人とその苦悩は いまでは
灰、ユリコーンの町の下で。
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エネルギーと戦争(WW1&WW2)に関する覚書

◆出典:『水から見た日本文明史と世界の水問題』
/公益財団法人リバーフロント研究所/編集/2013.2発行

※章の内容が重複したり繰り返しになったりしているので、一部を整理※

・・・第二次の動力革命・・・

【美酒に酔う国民】

19世紀、極東の島でかたくなに鎖国をしていた日本は、欧米列国の植民地になるのか帝国になるのかの選択に迫られ、「富国強兵」のスローガンを掲げ帝国への道を歩むこととなった。

日本が富国強兵の帝国への道を歩んでいくには、持ち運びの出来る石炭が不可欠であり、国家の最優先事項は、石炭の確保となった。九州や北海道で炭鉱が開発され、石炭は全て国家の管理下に入った。

明治近代化以前、日本のエネルギーは牛馬と薪と水であり、石炭は未開のまま近代日本に引き継がれた。日本は国内で石炭を確保出来る僥倖により、帝国の仲間入りの資格を得たのだ。

日本は日清戦争で清を破り、日露戦争で辛くもロシア帝国に勝利し、世界で最後の帝国に滑り込んでいった。さらに、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発し、極東に位置していた日本は漁夫の利を得た。

日本は近代化の幕を開いた瞬間、立て続けに3度の戦争で勝ってしまった。この勝利で日本国民は美酒に酔った。国民を美酒に酔わせたのは戦争を戦った軍人ではない。戦場から遠い国内にいた新聞、ラジオがその美酒を国民に振る舞い、日本は限りなく膨張できると言う錯覚を刷り込んでいった。

【内燃機関と石油】

ところが、国政を司る政治家や軍人は、美酒どころではなかった。第一次世界大戦の真っ最中に、日本の前に大きな壁が立ちはだかってきたのだ。その壁は、「内燃機関」と「石油」であった。

ジェームス・ワットが蒸気機関を世に送り出した100年後の1860年、フランス在住のベルギー人ルノワールが内燃機関の実用化に成功した。

蒸気機関はピストンシリンダーの外で石炭を燃やす外燃機関であったが、内燃機関はピストンシリンダー内で燃料を爆発的に燃やすものだった。外燃機関の蒸気機関は、石炭を燃やす炉と貯水タンクが必要であったが、内燃機関はそれが不要で、限りなくエンジンを小さくできた。これが近代化文明の主役である自動車と飛行機の誕生を約束することとなった。

そして遂に第一次世界大戦において、石油燃料で戦う戦艦、戦車、そして飛行機までが登場した。第1次の蒸気機関に続く、内燃機関による第2次の動力革命が勃発したのだ。この内燃機関の登場は、石油を求める帝国をさらに膨張させることとなった。膨張する帝国同士の次なる世界大戦の予鈴は鳴ったのだ。

・・・石油の世紀の幕開け・・・

【内燃機関】

内燃機関は限りなくエンジンを小さくした。この内燃エンジンが近代文明の主役である自動車と飛行機を生んだ。

1862年、ルノワール(ルノアール)は内燃機関の自動車の試運転にも成功し、1886年にはドイツのダイムラーとベンツが、現在のガソリンエンジンとほぼ同様の自動車を世に送り出した。

その内燃機関で動く装置が、第一次世界大戦で戦争装置としてデビューした。戦艦は、蒸気機関から内燃機関となった。自動車は戦車に進化した。内燃機関の究極の輸送機、飛行機が登場した。

これら内燃機関の燃料が石油であった。液体の石油は石炭に対して圧倒的に有利性を持っていた。単位重量あたりの容積が小さく、カロリー量が大きく、ポンプ輸送ができ取り扱いが容易であった。

20世紀は石油の世紀と言われる。それは膨張する帝国の動力が内燃機関となり、燃料が石油となっていったからだ。その主導権を握ったのが、米国であった。その米国は、巨大な油田を掘り当てていたのだ。

【石油の20世紀】

第一次世界大戦の数年前、米国トーマス・エジソンの工場技師だったヘンリー・フォードはデトロイトに自動車工場を設立した。1909年、フォードは大衆向けのT型フォードを11,000台近く製造し、第一次世界大戦中の1914年には、流れ作業の組み立てラインにより40秒に1台T型フォードを出荷した。

この強引な自動車の大量生産を支持する重要な事件が米国で起きていたのだ。

テキサス油田の発見であった。米国の最初の油田は東部ペンシルバニアにあった。19世紀中ごろまではランプ油として利用されていたが、自動車の登場によって一気に油田の重要性が認識された。

1901年、テキサス州ボーモントでアンソニー・F・ルーカスが油田を発見した。この油田発見がフォードらの自動車産業を燃え上がらせ、その自動車産業の興隆がさらに石油探査を刺激した。

1930年、テキサス州ダラス市の東方で巨大油田が発見された。米国最大、いや世界最大の東テキサス油田であった。この東テキサス油田発見を背景にした映画が、ジェームズ・ディーンの『ジャイアンツ』である。

ロシアのバクー油田に匹敵する石油産国になった米国は、次世代の世界の盟主になるのはこの石油によって運命付けられていた。

・・・石油へ向かう帝国たちと取り残される日本・・・

【石油開発と争奪】

第一次世界大戦で登場した内燃機関と石油の威力はその後の帝国たちの方向を決定付けた。1800年代から石油は採取されてはいたが、それは工場燃料や家庭の暖房燃料としての役目であった。しかし、第一次世界大戦以降は膨張する帝国のエンジンの燃料として第一級の資源として位置づけられた。

全ての帝国は石油に向かって突進することとなった。

オランダのロイヤル・ダッチシェルは植民地のボルネオ島で油田を掘り当てることに成功した。

1830年から100年間、世界の石油の90%を産出していたのはアゼルバイジャンバクー共和国のバクー油田であった。1920年、ソ連はこのバクー油田に進駐し、我が物としてしまった。革命で弱体化していたソ連は、一気に世界の大国になっていった。

社会主義革命の後、ソ連が世界の大国にのし上がっていったのは、とにもかくにもバクー油田を確保したことにあった。石油エネルギーさえ確保すれば、革命イデオロギーがどうであれソ連社会は発展する資格を持つことになったのだ。

20世紀前半の石油争奪の世界の中で最も恵まれたのが米国であった(1930年、東テキサス油田の発見)。

【苦闘する日本】

ソ連のバクー油田と米国の東テキサス油田に遠く及びはしなかったが、英国は中近東で油田を掘り当て、ドイツも自領で油田を掘り当てていた。

世界の帝国の中で、日本は石油探査で苦闘を続けていた。

日本の石油の歴史は、思いのほか長い。1878年(明治10年)には新潟の石油削井組合が石油を掘り始めている。自国の領土で石油が産出されたこともあり、日本の精油技術は大きく進歩し、技術では世界の列国に肩を並べるものを持つようになった。しかし、新潟油田の産出量には限度があり、海外に求めざるを得なかった。

日本帝国が自由に油田探査をできるのは満州であった。1934年(大正9年)満州石油を設立し、1938年(昭和13年)石油資源開発法により満州に大量の資金と人材を投入していった。しかし、その探索はことごとく失敗に終わってしまった。

第二次世界大戦後、中国はターチン油田や大慶油田を掘り当てていった。もし、日本が大戦前夜のあの時期、満州でそれらの油田を発見していたら、歴史はどう変わっていたのだろうか。

第二次世界大戦前夜の1940年(昭和15年)、世界の石油産出分布は、米国が1.95KL(65%)、中南米が0.42KL(14%)、ソ連が0.32KL(11%)、中近東が0.13KL(4%)、オランダ領インドネシア0.08KL(2%)、ドイツ領0.07KL(2%)となっている。

石油開発に失敗した日本は、石油を米国に頼る帝国となってしまった。

・・・米国の石油の覇権・・・

【石油の誘惑】

1930年のテキサス州の巨大油田の発見は世界の歴史を変えた。

石炭の蒸気機関で帝国主義時代を切り開いた英国とフランスは、内燃機関のための石油を保有していなかった。石油産出地からも遠い英国、フランス両国は、石油大国の米国を自陣営に引き込み連合を組む戦略をとった。

帝国主義の最後に滑り込んだドイツと日本も石油を持っていなかったが、両国の位置は英国とフランスと或る点で異なっていた。両国の近くには、油田の誘惑が存在した。

ドイツにとってはソ連のバクー油田であり、日本にとってはオランダ領インドネシア油田であった。 膨張する帝国にとって石油は絶対必要なエネルギーであり、その石油の誘惑に勝つことは出来なかった。

【石油の戦争】

20世紀前半の帝国主義時代は石油覇権をめぐる戦いであった。後発の帝国のドイツと日本は、恒常的にエネルギー不足に見舞われていた。特に、石油を米国に全面依存していた日本は、自力で確保したいという渇望が鬱積していた。

金融恐慌と世界恐慌がトリガーとなり、ドイツと日本は世界のエネルギー再分配を求める戦争に突き進んでいった。

昭和14年、ドイツはポーランドへ進軍したが、そこがドイツの最終目標ではなかった。ポーランドの東にはソ連が控え、そのソ連は巨大なバクー油田を保有していた。昭和16年にはドイツはソ連に侵攻し、ソ連のバクー油田に向かったが、後方拠点のスターリングラードとの両面作戦だったことと、カフカス山脈越えの補給線が伸びたためバクー油田を確保することはできず、昭和20年5月無条件降伏した。

昭和15年、日本軍は南部仏印インドシナに進軍したが、そこが日本の最終目標地点ではなかった。インドシナ半島の目と鼻の先には、アジア最大の油田を持つオランダ植民地の東インド諸島が展開していた。

昭和16年12月、日本は米国に戦いを挑み、昭和17年には日本は東インド侵攻でインドネシア諸島を制した。しかし、確保した油を日本国内に輸送する補給線は米国潜水艦によって断たれ、昭和20年8月無条件降伏をした。

【戦争の本質】

『昭和天皇独白録』(文春文庫)で、昭和天皇が日独伊三国同盟の顛末を語った後に述べている「尚、この際付言するが、日米戦争は油で始まり油で終わったようなものである」という内容が、日本が戦争に突入していった理由の全てを表している。

2004年公開の映画『ヒットラー最後の12日間』で、自殺する直前のヒットラーは「石油があったらな」という言葉を苦しげに絞り出している。

当時の米国は、世界の石油の半分以上を産出し、支配していた。この米国が、「石油の世紀」を象徴する戦争(第二次世界大戦)の勝利者となり20世紀後半の覇権国家となったのは必然であった。

◆出典:『水から見た日本文明史と世界の水問題』
/公益財団法人リバーフロント研究所/編集/2013.2発行

読書ノート『存在の大いなる連鎖』

『存在の大いなる連鎖』アーサー・O・ラヴジョイ/晶文社1989内藤健二訳

端の文より:

ヨーロッパの知の歴史は、プラトンに対する膨大な脚注の歴史に他ならない。宇宙は、あらゆる生物と無生物とで充満する、連続した存在の梯子である――この「存在の大いなる連鎖」としての宇宙概念こそ、プラトンの『共和国』『ティマイオス』に現れ、ヨーロッパの知の未来を決定付けた一粒の偉大なパン種であった。
この宇宙における「充満」と「連続」の原理が、アリストテレス、トマス・アクィナス、コペルニクス、ケプラー、ライプニッツ、カント、スピノザ…らの知的エネルギーを二千数百年にわたって吸引し続け、人々に、別の銀河系宇宙のありうることを純理論的に推論させ、顕微鏡の発明以前に微生物の存在を確信させた。それは、哲学をはじめ、文学、天文学、生物学、物理学など諸学問の発展をうながし、人間の精神の地平をひらく強力な梃子であり続けたのだ。…(以下略)

「存在の大いなる連鎖」を支える三つの原理はギリシャ哲学の観念の創始から始まる:

  • プラトンのイデア説…正しく形成された概念はすべて客観的実在にしっかりした根拠を持つ。真の知識は主として「すべての表徴はその内容として個々の現象ではなくて普遍的関係を含む」。事物の分類、および概念と論証の首尾一貫した論理体系
  • 連続の原理…自然は、無生物から生物へ極めて徐々に移って行くので、その連続が境界を曖昧にする。両者に属する中間種がある。自然は感知できないほどの微細な段階的変化を含む
  • 充満の原理…宇宙は可能な限りのあらゆる種で充満しており、欠けているものは無い(欠けているものがあるように見えるとしたら、それは、我々がまだ完全な宇宙を知らない故)

☆18世紀における諸分野での観念の開花

存在の連鎖としての宇宙の概念とこの概念の基礎となる諸原理――充満、連続、階層性――が最も広がり受け入れられたのは18世紀であった。これは、はじめはいささか奇妙に思われる。
その発生をプラトンとアリストテレス、そしてその体系化を新プラトン主義者に負う観念の集合が、そんなに遅まきの結実を遂げたことは驚くべきことに思われるかも知れない――特に18世紀の初めから大体四分の三世紀の間には、これらの仮定に敵意があるものが知的な流行の中には多くあったので。勿論アリストテレスの権威は失われて久しかった。スコラ哲学とその方法とは、「啓蒙」を自慢する者達の間では軽侮と嘲りの対象であった。
思弁的なア・プリオリな形而上学に対する信仰は衰えつつあり、(厳密にはベーコン的な方法はともかく)ベーコン的気質、忍耐強い経験的な探究は科学においては勝ち誇った行進を続け、教育のある人々一般の大多数の熱狂の対象であった。
そして存在の連鎖の概念は、それを支える仮定と共に、経験より引き出される一般論ではないことは明らかであり、実際、自然の既知の事実と調和し難くもあった。
それにもかかわらず、あらゆる種類の著述家――科学者と哲学者、詩人と通俗的な随筆家、理神論者と正統的聖職者――が存在の連鎖についてこれほど語ったり、それと関係がある諸概念より成る一般的枠組みをこれ程暗黙のうちに受け入れたり、それらの諸概念から潜在的な意味または明らかな意味をこれ程大胆に引き出した時代は今までにない。
アディソン、キング、ボリングブルック、ポープ、ハラー、トムソン、エイケンサイド、ビュフォン、ボネ、ゴールドスミス、ディドロ、カント、ラムバート、ヘルダー、シラー――これらの人々すべてとそれ程偉大ではない多くの著述家がこのテーマについて詳細に述べただけではなく、それから新しい、以前には避けられていた結論を引き出した。
その一方ヴォルテールとジョンソンは、奇妙な戦友となって、この概念全体に対する攻撃の先頭に立った。「自然」という言葉に次ぎ、「存在の大連鎖」が18世紀の聖なる言葉となり、19世紀後半に「進化」というめでたい言葉が演じたのとやや似た役を演じた。
この概念が18世紀に流行したのは恐らくギリシャや中世の哲学の直接の影響に主に由るというのではなかった。何故ならその名声と影響力がその後の50年間に最大であった17世紀後半の二人の哲学者によりこの概念は主張されていたからである。この昔からの命題を繰り返す際に、ロックはライプニッツほど雄弁ではなかったが同様にはっきりしていた。

☆「存在の大いなる連鎖」という観念に伴う文章(主に詩)

我々から落ちゆくもの、消えゆくもの
いまだ実現されざる世界をさまよう
ものの持つ全くの不安――
シェリー「アドネイス」
一なるものは残り、多は移り過ぎ行く、
天の光は永遠に輝き、地上の影は飛び去る
ポープ(18世紀)
存在の巨大なる連鎖よ、神より始まり、
霊妙なる性質、人間的性質、天使、人間、
けだもの、鳥、魚、虫、目に見えぬもの、
目がねも及ばぬもの、無限より汝へ、
汝より無に至る。より秀れしものに我等が
迫る以上、劣れるものは我にせまる。
さもなくば、創られし宇宙に空虚が生じ、
一段破れ、大いなる階段は崩れ落ちよう。
自然の鎖より輪を一つ打ち落とせば、
十分の一、千分の一の輪に関わらず
鎖も壊れ落ちよう。
ジェイムズ・トムソン「四季」
誰か見たか
存在の偉大な鎖が、無限な完全なるものより
荒涼たる深淵である無の瀬戸際まで降り行くを、
そこより驚きし心は、おののきて、後ずさりするを。
ヤング
私は目覚め、目覚めつつ夜の輝ける階段を
天球層から天球層へと登る。同時に誘惑しまた助け、
すなわち彼の目を誘惑し、壮大な思想を助け、
万物の目的に達するに至るために自然が置いた階段を。

《存在の連鎖の諸概念がもたらしたもの》

1.世界の配列への相反する姿勢――自然物とりわけ生物の間にするどい分類と明瞭な分化を目指す/種という観念全体は、便利ではあるが自然の中に対応を持たない区分を人工的にこしらえたものに過ぎない(例えば我々は、プードル犬と猟犬とがスパニエル犬と象と同じくらい分かれた種ではないという理由が分からない)

2.博物学者は、連鎖の中でミッシングリンクと思われるものを充たす種類を探し求めた(例えば化学分野では、周期律表で欠けている元素を探し求める研究が活発になった)

3.顕微鏡生物学による微小なものの発見と確認(充満と連続の両原理に経験的な確証を与えるように思われた)。望遠鏡による宇宙深部観測の進行は、上方への連鎖を追認する行為(「無限の数の宇宙」とその宇宙の中の天体の数が無限であると言う仮説は中世に登場済み)

4.存在の連鎖の時間化としての宇宙進化(充満の原理の時間化)理論の登場

5.創造的進化論(ロビネーの議論)…この漸進(進歩の諸段階)は終わってはいない。人間を構成する形態よりもっと微妙な形態と、人間を構成する力よりももっと活発な力があるかも知れない。なるほど活動力は物質性すべてを目に見えぬほど少しずつ除去し、新しい世界を造ることができるかも知れない――しかし可能性の無限の領域に迷い込んではいけないのだ。

6.シラーの若い時の哲学議論(以前には抑制されていた欲望や美的感受性を正当化するための手段としての充満の原理・多様性の理論的前提。漸近的進化と多様化は一致)…あらゆる種類の完成は、宇宙の充満の中で達成されなければならない。…頭脳が生み出すものすべて、知力が形作るものすべては、天地創造をこのように広く理解した時には、ケチのつけようのない市民権を持つ。無限の裂け目のような自然においていかなり活動も省略され得ないし、普遍的な幸福においては、あらゆる程度の喜びが存在する…

☆「存在の連鎖」という観念の歴史における失敗

存在の連鎖という観念の歴史は――その観念が宇宙の完全な合理的な理解可能性を前提にした限りにおいて――失敗の歴史である。もっと精密にもっと公平に言えば、それは多くの偉大なそしてより平凡な人々によって何世紀にもわたって行なわれた思想の実験の記録であり、今となってみると教訓に富んだ否定的な結果を持っていたことがわかる。この実験は、全体としてみると、人間の知力の最も大いなる冒険の一つである。しかしこの最も一貫し最も包括的な仮説の結果がだんだんと明瞭になってくるのに従って、その困難点も明らかになってきた。そしてその困難点が充分に示されたときに、宇宙の絶対的合理性という仮説はそのせいで信じられなくなってしまった。

1.「存在の連鎖」という仮説は、我々が経験する存在は「時間的」であるという事実と対立する。時間と変化の宇宙は、実在が、まさに存在の論理の中に内在する「永遠の」「必然的な」真理の体系の表現であり結果であるという過程より演繹することもできないし、その過程とも調和することもできないような宇宙である(雛形理論が成り立たない)

2.合理性が完結性として、偶然性すべてを除外することとして考えられる時には、それ自体一種の非合理性になる。何故ならば、こういう合理性は、可能的なものすべてを、共に可能である限り完全に実現することを意味してしまうので、限定したり選択する原理を除外してしまうからである。可能なものの領域は無限である。そして、充分理由の原理が含むものとしての充満の原理は、その含意が徹底的に考え抜かれた場合には、それが適用されるあらゆる領域において無限(無限の時間・空間・無限数の宇宙・無限数の個体etc)にまで及んでしまった(=人間の理性は、理性が通じないだけではなく否定されてしまうような宇宙に直面してしまった/元来、宇宙はどうしようもない矛盾から成り立つ宇宙である)