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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

青銅華炎の章・古代3

【殷周革命から春秋へ(推定・前11世紀~前400年代)】

殷の時代を中心とする青銅の文明、〈前シナ文明〉を象徴するのは、青銅金文として刻まれた文字です。

単純なスケッチの延長でしか無かった甲骨文字は、殷の時代、或る時を以って完成され、金文に見られるような複雑な構造として定着します(当時の文字は、全て王の所有物でした。殷は、多民族を支配し、文字をも支配する絶対的な神聖王権を立てていた、という事です)。

殷・周時代の文字は、大きく分けて3つの系統に分かれるという説があります。

  • 神、祈り、祝祭(祖先祭祀および宗廟祭祀)のための文字・・・神聖文字
  • 呪術的世界を現出する文字、呪術的サイン・・・呪術的支配のための文字
  • 戦争や日常の文字・・・文書行政では無いので、政事記録用の文字では無い

なお、最古代の覇者(前シナ帝国)は、歴史書に拠れば、「夏」「殷」「周」三代として記録されていますが、その実態は、ある時期において同時に、あるいは前後して存在していた地域的集団だったのでは無いか、という説もあります。ともあれ、多数の群小国家を束ねた前シナ帝国の中で、呪術的文字と、「上帝(天信仰)」を中心とする呪術的世界、そして上代神話は伝承されました。

とりわけ殷・周の時代は、呪術と祭祀に彩られる事になります。

殷王朝の王の墓は、その中央に王の遺骸が安置され、その両側には殉死した側近の遺骸が整然と並べられる構造になっていたと言われています。当時は、殉死や生贄をもって祭祀と成していた、という事です。

殷の時代には、天子が崩御した場合には、側近の臣下および奴婢はその供をして殉死するというのが、天から降ろされた「礼」であり、信仰であったのです。「礼」を完遂することで、天子も民も永遠の生命を祝福され、ひいては恐ろしい天罰を免れる…という呪術的論理によって、帝国が営まれていました。

殷の人々にとっては、それほどに世界は呪術的なパワーに満ち、「礼」を失することに比べれば、個々の人間の生命など軽いもの・・・そういう呪術社会が形成されていたのです。それはもはや、初代五諸族が形成していた上古の社会とは、全く別のものであったと申せましょう。

夏王朝末期の暴政、殷王朝末期の暴政。幾度と無く繰り返し語られる伝承に、恐るべき天信仰の変質という、不気味な想像を禁じ得ないものであります。

その頃、都の名もまた、変化していました。「大邑商」から「天邑商」へ・・・恐るべき天信仰の変質。それは、商人の血がもたらした呪縛ゆえの変質では無かったでしょうか。

もともと商いとは、物資の移動または他所の富の略奪によって、利ざやを稼ぐ行為であります。使い物にならなくなった商品は処分するしか無いのであり、奴隷もそうした商品の一種であり、商品価値が無くなれば首を刎ねて処分したであろうことは、想像するに難くありません。

そうした習慣が元々あったのか、それとも戦争を通じて増幅してしまった習慣なのかは不明ですが…、そうした人命軽視の風潮と共に天信仰に染まり、巨大な軍事力による支配をものとしたのが、殷という帝国であったのでは無いでしょうか。

殷の甲骨文字の記録は、次のように語ります。

「往復するに災いなきか」…これは、殷の王の田猟を占ったものです。田猟には決まって軍が動員され、獲られた獲物は、特別の祭祀に供されました。殷の王は、足しげく田猟に出かけ、獲物を特別の祭祀に供した、という事です。

これは、「羌伐」という甲骨文字でも記録されています。田猟の「獲物」を特別の祭祀に供する…その光景を想像すると背筋が寒くなるので、ここでは申しません > <;;;

殷を倒したのは、西域から新たに起こった牧畜系民族の周です。いわゆる殷周革命です。前1024年の牧野の戦いは、有名な伝承です。(当サイトでは牧野の戦いは前1024年であるという説を採用します)

周王朝の統率者は、原始的かつ血なまぐさい風習を廃するべく立ち上がった、儒教が称えるところの聖王でもあったのかも知れません。殷の紂王を周の武王が討ったという伝承や、殷の頑民とも称された殷民の反乱の伝説は、そうした傾向があったことを、暗に伝えていると思われます。

殷周革命せり・・・それは、実際は生易しいものでは無かった筈です。殷とは、祭祀の始原から続く、強大な伝統と権威の象徴でありました。殷周の「革命」とは、その古の伝統と権威を滅ぼすための、新しいタイプの闘争であったと申せましょう。

そしてそれは、神の掟から人の掟へと、「天信仰」が降りてきたことを示しています。周の時代に発達したのは、礼楽でした。祭政一致体制を支えていた古の神話は、綻び始めます。それは周から東周に至って、王の権威の動揺を呼ぶものとなり、「夫れ礼は必ず天に本づく」という天信仰の崩壊の淵源ともなりました。

それは、〈前シナ文明〉の王権神話の終焉でもありました。

祭器としての青銅器は、氏族内部においては、祖先祭祀を通じて氏族秩序を形成するものでありました。殷・周帝国における青銅器はその延長線上にあり、王家主催の宗廟祭祀を通じて周辺諸侯との間を霊的に連結する事によって、王朝的秩序を形成するものでありました。

しかし、春秋期にはその知識は既に曖昧なものとなっており、戦国期に至って、現実的・理念的な、新しい思想に取って代わられる事となります。

春秋戦国時代…諸子百家の時代は、人の心の内部において、「天」を超越する人間理性の自覚や、人間の尊厳の覚醒が行なわれた時代であります。己の尊厳に覚醒した人間は、もはや殷代のように天の権威で自由に出来るものでもなく、したがって次の秦の時代には、殉葬という風習も断絶したと推測されるのです。

例えば秦の始皇帝の陵墓では、人間の殉葬の代わりに、おびただしい等身大の陶製の兵馬俑や青銅器が埋められるようになっています。(始皇帝の時代は、厳格な法治国家であったと言われています)

もっとも広大な東アジア大陸中原のこと、殉葬の断絶は1年や2年で広まるようなものではなく、地方へ行くと、まだ呪術が全盛期にあり、生贄の風習も盛んに行なわれていたようです。秦・漢時代は、殉死を含む厚葬の風習の、最後の華の時代でもあった事が、最近の研究で知られています。

大陸全土レベルで殉葬の風習が衰退するのは、秦の時代からおよそ400年後の事・・・三国(魏・呉・蜀)時代をよほど過ぎて、魏晋南北朝の時代になってからの事だと言われています。最初のきっかけとなったのは、魏の曹操による「薄葬令(建安10年=西暦205年)」の通達が、大きく関わっていたようです。

[以上]…こうやって見ると、西欧社会の中世入りとは、かなり様相が異なっているなと思いました。このあたりはもうちょっと考えてみたいと思います。


比較のため、西欧の方のプレ中世入りの過去記事を、宣伝も兼ねてご紹介^^

  1. ガロ=ローマ時代の覚書(1)
  2. ガロ=ローマ時代の覚書(2)

後・太秦帝國ノ章(ホームページ)・・・宣伝です・笑*^^*

ローマ時代のヨーロッパの天下分け目となったトイトブルグの戦いって、本当に興味深いな、とつくづく思います。アムゼルさまもとい丸幸亭さま、[ガロ=ローマ時代の覚書(2)]のコメントのところで、ドイツ語の記事のご紹介、ありがとうございました・・・^^

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2009.03.15暁の夢・お赤飯の色をした建物

ストーリーの流れがはっきりしており、最後のシーンがとても綺麗で、印象深く記憶に残ったので、記念と言いますか

場面は、荒天の中を飛ぶ飛行機の操縦席から始まりました。アニメ版『風の谷のナウシカ』の一場面で、トルメキアの戦闘機に攻撃&追跡されて、雲の中に突っ込んだペジテの難民船(ブリッグ)が雲の中の雷電&乱気流に翻弄される…というのがあるのですが、そういう雰囲気のイメージでした

機長(たぶん主パイロット)さんはどこかに頭をぶつけたのか、失神しており、助手さんはパニックを起こしていて正常な精神状態ではなく、何故か代理パイロットとして、のほほんとしていた自分に、操縦桿が任されました

飛行機は小さかったです。最近のレジャースポーツ?として人が高空からパラシュートを広げて降りてくるというのがあった(=名前は知らない)と思うのですが、あれに使われる飛行機っぽいな…という感じです。

そのうち、深い森に囲まれた小さな白い空港が出てきまして、ここが目的地だと何故か分かりました。ですが、嵐の中で揉まれた影響か、飛行機の降着装置がすっかり動かなくなっており、やむなく胴体着陸を決断。

旋回して浅い角度で入り、空港の端から端までガリガリと削り、フェンスを突き破り、森の木々をなぎ倒し、ボロボロになって、ようやくストップできました…(飛行機の窓が吹っ飛んだらしく、夢の中ながら、森の匂いさえ強烈に感じました)

夢の中でも意識が朦朧としていたみたいで、その後、訳の分からない細切れが続いて…

夢の意識が戻った状態?と言いますか、再びの記憶は、空港施設として工事中の、白い工事用足場の上で起き上がったところからスタートしました。

白に緑のラインが入ったヘルメットをかぶっている工事関係者が5人~6人と、何故か10人~20人の小人(=服装を見ると森の妖精らしい)たちがワイワイガヤガヤ…ミステリーに満ちた工事現場でした

じっと見ているうちに何故か「次の場所へ行かなくちゃ」という考えが湧いてきて、工事現場に付けられてあった梯子を下りると…そこは、まばらに草の生えた砂浜でした。振り仰ぐと、海が見えます。そして、幻想的なまでに巨大な満月。「大潮の日だから」というのが、パッと浮かびました。

実際の大潮の日は、潮汐カレンダーで調べると3月12日あたりがピークだったようです。数日のタイムラグを置いて見た夢、という事かも知れません

そこでおかしな重力変化が置き、急に身体が重くなり、鉄の杖が必要になったので、パッと鉄の杖を出しました

杖にすがってテクテクと、意識が指差す方向(どちらかというと右旋回)に向かって砂浜を歩き始めると、何とかいつものように歩けるように…

しばらくして後ろを振り返ると、「パワーダウンし、身体サイズもいささか縮んでいる分身(服はベージュかピンク)」が後からついて来ていました。分身の服はボロボロ、どうやら疲労困憊して歩く気力も無い様子で、一瞬どうしようかなと思ったのですが、「分身」を背中に背負って、テクテク歩きを再開…

そのうち、海を眼下に見る崖沿いの隘路に入り、上り坂の道に。何となく、辺りは淡いラベンダー色がかった幻想的な光景になってきました(夕暮れか、暁闇の感じ)。

最後の光景は、崖の間に、砦か聖所のような感じで収まっている「正三角形」の建物。全体は7階建で、「そんな建物あるのかな」という感じでしたが、そこだけ微かに明るく、何気に和風の柔らかなライトもついており、綺麗な建物でした。

表現しにくい微妙な色合いの建物で、その微妙な色合いを表す語彙がなかなか見つからず、夢の中で「分身」と、「おむすびで薔薇色?」というような事をしゃべっていました

起きてからも数日間、その色合いを考え続けていて、やっと「お赤飯の色」だと思いつきました。専門的には、薔薇色砂岩というのが本当にあるようです。クメール美術の代表建築「バンテアイ・スレイ寺院」に使われている建材です。

その正三角形の建物に入ったところで、夢は終わりました

青銅華炎の章・古代2

【天を恐れよ・・・文字と呪術の帝国】・・・(承前)

〈前シナ文明〉の雄、殷帝国を象徴する前シナ王権の神話があります。

「商」の名を負っていた頃からかどうかは不明ですが、殷の民は『十日神話』なるものを有し、その概念に沿って現実の社会を運営していたようです。

この『十日神話』は、元々はツングース系統の民族に伝わる神話でありました。故に殷は、民族的には沿海州の夷系であったのだろう、と言われています。ないしは東夷との混血を通じて、この神話を有するようになったのではないか…とも言われています。

『十日神話』の概要をまとめると、以下のようになります(確認できた分だけ)。

(ストーリー1)空桑が青々とし、天地の間の綱が張られてから、羲和という女神が現れた。この神は日月を主管し、その出没を職務として、夜と昼を作った。・・・by『啓筮』

(ストーリー2)羲和は十個の太陽を生み、各々に「日」の名前を授けた。湯谷で水浴した十個の太陽は、順次、扶桑の枝に懸かり、運行してゆく。その行程は5億1万7309里、四分して朝・昼・昏・夜となす。いずれの太陽も、カラスを乗せている。(十日送出タイプ)・・・by『淮南子』『山海経』

(ストーリー3)堯の時、十個の太陽が一斉に出て、大地を焼いた。同時に現れた怪獣どもが、民を害した。そこで堯は弓の名手ゲイに命じて、九個の太陽を落とし、怪獣を退治した。万民は皆喜び、堯を立てて天子とした。(十日並出タイプ・射日神話)・・・by『淮南子』

殷のカレンダーは十日単位で一巡し、このサイクル単位を旬と呼び、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸という十個の曜日がありました。これらの曜日をまとめて「十干」と呼び慣わすようになりましたが、当時は「干」の字では無く、「幹」という字を充てていたという説があります。

[一説に曰く]
・・・三国時代、魏の張揖(チョウユウ)著・字書『広雅』釈天より・・・
「甲・乙は幹である。幹とは日の神なり。寅・卯は枝である。枝とは月の霊なり」。扶桑樹に太陽が懸かるという神話の影響で、最初は「幹枝」という字が使われていたらしい。「干支」という字の初出は、後漢時代の王充撰・『論衡』詰術篇か。・・・

十個の太陽…うがってみれば、殷王朝は十の氏族によって構成される王権を戴き、最高リーダーの地位は、十個の太陽の順番運行のごとき持ち回りであった、という事を暗に示している…、と読み取れます。

実際、最近の研究によれば、殷王朝の中枢部は王を輩出するいくつかの有力氏族から構成されており、時代の経過と共に、王系氏族(ハプスブルク選帝侯のようなもの?)の数もまた理念に従って、十系統の氏族に近づいていったという事です。

しかも祭祀制度として、歴代の先王・先妣は、それぞれの世系グループに対応する日の祭祀を享けていました。五つの祭祀があり、一定の順序にのっとって、世系の順に祀られたという事です。こうした「周祭」が一巡すると、一ヵ年が完了するようになっていた、と言われています。

[殷の祭祀制度について]
・・・祖先神が太乙=乙日に所定の幾つかの祭祀を享ける。祖先神が上甲=甲日に所定の幾つかの祭祀を享ける。
・・・『卜辞』=丙寅(ヘイイン)、卜(ボク)して貞(と)ふ。王、太乙の爽妣丙を賓(むか)へて翌日(=祭名)するに、尤(とが)亡きか。
(意味)丙寅の日、占う。殷王朝の始祖・湯王(=太乙)の爽(=后妃)である妣丙(ヒヘイ)に、「翌日」という祭祀を行なうにあたって、支障なく行なわれるか。(※「翌日」は五祀の一つ。わが国でいえば「後の祭り」にあたる)

…殷王朝は、太陽信仰であったのです。その王位継承システムもまた、十氏族(甲族・乙族・丙族・丁族・戊族・己族・庚族・辛族・壬族・癸族)の交叉婚…すなわち、殷王家の族内婚(父系の交叉イトコ婚)によって継承されるシステムでありました。

(殷ではおそらく、王族同士の近親婚が行なわれていたものであります。これは彼らが牧畜系民族では無かった事を暗示しています。逆に牧畜系であった周は、氏姓制度を運営していました。これは、儒教を生み出した思考がどこから来たのか?という点に関して、重大なヒントを暗示していると思います)

そして、おそらく、王位継承に関するお家騒動もまた付き物であり…十個の太陽が順番に運行するという十日送出タイプ神話と、十個の太陽が一斉に出て、大地に災害をもたらしたという十日並出タイプ・射日神話と…並行して語られた二つの神話は、こうした殷王家の内紛を暗に示唆していた可能性があります。

そしていつしか、一つの太陽だけが残ります。
天に二日無く、民に二王無し。(『孟子』万章篇・孔子曰く)

殷周革命とは、まさにこの内紛の時代に重なってきた事件です。射日神話の存在は、十日神話を伝承していた民族の中で、何らかの政治的異変が起きていた事を暗示するものなのです。

『十日神話』の変質と共に、上古から信仰されてきた「天」とその絶対なる権威は、大地の上に崩れ落ちました。まさにこの時、華夏大陸に栄えた〈前シナ文明〉とその王権神話もまた、壮絶な終焉を告げたのです。

実際、その後の時代に編纂された『書経』の堯典(かなり早期に成立)では、『十日神話』における羲和の神格が分裂し、代わりに羲仲・羲叔・和仲(カチュウ)・和叔(カシュク)の兄弟によって四方の天文が管理されている、という内容に置き換えられています。

〈前シナ文明〉が瓦解してゆく事象、周の弱体化とはまさに、〈シナ文明〉の到来を告げるものでした。そして、地上の権威を争う激烈な群雄割拠…春秋戦国時代に突入したのであります。

[以上]…知らなかった事ばかりで、上手にまとめられたかどうか不安ですが…;^^ゞ

続きは次回。
殷周革命を通じて、上代神話世界が崩れていった様を、ほじくり返してみようと思います。