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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

知性の勝利,霊性の敗北・前

ルネサンスと、それに続く西欧近代とは何であったか…という事と、その西欧近代の延長軌道をひたすら走り続けている、現代の世界と日本の精神性の問題について、深く考えさせられるテキストに出会ったので、今後の物語的考察のために、記録しておくものです。

テキストの著者はビザンツ・キリスト教に由来する正教会の司祭だそうで、おおむねギリシャ正教会側から眺めたときの、西欧社会と西欧キリスト教の様子が浮かび上がってきて、なかなか興味深いものだと思われます。

テキスト=『ロシア精神の源』―よみがえる「聖なるロシア」―(中公新書1989)/高橋保行・著(ニューヨーク聖ウラジーミル神学大学院卒、日本ハリストス正教会司祭)

★序文より興味深い部分を抜粋要約

10世紀末~13世紀初「キエフ朝ロシア時代」
(ウラジーミル大公の洗礼からモンゴル来襲まで)
13世紀半~15世紀「モンゴル政権下時代」
(ポーランド・リトワ政権下に入った時代もある)
15世紀~18世紀「モスクワ朝ロシア時代」
(モンゴル政権を倒し、モスクワ中心の王朝を築く)
18世紀~20世紀初「ペテルブルグ朝時代」
(ペトル1世がバルト海沿岸に都を移し、西欧近代化に努力)
20世紀初~1991年「ロシア革命~ソビエト連邦」
(レーニンからゴルバチョフ、エリツィン?まで)
1991年~21世紀現代「ロシア連邦」
(連邦制共和国…らしい^^;)

・・・10世紀から15世紀の500年間は、ロシアにとって「謎の空白」に相当するらしい?

「聖なるロシア」は、1988年6月上旬に1000年目の誕生日を迎えた。1年前にソビエト革命70年目の誕生日を迎えたソビエト・ロシアには関係が無いので、記念式典は質素に、教会の中でだけ行なわれる事になっていた。

ところが意外な事に、ソビエト政府首脳が記念式典の2ヶ月前に、これまでの教会に対する政府の態度に誤りがあった事を公の場で認める、という信じられない事が起きた。記念式典のあったその週は、千年祭関連のニュースや関連映画が流れた。モスクワの大聖堂が無神論者によって破壊されるドキュメンタリーまで紹介されていた。

かつてロシアがヨーロッパ文明を受け入れ、近代化を進めているという同じ立場にあった日本と出会って戦争したのが、1904年の日露戦争である。日本は文明開化からわずか36年、帝政ロシアは189年の実績があったが、日本に軍配が上がった。この結果、ロシア国民の不満が募り、帝政ロシアが崩壊した。この動揺は、ヨーロッパでもまだ画期的かつ未実施であった共産主義の受け入れにつながった。

当時の共産主義は、多くの人に「明日のヨーロッパ」を担うと受け止められた、いわば「超欧的」な思想であった。ロシアはその思想の具体化をはかり、ヨーロッパを超えたと思いつつ、ヨーロッパと対立しながらも(意識してのヨーロッパ無視も含む)、ヨーロッパに興味津々である。

この辺りに、何処の国にも無いような冷酷非情な面と、何処の国にも無いような人間的な面とがまだらに混じりあう、「ロシア」という国の複雑さがある。よく言われるソビエト人とロシア人の二重構造性は、ヨーロッパ希求意識とロシアの土着意識のアンヴィバランスの産物なのである。

《「内なる智恵(精神性)」と「外なる智恵(知性)」》

・・・前略・・・

ビザンチン帝国がギリシア古典を古代から遺産として受け継いできたということは、単に風化させずにきたというだけのことではない。

ギリシア古典の内容をよく理解すると共に、知性とは何かをよく弁えていたということでもある。研ぎ澄まされた知性の底知れない力は、人にとって精神性を高める道具にならない限り、まかり間違えば刃物のように、全力をもって人を破壊するものになりうるということである。

この知性が、肉体から生じる情念の道具になると、理屈に変化するということは、だれでも知っている。情念と知性の間に相身互いの仲が成立すると、知性は情念の塊に「我」というもっともらしい名を与えて祝福し、これを満たす働きを開始する。

情念は一人の人を代表するものになりえないのに、知性のお蔭でありもしない「我」という制度を着せられ、あたかもあるように装い始めるのである。深層心理などというもっともらしい名称も、この「我」の別名であり、煎じ詰めれば、知性に体よくまとめられた情念ともいうべきものである。

近代西欧の学問の中から生まれたばかりの心理学が、心の所在を頭の中にあるとするのも、精神性が西欧学問に不在であるからではないか。「我」を「知」と言い換えれば、我を制御するのが知性であるから、当然その所在地は頭の中となるわけである。

人が「自分」という時、その自分はある精神性に根ざしているというべきで、天気のように変わりやすい体の状態や情緒、単なる感情的な自我、ないしは深層心理などという得体の知れないものや、これらを制御する知性であってはならない。

人の知性は思慮分別を養育し、高度な精神性を修得する過程になっても、人生の基準となったり、人が「自分」という時のその自分の基盤になれるほど高尚ではない。知性は、高級な技術であり、人間の精神性や文明を高める道具になるものの、精神性に代わるものにはなりえないのである。

知性が肉体を元にした情念から生じる自由奔放な欲求を満たすために働く事は、いとも簡単である。人の自己満足のために、知性がもっともらしい理屈を生み出し、もっともらしい人生を形成してくれるというのは、だれもが知っている。

このように、知性が情念の使い走りをしている時に、自分の奴隷的な立場に気づいて革命を起こす。知性を駆使して情念を制し、体や気持ちのあり方をすべて分析、定義づけ、固定概念のなかに入れようという働きが起こる。多くの人が、知的であることを精神的であると誤解するのはこのためである。

そうしたところから、人の自由とは、知性を自由に駆使して生活の領域を統制することであるというような考えが出てくる。知性は、出来もしない事を出来るように思わせる力さえ持っているから恐ろしい。知性による明快な言葉化により現実が無視される恐ろしさは、だれもが味わっているはずである。

このような知性の働きを食い止める道は、ひとつしかない。

肉体を土台とする情念に節制を与え、祈りの言葉を用いて心を浄化し、精神性を豊かにし、深い思慮分別の能力を養い、知性が提供していた偽りの自分の代わりに真の自分を取り戻す事である。このように、自己の中で知性と情念の下敷きになり死した自分を復活させるのが、ビザンチンの精神性の目的なのである。

・・・後略・・・

覚書・後篇》に続く


FriendFeedコメントより転載

「10世紀から15世紀の500年間は、ロシアにとって「謎の空白」に相当するらしい?」。これはその頃はまだロシアが成立していないので空白なんでしょ(笑)。いわゆる「タタールのくびき」こそロシアの揺り籠であり、モンゴル帝国の一部がロシア帝国として生き残ったわけですから、欧州から見るとロシアはやはり欧州の外なんです。ゴルバチョフが「欧州の家」構想などを持ち出しても欧州は心底からは受け入れませんでした。今でもそうだと思います。 - 丸山光三
《返信》「謎の空白」というのは著者が書いた内容なのです(ピンと来なかったので"?"添付)。でも、ビザンツキリスト教に重心を置く著者の立脚点を考えると、納得という部分もあります。大陸-多民族混血の常で、いつから"ロシア"が始まったのかは、ロシア人自身も曖昧みたいですね。ゴルバチョフ版"欧州の家"構想は知らなかったです。今は資源パイプラインか何かで、それを現実化しようとしているみたいですね(欧州にとっては脅威でしょうか)…^^;
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2009.12.4暁の夢

一言で言って、「恐怖で眠れなくなった夢」のカテゴリに入ります。寝不足です。

正直、内容をまとめるかどうか迷ったのですが、一応記録してみるという精神で…

まず最初に、自分勝手な判断ですが、かなり「ドラキュラ映画的ゴシックホラー・流血つき」な内容である事をお断りしておきます。なので、その旨を心得て、以下をお読みくださいまし(※クレームは受け付けません・汗)^^;;;;

ええと。

最初のシーンは、高級感が漂う喫茶店か、ロビーみたいなところでした。なにげにキラキラした重そうなシャンデリアなどが、天井から下がっているのです。雰囲気は『ベルサイユのばら』のワンセットみたいな…

ゴシック・ホラーなだけに、ゴシック風建築を連想してくださいまし。お天気も、ドラキュラ的ゴシック風ドラマチック不気味なお天気、という事で。でも、シャンデリアの下がっているロビーか何かのような場所は、高級感溢れるソファがあちこちにセンス良くセッティングしてあって、それなりに居心地良さそう(?)な場所でした。

自分は毎度、プロフィール風小人の格好です。魔法使いか何かで、その夢(の場所?)に、呼ばれていたみたいです(でも、魔法を知らない「なんちゃって魔法使い」である事は確実だと思います。羽が生えている感覚はありましたが、自分が何でそこに居たのかは理解できません)。

誰かと待ち合わせしていた事は確かで、端っこのソファに腰掛けて、人待ち顔を続けて1時間くらい。なにげに高級そうな紅茶など運ばれてまいりまして、それなりに美味を堪能しました…^^;

さて少し経ったところ、何やら騒がしそうな一団が入場してきました。リーダー格の年配の男性と、物騒な取り巻き2名~3名と、黄色い声の若い女性が10数名。

(バブルの頃にディスコみたいなのが流行っていたと思うのですが、そういう場所で見かけそうなファッションと雰囲気です。女性グループの方はボディコンシャスというのかなあ、「過剰に色っぽい」ファッション。多分、一昔前の経済バブルを記録した特集番組か何かで見たのだと思います。あんな狂想曲のような時代があったのだ…とショックを受けました)

場違いな集団のように見えたので、ビックリして眺めていると、その集団はあちこちに因縁をつけて、なんと破壊活動を始めたのでありました(!)。おまけに、破壊活動をした後の残骸の前で、しきりにフラッシュなどを焚いて、「記念写真」を撮影していたのです。

その場所のスタッフは三々五々居たと思うのですが、怖がって止めに入る事も出来ないようでした(「事を荒立てては…」云々などという科白も、なにげに入ってきましたし…)。

ココから先が血まみれのシーンになりますので、ご承知おきください

自分が何故そんな気分になったのか説明がつかないのですが、いきなり「ぶち切れました」。

※この辺を境にして、急に気分が変わって、視界も、いつもより高い場所に変わったのですね。だから夢の中で、誰か他の人の霊の憑依を受けたんじゃないか(つまり、他の人の感情の波動にシンクロしたとか)…とすら思っています^^;

助走をつけ、羽を使って空中を飛び、リーダー格の男性にとびかかりました。

ぶつかった所は、ちょうど男性の顔から胸の上の位置(体格が小人なので、そうなるらしい)。向こうにしてみれば、「ぬいぐるみが1匹顔の上に落ちてきた」程度のショックしか感じなかったんじゃないかな、と思います。

が、自分、何故か手に包丁を持っておりまして、リーダー格の男性の頸動脈を、一発で開きました…(制作中の物語の、忍者キャラの暗殺成功シーンみたいです)

どうも頸動脈が何らかのパワーの源だったらしく、リーダー格の男性は、ポカンとした顔で仰向けに倒れました。物騒な雰囲気の取り巻きが居たのですが、リーダーの頸動脈が開いた後は、まるで骨無しであるかのようにグッタリしており…若い女性の取り巻きは、急な変化に口をあんぐりしていたようです。

続けて自分、空中から「鉄の杭」みたいなものを呼び出して、ハンマーで、リーダー格の男性の心臓に杭を打ち込みました。夢の中だけに、「夢で出来たワラ人形」に五寸釘を打ち込むような感じです。

…手ごたえの件は、あまり思い出したくなかったりして…

夢中で「敵の心臓」に杭を打ち続けていたので、そのときは気が付かなかったのですが、杭を打ち終わった後で、よくよく「杭」を眺めてみると、それは銀で出来ていて、十字架の形をしていました…

しばらくボーゼンとしていたのですが、リーダー格の男性の死体(?)を改めて確認すると、悪霊のミイラになっていました(悪霊のミイラというものを見たことはないし、本当にあるのかどうかすら分からないですが、そのように感じました)。

ドラキュラ映画の夢を見たのかなあ、と思うのですが…> <;;;;;;

夢の内容を思い出して、あとでショックを受けたものでした。「そんなバカな」

最後に、その、心臓に銀の十字架を「杭」よろしく打ち込まれて、悪霊のミイラ死体になってしまったリーダー格の男性なんですが、生前(?)の姿が実在する人物にそっくりだったのが、何とも不気味でありました。

実際のお名前を挙げるのはさすがに「あんまり」なので、こそっとヒントだけ。

2012年がテーマの、ゴールドのネクタイをよくしていらっしゃる方です。

「銀の十字架/悪霊のミイラ死体」という要素を見ると、憑依している悪霊を祓っているというか、彼の背後の怪しい雰囲気に気づいて、浄化するべく、強力な白魔術をかけた人がいるのかも…

自分の気分も急に変わったというか、「ぶち切れる」方に捻じ曲げられたというか、説明のつかない変化もありましたし…起きた後も、お昼まで気分が落ち着かなくて、とても不気味でした。

…魔法の絡まない、自然な、ただの夢がたりである…と思いつつ(不安)。


FriendFeedコメントより転載

悪霊退治、お疲れ様でした。その男とはあの草履ですね、GJ♪ - 丸山光三
《返信》リアル感があって疲れる内容の夢でしたね。銀の十字架なんて滅多に見ないイメージなので、そちらの方が驚きました(一応クリスチャンでは無いです)…^^;

古代科学漂流の章・中世5

【原始キリスト教の分裂・・・ネストリオス派の破門】

東ローマ文化は、基本的には、ギリシャ古典の流れを汲んでいました。しかし、313年、コンスタンティヌス帝のミラノ勅令によるキリスト教公認に伴い、ローマの学問・文化は、次第にキリスト教会のコントロール下に置かれるようになってゆきます。

380年、バチカンに初代サン・ピエトロ寺院(バシリカ式=プレ-ロマネスク様式)が建立され、392年、キリスト教はローマ帝国の国教になります。

ローマ帝国は、396年に東西分割されました。東の領土に含まれるのは、ギリシャ、バルカン半島、小アジア、シリア、エジプト。西の領土にはローマ、ガリア、ブリタニア、ヒスパニア。しかし西側は、ゲルマン勢力が急速な拡大と定着を続けており、もはや西ローマ帝国としての体を成していませんでした。

このような情勢の下、古典文明の主力がビザンティン(コンスタンティノープル)に移った事は重要です。初期の東ローマ帝国においては、アンティオキア、ベイルート、ガザ、エデッサといった各都市が、それぞれ学芸文化の中心地を担っていました(後に十字軍の侵略・略奪を受けて、各種文献ともども、灰燼に帰す事になる)。

アウグスティヌス(354-430)による『神の国』(413-417著)などの教父神学が興隆した時代であり、アリストテレスの論理学とプラトンのイデア論は、キリスト教の教義の解釈・拡張・擁護のために援用されるようになりましたが、この作業に伴ってグノーシス派との教義論争が深まり、教会分裂が激しくなりました。

※実を言えば、この教会分裂が、ローマ帝国の弱体化及び東西分割を招いたという説もあります。聖徳太子が「和をもって尊しと成す」で始まる『憲法十七条』を制定したのが604年なのですが、このタイミングを見ると、聖徳太子は、キリスト教会分裂とローマ帝国分裂について、何らかの事情を推察していた可能性が考えられます^^;

ここで注目する教会分裂は、431年に生じた教会分裂です。

シリアのアンティオキアを本拠地としていたネストリオス派は、431年のエフェソス公会議で異端宣告され、破門されました。ちなみにネストリオスは、コンスタンティノープル総主教だった人物で、シリア人キリスト教徒からの支持が高く、必然としてシリア人は、この公会議の決定を拒絶したのであります。彼らは、教義として「両性論(キリストは、神性と人性を同時に持つという論)」を提唱していました。

見かけ上神学的問題に発するこのキリスト教の分裂の背景には、文化の衝突が潜んでいた、という分析もなされています。つまり、シリア語、コプト語、アルメニア語などの勃興に支えられた地域文化が、支配的・侵略的文化たるグローバル化ギリシャ文化に対して、異議申し立てを始めたのだという事です。

【原始キリスト教の四分五裂・・・中世ヨーロッパ異端の種子】

帝政ローマに栄えた原始キリスト教会の五本山は以下のとおり・・・ローマ教会/コンスタンティノープル教会/アンティオキア教会/エルサレム教会/アレクサンドリア教会。

元々、ネストリオス派はアンティオキア教会閥に属した一派です。このアンティオキア派閥は、マリアを神の母とする教義に異を唱えていたという事です。この派閥に対抗していたのがアレクサンドリア教会閥で、代表者はキリルという人でした。彼がネストリオス派の追放を企てたという事です。

アレクサンドリア教会閥が推し進めていたマリア信仰は、別の説によれば、エジプト秘儀の一種であったイシス崇拝が、下敷きになっているという事です。つまりイシス崇拝=マリア崇拝=エジプト型の女神信仰です。キリル率いるアレクサンドリア教会閥が、イシス=マリアの神性を掲げて布教をしていたのは、その意味で自然な流れであったと申せましょう。

さらにアレクサンドリア教会閥は、ネストリオス派の「両性論(キリストに神性と人性を認める)」に比べて、キリストの人性を大きく削り落とした教義を持っていました。これを極端化すると、「単性論(非カルケドン派=キリストに神性のみを認める)」になります。

「単性論」は、451年のカルケドン公会議で異端宣告され、排斥されました。そのため、単性論派を非カルケドン派とも言います。単性論派もまた、東方に活路を見出し、高度学術書のシリア語訳を多く生み出し、シリア・ヘレニズムの立役者として活躍しました。現在も、コプト正教会やシリア正教会は単性論を継承しています。

なお、2世紀から4世紀は、キリスト教外典が盛んに記された時代でした。今日数えられている合計74のキリスト教外典のうち、42のグノーシス主義外典があると言われています。「ナグ・ハマディ文書」がコプト語で記されていたという事実は、エジプトが原始キリスト教の中心地であった事を示唆しています。カルケドン公会議で異端判定を受けたコプト教会は、グノーシス主義との関わりが深い教会でした。

また、エジプトは錬金術・黒魔術・ヘルメス思想などのオカルト科学の発祥地でもあります。当時、コプト語は、ヘブライ語やラテン語とならんで、黒魔術をたしなむ者の公用語のひとつだったそうです。

エジプトで発達したグノーシス主義・神秘主義は、ヨーロッパにおける二元論異端(この世を神と悪魔の対立の場と考える)に引き継がれ、パウロ派、ボゴミール派、カタリ派などの中世ヨーロッパの異端として、後世に大いなる影響を及ぼす事になります…

《続く》


仮説に過ぎませんが、このキリスト教会の正統・異端論争を通じて、ローマ・カトリックがカルト化・変質したのではないかという可能性があります。著しい「正統権威」の集中は、必然としてその教団を特権集団となし、カルト化せずにはおきません。更に、ローマ・カトリックは以後、ゲルマン人と交渉を持ち、脱税特権を保ちつつ、西欧の政治に積極的に干渉するようになります(カール大帝の戴冠を通じて、コンスタンティノープル圏から独立)。

さらに、ゲルマン人の統一帝国形成と相続問題による内紛、ヴァイキングが海岸を荒らしまわり、かつスラブやルス(古ロシア)、ハザール他の中央アジア勢力、アラブ=イスラーム勢力の間に緊張が走っていた8世紀から9世紀という時代は、聖像(イコン)破壊運動が生じ、布教方法の問題で東西ローマ教会が揺れ動いた時代でもありました。その後のコンスタンティノープル側つまり正教会は、ブルガリアやスラブ、新興国キエフ公国との外交に悩みつつ、ローマ・カトリックとは異なる布教活動を行なう事になったのであります。