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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

研究:カバラ言語感覚・象徴と寓意

◆考察および研究のために個人的にノート◆

《カバラー、メルカバー・ヘイハロット文学とグノーシス主義―ゲルショム・ショーレムとユダヤ神秘主義の「起源」問題―/手島勲矢・著より》

(引用者による要約)

ユダヤ神秘主義の研究は、ユダヤ学を構成するひとつの重要な分野である。しかし、ユダヤ神秘主義が学問的分野として認知されたのは、さほど昔ではない。それは、第二次世界大戦後のことであり、ひとえにG.ショーレムの功績といっても過言ではない。

ショーレムは、「自分のカバラー研究の真の目的は、その歴史を描くことではなくて、カバラーの中にある形而上学的意義を言葉にすることであった」と、友人への書簡で明らかにしている。

彼のもっとも純粋な関心は、過去の出来事としてのカバラーの発見にではなく、時空を超えた普遍的なカバラーの「意味」、現在も脈々と生き続けているその「実体」に向けられていた。この意味で、彼はカバリストであった。(事実、ショーレムは、若い頃アブラハム・アブラフィアの瞑想術を実践し、後年、その体験を詩にしている)

※ユダヤ教においては、「神秘家(カバリスト)」とは、ユダヤ教の神秘伝承カバラーを研究し、継承努力した歴史家を指す。

現在、カバラーは、12世紀~13世紀の中世プロヴァンス・ユダヤ社会の中心部に居た人々の間から発生した宗教思想・神秘思想であり、ユダヤ神秘主義とは無関係とされている。

歴史的には、ラビ・アキバやラビ・イシマエルが主人公であるメルカバー・ヘイハロット文学がユダヤ神秘主義テキストの始まりであり、そのテキストの起源を論じることが、ユダヤ神秘主義の起源を問うことである。

ショーレムはユダヤ神秘主義の歴史の一貫性を強調するあまり、メルカバー・ヘイハロット文学の神秘主義を「古代カバラー」と呼んだが、現在一般には、無用な混乱を避けるため、「初期ユダヤ神秘主義」という用語が用いられている。

カバラーには、13世紀のプロヴァンス・スペインに発する神秘思想としての「カバラー(『ゾハル』・『バヒール』などの書物に代表される神秘思想)」と、古代ユダヤ伝承としての「カバラー(ヘブライ語で「伝承」の意)」の二重の意味があるのだが、カバラーの起源問題が複雑化しやすいのは、こうした二重の意味が存在する事にもよる。

・・・重要な用語の説明=『セフェル・イェツィラー』について・・・

ユダヤ教の伝承では父祖アブラハムが伝えた書物ということになっているが、文献学的には初期ユダヤ神秘主義のテキスト群に属する。現在のテキスト形式は6世紀以前に成立していたのは確実で、伝承自体はさらに古く、おそらく2世紀~3世紀にさかのぼると思われる。

このテキストの主題は、ヘブライ語の22文字と10の数字を、神が世界を創造した原理として説明することであるが、2000語足らずの短いテキストである上に、難解で謎に満ちた文言なので、多くの読者がその理解に苦しむ。「10のスフィロット(数字)」という概念をユダヤ教に導入したのがこの書であるが、この書物の興味はあくまでも「数字」としての「スフィロット」であり、数字が宇宙の構造の中で果たす原理的役割に過ぎない。

しかし、大胆なラビ・イツハク・サギ・ナホールは、この「10のスフィロット」を、「数字」ではなく、10の「神の力能」(の存在)と解釈した。このような理解は、12世紀までは存在せず、12世紀から13世紀の南仏プロヴァンスで、急に立ち上がってきたものなのである。以後の「スフィロット」の意味は、サギ・ナホールの解釈した意味でカバリストの間に定着したのだ。

(引用者による要約終わり、以下は引用)

【言語感覚の問題―象徴(シンボル)と寓意(アレゴリー)―】

ショーレムは、哲学者は言語を「アレゴリー(寓意)」として扱い、カバリストは言語を「象徴(シンボル)」として扱うというが、サギ・ナホールの大胆な『セフェル・イェツィラー』の新解釈は、まさにこのカバリスト特有の「象徴」言語の感覚と無関係ではない。

では「象徴」と「アレゴリー」の違いとは何か。実は、それは、中世の聖書解釈問題でもある。つまり、中世のユダヤ哲学者は、合理の観点から聖書に多くの矛盾が含まれていることを認識していて、その聖書の言葉の矛盾を「アレゴリー」として捉えることで解決しようとした。

ショーレムの定義によれば、「アレゴリー」とは「自分の伝えたい意味を他の言葉で言い換える手法」であるが、理性に矛盾している聖書の箇所を「アレゴリー」として読めば、文字通りの意味にこだわる必要はなくなり、テキストの言葉を形而上的意味の〈言い換え〉として理解できる。

しかし、カバリストは、難しいテキストの言葉を「アレゴリー」とは読まず「象徴」として読んだ。ショーレムによれば「象徴」とは〈言語では表せないものの表現〉ということだが、これは「アレゴリー」的言語感覚と本質的に異なる。この「象徴」の言語感覚をショーレムはこう説明する。

〝神秘主義者の意見では、聖書の命令を行なうユダヤ生活の〈具体的な世界〉の中には、言葉で表現できない〈もう一つの世界〉が反映しているのだ。その世界は、了承された定義の形やその他の描写の形などでは表すことができない。それは、ただ「象徴」という様式でのみ現すことのできる世界である。
すなわち、聖書の読者の〈具体的な世界〉を、形而上学の教科書の原理のような、理路整然と整理できる〈真理〉の総体に置き換えるようなことはできないのである。ただ、その世界は〈象徴〉の総体としてのみ出現する。具体性それ自体のなかでのみ与えられ、展開される象徴たちが、その(もう一つの)世界を顕にして、そのベールを剥いでくれるのである。
つまり、哲学的な方法でなく、ヒントのなかからのみ把握できる概念の形で、そのベールを剥いでくれるのである。(ヘブライ大学連続講義『ゲロナのカバラー』21頁)〟

一見、アレゴリーも象徴も同じような「言い換え」の作業に思えるが、両者はテキスト解釈において根本的に異なる。それは前提とするものが異なるからである。

哲学者はある言葉の意味が謎に思えても、最終的に、それを合理的に説明することが可能だと信じる。なぜなら、言葉は「アレゴリー」にほかならないからである。すなわち謎の言葉でもアレゴリーである限り、そこには必ず率直な言葉で〈言い換えできる〉最初の「意味」が存在するのである。だからアレゴリーとして言葉を解釈する哲学者は、謎の「言葉」に対して理性が納得できる「意味」の言い換えを発見するまで諦めない。

しかし、言葉を「象徴」として捉えるカバリストは、言葉に合理的説明を求めない。なぜなら、「言葉」は、最初から「言葉にできないもの」の象徴である。つまり、言葉には最初から哲学者が求めるような「意味」は存在しない。「言葉」が提示するのは、ただ言葉にできない「存在」または「実体」なのである。

したがって、カバリストは、テキストを前に〈why is it?〉とは問わない。ただ、〈what is it?〉と尋ねる。そして、その問いに答え得る人は、その「存在」に出会った者か、またはそれについての伝承を持つ者だけである。

このような「象徴」言語の感覚は、哲学者が持つような、「言葉」に対する懐疑の上には成立しない。ただ「存在」の象徴として「言葉」を無条件に受け入れる上にだけ成立する。

したがって、ラビ・イツハク・サギ・ナホールが『セフェル・イェツィラー』注解で、10のスフィロットを神の内部にあるさまざまな「力」と説明する時、それは決してものの譬えではない。それらスフィロットは、疑いもなく、「ひとつの神」の内部に色々な「力」として存在する「神々」である。

・・・(中略)・・・

このようなカバリストの象徴言語の感覚を考慮するときに、なぜ『セフェル・イェツィラー』で用いられる何の変哲もない「エイン・ソフ(終わりがない)」という形容詞的表現が、サギ・ナホールの手にかかると、スフィロットより高次元の「存在」を意味する名詞へと変じてしまうのか、その理由も理解できる。つまり、「エイン・ソフ」というカバラー用語は、サギ・ナホールによって生み出されたもので、以前には存在しなかったのである。

哲学者とカバリストの間の聖書解釈の違いも、この言語感覚の違いにより説明できる。例えば、「シェキナー(臨在)」や「カボード(栄光)」という聖書によく出てくる神の顕現を表す言葉を、サディア・ガオンなどの哲学者は、合理的な立場から「創造者」(すなわち神自身)とは区別すべきだと考え、それらは被造物(物質的存在)の一部であると主張する。

しかし、カバリストは、シェキナーやカボードも神自身から流出した「神」自身であると抵抗なく主張する。これも、彼らの言語感覚に由来している。つまり、カバリストたちには、自分の解釈が生み出す哲学的矛盾を解決する必要はない。彼らにとって聖書の言葉は最初から「象徴」であって、合理的説明が不可能な「存在」を表しているだけなのである。だから、シェキナーとは何か、カボードとは何か、ただ知る「答え」を断言するだけでいい。彼らの答えの権威は、その答えの合理性の上にはない。

このカバリストと哲学者の言語感覚の違いは、カバラーとグノーシス主義とが結びつくひとつの重要な背景である。つまり、ショーレムにとって、グノーシス主義者の神話的言語とカバリスト(また初期ユダヤ神秘主義者)の言語感覚は、言葉を「象徴」として扱う点において極めて似ているというのである。

・・・《以上、引用》・・・資料テキスト=『グノーシス 陰の精神史』(岩波書店2001)・・・


コメント・メモより転載

《管理人の呟き》何度も何度も引用文献を読み直してみて、やっと「象徴」と「寓意」の違いが分かったような気がします(汗)。西洋の神学者や哲学者は、すごく妙な事を考えているなあ…と感心。とりわけカバリストの脳みそが謎だらけなのだ…という事だけは、理解しました。それもこれも、西洋の心の基盤を作った『聖書』という存在が、如何に大きいものであるか…という事を意味している…という事は、とてもとても明らかですね…(12世紀から13世紀といえば…「二重真理説」などという「ややこしい考え方」が普及した時期でもありますね)^^;
「象徴」と「寓意」の違いは英語に訳してみるときわめて簡単に理解できますけど♪漢字の意味にとらわれてはいけませんね♪ - 丸山光三
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2010.4.17ホームページ更新

…朝の冷え込みが強く、早朝は雪が積もっていました…天変地異まっただなか??…

新しく、以下のページを追加しました。

》時ノ神楽・・・花綵列島に寄す:直通アドレス
http://mimoronoteikoku.tudura.com/garden/waka/57tutae_02tokikagura.html

ページ内容は、当サイトのオリジナル詩歌となっております。一部、独自に組み合わせて作った詩的な言葉があり、読みの曖昧さを避けるため、右側に仮名多めの、振り仮名バージョンを添付しております。


後日、海と橘について詳細を調べていると、とても興味深いページが見つかりました。

「伊勢の海」と「橘」とは、確かに、日本列島の古代史の深い部分でリンクしていた…と言えるようです。それは確かに、確固たる祈りの世界、神話時空を織り成していて、例えば「わだつみの神学」、「海の彼方の常世の神学」とでも言うような、ある種の…光と影の入り交ざる何か、を感じられるものでした。

「海」と「橘」の入り交ざる物語、時空を超えた神話めいたもの…は、昔も今も、不思議な形で私たちに語りかけてくるものである…という風に思います。その深い部分が、古代日本人の象徴感覚&言語感覚で解釈されて、一篇の神話物語として象徴的にまとめられたものが、たとえば「弟橘媛の物語」だったのかも知れない…という想像が出てきました。

…時を超え、生と死とがうねる巨大なワダツミ、荒らぶる大自然へのひたすらな畏敬の念…

二見浦で感じた「何ともいえない不思議な気持ち」を詩歌にしてみて…かつて古代人がこの光景から感じていた「何か」に、上手く共振できたかも…という点で、割と正確なクリーンヒットとなった筈…と、ちょっとだけ、自画自賛

※参考・・・伊勢志摩と二見浦を旅行したときの記録
伊勢参詣の記録・前篇=http://mimoronoteikoku.blog.shinobi.jp/Entry/402/
伊勢参詣の記録・後篇=http://mimoronoteikoku.blog.shinobi.jp/Entry/403/

《海&橘に関する資料》

以下の文章は、(たぶん一般民間の)調査研究論文《橘について》より
http://kamnavi.jp/jm/tatibana.htm

◆常世の神の依り代、橘

橘は立花で、これは柱などと同じく神の依り代。 太古よりこの国に自生している常緑樹であり、美しい実と香しいにおい、さらに神の遣いである蝶の幼虫が育つ樹木であり、神の坐す處と世俗とを結ぶものとして尊ばれてきた。

◆海・橘・常世

常世は海の彼方にあると云う幻想は古来からのものと思います。
垂仁天皇の時代のこと、天皇は田道間守に命じて、時じくの香の木の実(『日本書紀』では非時香菓)を持ち帰るように常世国に遣わしました。『日本書紀』では「遠往絶域。萬里蹈浪。遥度弱水。是常世國」と表現しており、いかにも海を越えて遠方におもむいたようです。
垂仁天皇の時代、天照大神は「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。」と、当地に鎮座する託宣を出し、伊勢に落ち着いたのが伊勢神宮の創建譚。重浪はシキナミと訓みます。天照大神が常駐することによって、常世となり、神宮は常宮となった。
伊勢神宮とその禊ぎ場である二見浦との間の伊勢市黒瀬町に橘神社(祭神不詳)が鎮座、ここは浜郷神社(伊勢市通町)の摂社ですが、海上遥かから重浪にのって寄り来る常世の神の依り代の橘が神木であったものと思われます。現在も柑橘類の木が生えているとのこと。

・・・・・・《以上、引用》

引用元サイト=『神奈備』古代史探求サイト>http://kamnavi.jp/index.htm

京都&奈良探訪の記録

こんこんと眠ったお蔭で、体調が戻ってきて、いつもどおり元気になってまいりました。気温も上がってくれたので、助かりました…(週末に向けてまた気温が急降下するみたいですが、今度はしっかり防寒対策するので、多分、大丈夫)…^^;

忘れないうちに、2010.4.11-4.12京都&奈良探訪の記録をば。

早朝の新幹線で京都駅まで飛んでいったのですが、京都駅到着の直前に、いきなり新幹線が「ガクン」といって、駅じゃ無い所で急停車しました。

これは、事故を起こした新幹線の影響を受けたもので、しばらくそのまま立ち往生していました。「接触事故」とか「人が線路に立ち入って新幹線と接触した、現在、現場を調査中」とかいう車内放送がずっと流されていて、消防車のサイレンとかもすごくて、非常にハラハラさせられました…

※ツイッターでも運行情報が提供されていました。便利になったものです(汗)
当時の運行情報=http://twitter.com/superexp_tokai/status/11964383721
※当時の事故を報じた記事・・・【新幹線に飛び込み男性重傷…京都駅】
11日午前9時30分頃、JR京都駅(京都市下京区)で、東海道新幹線の上りホームから男性が線路に飛び込み、博多発東京行きの「のぞみ6号」(16両)にはねられた。JR東海によると、この事故で、米原―京都間で上下線23本が最大49分遅れ、約2万1000人に影響した。京都府警七条署によると、男性は足など数か所を骨折する重傷で病院に搬送されたが、命に別条はない。青森市に住む52歳と説明しているという。小走りで線路に飛び込む姿が目撃されており、同署で状況を調べている。
<2010年4月11日14時31分/読売新聞>

事故の男性、無事で良かったです。やっぱり、この混沌とした世相は何とかしなければ…orz(悩)

ともあれ、何とか京都駅に着きまして…そこでも消防関係者とか緊張感のあるザワザワが伝わってきていましたが、速やかに移動して、観光バスの中に無事おさまりました。

二条城の城門とお堀を、バスの窓から見学。二条堀川とか、印象的な町名にシミジミ。そういえば、途中で、牛若丸と弁慶が決闘した事で有名な五条大橋を垣間見しました(どうも実際の決闘の舞台には、諸説あるようです…^^;)。

御所・点景1

碁盤の目の区画というのは、やはり物珍しい印象があります。京都御所まで行くと、団体観光バスの大群でビックリしました(=自分も観光バスに乗ってやってきたので、他人のことは言えませんが…^^;)。京都御所・春の一般公開は、今年は4月11日(日)が最終日だったそうなので、さもありなん…と納得。幸い、暖かく穏やかな曇天といったお天気で、携帯カメラで色々と撮影しました。

行列が密集していまして、写真の状態でも、割とすいている方ではありました(汗)。折り良く一番前のポジションを取れた時に、何枚かゲット。御車寄を1枚。順路途中の、構造的に面白い部分を1枚。紫宸殿を1枚。何だか幽霊屋敷みたいな屋外の建物を1枚。幽霊屋敷みたいな建物は、ドラマチックな錆び感や怪しげな存在感が興味深く、制作中の物語の中で、「怪奇な幽霊スポット」か何かで活用してみようかなと考えています。

御所・点景2

その後、清涼殿の周囲の写真も一緒にゲット。衣装を着けた人形展示を一番前のポジションでゲットできたのは、ラッキーでした。赤い着物を着て刀を振り回しているのが「久米舞」。白い着物と黒い尻尾(正式な名前は知らない)を着け、葉っぱの付いた枝を持って振り回しているのが「大和舞」。十二単を着て扇を掲げているのが「五節舞」。

結構おしあいへしあいでしたが、いろいろ見られて、楽しかったです(広かったです)*^^*

お昼~昼下がりの時間帯は、嵐山・嵯峨野の野歩きで、渡月橋から祇王寺まで歩き回りました。竹林に感動。渡月橋がかかってる川は桂川というそうで、向こう側の山に点々と桜の木があって、ナニゲに良さげな雰囲気でした(この辺の山って、野から急に山が立ち上がってる感じの地形なのですね。何だか神秘的な生き物が住んでいそうだなと思いました)

朝食を満足に取っていなかった上に昼食抜きだったので、その後はお腹が空いて、足がガクガクし始めていました。途中、金閣寺も見学しましたが、空腹でフラフラになっていた事もあり、外国人観光客が密集していて、写真どころではありませんでした。知人いわく、「すごい金ぴかー、中国語がたくさん聞こえてくるー」。中国人観光客がものすごく多かった感じ。割と行動が派手で、大声でしゃべっているので、結構目立っていたようです…^^;

日が暮れかけた頃に清水寺へ到着し、そこで夕食となりました(ちゃんとした食事を予約)。清水寺で、「春のライトアップ夜間拝観」がありまして、夕食後に拝観というプログラムとなっていたのでした。こちらも同じく、4.11最終日だったようで、外国人もいっぱい集まっていました。いやはや…

食事が終わって屋外に出てみると、何と、雨脚は弱いものの、本格的な雨が降っておりまして…気温が急激に下がっていました(正直、この気温変化は驚いた…)。昼間はお天気が良好だっただけに、傘の方はうっかりして手持ち荷物に含めておらず、しばらくの間、知人と顔を見合わせて呆然としておりまして…^^;;;

…しばらく様子をうかがっていると、雨脚が少し弱くなってきまして、「この位だったら傘なしでも行ける!」と相談の上、雨の隙を突いて清水寺の屋根のある場所まで一気に駆け上がりました。

ところが、空腹を抱えて野歩きをした後に本格的な食事をして、急激に冷え込む雨の中を一気に走り回る…という、やっぱりハードなプロセスが効いたのか、身体に何らかのトドメの限界が来たみたいで、いきなり強烈な眩暈と頭痛と腹痛が始まりまして…^^;;;

原因=貧血と、身体の急な冷えと、以前から溜まっていた頭痛&疲労&ストレス…かも…^^;;;

ええと、脂汗というか、汗がいっぱい出るけど、全身鳥肌が立っているような、いないような…眩暈と腹痛は、緊張と緩和の波を持って何度も繰り返しやって来て、しまいには根負けして、ヨロヨロと手すりにしがみつきまして…ちょっと意識が朦朧としていたので覚えていないのですが、後で知人が言うには、真っ青で丸くなって震えていたとか…(うーむ…)^^;;;;;;

(一応、清水の舞台直下の桜のライトアップや、清水ビーム?っぽいのは、しっかりと目撃☆)

清水寺門前町のお店の方が快くお手洗いを貸して下さり、大変助かりました m(_ _)m<感謝

眩暈と腹痛の30分?で、10年分くらい憔悴した感じでしたが、幸い当日のプログラムはこれでおしまいで、後はホテルでゆっくり休めました(洋式シャワーでお風呂なしのホテル)。本格的サバイバル環境でしたが、体調の異変が速やかに治まったのは、きっと神仏のご利益のお蔭ですね…;^^ゞ

吉野への道

次の日は、吉野山の山歩きでした。朝から雨でしたが、バスに乗って県境を越えると、雨上がりになってきました。途中で飛鳥を通過。雲たなびく幻想的な大和三山(畝傍山・耳成山・香具山)をバス窓から見学。葛城エリアや橿原エリアは面白かったです。1枚目の写真が、葛城山系の写真です。高松塚古墳やキトラ古墳のある地区を通過し…山登りの道に入ると、向こう側に吉野の山々が見えてきまして、この辺りが中世・吉野南朝の本拠だったのだと思うと、不思議な気分になりました。

今度はしっかりと手荷物に傘を用意して、山登りしました。左側が中千本で、右側が上千本。下千本は爛熟シーズンで、中千本が満開シーズン、上千本が咲き揃いシーズンにあたっていました。どうも天候の交代タイミングだったらしく、急に雲(というか、霧)が目前に広がり、やがて雨天に変化。なので、くっきりした桜の写真は、ここまで。とても良いタイミングに恵まれたと思います。

金峯山寺・仁王像・他

金峯山寺の門の仁王像が面白く、両方ゲット。ちなみに左下の仁王像と一緒のポーズを取っている人物は、たまたま写り込んでしまった通行人で、自分でも無いし、知人でも無いです(天候は悪かったですが、押すな押すなの状態で、これでも何とかラッキー・タイミングでゲットしたものです)…^^;

正午頃、雨は本格的な降りになり、篠突く雨…ザーザー降りで、雨脚が跳ねる状態になりました。小回りが利くように小さな傘でしたので、大雨にはちょっと対応できない部分がありまして、あっという間にズボンの裾周りとか、靴の中とか、あちこち濡れてきましたが、これは致し方ない…^^;

やがて金峯山寺の方角から「ほら貝」の「PoOoo-OoO-ooo(?)」というような轟音が響きまして、「何だろう?」と言うことで、近寄ってみますと…何やら火事っぽい煙が傘群の上に見えたものですから、大変ビックリしました(右下の写真)。

引き続き頑張って近づいてみて、傘群の向こうに、本物の炎を発見。正午頃と言う事もあって、お腹の空いたらしいグループが抜けたので、幸運にも良く見える位置を確保(あ…ちなみに、この日も昼食抜きでした…^^;)。

蔵王堂・点景1

柿色の着物を着た修験者が大勢ならんで、輪っかの付いた金属棒を振って、般若心経らしき呪文を延々と唱えていました。そして、大量の葉っぱを載せている火やぐらの前で、代表者らしき修験者が、何かを書き付けて糸で束ねた木の板らしきものを、刀で糸を切って、次々に投げ込んでは手を合わせ、一礼を重ねている…という光景。

…たぶん「護摩焚き」と呼ばれている儀式だと思うのですが、非常にオカルトでした。正午の篠突くような雨の中、巨大で不思議な護摩壇らしき火やぐらを組んで、大勢の修験者が楽器を鳴らし呪文を唱えて、五色の布で結界した中世の蔵王堂の前で、神秘的な火をボンボン燃やしている…という…

蔵王堂の屋根からは滝のような感じで雨だれが流れ落ちてきますし、雲(≒濃霧)はドンドン流れ込みますし…一瞬、山深い吉野に栄えた日本中世の異形の王朝の姿が立ち現れてくるようで、急に連想された神秘的なイメージの鮮やかさ、力強さもあって、圧倒されました…

蔵王堂・点景2

ところで、修験者の背中をじっくり見た事が無かったので、非常に興味深く眺めていました。で、修験者がお尻に毛皮を垂らしている、というのは、この時初めて知りました。よく見てみると、その毛皮に、かつて動物だったものの尻尾が本当に付いているので、目を丸くしてしまいました(多分、狸の毛皮)。

今まで、何故ああいう毛皮をお尻につけるのか不思議でしたが、この雨でひとつ、納得したことがあります。座るところが雨で濡れて泥だらけになっていても、ああいう毛皮が付いていれば、お尻を濡らさずに腰を下ろせるのですね。冬でもお尻を冷やさずに済みますし…さすが山野を駆け巡る修験者、何ともサバイバル的・実用的な知恵だと感心しました。

で、その後は再び観光バスに乗って、伊賀エリアや鈴鹿エリア、関宿・亀山エリアを通過。通過だけでしたが、伊勢志摩はとても気に入った処だったので、再び近くまで行けたので、良かったです…^^ゞ

そして名古屋駅から新幹線に乗って、無事に帰宅の途につきました。で、最後になりましたが、やっぱり吉野の雨で、割と濡れネズミ状態だった…というのが失敗だったみたいで、夕方から夜にかけて関東地方に入り込んだ寒気で、また身体が冷えて、体調を崩しかけてしまいまして…(苦笑い)。

出発時の気温予想を参考に、ずっとヒラヒラの薄着状態でしたので、まさか急激に真冬のような寒気が入ってくるとは夢にも思わなかったです。

いやはや…じっくり振り返ってみると、こういう気象変化の大きな旅行環境で、本格的な風邪にならなかったのは、本当に運が良かったです…^^;


FriendFeedコメントより転載

《管理人の呟き》渡月橋がかかっている川の名前を間違えたことに気が付いたので、修正しました^^;(保津川⇒桂川に修正)…京都はとても人気の高い観光スポットという事もあって、外国人もいっぱい居て、にぎやかでした。後で思い出してみると、中国人観光客がものすごく多かった…というのが印象深いものでした。ずっと中国語が途切れず続いていた感じでしょうか…金閣寺では、中国語の感嘆(叫び声?)もあったような…^^;
>金閣寺では、中国語の感嘆(叫び声?)もあったような…では笑えました。彼らにしてみれば理想の建物に見えたのでしょう。そのセンスが、あのアグネス・チャン御殿にも脈々と続いているのですねえ♪ - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます^^金閣寺の前で会話ボリュームが跳ね上がっていたので、会話なのか感嘆なのか、ちょっと分からない状態でした。やっぱり黄金の輝きというのは、非常に魅力的に感じるみたいですね。