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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

研究:カバラ言語感覚・象徴と寓意

◆考察および研究のために個人的にノート◆

《カバラー、メルカバー・ヘイハロット文学とグノーシス主義―ゲルショム・ショーレムとユダヤ神秘主義の「起源」問題―/手島勲矢・著より》

(引用者による要約)

ユダヤ神秘主義の研究は、ユダヤ学を構成するひとつの重要な分野である。しかし、ユダヤ神秘主義が学問的分野として認知されたのは、さほど昔ではない。それは、第二次世界大戦後のことであり、ひとえにG.ショーレムの功績といっても過言ではない。

ショーレムは、「自分のカバラー研究の真の目的は、その歴史を描くことではなくて、カバラーの中にある形而上学的意義を言葉にすることであった」と、友人への書簡で明らかにしている。

彼のもっとも純粋な関心は、過去の出来事としてのカバラーの発見にではなく、時空を超えた普遍的なカバラーの「意味」、現在も脈々と生き続けているその「実体」に向けられていた。この意味で、彼はカバリストであった。(事実、ショーレムは、若い頃アブラハム・アブラフィアの瞑想術を実践し、後年、その体験を詩にしている)

※ユダヤ教においては、「神秘家(カバリスト)」とは、ユダヤ教の神秘伝承カバラーを研究し、継承努力した歴史家を指す。

現在、カバラーは、12世紀~13世紀の中世プロヴァンス・ユダヤ社会の中心部に居た人々の間から発生した宗教思想・神秘思想であり、ユダヤ神秘主義とは無関係とされている。

歴史的には、ラビ・アキバやラビ・イシマエルが主人公であるメルカバー・ヘイハロット文学がユダヤ神秘主義テキストの始まりであり、そのテキストの起源を論じることが、ユダヤ神秘主義の起源を問うことである。

ショーレムはユダヤ神秘主義の歴史の一貫性を強調するあまり、メルカバー・ヘイハロット文学の神秘主義を「古代カバラー」と呼んだが、現在一般には、無用な混乱を避けるため、「初期ユダヤ神秘主義」という用語が用いられている。

カバラーには、13世紀のプロヴァンス・スペインに発する神秘思想としての「カバラー(『ゾハル』・『バヒール』などの書物に代表される神秘思想)」と、古代ユダヤ伝承としての「カバラー(ヘブライ語で「伝承」の意)」の二重の意味があるのだが、カバラーの起源問題が複雑化しやすいのは、こうした二重の意味が存在する事にもよる。

・・・重要な用語の説明=『セフェル・イェツィラー』について・・・

ユダヤ教の伝承では父祖アブラハムが伝えた書物ということになっているが、文献学的には初期ユダヤ神秘主義のテキスト群に属する。現在のテキスト形式は6世紀以前に成立していたのは確実で、伝承自体はさらに古く、おそらく2世紀~3世紀にさかのぼると思われる。

このテキストの主題は、ヘブライ語の22文字と10の数字を、神が世界を創造した原理として説明することであるが、2000語足らずの短いテキストである上に、難解で謎に満ちた文言なので、多くの読者がその理解に苦しむ。「10のスフィロット(数字)」という概念をユダヤ教に導入したのがこの書であるが、この書物の興味はあくまでも「数字」としての「スフィロット」であり、数字が宇宙の構造の中で果たす原理的役割に過ぎない。

しかし、大胆なラビ・イツハク・サギ・ナホールは、この「10のスフィロット」を、「数字」ではなく、10の「神の力能」(の存在)と解釈した。このような理解は、12世紀までは存在せず、12世紀から13世紀の南仏プロヴァンスで、急に立ち上がってきたものなのである。以後の「スフィロット」の意味は、サギ・ナホールの解釈した意味でカバリストの間に定着したのだ。

(引用者による要約終わり、以下は引用)

【言語感覚の問題―象徴(シンボル)と寓意(アレゴリー)―】

ショーレムは、哲学者は言語を「アレゴリー(寓意)」として扱い、カバリストは言語を「象徴(シンボル)」として扱うというが、サギ・ナホールの大胆な『セフェル・イェツィラー』の新解釈は、まさにこのカバリスト特有の「象徴」言語の感覚と無関係ではない。

では「象徴」と「アレゴリー」の違いとは何か。実は、それは、中世の聖書解釈問題でもある。つまり、中世のユダヤ哲学者は、合理の観点から聖書に多くの矛盾が含まれていることを認識していて、その聖書の言葉の矛盾を「アレゴリー」として捉えることで解決しようとした。

ショーレムの定義によれば、「アレゴリー」とは「自分の伝えたい意味を他の言葉で言い換える手法」であるが、理性に矛盾している聖書の箇所を「アレゴリー」として読めば、文字通りの意味にこだわる必要はなくなり、テキストの言葉を形而上的意味の〈言い換え〉として理解できる。

しかし、カバリストは、難しいテキストの言葉を「アレゴリー」とは読まず「象徴」として読んだ。ショーレムによれば「象徴」とは〈言語では表せないものの表現〉ということだが、これは「アレゴリー」的言語感覚と本質的に異なる。この「象徴」の言語感覚をショーレムはこう説明する。

〝神秘主義者の意見では、聖書の命令を行なうユダヤ生活の〈具体的な世界〉の中には、言葉で表現できない〈もう一つの世界〉が反映しているのだ。その世界は、了承された定義の形やその他の描写の形などでは表すことができない。それは、ただ「象徴」という様式でのみ現すことのできる世界である。
すなわち、聖書の読者の〈具体的な世界〉を、形而上学の教科書の原理のような、理路整然と整理できる〈真理〉の総体に置き換えるようなことはできないのである。ただ、その世界は〈象徴〉の総体としてのみ出現する。具体性それ自体のなかでのみ与えられ、展開される象徴たちが、その(もう一つの)世界を顕にして、そのベールを剥いでくれるのである。
つまり、哲学的な方法でなく、ヒントのなかからのみ把握できる概念の形で、そのベールを剥いでくれるのである。(ヘブライ大学連続講義『ゲロナのカバラー』21頁)〟

一見、アレゴリーも象徴も同じような「言い換え」の作業に思えるが、両者はテキスト解釈において根本的に異なる。それは前提とするものが異なるからである。

哲学者はある言葉の意味が謎に思えても、最終的に、それを合理的に説明することが可能だと信じる。なぜなら、言葉は「アレゴリー」にほかならないからである。すなわち謎の言葉でもアレゴリーである限り、そこには必ず率直な言葉で〈言い換えできる〉最初の「意味」が存在するのである。だからアレゴリーとして言葉を解釈する哲学者は、謎の「言葉」に対して理性が納得できる「意味」の言い換えを発見するまで諦めない。

しかし、言葉を「象徴」として捉えるカバリストは、言葉に合理的説明を求めない。なぜなら、「言葉」は、最初から「言葉にできないもの」の象徴である。つまり、言葉には最初から哲学者が求めるような「意味」は存在しない。「言葉」が提示するのは、ただ言葉にできない「存在」または「実体」なのである。

したがって、カバリストは、テキストを前に〈why is it?〉とは問わない。ただ、〈what is it?〉と尋ねる。そして、その問いに答え得る人は、その「存在」に出会った者か、またはそれについての伝承を持つ者だけである。

このような「象徴」言語の感覚は、哲学者が持つような、「言葉」に対する懐疑の上には成立しない。ただ「存在」の象徴として「言葉」を無条件に受け入れる上にだけ成立する。

したがって、ラビ・イツハク・サギ・ナホールが『セフェル・イェツィラー』注解で、10のスフィロットを神の内部にあるさまざまな「力」と説明する時、それは決してものの譬えではない。それらスフィロットは、疑いもなく、「ひとつの神」の内部に色々な「力」として存在する「神々」である。

・・・(中略)・・・

このようなカバリストの象徴言語の感覚を考慮するときに、なぜ『セフェル・イェツィラー』で用いられる何の変哲もない「エイン・ソフ(終わりがない)」という形容詞的表現が、サギ・ナホールの手にかかると、スフィロットより高次元の「存在」を意味する名詞へと変じてしまうのか、その理由も理解できる。つまり、「エイン・ソフ」というカバラー用語は、サギ・ナホールによって生み出されたもので、以前には存在しなかったのである。

哲学者とカバリストの間の聖書解釈の違いも、この言語感覚の違いにより説明できる。例えば、「シェキナー(臨在)」や「カボード(栄光)」という聖書によく出てくる神の顕現を表す言葉を、サディア・ガオンなどの哲学者は、合理的な立場から「創造者」(すなわち神自身)とは区別すべきだと考え、それらは被造物(物質的存在)の一部であると主張する。

しかし、カバリストは、シェキナーやカボードも神自身から流出した「神」自身であると抵抗なく主張する。これも、彼らの言語感覚に由来している。つまり、カバリストたちには、自分の解釈が生み出す哲学的矛盾を解決する必要はない。彼らにとって聖書の言葉は最初から「象徴」であって、合理的説明が不可能な「存在」を表しているだけなのである。だから、シェキナーとは何か、カボードとは何か、ただ知る「答え」を断言するだけでいい。彼らの答えの権威は、その答えの合理性の上にはない。

このカバリストと哲学者の言語感覚の違いは、カバラーとグノーシス主義とが結びつくひとつの重要な背景である。つまり、ショーレムにとって、グノーシス主義者の神話的言語とカバリスト(また初期ユダヤ神秘主義者)の言語感覚は、言葉を「象徴」として扱う点において極めて似ているというのである。

・・・《以上、引用》・・・資料テキスト=『グノーシス 陰の精神史』(岩波書店2001)・・・


コメント・メモより転載

《管理人の呟き》何度も何度も引用文献を読み直してみて、やっと「象徴」と「寓意」の違いが分かったような気がします(汗)。西洋の神学者や哲学者は、すごく妙な事を考えているなあ…と感心。とりわけカバリストの脳みそが謎だらけなのだ…という事だけは、理解しました。それもこれも、西洋の心の基盤を作った『聖書』という存在が、如何に大きいものであるか…という事を意味している…という事は、とてもとても明らかですね…(12世紀から13世紀といえば…「二重真理説」などという「ややこしい考え方」が普及した時期でもありますね)^^;
「象徴」と「寓意」の違いは英語に訳してみるときわめて簡単に理解できますけど♪漢字の意味にとらわれてはいけませんね♪ - 丸山光三
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