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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

中華ナショナリズム・考

中華の近代史を垣間見する事を通じて、中華ナショナリズムの内容を見透かしてみる…という風に書いてみたいと思います(ちょっと難しいかもですが・汗)。

詩的:「シナの問題はすべて量に還元できる」http://marco-germany.at.webry.info/200803/article_1.html

(と言う事は、「中華の歴史の謎は、経済に始まり経済に終わる」と言えるかも)

★まずは、地理・版図とか。

今日、我々が「中国(中華人民共和国)」として認識するエリアを確認。

中心となるのは、英語で「China Proper:チャイナ・プロパー」、即ち「中国本土」と呼ばれる範囲。伝統的な歴史用語で言えば「中原」でしょうか。英語の定義はハッキリしていて、「元々のChina」と言う意味であり、秦の始皇帝が支配した(と、されている)版図に由来しています。

その周縁部が、現代の中華人民共和国が主張する周縁部の最大版図と言う事になります。此処では近現代史に注目したいので、目下、領土問題などで騒がしくなっている南沙諸島などは省いて、1945年~1950年ごろの版図をイメージしたいと思います。

★歴史を垣間見。

黄河流域すなわち中原が、古代における中華揺籃の地でした。

黄河流域は、地理や古代史上の群雄割拠などで見ると大きく3ブロックと見る事が出来ます。

関中盆地(渭水流域)、洛陽盆地(洛水流域)、河北平原(太行山脈)。

いずれもアワ・キビ農耕ないし遊牧による生産を主とした寒冷地であり、気象激変(春夏旱魃、夏秋大雨)を恐れる自然環境の中にありました。

黄河氾濫がいっそう激しくなった頃に、治水事業に力を注ぐ古代王朝の時代が展開しました。 そして、灌漑テクノロジーが発達し、生産力を飛躍的に伸ばします。最も早期に技術力および生産力のトップを築いたのが、関中地域でした。

古代の歴代王朝は関中に都を築き、国富の半分以上が関中に集中しました。首都・長安の時代でもあります。

ただしこの長安、防衛拠点としては優秀でしたが、交通事情が悪く、飢饉の時に周辺から食糧を運び込むのが難しかったので、都内の食糧事情はたやすく悪化し、たびたび多くの流民=人口移動を発生させました。

流民は何処へ向かったか。まずは洛陽盆地の大都市・洛陽です。防衛機能は長安に比べるとずっと弱かったのですが、昔から物流の拠点として栄え、食糧の確保も容易でした。

唐帝国の時代になると、こうした、食糧危機をきっかけとする人口移動が激化します。領土の急拡大と共に都内の人口爆発も進み、関中地域だけでは都内の人口を維持できなくなっていたためです。そして、「中華」は黄河流域から溢れ出て、周縁部への大量流出を始めました。

★中華ナショナリズム史

魏晋南北朝に始まり唐宋帝国に続く、この「反劇場都市(伝統的な古代都市コスモスの崩壊=皇帝なき桃源アルカディア夢想)」と「反都市(飢餓難民パワー)」に彩られた、危機の時代にこそ、逆説的に、河北を淵源とする中華ナショナリズムの種子が蒔かれたと考えるものであります。

「シナの問題はすべて量に還元できる」…河北から溢れ出した「量」は膨大な物であり、それは江南を圧倒したと言う事が出来ます。

唐・宋の時代に起きたのは、長江流域の大征服と、それに続く大開発です。宋帝国は長江流域に首都をおきました。宋帝国の繁栄は、更なる人口爆発を生みました。

長江流域が河北勢力に占領されたと言う事実は、政治力において、江南勢力が、河北勢力のそれに劣っていたと言う事実を暗示するものであります。河北中原を発生源とする中華ナショナリズムの行く末は、この唐・宋の時代に固定化したと言えるかも知れません。

「江南コンプレックス/桃源の夢想(by大室幹雄氏)」と「中華ナショナリズム」は、おしなべて「中華」という世界観を明確に持つエリート支配者層の心理において、裏と表の関係を成している…

端的にいって、戦国期的な渾沌と自由の再来にも関わらず、世界解釈の枠組みが伝統として完成されすぎていたのである。そのため世界を初め、国家、社会、人間をめぐって未来を展望し、それらの新たな諸関係を構想し、世界解釈全体を構成しなおす想像力の潑溂はどこにも湧き起こらなかった。 /大室幹雄・著『桃源の夢想』より

※大室氏の指摘には、改めて「成る程」と思わされるところがあります※

長江流域(江南)の特徴は、大局的には黄河と似通った地形を持ちながらも、その流域に展開する複雑な地形により天然ダムを多く生じるため、ダムの調節機能が働いて、水位が安定してくる(運河として極めて有効)という事です。

このため、江南は、生産力において河北の上位に立ちながらも、国家的危機に対する強力な政治的対抗力を持ちえませんでした。宋が、いつの間にか政治的には弱体化し、新たな河北勢力として現れた遊牧騎馬民族の王朝に対抗し得なかったのは、まさに、この江南ジレンマによる物と言えるでしょう。

※この「政治的な戦力において、より劣勢である」という事実は、日本にも言えます。日本と江南とは、自然環境も文明的・政治的発展の有様も、いやに似通っているのです。日本が江南に比べて幸運だったのは、ただひとえに、海によって隔絶されていたからに他なりません(汗)

江南の開発には前期(3世紀~9世紀・魏晋南北朝~唐代)と後期(10世紀~・宋代)があります。俗に「江南デルタ」と呼ばれる低湿地の開発が進んだのは後期です。宋の時代に、海水の進入を防ぐ護岸工事が進み、広大な稲作地帯が生まれました(蘇湖熟すれば天下足る)。

★分裂動乱と中華ナショナリズム

中華ナショナリズム/中華イデオロギーの問題を考える時、中原に展開した遊牧騎馬の社会と農耕社会との折衝・交渉の歴史を抜きにする事は出来ません。

日本や西洋で展開した「国民意識(ナショナリズム)」と同じような地理的・歴史的尺度で考えるのは不可能です。ここに「中華」という概念の特殊性があります(=「シナの問題はすべて量に還元できる」)。

黄河流域すなわち中原は、西域に展開した遊牧騎馬民族と関係の深い土地であり、しばしば、貿易・略奪・戦争・官僚汚職の現場となりました。群雄割拠…分裂抗争の頂点を構成する土地でもあったのです。

山西省や河北省は、江南へ向かって拡大を続ける中華世界に対して、しばしば分裂勢力を生み、歴史的には、しばしば大陸動乱の発生地となっています。西域と密接な地政学関係にある都市(長安・洛陽)が歴代王朝の首都に選ばれたのは、こうした分裂動乱に備える必要があったためです。

必然として、軍事費・領土の占領&掌握のための出費が異常に突出しました。これこそ、まさに「量の問題」であります。古代から現代まで、河北と江南を強引に一体化して成立した「拡張版の中華」を彩り続けてきた特性でもあります。おそらく未来もこの特性を保ち続ける筈です(地政学的状況が不変である限り)。

現在の中華人民共和国は、長安・洛陽では無く、北京を首都としています。北京は中原の最北端に位置し、「中原の中心に都する」という河北の伝統的な中華コスモス観からすると非常に偏っていると言えますが、近現代の国際状況がもたらした特殊な事態かどうかは、後の時代になってみないと分かりません。

※朝鮮半島とロシア、両方の動きに素早く対応できる地政学的位置にあると言う事は指摘できます。更に言えば、その視線は、日本ひいてはアメリカに向いているのかも知れません。「海に近い位置でもある」という事実には、奇妙に暗示的な物を感じます。

首都・北京(紫禁城)は、元々は明の時代に永楽帝が首都とした事に由来します。当時、モンゴルを辺境に追い払い、その後もモンゴル対策が必要だったという事と、皇帝の地元が北京だった事、という理由が指摘されています。

その後の清帝国は、建前上、明帝国の後裔という立場であり、北京(紫禁城)をそのまま受け継ぎました(清の本拠地は東北部・満洲にあった)。

近代の中華ナショナリズムは、最初は清朝末期、西欧列強に対する利権奪還という「国民的行動」を通じて、 全土レベルで燃え上がった物でした。

それは、日本の明治維新をモデルにした辛亥革命に、必然の如く連結して行きましたが、結局は地域軍閥ごと・エリートごとの抗争の中で挫折します(皇帝・袁世凱の失敗の問題もあり複雑化します)。その後は抗日戦線においてロシア共産党との共闘があり、満洲・朝鮮半島の動乱がありました。

ちなみに傀儡帝国と言われる満洲国(1931-1945)の首都は「新京」、「中華民国の後裔としての台湾」の名目上の正式な首都は「南京」。ある意味「中華に対する分裂独立勢力であった/である」と言えるのかも知れません。

近現代(19世紀~20世紀)を彩った政治的危機は、おそらく「拡張版の中華(河北&江南)」においては、歴史上最大の四分五裂の危機であり、おそらくは最大範囲にわたって最大影響力を及ぼしました。

辛亥革命や中華民国・日中戦争(抗日戦争)といった分裂動乱の時代は、首都の位置も、南北の間で揺れ動きました。この最大危機が、逆説的に、科挙エリートや富裕層の間で、「中華ナショナリズム」の拡大激化を促したと言えるでしょう。

※一応、元=モンゴル帝国が最大版図ですが、モンゴル帝国は広大すぎたし、早々と分裂し始めたので、中華化が間に合わなかったとも言えます。情報の展開スピードの問題もあるかも知れません。

しかし、近現代の「国民国家/国民意識」を構成する筈だった近現代の「中華ナショナリズム」は、「拡張版中華帝国の領土分裂の危機」に際して、ゾンビの如くよみがえった「古代的な中華イデオロギー」の下敷きになり、複雑骨折して行きました。

(戦後の歴史教育においては、それは「反日」で裏付けられる物となっています。通常、常識的に言及される「国民国家の誇り」と連結するナショナリズムとは異なっており、古代都市に由来した中華エリート意識に依存しながら他者依存性を強めたナショナリズムという点で、それは「非常に歪な"何か"」と申せましょう)

★当サイトなりの「中華ナショナリズム」に対する見解&結論

「シナの問題はすべて量に還元できる」…中華帝国の財政は、かなり特殊な様相を呈します。

今日、先進国が国民全体からの税収で国家財政を成り立たせるのとは対照的に、中華帝国では、ごく一部の富裕層からの税収で国家財政を成り立たせて来ました。

大多数の人民の数が多すぎて、把握しきれないからです。戸籍システムは、中華世界の拡大と共に拡大発展する事はありませんでした。ひとえに「量の問題」なのです。戸籍の格差に伴う特権や税収、「国家財政の皮をかぶった"何か"」は、伝統的に、都市の富裕層を中心に展開しました。

「都市」という網目ポイントのみで構成される中華帝国、それは、周縁部の領土の広大さに対して、遥かに「小さな政府」を呈します。中央(中原・中華・特権階級)における驚くべき富の集中と蕩尽、「皇帝」を中心に展開する特権(ないし権力)、そして大多数の周縁部・下層階級に対して展開する盲目的な搾取とそれに伴う汚職の横行、それは「国家の目」の及ぶ視野を「中原」のみに限った、「小さな政府」にして可能な事であります。

現代の中華人民共和国の財政状況を見ても、富裕階級を成す国有企業や官僚のみが肥え太り、大多数の民間企業・庶民は搾取され切り捨てられる…そういう、古代社会のコピーの如き、歪なまでの「小さな政府」&「格差社会」の存在を指摘できる。

絶望的なまでの格差社会が生み出す、「富裕」に象徴される中央・中華(エリート層)への憧れ、羨望…

社会的・国土的・歴史的には分断状態にある筈の、広大な領土を結びつけるのは、中華イデオロギーを現実化した都市たちによる、網目の如きネットワーク。その網目から漏れ出すかの如き、人口流出…そしてそれに伴う、領土の分裂性と膨張性。

拡大深化し続ける政治混乱と矛盾を内部に含みながらも、なおも外側へと膨張を続ける帝国。日本の隣にあるのは、そういう「異形の帝国」だと言う事実を、我々日本人は、きちんと考える必要があるのだと思います。

【孫文の演説:中華民国の建国宣言の時の「中華民国臨時大総統宣言書」】

「国家の根本は人民である。漢、満、蒙、回、蔵の諸地方を一つにして一国家とするとは、すなわち、漢、満、蒙、回、蔵の諸族を一つにすることである。…これを民族の統一と言う。…武漢を皮切りに十数行省がまず独立した。いわゆる独立とは清廷の支配から離脱し、各省が連合することである。蒙古、西蔵の願いもまたかくのごとし。行動を統一させ、道を踏み外さず、重要決定は中央で行い、縦糸横糸を四方の境界に張り巡らす…これを領土の統一と言う。」

この宣言には、漢、満、蒙、回、蔵の五族を一つに融合同化して単一の「中華民族」を創出するという意図が含まれている。五族が各々自主独立するという「民族主義」は、列強の侵食を許す分裂亡国の民族主義として退けた。

【1920年~1921年の孫文の言葉】

「我が中国のあらゆる諸民族を一つの中華民族に融合せねばならない。同時に中華民族を文明的民族に作り上げなければならない。そうして初めて民族主義は仕上がったことになる」
「中国に唯一存在して良いのは漢族=中華民族の民族主義のみで、他の民族の独立を謳うような複数の民族主義は存在してはいけない」

優秀な漢族が中心になって、遅れた他の四族を指導し平等化するという中華民族国家体制を想定している。この意味で「近代化した華夷秩序/中華イデオロギー」と言える。中華ナショナリズムはこのように、「民族平等思想」と言う名の新たな中華思想の下敷きとなり、複雑骨折していった。現代の中華人民共和国は、この孫文の「民族平等思想」を継承している。

現代の「少数民族」には相反する二つのイメージがある。「大一統の下に凝集」「保守で落後」。これが少数民族優遇政策の際のイメージとなっている。少数民族の到達目標は漢族とする。少数民族は皆、漢語を学び、漢族的な思考・行動様式を取るように指導される対象である。 民族独自の生活様式や宗教信仰の自由は、中国共産党に許容される範囲内に限られる。

【習近平の演説:2015.09.03北京軍事パレードにて】

「靡不有初、鮮克有終(初め有らざるはなし、克〈よ〉く終わり有るは鮮〈すく〉なし=誰でも最初は頑張れるが、最後までやり遂げるのは少ない) 。中華民族の偉大な復興の実現は、一代、そしてまた一代の人々の努力が必要だ。中華民族は5千年以上の歴史を持つ光り輝く文明を創造した。必ずやいっそう光り輝く将来も作り出すことができる。」

過去の歴史をどのように認識し解釈しているか、その内容も窺える演説となっている。「中華民族」は近代に出来た言葉であり概念だが、その概念を5千年に渡る過去の大陸史に一気に投影する事で、現在の状況を正当化するという形になっている。


『シナ(チャイナ)とは何か/第4巻/岡田英弘著作集』藤原書店2014
https://twitter.com/history_theory/status/1615361771279355905

日本は長くシナ文化圏にあった。
ところがそれが逆転して、シナが「日本文化圏」に入るという世界史上の大事件が起こった。 日清戦争における清国の敗北である。
なにしろ、わずか30年前に欧化政策を取り入れ、近代化の道を歩み始めたばかりの日本に、清では最新の西洋式軍備を備えていた李鴻章の北洋軍が壊滅させられたのだから、ついに清朝も近代化の必要性を認めざるを得なくなり、海外に留学生を派遣して官吏に登用し、やがて1300年続いてきた科挙は廃止された。
シナは独立性を失い、世界史の一部、それも日本を中心とする東アジア文化圏に組み込まれた。 そして、10万人を超える日本留学経験者が持ち帰ったものが、現在の中国文化の基礎をつくった。
なかでも最も根本的なのは、日本語がシナの言葉に与えた影響だった。
清国留学生は、日本の教科書や参考書を読んで大喜びしたはずである。
西欧語はチンプンカンプンでも、日本の本には漢字がたくさん使われているので、どれを読んでもなんとなく意味がわかる。
もともと漢字は不完全なコミニュケーション・ツールで、異種族同士の符牒に過ぎないので、なんとなく意味が通じればそれでいい。
日本語がわかろうがわかるまいが、日本語の発音がどうであろうが、そんなことは問題ではない。
もともと何かを突きつめて100%理解しようという文化は彼らにはない。
すべてアバウトな「馬馬虎虎」(まあまあ適当に)とか「差不多、一様」(大した違いはない)とかいう精神で生きているから、日本人の翻訳した漢字の並びを見て、6、7割わかればそれで充分だった。
ヨーロッパの最先端の思想が、日本語の漢字の並びを眺めているだけで漠然とわかるのだから、これは便利だとばかり、そうした「和製漢語」を本国に大量に持ち帰った。
日本がすでに30年かけて、これだけの「漢語」をつくっているので、これを使えば、我々は2年くらいで近代化(西洋化)を終えて日本を追い越せると考えたのである。
そのメンタリティは現代でも変わっていない。
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