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〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)
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『マニ教』(講談社選書メチエ2010)青木健・著より、ノート覚書

マニ教の中国伝来・・・一般には「684年に伝来」とされている

南宋時代の『仏祖統記』の記事より
・・・唐王朝第3代皇帝高宗(在位649-683)の時代に、ある慕闍(ぼうじゃ※1)が長安を訪れ、唐王朝が夷教を国家の統制下に置こうとしているのを知り、弟子で払多誕(ふたーだーん※2)の密烏没斯(ミフル・オフルマズド)を呼び寄せたという。彼が『二宗経』を携えて到着したのが則天武后(在位684-705)の初年に当たっていた。
  • ※1・・・慕闍(ぼうじゃ)=ソグド語「モーザク」。パフラヴィー語の「フェレスタグ」に相当するマニ教教会の第二位階。
  • ※2・・・払多誕(ふたーだーん)=ソグド語「アフターダーン」。パフラヴィー語の「イスパタグ」に相当するマニ教教会の第三位階。
【補足】・・・マニ教教会の位階制度(中世ペルシア語単数形/中国語表記)
デーン・サーラール/法王・・・クテシフォンの本部に1名
フェレスタグ/承法教道者・・・12名
イスパタグ/伝法者・・・72名
マヒスタグ/法堂主・・・360名
ウィズィータグ/一切純善人・・・無制限
――聖職者と一般信徒の仕切り――
ニヨーシャグ/一切浄聴者・・・無制限

則天武后の時代には「則天文字」なるものが使用された(689-705の間だけ)。敦煌出土の漢文のマニ教文献の一部には、則天文字を多数使って書かれたものがある。則天武后は自分を称える新しい宗教的イデオロギーを求めていたので、マニ教の需要もあったらしく、快く迎えられたと言われている。

しかし、則天武后の時代以降の、中国国内におけるマニ教の実態は謎であると言われている…(実際に来たのはソグド人商人であり、マニ教徒としての活動よりも商売活動の方に熱心だったためかも知れない)。しかし、それなりに布教活動はしていた模様。

唐王朝第6代皇帝玄宗(在位712-756)になると、マニ教の活動は皇帝の不信を買ってしまい、731年には朝廷がマニ教の教義の説明書の上程を求めた。これに応えて同731年7月16日に集賢院に提出されたのが『摩尼光佛教法儀略』。しかし、朝廷の高官を余り説得できなかったらしく、翌732年には、朝廷がソグド人やウイグル人を除く中国人へのマニ教布教を禁じる勅令が発せられた。

しかし、安史の乱(755-736)が勃発すると、乱の平定にウイグル人が活躍し、しかもそのウイグル人がマニ教を国教としたため、マニ教は一転して東アジアにおける黄金時代を満喫した。

※744年ウイグルの懐仁可汗が可汗を称し、遊牧ウイグル帝国(744-840)を建国。763年、第3代・牟羽可汗が、洛陽にてマニ教に帰依。長安で大雲光明寺(マニ教)が建てられた。

その後、中国ではウイグル人の勢力が弱まり、キルギス人の勢力が強まった。同時にマニ教も中国で弾圧される。ウイグル人は西へ敗走し、トルファンを首都として天山ウイグル王国を作る。そこでマニ教は、組織的なスタイルとして最後の繁栄を迎えた(後世、仏教勢力の反撃があってマニ教は衰退した。最終的には、モンゴルの襲撃に伴い、マニ教の書籍や芸術はトルファンの砂の中に埋もれる事になった)。

(参考)中国のマニ教のお寺・・・(写真あり)
「世界で唯一残ったマニ教のお寺へお参りに行く」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/9613/yomimono/mani1.html
『摩尼光佛教法儀略』(唐代)の要約:
・・・摩尼光仏(マニこと光の仏陀)は、蘇隣国(バビロニア)の抜帝(パティーク)の王宮で、金薩健種(カムサラガーン家)の満艶(マルヤム)から生まれた。それは、後漢の献帝の建安13年2月8日(西暦208年3月12日)に当たる。彼の母は斎戒潔斎して、清浄なまま胸からマニを生んだ。彼は神験九徴、時代の人々に抜きん出ており、道を熟知していた。彼の体質は孤秀で、彼の叡智は日月を貫いた。彼は二宗三際の教義を開元し、その言葉は明快、その理論は直截、その品行は方正、その証拠は真実だった。

このように中国では、「仏陀生誕」をモデルにした「マニ生誕」が語られた。光の啓示や預言者としての召命、殉教といった西アジア的な要素はすっかり削除され、自分で優れた教義を作ったことになっている。

(※本の著者コメントより引用)・・・中国へやってきたマーニー教聖職者たちは、光と闇の神話の中の神格を孔子や孟子に置き換えるよりは、手っ取り早くマーニーを仏陀と見なすことにしたのである。孔子が冥界の軍団と戦って気絶したり、孟子が悪魔の間で全裸になって踊ったりするのでは、確かに中国人を呆然とさせただろうから、これは賢明な措置だった。(=非常にツボにハマッた、面白いコメントだったので、引用しました…^^;)

マニは、パフラヴィー語で「光の使者/フレーシュタグ・ローシュン」となり、中国語に音訳すると「仏夷瑟徳烏慮詵」となる。しかし中国語には、発音を重視すると字義が全く不明になるという問題があり、結局「摩尼こと光の仏陀」という風に提示する事になったらしい(ちなみに、マニ自身は「光の神の最終預言者」という立場で、仏陀とは名乗らなかった)。

更に西晋時代の頃には仏陀を老子の裔とする『老子化胡経』が書かれていたが、唐代になって、この書物にマニ教によるひそかな加筆が行なわれた。いわく、「老子は西方に赴いてマニとして誕生するであろう」という「再臨の予言」的な内容になっている。

『老子化胡経』(唐代の加筆部分)・・・450年後、私は蘇隣国(バビロニア)の宮廷に降下して、太子として誕生するだろう。私は家族を残して道に入り(捨家入道)、出家して末摩尼(マール・マニ)と称するだろう。私は大法輪を回し、戒律と智慧を説き、二宗三際の教えを宣教するだろう。マニから450年後、私の教えは西域からやってきて、儒教・道教・仏教は再び私に帰一するだろう。こうして、生きとし生けるものは全て救われるのである。

肝心のマニ教の教義の説明はわずかしか無く、「マニ=老子の生まれ変わり」に力点が置かれている。仏教徒からも道士からも反論された内容だったが、結果的には『老子化胡経』は、マニ教の名称と若干の儀礼が中国に根付くきっかけとなったと評価されている。この辺りは、後の弥勒教(弥勒下生=救世主待望論)と混同される原因になっていたかも知れない…

【補足】・・・他の地域へのマニ教の影響
759年作成の『宿曜経』・・・「マニ教徒は密の日に精進潔斎し、彼らはこの日を決して忘れない」
日曜日はマニ教の祭日であるが、「密」はソグド語の「mir」に由来しており、明らかにソグド人マニ教徒の影響であると考えられている。この表記方法は日本にも導入され、平安貴族の日記の具注暦でも日曜日が「密」と記されている。

唐代半ば以後、マニ教は道教の一種と見なされ、中国の民間信仰として広まった。特に「会昌の廃仏」など華北での宗教弾圧が激化した後は、江南地方への流入が大きくなったと言われている。宋代になると、中国東南部の福建省・浙江省の下層農民の間で、「明教」を名乗る「中国版マニ教」が復活していた。1120年の記録では「温州の明教徒は、暦の中に密日を導入していた」という言及がある。

明教は、下層農民の支持を得て、秘密結社化していった。良くも悪くも、宋代は宗教と民間呪術の時代でもあった。仏教や禅、道教、朱子学といった、東アジアを代表する多様な宗教思想が発達したのは、宋代になってからの話。媽祖信仰など、雑多な民間信仰が新しく生まれていた。明教も例外ではなく、おそらく道教と同じようなやり方で、多くの信徒を獲得したと想像される。

南宋の陸游(1125-1209)『渭南文集』いわく、宋代の官憲の認識では明教=宗教結社:
・・・「妖幻邪人が良民を誑(たぶら)かし、朝廷の憂となること、福建の明教が最もはなはだしい。その神号は明使で、肉仏、骨仏、血仏などの称号もある。白衣烏帽で偽経や妖像を流布し、怪しい術を駆使している。」

後の研究では、儒教や道教、仏教といった既存の大宗教が統合し切れなかった雑多な民間信仰を統合するシンボルとして、マニ教=明教の名称が利用されたのだという議論がある。「光の国への救済」という教義だけは伝わっており、下層農民の間での秘密結社化に都合が良かったのかも知れない。

当時の道教文献『道蔵』にいわく:
・・・「其教(=明教)大要在呼、清浄、光明、大力、智慧、八字而已」。

この「清浄、光明、大力、智慧」という八文字が、明教を示す有名なキャッチフレーズで、他の文献や泉州の摩尼教草庵の碑文でも確認可能だという。民衆の間でのマニ教の最終的な理解は、こういうものだったらしい。

いずれにせよ宋代末の明教は、何らかの誤解があって恐ろしげな妖術集団と見なされた。当時のマニ教徒は、周りの平均的シナ人とは生活習慣を全く異にしており、「喫菜事魔」と称された。北宋末の方臘の乱(1120-1121)では、リーダーの方臘は「明教の妖術を操る怪人」というイメージが固着している(=後世、明王朝の時代に書かれた『水滸伝』にも、そのイメージを見ることができる)。

ついでに言えば、元代においては、明教の一部は合法的宗教に転化していた節がある。モンゴル人は「雑多なローカル宗教」には、さほど関心が無かったらしい。福州と泉州に立ち寄ったマルコ・ポーロによって、「ゾロアスター教でもキリスト教でも仏教でもイスラームでも無い宗教集団を目撃した」と記録された。

元代の頃の明教は弥勒教とも混同される有様で、「涅槃(=マニ教で言う光の国?)への救済」を説いており、世間的には、仏教か道教の一種という理解がされていたらしい。明教と弥勒教は、「この世の悪からの救済を説く」という点で類似性を持っており、モンゴルに対する農民反乱の際は、合体しやすかったと考えられる(=紅巾の乱)。

明代の明教の記録については、明末の何喬遠・著『閩書』に言及あり:
・・・老子が西域の流砂の中に消えてから500年後、後漢の献帝の建安13年2月8日(西暦208年3月12日)に、抜帝(パティーク)の妻満艶(マルヤム)が清浄なまま胸から生んだのが末摩尼(マール・マニ)である。彼は大食(アラビア)、仏林(ローマ)、吐火羅(イラン高原東部)、波斯(ペルシア)で宣教し、西晋の司馬炎の泰始2年(西暦266年)に波斯で没した。彼の著書は7巻で、彼の教えは大慕闍に託された。

明代になると、明教は「王朝と同じ名前を使っていて不敬である」という理由で弾圧されたと言われている。清代に至って明教の記憶も失われてしまい、清朝の知識人の間では、明教は景教(ネストリウス派キリスト教)と混同されていたと言われている。

★ここで、マニ教に関する読解&研究ノートは、終わりです…^^ゞ


コメント・メモより転載

余談を一つ。日月教というのが明以降に改名された明教であります。「明」を「日」と「月」に分解したわけであります。この日月教は、香港の武侠小説の一人者・金庸の代表作の一つ『笑傲江湖』の背景に使用されています。南シナでは明教は比較的ポピュラーな存在であることがこれでわかります。また温州出身者が欧州の華人の大部分を占めることは幾度も提起しました。さる温州人オーナーのレストランが「日月」という名前なので、もしや明教信者かと訪ねてみたらどうもちがうようでした。ただしそのオーナーが自分でそういったのでどこまでほんとうなのかは不明でありますが・・・凹凸 - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます^^『笑傲江湖』…「魔法使い・東方不敗」が出てくる作品ですね。映画のTV配信があった時にチラッと見ただけですが、人が空を飛んでいるシーンには驚かされました(笑)。話を聞いて、何となくですが、華北と華南の文化を分ける、もう一つの要素がマニ教らしい…と感じております。温州人とマニ教との間には、微妙な縁があるみたいですね。相性が良いのでしょうか…^^
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