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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

李賀の詩「苦昼短」鑑賞

@『中國詩人選集-第14巻・李賀』(岩波書店/昭和48年/荒井健・注)より…

★《個人的感想》・・・中唐と言うと、すごく暗いイメージのある時代ですが、それでも、こういう詩歌作品を生み出すような社会環境が繰り広げられていたのだと言う事を考えると、それなりに深い意味のある時代だったのかも。

李賀は奇妙な厭世観を持っていた変人みたいですが、案外、「斬新かつ真っ当な見方が出来る」というか、「見えない世界が見える眼」を持っていたのかも…と想像されるところがあります。中世に発達した無常観と響きあうところがありそうだなと思いました。

苦昼短(昼の短きを苦しむ)・・・李賀・作

飛光飛光
勧爾一杯酒
吾不識青天高
黄地厚
唯見月寒日暖
来煎人壽
食熊則肥
食蛙則痩
神君何在
太一安有
天東有若木
下置銜燭龍
吾将斬龍足
嚼龍肉
使之朝不得廻
夜不得伏
自然老者不死
少者不哭
何為服黄金
呑白玉
誰似任公子
雲中騎碧驢
劉徹茂陵多滞骨
嬴政梓棺費鮑魚

★《読み下し》

飛光よ 飛光
爾(なんじ)に一杯の酒を勧めん
吾は識らず 青天の高きを
黄地の厚きを
唯だ見る 月は寒く日は暖かく
来たって 人寿を煎るを
熊を食えば すなわち肥え
蛙を食えば すなわち痩す
神君 いづくにか在る
太一(タイイツ) いづくにか有る
天の東に 若木(じゃくぼく)有り
下に燭を銜(ふく)む龍を置く
吾 将に 龍の足を斬り
龍の肉を 嚼(か)み
之をして朝は廻(めぐ)るを得ず
夜は伏(ふく)するを得ざらしめんとす
自然 老者は死せず
少者は哭せず
何(なん)為(す)れぞ 黄金を服し
白玉を呑む
誰か任公子(じんこうし)の似(ごと)く
雲中 碧驢(へきろ)に騎(の)る
劉徹(りゅうてつ) 茂陵(もりょう) 滞骨(たいこつ)多く
嬴政(えいせい)の梓棺(しかん) 鮑魚(ほうぎょ)を費す

★《意味》

飛び去る光、飛び去る光よ。/お前に一杯の酒を勧めよう。/私は知らぬ、青空の高いことも、黄色い大地の厚いことも。/ただ目にするのは、月は寒く日は暖かく、代わる代わるめぐってきては人の命を縮め、熊を食えば肥え、蛙を食えば痩せ、ということだけ。/
神君は何処だ。太一は何処にいる。天の東には生命の木(扶桑樹)があり、下には世界の灯火・太陽をくわえた龍が控える。/
私は龍の足を斬り、龍の肉を食おう。/これをして、龍を、朝が来ても駆け巡らさず、夜になっても休めなくさせよう。/すると当然、老いたる者は死なず、年若き者は嘆かずに済む。/
どういうわけで、黄金を服用したり、白玉を呑んだりするんだ。/いったい誰が任公子みたいに、雲の中で緑色のロバを乗り回し得たか。/迷信家・劉徹(漢の武帝)の墓の茂陵には、昇天しそこなった彼の骨がゴロゴロしており、不老不死を願った嬴政(秦の始皇帝)の棺桶には、死体の腐臭を消すための干物がどっさり使われたのだ。

※秦の始皇帝が死んだ時、その死を誤魔化すために、魚の干物が車に積載されたと云われている。『史記』より。「梓棺」は梓の木で出来た棺桶で、天子だけに使われた。

★《解説》・・・『中國詩人選集-第14巻・李賀』(岩波書店/昭和48年/荒井健・注)より転載

※歴史と文化の研究のため、興味を持った部分を転載です…^^;

・・・李賀の詩のスタイル・・・

李賀の詩は「注なしでは読めない」などと称され、昔から、李商隠と並んで中国歴代の詩の中でも、最も難解とされている。その理由は、彼の詩のスタイルにある。

  1. 詩の各句の、或いは各部分の孤立性。それらの間には有機的なつながりが無い。これは李白とは対照的である。(※以下略。「李白の詩は論理的構造をしており、途中の句をちょん切ったり出来ない」と解説されてある。李賀の詩は非論理的で、途中の句をちょん切ってもそんなに変わらないらしい)
  2. 凝固的流動性。「各分子の性質は、どれも重く凝って堅固だが、全体の運動は、一方迅速に移り変わる。だから部分のみ見つめると言葉づかいは重く凝固しているが、全体として詠ずると、気体のように揺れ動く。これは昌黎(韓愈)の詩が長江の秋の流れのように、千里もある一筋道を突っ走るのとは違うのだ。東坡(蘇軾)の詩が満々とたたえた泉のみなもとのように、至る所から湧き出すのとも違うのだ。これは氷山のたちまち倒れ、ゴビの砂漠がにわかに移動するように、その勢は細かく砕けた石塊もろともまっすぐに進み、固体であっても流動性を備えているのである」(銭鐘書「談芸録」1948上海・開明書店)。
  3. 時間空間に関しての超越性。同一の詩で、春かと思えば突然七夕の牽牛・織女が現れたり、行動の主体が今家に入ったかと思えば天の川の落ちる辺りをさ迷ったりする。
  4. 比喩の屈折性。どちらも光るものだから太陽をガラスにたとえ、更にガラスから連想して太陽をムチ打って音を立てさせる。涙を水にたとえ、更に涙を流す者が金属製の仙人像だから鉛の水と言う。
  5. 代用語の愛用。剣のことを玉竜、酒のことを琥珀、秋の花を冷紅、棗の実を垂朱などなど。これが極端になると一篇の詩全体が代用語であり、剣を描いても剣が見えず、虎を描いても虎が現れない。
  6. 新語。中国の文学者は一般に先人の手垢のついた言葉を使い、新しい言葉はむしろ避ける。が、彼は新奇な熟語を作る。…「彼は創作における踏みならされた道筋を全く無視した(杜牧)」。

・・・李賀の生きた時代《中唐》・・・

安史の乱を境として、唐王朝の勢力はすでに下降を始め、地方政権へと転落しつつあった。宮廷内部では、皇帝の側近く仕える宦官が幅を利かせて政治を左右する。各地に派遣された守備隊の司令官、節度使の中には、武力に物を言わせてその地方の実権を握り、公然と政府に反抗して独立国家の観を呈するものさえ出てくる。ウイグルやチベットなどの異民族が北方・西方から侵入し、或いは物資を強要する。

宰相・李吉甫(758-814)が元和3年(808)に編した「元和国計簿」によると、戸数は唐朝最盛時の3割以下に減ったのに、兵力は3割増えて2戸に1人の兵士を出していたと言う。この窮状を打開しようと、中央政府は懸命の努力を重ねていた。

徳宗の治世には財政が一応立て直された。次の順宗皇帝の1年足らずの在位の間には、内政全体の大改革が企てられたが、結局失敗に終わった。その後を受けた憲宗皇帝(在位805-820)は節度使に対して強硬政策に転じ、或る程度の失地回復は出来たが、年中行事のように大小の討伐戦が繰り返され、国境地帯の紛争がこれに加わり、毎年毎年不安な情勢が続いていった。

・・・李賀の詩の影響《近現代》・・・

李賀自身は非行動的な一詩人であったが、その作品にはかえって、行動を拒否されて深く沈下せざるを得なかった諸勢力がみなぎっている。さすがに魯迅はそれを見抜いていた。…(中略)…李賀は確かに「刺客になろう」と志したことがあるのだ。

彼の非行動は単なる無気力そのものではなく、彼が心血を注いだ作品には、各時代の反逆者・憂国の志士たちを引きつけるだけのエネルギーが隠されていたのだ。そのエネルギーはおそらく革命的エネルギーに転化する可能性をすらはらむものであった(譚嗣同と魯迅の、陶淵明と李賀への傾倒は、そうとしか解釈できない)。

初期のニヒリスト魯迅が後期の革命文学者に変貌したように、完全な唯美主義者として出発した詩人の聞一多(1899-1946)が右翼のテロリストの銃弾に倒れる劇的な最期を遂げたように、中国の文学者に共通する矛盾は、「鬼才」李賀の内部にもまた存在していた。


コメント・メモより転載

岩波の『中国詩人選集』、わたしめも高校生のころ愛読したものであります。この李賀と、高橋和巳による翻訳解説の李商隠がとくに好きでした。そんなこともあり「中国文学」を選択してしまったのかもしれまへん、一生の不覚~!俗に「三李」といわれるのはこの二人にあの李白を加えたものですが、個人的にはそこに李煜と李清照を加えて「五李」と勝手に呼んでいます。♪ - 丸山光三
《返信》コメントありがとうございます^^この本は、近所の図書館でひっそりと並んでいるのを見つけて借りてきた本でした。とても古い印象のある本でした。旧字体とかがちょっと読みにくかったのですが、読んでいて面白かったです。丸山さまが中国文学に魅了されたとおっしゃるのも納得、と思いました。「三李」という言葉があるのは知りませんでした。お勉強になります。確か李商隠のお名前もあったかなと記憶しておりますので、今度は李商隠のシリーズを読んでみようかなと思っております。
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