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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

航海篇1ノ2

【漢字がもたらした文字ショックを考える】

漢字が起こした文字ショックの波及について、多くを考えさせられたブログ記事と、特に強い印象を受けた文章を、以下に引用させていただいた。音声言語と表記文字における因縁の深刻さには、目を見張るものがある。

『丸幸亭老人のシナにつける薬』より:

http://marco-germany.at.webry.info/200712/article_2.html
「シナ人とシナ語は共同幻想である」
もしシナにおいて漢字という表意文字をもちいての書き言葉の統一がなく、アルファベットのような表音文字が用いられていたなら、シナは早々に現在の欧州各国のように各地に言語ごとに分断された諸国家が成立していたであろう。
http://marco-germany.at.webry.info/200712/article_3.html
「シナとシナ語を成立させるもの」
表意文字としての漢字が、方言というよりも異国語に近い上海語と北京語の差異を覆い隠しているのがおわかりになるであろう。
http://marco-germany.at.webry.info/200712/article_4.html
「シナとヨーロッパという二つの異なる理念」
考えてもみてほしい、ほぼヨーロッパに等しい面積と人口と言語の数をもつシナ亜大陸に、たった一つの「国家」しかない異常さを。(中略)フランスの言語状況は、まるで現今のシナ亜大陸における言語と国家をめぐる縮図そのものではないか?(中略)フランスにとっては、「国家が言語と一致する」という考えは「危険思想」なのである。
http://marco-germany.at.webry.info/200712/article_5.html
「シナはまず分裂せよ」
国家が言語と一致するという危険思想を、ひたすら政治的に抑圧し維持されている国家あっての言語が普通語というシナ語ではないか。

私感及び考察

改めて世界史を考えてみると、世界各地に発達した表記文字のほとんどは、たかだか最近千年の間の生産物に過ぎない。

自己の言語を写すに適した文字(仮名文字)を確立せしめただけでなく、識字率の高さとも相まって、国風文学を創出せしめる知的活動にまで及ぶ、ということが、早くから一般化していた日本のようなケースは、やはり極めて稀なものであるらしい。

いっぽう、陸続きでありながら、中華圏に取り込まれることの無かった東南アジア諸国がある。この東南アジア一帯における表記文字は、漢字系統とアラビア系統とインド系統が混ざり合った上に、ヨーロッパ系統の文字も流入して、大混乱とも言える様相を呈しているのである。

東南アジア諸国が、漢字ショックを受けてなお東南アジア諸国であり続けていられたのは、この表記文字の混乱によるものであるとすれば、これもまた歴史の偶然といえようか。(東南アジアにおいては、むしろインドないしは、イスラムの影響が深いことを見なければならぬ。)

まさしく、独立は文字さすものぞ。

自己の文字を創出せしめられたかどうか――という条件は、ことに漢字ショックの及ぶ範囲にあったアジア諸国においては、重要な意味を持っていたと思われるのである。

◆現代漢語について憂慮する事◆

各地の言語と、その言語に適した文字が、各地の民族の心を形作る。無知ゆえの偏見がある事を承知で、現代の華人を覆う物語を――思考ないしは心の未来を――述べてみる。

何よりも不安にかられるのは、現代中国が使用する漢字が、いにしえの漢字の精密な精神を受け継いでいない点にある。ちらほらとではあるが、古い漢字が使われている文献を、現代の漢字で読めぬのだという噂が伝わっている。

伝統的な漢字をよく見ると、部首によって区分されているのが明らかに分かるはずである。この部首こそが、漢語が陥りがちな上位概念の喪失を防ぐ概念上の防壁であったと思われる。例えば、「さんずい」という部首を挙げると、「海」「湖」「河」「清」など、いずれも「水」に関連する漢字が続くのが分かるであろう。ここにおいては、「水」が上位概念に当る。

この「水」という上位概念を失った世界、複雑な次元の関連性の中にある事象を認識できない世界、彼我の境界さえ失って「我のみ尊し」という感情しか見えない世界というのは、どのような物語として人々の心に映るのであろうか。

…彼らは、深みを失った世界の物語の中に生きているのでは無いだろうか。その心は如何なるものに変化してゆくのであろうか。

「我のみ尊し」という論理・感情をどこまでも突き詰めた世界について、少し想像してみた。

想像するところ、「快」「不快」の二種類しか意味を持たない、単純かつ原始的な世界ではないだろうか。二種類しかないという事は、「悩む」という機能は、さほど必要ないという事態を暗示している。ただひたすら、「快」に向かって動けばよいのだから。

そんな極端な世界が果たして、実際にあるのかどうかは…わからないが、おそろしく無法な、「ゾンビ圏」めいた世界となるであろう、と思うと背筋が寒くなる。日本でも、かなりの割合で何かにつけ「ムカつく」という言葉しか使わなくなっているのは、ひどく不安を喚起する光景である。おそらく「快/不快」の判断基準の世界では、人生・生命という事は、さほど意味を持たなくなるからである。歴史が浅くなり、古典も不要になる。(歴史伝統を精密に受け継ぐ能力が失われ、劣化コピーが横行する)

単純な理由、理由なき理由で殺人を犯すのは、この判断基準に因るところが大きい――と推察するものである。「不快」もまた、殺人の立派な理由になり得る。この「不快」をもっともらしく言い換えれば「私怨」である。情操の混濁、制約なき混沌の泡立つ広がり…怨恨の感情のもっとも怖いところは、まさにそこにあるのだ。

「個性」どころか「人間性」そのものがきわめて薄っぺらになり、人間というよりは、ただ人間の姿に生まれついただけの、原形質的な反応(快/不快)しか示さぬ存在に退化してしまう危険性を秘めている。

思考は言語によって構成される。その意味を自分なりに感ずるところがある。

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