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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

航海篇1ノ3

◆文の主語

物語を読み込むときに、まず気になるのがキャラクター(人物)である。

印欧語=有(男性名詞・女性名詞・中性名詞もあり)
一人称、二人称、三人称。(各々につき、主格・所有格などの変化を起こす)神に対する古代の造型は生々しい。キャラ、造型、アトリビュート(添え物)等、総じてリアル。

古漢語=無
我(わたくし)。汝(あなた)。個々名称のごとき「名づけ」。神イメージは、実在したと思われている人物・動物を素材として、「キメラ合体&模造」の傾向。

日本語=無
坐生れ(ウ・アレ)、亦は輪生れ(ワ・アレ)→ワレ。(場・方位で人を示す:ナレ、カレ、タレ)神のキャラクター設定は明確だが、リアル造型の傾向が無い。各々の象徴(代・シロ)で代える。

主語比較から引き出せる奇妙なポイントとして、『神の造型』らしきものも上に記してみた。実際、神話では「神キャラ」をゼロから組み立てているのである。かなり興味深い比較となったと思われる。

◆時と場による変化

物語の舞台設定において、どれだけ時と場に関する状況説明が入るかを観察した。

印欧語=時からも場からも無関係
物語の初めに、「克明に因果・時系列を彫り出す」かのごとく舞台条件・状況を逐一説明する。話者と聞き手の舞台を一致させる作業を、最初にするのである。

古漢語=時と場を持ち込み
物語の初めはカオスである。心情吐露から入ることも多い。話者と聞き手の舞台が最初から完全一致している、という強迫的なまでの前提が伺える。

日本語=時と場の複合体
物語の初めは、概ね枕詞による枠取りである。イメージ連想(ビジョン)のあるキーワードを最初に持ってくる、というスタイルである。

◆自と他による変化

ここで、比較の対象にしたのは主に登場人物の科白部分である。この科白部分の表現手法は、日本語による表現が特に発達しているらしい。

印欧語=有(格変化)
「主語」がいっさいを支配し、時間変化などの各変化(男性変化・女性変化など)を起こす。ある程度の表現スタイルの揺れはあるが、むしろ定型のロゴス表現をつないでゆく気配が強い。

古漢語=無
「誰が」という部分を抜くと、一瞬、どんな状況で、誰の科白かが分からなくなる。すなわち「誰何某」、「家」など、名づけえる領域世界を離れる事は無い。

日本語=無(述語から包摂)
時と場に応じて、男言葉、女言葉の表現、および尊敬語、謙譲語などを使い分ける。表現の使い分けによっては、科白から各々の人物や性格、立場を特定する事さえも可能である。

◆言語発達環境/社会生産の基本/背景社会

単語と環境との間には深い関係がある事が言われており、例えば肉を主食とする民は、部位ごとの肉の名前を付け分ける習慣がある。魚の場合は「出世魚」のように、成長段階で各々名前が違ってくる。エスキモーでは雪の名前が百種類以上あると言われている。

印欧語=中央アジアの大草原/狩猟・牧畜・通商/植民都市・ポリス
実際には、草原・森林・地中海と広く生活様式が異なっていたが、概ね部族移動スタイルである。他部族との接触が多く、いつ如何なる時でも意図が変動しない客観的な言語体系が求められた。

古漢語=東アジア大陸平原(中原)/畑作農耕・牧畜・通商/氏族・秘密結社
豊穣な中原(古代の黄土地帯)に、開墾と畑作農耕を代々繰り返してきた。部族移動は殆ど無い。宗家を中心に、係累の家が増殖連結されてゆく。含蓄に富む以心伝心の言語体系が求められた。

日本語=地形変化激しい/半農半漁・稲作・採集/漂泊~組合社会
乾いた平地が殆ど無く、山地と海岸との交流が中心。複雑な共同作業を要する稲作を採用、相談を容易にすべく折衝能力のある言語体系が求められた。

以上、地理条件の制約、社会環境の状態、重要視された言語能力を考察したものである。

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航海篇1ノ2

【漢字がもたらした文字ショックを考える】

漢字が起こした文字ショックの波及について、多くを考えさせられたブログ記事と、特に強い印象を受けた文章を、以下に引用させていただいた。音声言語と表記文字における因縁の深刻さには、目を見張るものがある。

『丸幸亭老人のシナにつける薬』より:

http://marco-germany.at.webry.info/200712/article_2.html
「シナ人とシナ語は共同幻想である」
もしシナにおいて漢字という表意文字をもちいての書き言葉の統一がなく、アルファベットのような表音文字が用いられていたなら、シナは早々に現在の欧州各国のように各地に言語ごとに分断された諸国家が成立していたであろう。
http://marco-germany.at.webry.info/200712/article_3.html
「シナとシナ語を成立させるもの」
表意文字としての漢字が、方言というよりも異国語に近い上海語と北京語の差異を覆い隠しているのがおわかりになるであろう。
http://marco-germany.at.webry.info/200712/article_4.html
「シナとヨーロッパという二つの異なる理念」
考えてもみてほしい、ほぼヨーロッパに等しい面積と人口と言語の数をもつシナ亜大陸に、たった一つの「国家」しかない異常さを。(中略)フランスの言語状況は、まるで現今のシナ亜大陸における言語と国家をめぐる縮図そのものではないか?(中略)フランスにとっては、「国家が言語と一致する」という考えは「危険思想」なのである。
http://marco-germany.at.webry.info/200712/article_5.html
「シナはまず分裂せよ」
国家が言語と一致するという危険思想を、ひたすら政治的に抑圧し維持されている国家あっての言語が普通語というシナ語ではないか。

私感及び考察

改めて世界史を考えてみると、世界各地に発達した表記文字のほとんどは、たかだか最近千年の間の生産物に過ぎない。

自己の言語を写すに適した文字(仮名文字)を確立せしめただけでなく、識字率の高さとも相まって、国風文学を創出せしめる知的活動にまで及ぶ、ということが、早くから一般化していた日本のようなケースは、やはり極めて稀なものであるらしい。

いっぽう、陸続きでありながら、中華圏に取り込まれることの無かった東南アジア諸国がある。この東南アジア一帯における表記文字は、漢字系統とアラビア系統とインド系統が混ざり合った上に、ヨーロッパ系統の文字も流入して、大混乱とも言える様相を呈しているのである。

東南アジア諸国が、漢字ショックを受けてなお東南アジア諸国であり続けていられたのは、この表記文字の混乱によるものであるとすれば、これもまた歴史の偶然といえようか。(東南アジアにおいては、むしろインドないしは、イスラムの影響が深いことを見なければならぬ。)

まさしく、独立は文字さすものぞ。

自己の文字を創出せしめられたかどうか――という条件は、ことに漢字ショックの及ぶ範囲にあったアジア諸国においては、重要な意味を持っていたと思われるのである。

◆現代漢語について憂慮する事◆

各地の言語と、その言語に適した文字が、各地の民族の心を形作る。無知ゆえの偏見がある事を承知で、現代の華人を覆う物語を――思考ないしは心の未来を――述べてみる。

何よりも不安にかられるのは、現代中国が使用する漢字が、いにしえの漢字の精密な精神を受け継いでいない点にある。ちらほらとではあるが、古い漢字が使われている文献を、現代の漢字で読めぬのだという噂が伝わっている。

伝統的な漢字をよく見ると、部首によって区分されているのが明らかに分かるはずである。この部首こそが、漢語が陥りがちな上位概念の喪失を防ぐ概念上の防壁であったと思われる。例えば、「さんずい」という部首を挙げると、「海」「湖」「河」「清」など、いずれも「水」に関連する漢字が続くのが分かるであろう。ここにおいては、「水」が上位概念に当る。

この「水」という上位概念を失った世界、複雑な次元の関連性の中にある事象を認識できない世界、彼我の境界さえ失って「我のみ尊し」という感情しか見えない世界というのは、どのような物語として人々の心に映るのであろうか。

…彼らは、深みを失った世界の物語の中に生きているのでは無いだろうか。その心は如何なるものに変化してゆくのであろうか。

「我のみ尊し」という論理・感情をどこまでも突き詰めた世界について、少し想像してみた。

想像するところ、「快」「不快」の二種類しか意味を持たない、単純かつ原始的な世界ではないだろうか。二種類しかないという事は、「悩む」という機能は、さほど必要ないという事態を暗示している。ただひたすら、「快」に向かって動けばよいのだから。

そんな極端な世界が果たして、実際にあるのかどうかは…わからないが、おそろしく無法な、「ゾンビ圏」めいた世界となるであろう、と思うと背筋が寒くなる。日本でも、かなりの割合で何かにつけ「ムカつく」という言葉しか使わなくなっているのは、ひどく不安を喚起する光景である。おそらく「快/不快」の判断基準の世界では、人生・生命という事は、さほど意味を持たなくなるからである。歴史が浅くなり、古典も不要になる。(歴史伝統を精密に受け継ぐ能力が失われ、劣化コピーが横行する)

単純な理由、理由なき理由で殺人を犯すのは、この判断基準に因るところが大きい――と推察するものである。「不快」もまた、殺人の立派な理由になり得る。この「不快」をもっともらしく言い換えれば「私怨」である。情操の混濁、制約なき混沌の泡立つ広がり…怨恨の感情のもっとも怖いところは、まさにそこにあるのだ。

「個性」どころか「人間性」そのものがきわめて薄っぺらになり、人間というよりは、ただ人間の姿に生まれついただけの、原形質的な反応(快/不快)しか示さぬ存在に退化してしまう危険性を秘めている。

思考は言語によって構成される。その意味を自分なりに感ずるところがある。

航海篇1ノ1

《物語と思考、歴史時空について~出航篇》

思考は言語によって構成される、という。

その論理に従えば、各国で長く語り継がれてきた物語にこそ、各国の国語の生み出してきた思考が表現されてきたのだ――とは言えないだろうか。

「物語と思考」というテーマは、当サイトが最も情熱を傾けるところである。

歴史の流れの中で、いにしえの物語群がどのように読み替えられていったのか、そして、その物語の読み替えを通じて、当時の人々はどのような思考を――歴史時空を――繰り出していったのか。

物語というのは、さながら思考の星雲(ネビュラ)のようなものである――であるから、この旅も、思想の核(コア)のようなものにたどり着くことは無く、星雲(ネビュラ)のような海を航海することになろうかと思う。

この航海は、想念がつむぎだす朧(おぼろ)な軌道を気ままに訪ねてゆくスタイルである。アストロラーベは万全な物では無く、迷路の中で立ち往生したり、フラフラとさ迷ったりしながらの航海であるが、気長にお楽しみいただけたら幸いである。

◆いにしえの物語と言語◆

中世の物語の前には、古代の物語がある。物語の歴史は、そのまま言語と思考の歴史でもあると言えよう。中世の物語と思考を考察するには、畢竟、いにしえの物語とその言語を知らねばならない。

いにしえの物語群には、言語発生に関する謎が秘められている。物語と、物語をつむぎだす言語とは、密接な関係にあるのだ。…言語があって物語が生まれたのか。それとも、物語をつむぎだす過程で、言語が創造され、確定されていったのか。そういう謎である。

言語発生の謎はさておくとしても、いにしえの物語と、その物語をつむぎだす特定の言語が、世界のある地域における主導権を握ったとき、その言語圏――あるいは、その祖語圏――が確立したのだということは、十分に言える事である。

世界史上、最も巨大な祖語圏として出現したのが、インド=ヨーロッパ祖語である。

インドのサンスクリット語が、その祖語の面影を最もよく伝えている。文字に関しては、エジプトのヒエログリフから表意機能を抜いて再編された古代フェニキア文字を祖としている。(ギリシャ文字が早期に成立した。梵字などインド系の文字が発達するのは、六世紀を過ぎてからである)

その次に勢力を持った祖語が、東アジア全域に影響を及ぼした古漢語である。この古漢語が印欧語と異なるのは、表意に長けた漢字を生み出した事により、周辺の民族の言葉に対して、深刻な文字ショックを波及したことにある。※

※次回は、「漢字の文字ショック」についての小さな寄り道である。