忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

異世界ファンタジー試作5

異世界ファンタジー2-1再会:王宮の令嬢女官と貴族官僚

ロージーの王宮勤務が再開した。ロージーは王妃直属の女官長に忌引休暇の報告をすると共に、祖母の《霊送り》の日が近づいて来たことを説明し、申し訳ないが近いうち、また長期休暇を取得するつもりだと述べた。

ロージーは、数家の貴族令嬢たちとチームを組み、押し迫って来た冬季社交シーズンにおける、王室開催の園遊会の準備に関わることになった。令嬢や令夫人の公務でもある。外交も兼ねる国家的な行事であるが、信頼できる強力な令嬢たちとチームを組む事になったため、それほど大変にはならないだろうと、ロージーは楽観した。

今回のチームを組んだ令嬢のうち一人、令嬢サフィニアは、王宮植物園を管理する公務に就いている女官である。占術に興味を持っているところで、ロージーが民間の神祇官から聞き知った《運命の人》の内容に大いなる関心を示した。

「自由恋愛って感じねー。いろんな恋の可能性があるって事だわ、何かロマンチックじゃない」
「ある種の獣人社会みたいに、一夫多妻とか一妻多夫まで行くのは、行き過ぎるとは思うけどね」

同じチームの令嬢アゼリア〔仮名〕が口を挟む。出版物書庫の司書を公務としていて、時事や貴族社会の話題に明るい。

チームメンバーには、もっと上位の貴族であるユーフィリネ大公女も居るのだが、既にお見合いを兼ねた園遊会の招待客の選定に入っているということで、園遊会の開始までは余り話し合うことは無いだろうという事だった。貴族のゴシップに詳しい令嬢アゼリア〔仮名〕が、平民上がりのロージーにとっては見知らぬ存在でもあるユーフィリネ大公女の情報を提供する。

ユーフィリネ大公女は、先王の代のキングメーカーでもあった筆頭の老大公――通称老ヴィクトール大公――が溺愛する孫娘である。老大公は非常な高齢だが今なお隠然たる影響力があり、その権勢をうらやむ若手は「老害」だと騒ぐ。今を時めくユーフィリネ大公女は、ロージーより少し年上の、まさに社交の花を成す世代。両親は権力闘争の影響で早死にしたが、絶世の美男美女だった両親の素質を受け継いでおり、国内でも外国でも、「妻に欲しい」と希望する大貴族が大勢いるのだそうだ。

(雲の上の存在は、やっぱり違うわ…)

でもね、と令嬢アゼリア〔仮名〕は愚痴っぽく続けた。

「ユーフィリネ大公女は、老ヴィクトール大公に甘やかされてるでしょ。性格が派手で極端だし、付き合いは疲れそうだし、公務でも楽な仕事を選んで残りを下々に押し付けてくれちゃうし、文句を言ったら取り巻きににらまれるし、私は余り…ってとこだわ」

ひとしきり談笑した後、チームはそれぞれの担当に応じて別々の場所に向かった。

*****

ロージーは備品倉庫管理の公務から大いに繰り上がった形で、会場設営の担当になった(ある意味、下位女官としては出世したと言える)。高位竜人の間で立ち回る仕事では無いから気楽だが、内容はハード。納期厳守でもある。

冬季という事もあって、庭園の常緑樹の管理を除けば、室内装飾が中心になる。ロージーは、穏やかな秋の日差しが降り注ぐ冬宮の長い回廊を巡りながら、テーブルの配置などの基本的なアイデアを詰めていった。まだ季節は秋であり、秋宮のにぎやかさに比べ、冬宮はひっそりとしていた。たまにすれ違う衛兵やメイド以外には、出会う人は居ない。

(冬宮の設営は初めてなんだよね…冬季期間中の様々な交流場所にもなるから、ある程度、春になるまでの間、飽きないような趣向じゃないと――)

ロージーは冬宮の壁を覆う幾つもの絵画装飾やタペストリを眺めた。雪や曇天が続き、植生も殺風景な光景になりがちな冬のテーマには、歴史が選ばれることが多い。前任者もまた歴史をテーマにしていた。神話時代から現代まで、冬に起きた出来事のあれこれを巧みに組み合わせてある。社交の話題の種になるという実用性も狙っているのは明らかだった。

(あら…でも…?)

幾つか抜け落ちている要素がある。故意に省いたみたいだ。ロージーは眉根を寄せ、首を傾げた。

(パターンが見えない…どういう基準で選んだのかしら?)

座っても立っても分からない。東西南北くるくる回っても分からない。神話時代の物はある程度は揃っていたが、現代時事の話題が多くなるであろう社交では、意味合いが薄くなるのは確実である。平民上がりのロージーは、社交に関しては最小限の招待状しか受け取っていなかったから、婚約者のジル〔仮名〕と出会うチャンスではあったが出る幕が無かった。自然、社交会場の事情についても、良く分からないことが多かった。

(これは、前任者に聞いてみるべきなのかしら?そういえば、前任者って誰だったかしら…)

「そこに居るのは誰ですか?」

いきなり、回廊の端から低く通る声が響いた。思案にふけっていたロージーは、流石にギョッとする。

声のした方を振り返ると――そこには、予想外の男性がいた。男の方も驚いたように「ロージー嬢?」と呼びかけを重ねる。

――共同墓地の離れの雑木林でかち合った、あの黒髪と青目の、背の高い男。何という思わぬ再会。

(確か、この人も王都で仕事をしているとか――王都の何処かだろうとは思ったけれど、まさか王宮の中で?!)

驚きと気まずさと、再会の喜びや他の様々な感情が混ざり合って、ロージーはどう反応したらいいのか分からず、男が貴族そのものの洗練された動きで歩み寄ってくるのを、呆然として見つめるばかりだった。

「気晴らしに来てみたら、挙動不審なメイドが居る…と思ったので――失礼をしました」
「まあ、そちらこそ不審人物じゃありませんか。冬宮の稼働は、まだ先ですもの」

男はおかしそうに笑い声を立て、ロージーはムッとし――そして、緊張がほぐれた。今日のロージーは、一見してメイド服と変わらないような、あっさりとした緑色のドレスだ。デザインや質は貴族令嬢のドレスに準ずる物なのだが、喪に服していることを示す黒いリボン以外には特に凝った装飾は無く、エプロンその他の装備を付ければ、メイドの出来上がりといっても良いほどだ。

ロージーは男の衣服を眺めた。パリッとしていて、如何にも役人を務める貴族といった風。しかも、胸元の徽章は――

「監察官でしたの?」
「良くお分かりになりますね」

何処の部署かという事は具体的には言えませんが――と、男は苦笑した。ロージーは納得した。

最近まで王都を混乱に陥れていた権力闘争の後始末には監察官が関わる案件が膨大にあり、多くの部署にまたがっていることもあって、宰相の交代に伴って、一時的に合同機関が設立されていた。日夜、各部署の監察官がそこに詰めているという事を、ロージーは社交界の噂話でちらほらと聞き知っていた。

「それで、どうしてロージー嬢は、タペストリを盗みそうな目つきで見ていたんですか?」
「盗むんじゃありません!冬季社交シーズンに向けての模様替えをどうするべきか検討していたんですわ!」

本当は再会の嬉しさと恥ずかしさで一杯だったのだが、ロージーはそれを慎ましく押し隠そうとして、かえって挙動不審と受け取られても仕方がないほどの反発的な口答えをしていた。流石に「しまった」と思ったものの、男の方は全く気にしていないようで、笑い上戸よろしく、いつまでも肩を震わせていた。

――やがて気分が落ち着いた後、ロージーは絵画やタペストリの奇妙な選択パターンについて、男に意見を求めた。

「ああ、それは前の権力闘争の影響に違いありませんね」

男の回答は明快だった。古い時代にさかのぼる家柄の貴族は、その先祖が、たびたび絵画やタペストリに登場する。最近の権力闘争では古い家柄の貴族も相当数が関わっており、確執やスキャンダルも多く生まれていた。社交の話題で余計なトラブルの種にならないように、関係者の先祖が含まれている部分は注意深く省いたのだ、という事だった。

「最初は例年通りに定番のパターンを組み合わせていたのですが、裁判が進んで毀誉褒貶が定まってくると同時に、社交界で名誉棄損の訴えなどの揉め事が増えて、その後始末も増加しましたから…」

男はため息をつき、「特にヴィクトール老大公が関わる部分では、みな神経質になります」と付け加えた。

ロージーは、会場設営の仕事が想像以上に面倒な仕事になったことを直感して、落ち込んだ。何年も前から定番以外のパターンが続いていて、工夫はあらかた出尽くしたそうだ。新しいパターンを考えるのは大変になりそうだ。納期に間に合うのかしら。

ロージーはあれこれと思案に沈む余り、男がロージーをしげしげと眺めていることには気づいていなかった。

実のところ、男はロージーを熱心に見つめていた。平民クラス出身そのものの、さほど力量のつかない平凡な体格。王宮に上がるために相当鍛錬したのであろう、きりっと背筋を伸ばしているから二割増しで堂々としている風に見えるのだが、成人済みにも関わらず、明らかに小柄で華奢だ。白緑色の髪は、光の当たり具合によっては真珠色にも銀色にも見え、思わず触ってみたくなるような透明感と艶やかさを持っている。

この印象は、真冬の雪のような絶対的な白さ、と言うよりは――

やがて、流石に鈍いロージーも男の視線に気づき、「私の顔に何か付いてますか?」と尋ねる。

「ロージー嬢、エランティス…ああ、その趣向のパターンでは、如何です?」
「節分草ですね?それは、どういう事でしょう?草花の装飾は春の独壇場ですが…」
「スプリング・エフェメラルですよ――季節の先取りというのも悪くは無いと思います」

ロージーの顔が、ぱああと明るくなった。

「すごいです、監察官!それ、名案です!」

ロージーは勢い込んで礼をすると、善は急げとばかり、チーム仲間の令嬢たちの元へと駆け出した。

一陣の風のように駆け去ったロージーの後、残された男が頭に手をやりつつ、苦笑しながら佇んでいた。

「…ガイ〔仮名〕殿の、植物園通い趣味のお蔭だな…」

PR

異世界ファンタジー試作4

異世界ファンタジー1-4王都の養老アパート:祖母と神祇官と

――男は、本当に多忙な人だったようだ。1日のうちに王都に戻らなければという事で、慌ただしくその場を立ち去った。

ロージーは、その日はそのまま共同墓地の最寄りのホテルに宿を取り、波立った心を落ち着けた。幸いに、比較的にスムーズに全ての手続きが済んだし、早めに王都に戻って、祖母の付き添いを始めたいと思う。祖母は竜人としての天寿が来ており、《霊送りの日》を静かに待つばかり。余命はほぼ無く、この冬から春には自然死するであろう――という状態だ。

竜人にとっては、事故死や横死など不自然な死は苦痛であり悲劇だが、天寿による自然死は自然界への回帰であり、決して悲劇ではない。むしろ、その手の資格を持つ神祇官に《霊送り》の術を依頼して、スムーズな回帰を実現しようとするほどである。

4日掛けて王都に戻ったロージーは、早速、祖母が静養している養老アパートの一室に落ち着いた。王宮での仕事が再開しても、《霊送り》のその日までは祖母の傍に居るつもりだし、婚約者の実家側の人たちには、既に理解して頂いている。

かねてからお世話になっている民間の神祇官に、祖母の状態を聞く。穏やかな老衰状態で、体調も問題は無いそうだ。《霊送り》の予定日を確認し、それに合わせて長期休暇を取る事を、勤め先の上司に伝えておこうと、ロージーは心に留めた。

年老いた祖母はロージーをじっと見つめ、そして可愛らしく微笑んだ。

「何だか良い顔してるわ、ロージー、良い事あったのかしら?婚約者の…ジル〔仮名〕様と会えたの?」
「そ、そんな事…」
「《運命の人》に出会った時のリリーと、同じ顔してるもの、フフフ」

――祖母の読みの、何と鋭い事。死期が近づくと、こうなるのか。父の生前の望みを叶えられたことでホッとしただけだと誤魔化す。しかし、胸の奥にほのかに根付いた、見知らぬ男への思いは、ロージーをそわそわさせる程の存在感を持っていた。

馴染みのライアナ神祇官は、出された茶を堪能しつつ、祖母と孫娘の会話を微笑ましく眺めていた。濃い緑青の髪、葡萄色の目をした魅力的な竜人の中年女性である。

「リリー様というのは、ロージー様の御母堂ですね?」
「ええ、そうなの。私の娘だったの。ロージーはリリーの髪の色を受け継いだのよ」

流石に祖母とライアナ神祇官は、ツーカーの関係だ。ライアナ神祇官は女性ながら、後進指導をする師匠としての資格も持つ、ベテランの一人である。神祇官教育課程を修了した弟子を一人受け入れていて、独り立ちのための実地訓練を施しているところであった。

「ロージー様は、婚約者のジル〔仮名〕様とは余り会っていないようですね?」
「え…まあ」
「前に会ったのは、いつ頃だったんです?」

奇妙に不自然なところがある――ロージーの反応の淡さは、ベテラン神祇官としてのライアナの直感に引っ掛かる物があった。

「え…と、15年――いえ、15年以上前かしら…」
「15年ですって…?!そんなに長い間、婚約者と顔を合わせてないと?!《宿命の人》なのでしょう…?!」

ロージーの答えは、ライアナ神祇官を心底、ギョッとさせるものだった。

「ジル〔仮名〕様は、そう仰って下さったそうだけど。余り実感が無くて…」
「そうだけど、って何ですか?――つまり、伝聞だけ?」
「最初に会った頃、私はとても小さかったから余り良く分からなくて…それに、宰相補佐でもいらっしゃるギルフィル卿の右腕とかで、いつも忙しい方だから…その後は直接、会って話したことは無くて…」

ロージーの声は、だんだん小さくなっていった。

「――すれ違い?15年もの間?よくクレームが出なかったですね」

ライアナ神祇官は、信じられないといった様子で首を振った。その辺りのことに疎いロージーは、首を傾げた。

「クレームって?そういうことがあるんですか?」
「余りにも婚約者同士で縁が無い場合、《宿命図》の占いが間違っているのではないかというクレームが出るんですよ。貴族は、高位になればなるほど、《宿命の人》に関しては神経質になりますから」
「そうなんですか。私とジル〔仮名〕様の《宿命図》は、王宮の占術師が読んで下さったそうなので…」
「貴族サマサマですねぇ。まあ、貴族クラスの《宿命図》なら、民間に比べれば保管は厳重でしょうしねぇ」

ライアナ神祇官は意味深そうな様子で、ため息をついた。ロージーは更なる疑問を抱いた。

「貴族の《宿命図》は、王宮の門番付きの書庫に収まっています…でも、厳重じゃないといけない理由があるんですか?」
「良からぬ目的をもって《宿命図》を歪ませるのは可能ですから。以前、何処かの悪徳代官が、恋人の居た娘の《宿命図》を操作して奪おうとした事件があったんですよ。まあ深刻になる前に、その娘の恋人が気付いて悪徳代官を返り討ちにしましたが。そんな事が貴族クラスで起きたら、地方がひとつ消えるレベルの大騒動になるでしょう」

神祇官は、《宿命図》を読み取り判定するだけの占術師とは違って、《宿命図》そのものに干渉する技術を持つ。

しかし、神祇官として貴族クラスの《宿命図》に手を出すことは、法律によって厳しく禁じられている。予期せぬ混乱が発生するなど、影響が大きすぎるからだ。もっとも貴族クラスの《宿命図》に干渉できる力量を持つ神祇官も、この世には、ほとんど居ないのだが。

そもそも、竜王国を混乱に陥れた権力闘争も、貴族クラスの《宿命図》に干渉した事から始まっているという。

ライアナ神祇官は、そこで苦笑した。

平民クラスの間では、《宿命図》への干渉は日常的だ。主に、健康運、恋愛運、金運だ。竜体において不利な平民クラスの間では、かえって《宿命図》の拘束力も弱く、問題が起きたとしても個人レベルに留まる。大物よりは小物の方が、時代への影響力も決定力も小さいという訳だ。時世の流れに左右されやすいとも言う。

《宿命の人》は《宿命図》によって予兆される存在だが、《運命の人》は、非常に幅がある。その辺りは、人の意思の自由性を如実に保証しているものとも言えた。必然的に、平民は貴族よりは人生の選択肢が多い。職業しかり、恋人しかり。

《宿命図》は決して不変という訳では無い。人の手によって操作されうるものでもあるし、自分自身の成長や変化によってパターンが変わったりする。《運命の人》という曖昧な幅を持つパターンは、その不確実性がもたらすものなのだ。

「自然な変化である限りは、《宿命》にせよ《運命》にせよ、問題が多くても納得する結果にたどり着くと思いますが…」

そう言ってライアナ神祇官は説明を切り上げると、また来ます、と約束して退出して行ったのであった。

異世界ファンタジー試作3

異世界ファンタジー1-3邂逅:雪白の連嶺と谷間の紅葉

ロージー母の眠る共同墓地は、長く変わらぬ静謐な谷間の中にあった。竜王国の北部辺境にあって、冬の到来が早いのであろう、谷底から見える高い山々は、深い雪に覆われていた。その奥には、万年雪を頂く永遠の山脈が雄大に広がっている。

冷涼な空気の中、黒い喪服をまとったロージーは、年老いた墓守の一人と共に父親の遺骨を納める作業を黙々と続けていた。やがて最後の土がかぶせられると、墓守は物慣れた様子で葬送の詞を呟いた。ロージーは白菊で編まれた葬送の花冠を墓に捧げ、静かに手を合わせた。

「グーリアス殿は毎年、リリフィーヌ殿の命日に、此処に来ておったよ」

年老いた墓守の思い出話は、ロージーを改めて驚かせる物だった。墓守は「これを預かっていた」と言い、事務所の裏にある遺品倉庫から、簡素な文箱を取り出してきた。中には、「父より」と書かれた封筒のみ。じっくり観察した訳では無いが、妙に新しくない感じのある手紙である。何年か前に書かれた物かと思われた。

(これはこれで、父さんらしいかも…)

今はまだ、心がざわついている。諸々が落ち着いてから、ゆっくり開封しようと、ロージーは心に留めた。墓守の事務所を退出した後、空を見上げる。日暮れまでには、まだ時間があった。ロージーの足は、共同墓地から離れた雑木林へと向かって行った。

遅い昼下がりの中、紅葉の盛りにある雑木林は、赤に金に、キラキラときらめいている。王都に先駆けて、早くも紅葉のピークが過ぎ去ろうとしている。谷を流れる小川はあちこちで幾筋もの小さなせせらぎを作り、落ち葉が華やかに彩り、秋ならではの散策の楽しみを保証していた。

久しぶりにノホホンと歩いていると、次第に思い出されるのは、ジル〔仮名〕という名前の持ち主の事だ。私の運命を激変させた人。見ず知らずの婚約者。

最初の交流の時以来、ジル〔仮名〕とは、一度もまともに再会する機会は無かった。間もなくして王都の権力闘争が激化したためである。ギルフィル卿とは、先方の邸宅で内々に成人を祝って頂いた時に、一度だけ慌ただしく顔を合わせた。黒髪のダンディな方だ、息子に当たるジル〔仮名〕も好青年だろうとは思うが、黒髪だったという他は、どんな顔をしていたかは全く思い出せない。

しかし、激務の合間を縫って折々に贈られる品や手紙には、心遣いが溢れていた。《宿命の人》というのを差し置いても、気が合う人だと思う。初対面の時、まだ幼かったロージーにとっては、《宿命の人》とは言っても、特に目立つ好意や親近感に毛が生えたという程度の認識しか無かった――その淡い認識のまま、成人を迎え、そしてこの年になるまで来てしまった。

――母は、父にとっての《宿命の人》だったという。

竜人の男にとって《宿命の人》とは、どんな存在だろう。竜人の女にとっては――?

(もう一度、ジル〔仮名〕様と顔を合わせてみれば、分かるのかしら?)

うつむいたまま林間をそぞろ歩きしていたロージーは、改めて、父の手紙が入った文箱を、胸の前でギュッと抱きしめた。婚約指輪に指が触れる。成人した際に、成人祝いを兼ねて作り直した物だ。正式な婚約指輪では無いそれは、身元証明用のエンブレムも彫り込まれていない、ごくごくシンプルなデザインである。

ロージーは無意識のうちに、指輪をくるくると回した。

――父は、母にとっての《運命の人》だったという。

祖母がニコニコしながら繰り返し語った、平民の男と平民の女の、ささやかな恋愛物語だ。

ロージーはボンヤリと考え続けていた。

王都の混乱が収束しない限りは、婚約者とすれ違い続けるだろう。縁が無い私が、いつまでも婚約者気取りでジル〔仮名〕様を束縛し続けているのも申し訳ない気がする。何といっても、私は平民だけど、ジル〔仮名〕様は竜王国の将来を背負って立つ高位の貴族の一人なのだ。これまでの勉強の甲斐あって、貴族社会の事情は分かる。

(婚約破棄も、にっちもさっちも行かなくなった問題の、解決手段の一つだと言われている)

そしてそれは勿論、最終的な手段だ。今はまだ、そういう決定的な局面ではないが、将来どうなるか分からないのだから、今のうちから可能性を考えて置いた方が良いだろう。のっぴきならない、強い理由を探しておくとか――

ロージーは思案に集中する余り、足元や周辺への注意がおろそかになっていた。不意に木立から現れた人影にギョッとしたものの、その動きを避けきれずぶつかり、突き飛ばされ、その拍子にロージーは足を踏み外していた。

「きゃあ!」

片足が木の根に引っ掛かる。地面の支えを失った片足はそのまま空を蹴り、ロージーは転倒しかけ――

――次の瞬間、ロージーは力強い腕に身体を支えられていた。

ロージーは目をパチクリさせた。随分、背の高い人だ。目の前にあるのは、地味ながら上質な仕立てのコート。留め具の外れている隙間からは、カッチリとした、どう見ても宮仕え用の衣服。間違いなくこの辺りの平民の衣服ではない。

ロージーが頭をヒョイと上に向けると、見下ろして来ていたその人と目が合った。

「申し訳ありません、気が付かなくて…大丈夫でしたか、令嬢どの」
「え、あ、ハイ、こちらこそ」

ロージーは息を呑んだ。心配そうにこちらを覗き込んで来る男性の目は、深い青だ。息詰まるような威圧感こそ薄いが、明らかに貴族クラスの竜人。切れ長の目やきつく寄せられた眉が、威厳を感じさせた。しかし、心持ち長い黒髪が少年っぽさを感じさせ、地位や年齢相応の厳しい雰囲気を和らげている。

ロージーはそそくさと足元を整え、対象範囲の広い簡易版の淑女の礼を取って、丁重にお礼を述べた。見知らぬ男は驚いたように目を見開いていたが、すぐに綺麗な微笑みを見せ、「どういたしまして」と腰をかがめて応じた。

(笑うと随分、印象が変わる人だわ)

ロージーは、心臓がドキリと跳ねたのを自覚した。しばらくの間、見知らぬ男から目を外せない状態だったが、ようやく、不躾にジロジロ見ている形になっていた事に気付き、慌ててあらぬ方へ目をやった。

「令嬢どの、此処へは葬儀か何かで来たのですか?」

頭の上から、男の低い声が降って来た。声も素敵だなんて反則だわとロージーは思いながらも「ハイ」と答える。ロージーはコートを着ていたが、その下は明らかに喪服だ。それをこの男は見て取っていたのだ。

ロージーは慎重に見知らぬ男を振り返り、「あなたも、葬儀か何かで?喪服ではありませんよね?」と問い返した。男は無言でロージーを眺め続けていた――特に、艶やかな白緑の髪を眺めていたようだ――が、やれやれと言ったようにため息をついた。

「ええ、まあ、急いで知人に会いに行ったところだったのですが、一足違いでした。献花だけはしましたが…」

ずいぶん忙しい人ではあるらしい。多忙の合間を縫って、やって来たのだという事が窺えた。男の黒髪は乱れがちになっていた。高位の竜人ならではのチートスペック、つまり竜体で空を飛んで駆けつけて来たという事なのだろう。誠実な人らしい。

「お心は伝わっていると思いますわ」

ロージーが軽く微笑みながらそう言うと、見知らぬ男は流し目をくれた。思わぬ色気に、ロージーは再びドキッとし、抱えていた文箱をギュッと抱きしめた。男はロージーの反応を知ってか知らずか、乱れていた髪をかき上げ、軽く整えている。

――その男の指にキラッと光ったのは、指輪。

(結婚指輪だったら特殊加工を施した宝石を付けるから、これは婚約指輪の方かしら)

素敵な相手がもう居るんだわ、とロージーは納得していた。きちんと良識を守って、節度のある態度を取らなければ…と気を引き締める。逆に言えば、気を引き締めなければならない程、ロージーは彼の雰囲気や佇まいに強く惹かれていたのだ。しかし思い通りにならないのはやはり無意識で、ロージーは同時に、無意識のうちに、自分の指輪をくるくる回していた。

男の方は、ロージーから視線を外し、北部辺境を成す雪白の連嶺を眺めている。どのくらいそうしていただろうか、男が立ち去る気配が無い事に、ロージーは疑問を覚え始めていた。不躾にならないように気を付けながらも、チラチラと男を眺める。

やがて男が、やっと口を開いた。

「此処は美しいところですね。令嬢どのは、この辺りの出身ですか?」
「ええ」
「成る程」

男はフッと微笑んだ。不意にやられると心臓に悪い――ロージーはドギマギするばかりだった。

「令嬢どののお名前を尋ねても?」
「ロージーとお呼びください」

後から考えてみても、この時のロージーは、明らかに舞い上がっていた。冷静じゃなかったのだ。低く朗々として甘い男の声は、ロージーをすっかり魅惑していた。この声で、ロージーと呼んで欲しい。平民クラスの感覚で愛称を答えてしまってから、ロージーはハッとしたが、もう遅い。貴族クラスは、何故かその辺は神経質なのだ。余程の関係じゃないと、愛称を呼ばせない。

(でも知らない人だし、ローズマリーもロージーも同じなんだから、まあ、いいか――私は平民クラスだし)

ロージーは無意識のうちに目を伏せ、再び指輪をくるくる回していた。無意識の癖になってしまっている。

「あの…あなたのお名前は?」

男の返答は無かった。うつむいていたロージーは、不思議そうに顔を上げた。男はロージーの手をじっと見ていた――即ち、ロージーの指にはまっていた婚約指輪を。

――気まずい雰囲気が流れた。婚約者としての立場を不意に思い出し、ロージーは動転の余り、そそくさとあらぬ方を向いた。

「済みません、――大事な人を亡くしたばかりで…」

緊張の余り、筋が通っていない内容になっているようだ。あああ。どういう言葉を続ければ良いのだろうか。取り繕えば取り繕うほどボロが出て来ているような気がする。ロージーは、穴があったら入りたい気持ちで一杯になった。

男は「私の方が失礼をしました」と言って苦笑した。そして、ロージーの手を、壊れ物を扱うかのように大事そうに取った。

「――ロージー嬢の"大事な人"に敬意を表し、名乗らずに済ませましょう」

男はそう言って、ロージーの手に軽く口づけしたのであった。