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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

異世界ファンタジー試作7

異世界ファンタジー3-1食堂前:一触即発

――ああ、どうしよう。

ロージーは、王宮の中にある役人向け食堂の前に並ぶ長い行列を見て、途方に暮れていた。

冷え込みが強まって雨がぱらついた日、王宮の役人向けの食堂は、街のレストランへの道を遠慮した役人たちで込み合っていた。行列整理中の従業員が、「並んでください、ハイ、最後尾は1時間30分待ちですよー」などと無慈悲な宣告をしている。

(今日はライアナ神祇官が午後いっぱい祖母をチェックしてくれる日だから、半休を取っておいたのに…)

仕方ない。昼食抜きで帰宅するか。ノロノロとそう決心し始めたロージーの肩を、後ろから「ねえ」と、つつく者があった。

思わずビクッとして振り返るロージー。そこには、金髪碧眼の背の高い男が居た。王族の血筋を色濃く持つ、貴族クラスの高位の竜人だ。見惚れる程の美貌に、妖しくも魅惑的な笑みを浮かべているが、少なからぬ威圧感を感じる。ロージーは、金髪の男の竜体の大きさをまざまざと直感し、本能的な畏怖を覚え、サッと距離を取る。

「あ、何もしないから、そんなに警戒しないでよ」

金髪の男は、ダダ漏れだった威圧感をそそくさと収めた。どうも注意力散漫なタイプらしい。この分だと、お忍びで金髪を隠して街中を歩いていたとしても、その身から発散される威圧感で、しっかりバレてしまうに違いない。知らず知らずのうちに、平民クラスの人たちを怯えさせ、後ずさりさせているのではないか。

「白緑色の髪のお嬢さん、これから一人で食事でしょ?俺、上の食堂に行くところ。上の食堂は空いてるからすぐに席が取れるけど、一緒にどうかな?最近は冬宮に向かう渡り廊下で良くお嬢さんを見かけるんで、気になりまくりだったんだよね。以前も会ったよね、覚えてる?」

上の食堂?貴族クラスの、高級料理の…これは、もしや、ナンパという物か。ロージーは目をパチクリさせた。

「いつもサフィニアやエルヴィーネと一緒にお昼してるから、なかなか誘えなかったけど――今日という今日は、俺にチャンスが来たと思って良いよね?お嬢さんの名前は平凡だからなぁ、ロゼッタ嬢と呼んでも良い?」

良く見てますね。…というか、いつから見ていたんですか?知り合い?ロージーの脳内には、幾つもの疑問符が舞っていた。

「今日は天気が悪いけど、劇場はやってるから。あ、他の令嬢たちや女官長には、後で話を通してあげるから。偶然、俺は午後から非番でね。私服なのはそのせいさ。午後のデート付きで、どうかな?リンシード嬢は、音楽と演劇と、どっちが好み?」

こっちが茫然としている間に、勝手に話を進めないでください。明らかに上位貴族の子息と見える――もしかしたら、既に跡を継いで当主を名乗っているかも知れない――金髪の男の誘いを、如何にして不敬罪抜きで断れば良いのか、ロージーは必死で頭をくるくると回転させていた。

程なくして、そこへ、もう一つの人影が足早に近づいて来た。

「彼女を困らせるな」

馴染みのある低い声がしたかと思うと、記憶にある香りをまとった力強い腕が、ロージーを金髪男の下から引き出した。

――あの監察官だ。ロージーは訳もなく、一気に安堵した。監察官は背中にロージーをかばい、金髪男の前に立ちはだかる。監察官はどんな表情をしているのか、金髪男の雰囲気が険しくなった。抑えられていた威圧感が再び噴出し、ロージーはカタカタと震えるのみである。気が付けば監察官の方も穏やかな雰囲気ではない。凍て付くような殺気で、周辺の温度が一気に下がったようだ。

「お堅い監察官で。ロゼッタ嬢の返事を待っていたところだったんだけど?」
「顔に返事が書いてあるのが分からない程、鈍くないはずだ」
「そういえば、――ユーフィリネ大公女はどうした?」
「――貴殿は"あの件"に関する私の誓約を忘れているようだ。改めて誓約書を送付させて頂くが?」

ロージーは、途中から意味の通じない会話になったことに驚いた。どうやら二人は単なる知り合いというだけではなく、噂のユーフィリネ大公女を巡って、真面目に誓約を書く羽目になってしまった程の、過去の因縁もあるらしい。

金髪男は真剣な目つきで、ロージーの方をしげしげと眺めて来た。

「――何だ、本気だったのか」

金髪碧眼の貴公子は、何かに納得したかのようにそう呟くと、不意に踵を返して立ち去ったのであった。

*****

上位貴族の竜人同士の一触即発の事態を回避したという事に気付き、ロージーはホッとする余り、ヘナヘナと崩れた。自分で思っているより、小さい頃に間近で目撃した上位貴族の竜人同士の決闘の記憶は、根源的恐怖としてカテゴリされていたらしい。

ロージーが腰を抜かして床に座り込む前に、監察官の腕がロージーの腰を捕まえた。

「大丈夫ですか?」
「な、何とか…」
「その様子だと、上の食堂に行くどころでは無さそうですね。私の執務室の休憩所を提供します」
「???」

――あれよあれよという間に、ロージーは高位官僚に割り当てられているスペースに連れ込まれ、監察官の執務室だという重厚な部屋に招待された。ちょうど昼食と休憩の時間という事もあるのか、他の官僚たちは出払っているらしく、何人かの下働きの人々の他には出会わなかった。

さすが上位貴族の監察官、一人で使う執務室を持っているらしい。扉に居た門番が監察官に連れられて来たロージーを見てビックリしていたが、監察官の信用が高いのであろう、何も言って来なかった。門番は、部屋の主たる監察官に「昼食一人分」と注文され、慌てて廊下の角へと走り込んで行った。

ロージーは初めて見る高位官僚の執務室に目を丸くし、思わずキョロキョロしてしまった。壁に作り付けられている書棚には、端から端まで書籍が埋まっている。

ある種の民間業者の仕事部屋のカオスぶりを見たことのあるロージーは、机の上に乱雑に積まれて雪崩落ちそうになっている重要書類の群れを想像していた。しかし、監察官の執務室にある大きな机の上はきちんと整理されており、機密書類と思われるような類は何処かに隠されているのであろう、影も形も見えなかった。

(有能すぎるわ…)

監察官言うところの休憩所は、衝立で仕切られたスペースにある、応接セットと思しきテーブルとソファであった。ロージーが勧められてソファに落ち着くと、門番とは別の、専属事務員と思しき若い男がオムライス定食を運んで来た。

――すっかり呆然としていたロージーの頭が、再び回転し始めた。

(…ハッ!急いで食事を済ませて、祖母のところに駆け付けなければ…!)

ロージーは丁重にお礼を述べると、不躾にならない程度にできるだけ上品に、なおかつ最速のスピードで、食事を進めた。しかし、流石に慌ただしさがありありと出ていたようで、給仕を務める専属事務員も給仕タイミングをつかめず、疑問顔でロージーを眺めた。向かい側のソファに座っていた監察官も、最初は唖然として、次いで面白そうな笑みを浮かべてロージーに注目する。

オムライス定食に付いていたコンソメスープを最後に飲み干したところで、ロージーはようやく、自分が注目を集めていた事に気付いた。ロージーは気付いたことで戸惑い、口をポカンと開け、その顔が羞恥でパッと赤くなった。

監察官は何がツボにはまったのか、口元を抑えて笑いをこらえていた。笑いをこらえてはいたが、肩が確かに小刻みに揺れており、「くっくっく」という楽しそうな笑い声まで漏れている。これには専属事務員も、驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。自分の上司でもある監察官は、この執務室に来て以来、何年もの間、一度も笑わなかった人だったから。

「ロージー、何か急用を抱えているようですね?」
「はあ…実は、あの、急いで家族の様子を見に行きたくて――別に今すぐにどうにか…という訳じゃ無いんですが、担当で家族の世話に来て下さる先生との相談のための時間が、夕方までしか無いものですから…」
「成る程――この間のあの馬車を、また貸しましょう。一緒に来てください、ロージー」

監察官はそう言ってロージーを促すと、まだ呆気に取られている専属事務員に後片付けを任せ、手慣れた様子でロージーをエスコートして行ったのであった。あの無紋の馬車を担当する御者も、この間の御者と同一人物で、勝手知ったるストリートの停車駅まで、ロージーを運んで行った。

ロージーは知らない。この後、専属事務員と御者と執務室の門番――すなわち、使用人たち――の間で、使用人ならではの情報網を通じてロージーの素性についての情報が改めて交わされ、そして、内々のうちに暗黙の了解が交わされたという事を。

ロージーは知らない。ユーフィリネ大公女が、たまたま馬車回しの近くに居て、あの日と同じように再び、監察官とロージーのツーショットの光景を目にし、改めて「ある確信」を抱き、新たに「ある決心」を抱いたという事を。


3-1@“宿命図”の観測

王宮から馬車で20分ほど離れた小さなストリートに面する、養老アパート。晩秋の雨はパラパラ降りからシトシト降りになっていたが、雨脚は細いもので、翌日は爽快に晴れるのではないかという予感を、ほとんどの人が抱いていた。

ライアナ神祇官は祖母の体調を念入りにチェックし、「このところの冷え込みで多少バランスが崩れているけど、そんなに深刻なものではない」とロージーに説明した。時々目を覚ましてにこやかにお喋りをしていた祖母は、ほとんどの時間を眠るように過ごすようになり、《霊送りの日》がいっそう近づいて来た事を実感させた。

今回、ライアナ神祇官は、指導中の弟子でもある若い男性アシスタントを伴って来ていた。まだ正式な神祇官ではないので、ファレル副神祇官と名乗っている。

ライアナ神祇官は一通りの仕事を終え、居間に落ち着くと、おもむろにロージーに声を掛けた。

「ファレル副神祇官にロージー様の《宿命図》を観測させたいのですが、よろしいですか、ロージー様?」
「実地訓練という事ですね?」
「ええ、秘密保持については、このライアナ神祇官が責任をもって、しっかり対応しますから」

ロージーは快諾し、ファレル副神祇官の占術を受けた。

軽い催眠状態になり、手のひらに《宿命図》の元となる特殊な手相パターンを浮き立たせる。その特殊な手相を写し取り、それを図式化してまとめるのである。ベテランになれば作成も解析も数時間で終わる仕事であるが、普通の人は、出来上がった《宿命図》から健康運、恋愛運、金運を辛うじて読み出せるのみである。この世界は奥が深いのだ。

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水の中の火あるいは王権を授ける光輪

玉菨鎮石(たまものしずし/玉藻鎮石)
出雲人の 祭(いのりまつ)る
真種の 甘美鏡(うましかがみ)
押し羽振る 甘美御神(うましみかみ)
底宝 御宝主
山河(やまがは)の 水泳(みくく)る御魂
静挂(しづか)かる 甘美御神(うましみかみ)
底宝 御宝主

*****

【水中の火】ウィキペディアより

ネプトゥーヌスは語源的にケルト神話のネフタンやインド神話・イラン神話のアパーム・ナパートと関連性が指摘されており、いずれも古いインド・ヨーロッパ語族系神話の水神に起源を有すると考えられている。音韻的にはいずれもインド・ヨーロッパ祖語の neptonos(水の神)か hepōm nepōts(水の孫・息子・甥)に遡ることが可能で、いずれも類似した構成の神話を持っている。
水中に神聖な炎があり、この炎は手出しをしてはいけないか、または穢れのない人物しか触ってはならなかった。しかしあるとき、そういう資格を持たない人物が炎を手に入れようとして失敗した。炎の周りの水はあふれ出し、そこから河川が誕生した。

ギリシア神話

ギリシア神話においては、ダナオスの娘アミューモーネーが水を探しに行ったときサテュロスに襲われたが、それを助けた海神ポセイドーンは三叉の矛でもって大地を打ち、そこから泉があふれ出した。ポセイドンはアミューモーネーと通じ、彼女はナウプリオスを産んだ。音韻的には無関係だが、ダナオス(< da-「水の流れ」)の娘の夫(=義理の息子=水の男性親類)が3に関係のある事項によって水をあふれ出させるという構造は他の神話と一致するものである。

ケルト神話

アイルランドの「ネクタンとその妻ボアンド」の神話においては、ネフタン(Nechtan)は秘密の井戸の所有者であり、その井戸は彼と彼の3人の酌人(従者)のみが使うことができた。「王権の象徴となる聖杯で液体を汲む井戸」。もし誰かが近づくと、井戸の水の中にある炎によって眼が焼かれてしまうのである。しかしネフタンの妻であるボアンド(Boand)は水を井戸からくみ出そうとした。彼女は三回半時計回りに井戸をまわり、そして三箇所を切断された(大腿・手・眼)。水は溢れかえって海へと流れ出し、ボアンドはそこで溺死してしまった。その流れは今では彼女の名前を取ってボイン川と呼ばれている。
ウェールズの『タリエシン物語』と構造的に一致。ケルト神話:無資格者と「母なる女性」が融合していて、無資格者の女性に襲われて飲み込まれ、お腹の中から詩人タリエシンが生まれてくる話

ペルシア・インド神話『アヴェスタ』

ペルシア神話においては、王権の象徴である炎(光輪)フワルナフは、アパム・ナパート神(Apąm Napāt)によってウォルカシャ湖(アラル海かカスピ海)に安置されていた。アーリヤ人(ペルシア人)のみがフワルナフを入手することができたのだが、非ペルシア人のフランラスヤンが3回この湖に飛び込んでフワルナフを得ようとした。フワルナフは逃げ出し、そのたびに湖の水があふれて3つの川が流れ出した。
インドにこの神話はないがアパーム・ナパート(Apām Napāt)という同名の神格が存在し、これは炎であると同時に水中に棲むとされていた。
インド・ヨーロッパ語族という観点とは別に、ネプトゥーヌスはエトルリア神話の水と井戸の神ネスンス(Neþuns < nep-「湿」)と神格および名称が類似している。現在神話の残っていないネプトゥーヌスの原神話を再構築するには多くの難関が存在している

巫俊(ふしゅん)@fushunia
https://twitter.com/fushunia/status/1636422865657663488

これが水の中から火を採取する、日本の「火継ぎ」神話になってるので、ケルト神話とイラン神話を比較すると、日本神話が浮かび上がって来る不思議な構造になってるのですが、日本神話は草原地帯に由来し、国家の形成が遅れたので、より古層のものが記紀や弥生時代の遺物などに表現されてました。ウォルカシャ海とコンラの井戸の神話が、日本神話でどの形になってるか、突き止めることができれば、日本の古代史はかなりクリアに理解できるようになります。

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巫俊(ふしゅん)@fushunia
https://twitter.com/fushunia/status/1643958799924080643

温羅(うら)と吉備津彦の中世神話も、「水中の火」神話っぽいと思ってたら、温羅の首は竈の下に埋められたとか、吉備津彦に退治された温羅が哀訴して、御竈殿で奉仕する温羅の妻「阿曽女」(あぞめ)に鳴釜神事をさせることにしたとか、本当に水中の火神話の特徴の竈が出てきて驚きました。

巫俊(ふしゅん)@fushunia
https://twitter.com/fushunia/status/1643960622756007937

水界から来た日本の竈の神については、論文・小島瓔禮「海から来た火の神話」(『水と火の神話 水中の火』(楽瑯書院、2010年出版))に記述がありまして、東北地方で大黒柱にいる童子の神の「ひょうとく」や、「ひょっとこ」も関わってきます。水中に沈んだ太陽の太陽光から、火を採取する古層の神話です

*****

◇霊感に関する私見◇

長い時間、草花や風光を見ていたり、心の中を観照したり、エッセンスという事をあれこれと静かに考え続けたりしていると、何だか窓がパッと開いたみたいに、不思議な「印象」が次々に到来する瞬間が、本当にある…と思います。

何だか意味不明ですが、「印象」とか「予兆(きざし)」としか表現できないです。芸術ではそういったものを霊感と云うみたいですが、そんなに特別な事ではなくて、人間らしい感性をそのままに透き通らせてゆくと、自然にそうなるのかも。「印象」を上手くキャッチ出来たときには、既に「何か」が出来上がっている感じ…

あとは、「それ」をどうやって意味の通る文章に起こしたり、絵に起こしたりするか…この辺の思考や技術に、いささか努力が要るだけ…という事かも知れません。

異世界ファンタジー試作6

異世界ファンタジー2-2見本市:運命の波紋

冬宮装飾のテーマが固まり、ロージーは俄然、忙しくなった。しかし最終的なイメージが固まっているので、悲壮感はない。王宮の備品を管理するメイドや下働きの人たちに具体的な計画を伝えつつ、自分でも新しい室内装飾業者を探して交渉する。

ロージーが再び、あの男――黒髪と青い目の監察官――と再会したのは、そんな日が続くさなかのティータイムでの事だった。

ティータイムとはいえ、ほぼ無人の冬宮での一服である。王宮に上がるのは貴族クラスに相当する竜人がほとんどであり、高位の竜人の威圧感の中で立ち回るのが苦手なロージーにとっては、ホッとするひと時だ。冬宮に本格的に王宮の備品が搬入されるのは、新しい室内装飾業者が絵画やタペストリを納入してからの作業になるし、秋宮の稼働はまだ続いている。

「今日も良い天気ですね、お茶をご一緒しても?」
「どうぞ、作業用の机と椅子の上ですけど…お仕事はよろしいのですか、監察官?」
「私の方も休憩中ですから。気が張ることが多くて無人区域に立ち寄りたくなるんですよ」

茶器が置かれているのは、実用性一点張りの、簡素な机と椅子である。備品搬入の際のレイアウト計画書を置くためだ。ふらりと現れた背の高い男の姿にロージーは驚いたものの、すぐに彼と気付き、笑みを浮かべて対応した。

「ロージー嬢、冬宮の準備は順調のようですね?」
「ロージーで構いませんわ、監察官。先日は名案をありがとうございます。お蔭さまで大きな失敗をしないで済みそうです」

男は作業机に置かれたスケジュールに目を通し、「ここの業者は入札で決定しましたか?」と確認してきた。

「実は一件だけ、入札なし決定なんです。冬向けの草花枠の装飾専門の王宮御用達の業者が、そこしか無くて」
「では領収書を提出する時、メモを付けるべきですね。このご時世、業者との結託の有無を疑われやすいですから」

さすが監察官。――というか、私、大失敗する寸前だったのかしら?

男はサファイアの様な目をきらめかせて、愉快そうに笑った。綺麗な微笑みに、ロージーの胸は、どうしようもなくときめいた。

「大失敗という訳では無いですが、危なっかしいところがありますね。後日確認に手間を取られたくないでしょう?」
「ま、まあ、そうですね。カタログや見本市を見て回るのも、時間かかりますから」
「見本市に足を運ぶのですか?――ああ、この2日間に、冬季装飾の見本市が市場で開かれているようですが…」
「今日はこの後、出かけるんです。明日もだいたい同じ時間に。"良い物を見つけるには無駄足をも運べ"と申しますわ」
「ロージー…まさか、一人で、ですか?」
「ええ」

不用心じゃ無いかという注意は、この際、聞かないでおく。平民クラスだから貴族クラスの令嬢とは違って、その他大勢に紛れ込むから、かえって安全だったりするのだ。王都の中は、衛兵によるパトロールもあるし。

強い視線に気づいてロージーがスケジュール表から顔を上げると、やはり男が、真剣な目つきでロージーを見つめていた。あごに手を当てて、何やら考えている様子である。お茶を一口含んでロージーが首を傾げると、男はやっと口を開いた。

「十分に気を付けてください。ロージーは可愛いですから」

美形の範囲に余裕で入る監察官に真顔で言われて、ロージーは真っ赤になり、お茶を吹き出した。

*****

翌日も快晴であった。ロージーが冬宮でいつもの無人ティータイムをしていると、あの黒髪と青い目の監察官が再び現れた。

「ロージー、今日も冬季装飾の見本市に行く予定でしょう?」
「ええ、そうですが」

心配なので同行するという。監察官は最も忙しい仕事のはずだが仕事はどうしたのかと確認すると、必要な書類仕事は済ませたし、後は代理の人と部下に任せたから大丈夫だという事だった。

(仕事で付き添って頂くのだから、婚約者以外の人の手を借りても問題は無いよね)

ギルフィル卿や令夫人の面々がチラリと頭に浮かんだが、せっかくの好意を無下にしてしまっては申し訳ない。ロージーは衣服の乱れをキッチリと確認し、帽子を深くかぶり更には手袋をして、礼儀正しく男の手を取ったのであった。

見本市へはお忍びという形になるため、貴族の紋章のない、無紋の馬車に乗り込む。担当した御者は、男とロージーのペアを見て目を見開いたが、ロージーが予想した通り「問題なし」だったようで、何も質問をして来なかった。自分でも良く分からない流れでこういう事になりはしたが、心惹かれる男性との外出は存外に楽しいと、ロージーは感じていた。

共同墓地の離れの雑木林で会話を交わして以来、お互いの婚約者に配慮した慎重な関係のままである。男はロージーに名前を名乗らず、「監察官」だけで済ます。ロージーもまた、「士爵グーリアスの娘ローズマリー」である事を明かすつもりは無い。

見本市の視察では、男の見識の高さや洗練された趣味が窺えた。会場に陳列された装飾の品々について意見や感想を交わしながらも、ロージーは新たな発見にドキドキするばかりであった。一人の時とは違って、収穫が一杯ある。

「専門的な知見は無いけど、家では一流の品を揃えていたりするから、自然に…かな」

ロージーに感心されて、男は苦笑してそのように説明した。環境が整っていただけで、そんなにすごい事ではないと言う。しかし、とロージーは考えた。自分の目で見たもの、耳で聞いたもの、手で触れたものにきちんと注意を払っていたから、自然に一流に対する感覚も、育っていったはずだ。そもそも自分で育てようとしなければ、そういう部分は育たない。

――環境によって与えられたものと、その中で、自分の力で育てていくもの。《宿命》と《運命》の関係みたいだ。祖母の《霊送り》を担当するライアナ神祇官が語っていた内容を、改めてロージーは反芻し――そして、不意にドキリとした。

――《宿命の人》は《宿命図》によって予兆される存在だが、《運命の人》は、非常に幅がある。《宿命図》は決して不変という訳では無い。人の手によって操作されうるものでもあるし、 自分自身の成長や変化によってパターンが変わったりする。《運命の人》という曖昧な幅を持つパターンは、その不確実性がもたらすもの――

――《運命の人》。訳もなく、胸がときめく――

その自覚は、まるで大津波のようにロージーの心を揺さぶり、覆い尽くした。余りの衝撃で、頭がクラリとする。

「…どうしましたか、ロージー?」

低く優しい声が、頭の上から降って来た。ロージーはいつの間にか歩みを止めていたのである。差し出された男の腕を取っていたロージーの手は、震えていた。男は高い背を屈め、ロージーの顔を心配そうに覗き込んで来た。

「疲れましたか?顔色が悪いですよ。座りますか?」

物思いにふけりすぎて、失態をおかすところだった。涙が出そうだ。ロージーは慌てて、頭をふるふると振った。男の青い目を見たらどうにかなりそうで、頭を上げられない。男が背に回してきた手を普通以上に意識してしまい、言葉が回らなかった。

(ダメ、ダメよ。私には婚約者が居るし、彼にも婚約者が居るんだから、この一線を越えたら、絶対にダメ)

ロージーはギュッと目を閉じ、崩れそうになる何かをこらえて、すーはーと深呼吸した。――眩暈を起こそうとするような感覚は無い。大丈夫。ロージーは、ゆっくりと目を開き、背の高い男を見上げた。

「ええ、その、ちょっと貧血を起こしていたみたいです…ご心配おかけして済みません」
「貧血?」
「え、その、小さい頃は割と貧血体質だったので…」

これは嘘ではない。ロージーは元々虚弱体質に生まれついていたこともあり、幼少時は貧血を起こし、たびたび熱を出し、父と祖母を心配させてばかりだった。成人する頃には竜体の力量が普通レベルに追いつき、体調も安定してきたのだが。

――折よくというべきか、市場の中に風が吹き始めた。夕方にはまだ早いが、晩秋の冷涼が深くなっていく。

「この分だと急に寒くなりそうですね。もう自宅に帰りますか、ロージー?」
「あ、そうですね、そうしたいと思います」
「馬車で送りましょうか――家は何処ですか?」

ロージーの頭は、奇跡的に大回転した。自宅の情報は個人情報でもある。此処はやはり、後々のご迷惑を考えると、ぼやかしておいた方が良い。そこでロージーは、いつも使っている乗合馬車の停車駅の場所を教えた。

「そこは家の前では無いような気がしますが…門前じゃなくて大丈夫ですか?」
「ええ、その停車駅から歩いてそんなに無いし、この大型馬車では入れない分岐ストリートに面していますから。元気な時は、体力作りも兼ねて王宮から直接、徒歩で帰ったりしますし」
「途中には人通りのない狭い横道もあるのに、無茶というか無謀というか…では、無理はしないでくださいね」

男は苦笑しながらも了承した。自宅最寄りの停車駅に到着すると、男は馬車から降りようとするロージーの手を取って補助する。

「ロージー、今日は楽しかったですよ。また機会があれば、ご一緒したいですね」

決まり切った社交辞令の言葉ではあったが――男の深い青い目には心からの笑みが浮かんでいて、ロージーを再び、ドキッとさせたのであった。ロージーの心臓は、祖母の待つ養老アパートの扉の前まで到達しても、なお静かにならなかった。


別視点の見本市:運命の波紋

――時間をさかのぼり、男とロージーが連れ立って歩いていた、冬季シーズン室内装飾の見本市の雑踏の中。

見本市には、民間のものばかりではなく、王宮御用達や貴族御用達の陳列コーナーも入り交ざって並んでいた。ユーフィリネ大公女とその取り巻きもまた、そんな中で、ウィンドウ・ショッピングを楽しんでいたのである。

――ユーフィリネ大公女は、背の高い装飾品の裏側から、男とロージーのカップルを観察する形になった。

見本市の中央部を貫く通りは歩行者天国となっていて、商談や配達を抱えて駆け回る人たちも多い。市場のにぎやかな喧騒の中、男は巧みに人の流れをかわしながら、ロージーをエスコートしていた。黒髪に青い目の背の高い男性と、白緑色の髪にラベンダー色の目の――何年か前に成人を迎えたのであろう――小柄でほっそりした可憐な女性の組み合わせは、通行人の注目をチラチラと引いていた。時折ロージーに声を掛けられ、男が楽しそうに微笑む。

ユーフィリネ大公女は、男を知っていた。権力闘争の後始末に関わる中心的なメンバーの一人として、数多の汚職を暴く、高位の監察官。いつも冷静沈着で、その秀麗な顔には笑み一つ浮かべない。深い青さを湛える切れ長の目は、凍て付いた光を宿す。不正に手を染めた貴族を、良く通る声で容赦なく弾劾し、次々に司法機関送りにしている人だ。

――その男が、どこの馬の骨とも知れぬ平民クラスの小娘に、甘い笑みを浮かべている!

不意にロージーが真っ青になって立ち止まる。男はすぐにロージーの異変に気付き、声を掛けた――ロージーはうつむいたまま、反応しない。男は二言か三言、声を掛けていたが、やがて壊れ物を扱うかのように、ロージーの背にそっと手を回した。

男はロージーに合わせて背を屈め、更に言葉を掛ける。見ようによっては、口づけしようとしているかのようだ。本当に口づけはしなかったが。やがてロージーが男の顔を見上げて、何事か喋り出す。男が応える。ロージーは気付いていないようだったが、男の手はロージーを抱え込み守護するかのように、いつの間にか腰に回っていた。その手の指には、婚約指輪が光る――

――わたくしというものが、ありながら…!

ユーフィリネ大公女は目を険しくし、手に持っていた手袋を、しわが寄るほどにきつく、ギュッと握り締めた。