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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

古代インドの星宿メモ

◆出典◆『星の文化史事典』出雲晶子・編著(白水社2012)◆

★ブリハット・サンヒター

意味は「大集成」で、5世紀インドの占星術師・天文学者のヴァラーハミヒラによる、さまざまな占いを集めた書。ヴァラーハミヒラの一族はペルシア系でペルシア語文献に精通していたと言われる。内容は天体から気候、動植物、建物などの様子を何の前兆とするか、黄道12宮が地上の何に関連しているかなどで、天体については、日月五惑星、ラーフ、彗星、アガスティヤ(カノープス)、七仙人(北斗七星)の影響、星宿と地方の関連、惑星間と地上の戦争の関係、月と惑星が接近したときの占い、年と月の支配惑星について、惑星同士のアスペクトについて、月と星宿の関係について(ローヒニー、スヴァーティ、ウッタラ・シェーダーに月が来た場合)、朝焼けと夕焼け、太陽と月の暈、虹、幻日の現象、黄道12宮と星宿の対応、惑星と12位の関係についてなどである。

★ナクシャトラ

古代インドの27または28の黄道上にある星座。星宿。星宿は月が毎日留まる星座で、暦のための定点として月が動いていく白道(ほぼ黄道と同じ)上に並んでいる。月が天球を一周するのにかかる時間は約27.3日なので理論上は28宿・27宿どちらでもよく、タイッティリーヤ・サンヒターでは27宿、アタルヴァ・ヴェーダでは28宿となっている。

名前はアシュヴィニー、バラニー、クリッティカー、ローヒニー、ムリガシラー、アールドラー、プナルヴァス、プシャー、アーシュレーシャ、マガー、プールヴァ・パールグニー、ウッタラ・パールグニー、ハスタ、チトラー、スヴァーティ、ヴィシャーカー、アヌラーダー、ジェーシュター、ムーラ、プールヴァ・シェーダー、ウッタラ・シェーダー、(アビジト)、シュラヴァナ、ダニシュター、シャタビシャジュ、プールヴァ・バードラパダー、ウッタラ・バードラパダー、レーヴァティー。

27宿と28宿の違いはアビジトがあるか否かである。もともとのナクシャトラは黄道上から多少離れているものもあったが、数百年後にギリシア風の西洋占星術がインドに伝わり、その影響を受けてインド星宿は黄道上の帯のような部分を均等に27等分したものを指すようになった。それが仏教の僧が中国に持ち帰って漢訳される際、中国独自の28宿と対応して訳されたので、中国に伝わったものは28宿になっている。

ナクシャトラ占星術は27宿がそのまま一ヶ月の日に一定の規則で対応し、それぞれの宿の吉凶で占うもの(実際に月がいる星宿ではない)。ナクシャトラ占星術の原点はアタルヴァ・ヴェーダの拾遺(パリシシュタ)であるとされる。
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アムゼルくんのプラタナス

http://amselchen.exblog.jp/19226211/
アムゼルくんの世界「AF Nikkor 50/1.8Dの淡い光」より

この写真は、ツイッターを通じて、写真専門サイトに公開されていたのを見たのが最初でした。

何か大きな木だな…と思いつつ、上から下に向かってつらつらと鑑賞していました。光の具合が、非常に好みな雰囲気であったのです。

そのまま、写真を見て「プラタナスの木蔭で…」という状況フレーズを連想しつつ、下に向かって鑑賞していると、突然不思議な感覚がやって来ました。写真の下部スペース1/3くらいの領域で、いきなりスパッと雰囲気が変わったように、無形の闇に呑まれたような感覚が来ていたのです。

幽顕のあわい…

その感覚は一瞬だったのですが、自分自身がビックリしました。普通は、「プラタナスの木蔭で…」の後に、「自分が何を感じた」とか「町の様子が」とか、意味のある状況フレーズ(=写真鑑賞のためのフレーズ)をくっつけるのですが、その時は何も思い浮かばなかったのです。

「プラタナスの木蔭で…」――そして、無形&無底&未生の混沌。

改めて写真を見直してみて、「普通に意味のある光景」が写っていたのを確認しましたが、それでも、一瞬到来していた「無形&無底の領域」の感覚の方が強烈で、ずっとその残響を引きずっていました。

突然「プッ」という感じで到来した、その「或る領域」は、一体何だったのだろう…?

幾ら考えてみても、「それ」を言語化することが出来ませんでした。「プラタナスの木蔭で…闇&混沌…」という風に言語化してみても、何だかピッタリしない…まるで、「プラタナスの木蔭で…」のフレーズが、その「言語化できない領域」を引きずり出して、目にも明らかに吊り下げて見せた、ような感じなのです。

心を凝らしてみる限りでは、「言語化しなければならないという役割そのものも、全く理解していない」という風な、妙な無貌のモヤモヤが、「のてっ」と“在る”…

「その領域(?)」を「思考の指」のようなもので、チョンチョンと突付いてみて…

「これは、言語化できない“何か(モヤモヤ)”である」と感じました。

『アムゼルくんの世界』ブログに写真作品がアップされ、感想コメントを送らせて頂いた後も、続けて考えていました。そして、突然パッと閃きました。「木の根っこの部分に何かを感じる」という似たような状況を、何処かで聞いたことがある…

〝いましがた私は公園にいたのである。マロニエの根は、ちょうど私の腰掛けていたベンチの真下の大地に深く突き刺さっていた。それが根であるということが、私にはもう思い出せなかった。言葉は消えうせ、言葉とともに事物の意味もその使用法、また事物の上に人間が記した弱い符号もみな消え去った。いくらか背を丸め、頭を低くたれ、たった一人で私は、その黒い節くれだった、生地そのままの塊と向かい合って動かなかった。その塊は私に恐怖を与えた。それから、私はあの啓示を得たのである。それが一瞬私の息の根を止めた。この三、四日以前には、<存在する>ということが何を意味するかを、絶対に予感してはいなかった〟

サルトルの『嘔吐』の一部分です。

どうも、「木の根っこの部分で、いきなり無形&無底の何かを感受する」という意味で、サルトル描く主人公と同じモノを感受したのでは無かろうか…

「モノ」。考えれば考えるほど、写真に映った木の根っこで自分が感受した異様な「モヤモヤの領域」は、まさしく「具象化(言語化)される前の」「物」であるような気がしてきました。

そして、ここでまた閃いたのは、『日本語の哲学へ』の一部分です:


@参照=読書ノート:『日本語の哲学へ』
http://mimoronoteikoku.blog.shinobi.jp/Entry/556/(当ブログ編集)

具体的な事物を「もの」と言うとき、それは決して具体的な事物を具体的にとらえた言い方ではない、と結論する。例えば、「木」と言うとき、それは厳密には、その木の具体相(紅葉している、風が吹くたび葉が散るといった様子)を全て切り捨てて抽象化して言っている。それが「木」という語の意味である。

まして、それが「もの」ともなれば、「木」ということも切り捨て、「人間が感知し認識しうる」すべての具体相を消し去って、はじめて可能となるとらえ方である。「物」は「具体語」であるどころか、すでにこれ自体、究極の「抽象語」と呼ばなければなるまい。…物を「物」としてなり立たせているのは、この〈具体相を消し去る〉はたらきなのである。

「物」という語の意味は漢字の意味から類推も可能である。「物」は「牛」と「勿」に分解できる。「牛」は最も身近な家畜であった。「勿」は「こまごまとした雑布でこしらえた旗。色も形も統一がなく、見えにくい」さまと説明される。

◇藤堂明保『漢字語源辞典』:
朱駿声が、牛の雑色→いろいろな形・さまざまな色→形質や事類、という派生の経過を説いているのは、ほぼ正しいと思う。特定の色や形を持たず、漠然とした形色を呈している所から、物は「もの」という大概念を意味するようになったのであろう。

…何で、自分は「モヤモヤの何か」をずっと感受していて、サルトルの主人公のように「嘔吐」しなかったのだろうという事も、また妙な話ではありますが…^^;

多分、日本語の思考で写真を鑑賞し、ついでその「モヤモヤ」を感受して、日本語で意味分節していたからでは無いか、と結論。日本語には既に「モノ」「コト」という抽象的な言葉があり、言葉と化す前の未生の状態で、既に意味分節している訳です。その根源的・無意識的な意味分節があったので、「嘔吐」というような激烈な気分までは行かなかったのでは無かろうか?と思ったのでありました。

日本語の「存在」に相当する「モノ」という言葉は、「もののあはれ」というように、「万物の根底に広がる巨大な虚無」の認識を想起する言葉でもありますが、インド=ヨーロッパ語族に由来する西洋諸語では、「存在」は「在/有」の認識を想起する言葉を使っているようです(※ギリシャ語の「ウーシア(存在)」≒「所有物・財産」または「実体」「本質」)。

…想像するだに、サルトル描くところの主人公が感じた「存在」は、よっぽど不気味な代物であったらしい…と、同情…

1枚の写真で、ここまで不思議な体験をするとは思わなかったです。感謝なのです…

風水と陰陽道と星神信仰

大陸の風水は、日本列島に渡来すると陰陽道として発展した。この陰陽道には星神信仰がまつわりついている。

荒神(こうじん)=陰陽道では北西(乾)の方角の神とされる。

陰陽道には八将軍と呼ばれる星の神があり、「星が地上に降りて神となる」という考え方がなされていた。当時、流星や隕石が落下したと判断された土地には、「星下り」などという地名が付けられ、星神が祀られた。また、星は金属の素材ともされた。呪術的には「星=金属」の関係がある。

八将軍は「将」という漢字が使われている事から分かるように、軍事や戦争と深く関わった。八つの星から成り、その年によって支配する方角が異なるため、年毎に吉凶の方角が変化するとされた。八将軍は八王子とも呼ばれており、牛頭天王の八人の王子と言う説が加わっている。

八将軍のうち、最も恐れられたのが「大将軍」であり、これは「地上に降りた金星の精(太白星)」とされる。大将軍は吉凶の方角を全て支配し、かつ守護する。「将軍」という官職名は、その霊的猛威にあやかった名称でもあった。

八番目の将軍が「豹尾神」と呼ばれた。地上では「荒神」とされた。豹の尾を引いているから流星の神である。豹尾神が存在する方角に向かって尾のある動物(牛・馬・犬など)を飼ってはならない、粗相をしてはならない、などの禁忌があった。

陰陽道は、星の魔力を操り、帝都を守護する呪術である。風水の考え方によれば、都市や建物は正しい方位に造らないと災いに襲われるという事になっていた。この正しい方位を司ったのが星である。星が地上に降り、神となって帝都を守護するという結論は、このようにして自然に導かれるものであった。

星神は八王子・八将軍と言われるように8柱である。年毎に方位を変えるため、遊行神と呼ばれる。

太歳(たいさい)
十二支の方位に居する。木曜星(歳星〈さいしょう〉)の神格。移転普請は吉。訴訟、伐木は凶。
大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)
金曜星(太白)の神格。3年同じ方位に留まるため三年塞がりといい万事に大凶。
太陰(たいおん)
土曜星(塡星〈ちんしょう〉)の神格。縁談出産は凶。
歳刑(さいぎょう、さいけい)
水曜星(辰星〈しんしょう〉)の神格。耕作は凶。
歳破(さいは)
土曜星(塡星)の神格。移転旅行は凶。
歳殺(さいさつ、さいせつ)
金曜星(太白)または火曜星(熒惑星〈けいこくしょう〉)の神格。縁談に凶だが仏事には吉。
黄幡(おうばん)
羅睺(らごう)星の神格。武芸に吉。移転普請は凶。
豹尾(ひょうび)
計都星の神格。豹のように猛々しく、家畜を求めるに凶。大小便も凶。

八坂神社、大将軍八神社、将軍塚といった造成物は、帝都を守護する星の霊威を期待して造成されたものである。

実際、征夷大将軍などの「将軍」は、帝都を守護する軍人専用の官職である。

例えば将軍塚は、桓武天皇の時代、まだ平定されぬ蝦夷からの敵を防ぐために造ったものである。敵の来襲を受けると、塚の中に埋められた鎧人形(将軍)が鳴動して危機を知らせると期待されていた。

平将門もまた「将軍」である。7人の影武者を引き連れていたという伝説があり、影武者を合わせて合計8人となる将門は、星神である八王子(=八将軍)と同一視されていた可能性がある。

将門は殺された後、祟り神と化した。バラバラにされた首や胴体など8個のパーツが、死んだ後も元の体を捜してお互いにさ迷ったという伝説がある。これは、遊行神でもある8柱の星神になぞらえたものと解釈する事もできる。


《簠簋内伝・ほきないでん》

死者を蘇らせる北極星の神の奥義「泰山府君祭」の由来を含む。内容は蘇民将来の伝説である。ここでは、牛頭天王はスサノオノミコトと同一視されている。

つまり、「黄泉の国の支配者たるスサノオ」=「冥府の支配者たる閻魔大王」=「北極星・泰山府君」=「北方に住む牛頭天王」という関係が成り立つ。全て死と復活に関わる神である。

牛頭天王は、八王子=八将軍の父親とされている(つまり、ラスボスである)。牛頭天王の8人の子たる星神、「八王子=八将軍」もまた、陰陽道において、生死に関わる吉凶を司る決定的な存在と考えられたのである。


稲荷と陰陽道には深い関係がある事が指摘されている。実際、陰陽道の名人・安倍清明の母親は、葛葉という名前のキツネ(稲荷)だったとされている。

大将軍系の神社は「辰狐(しんこ)」という神を祀るところが多い。辰狐には八人の童子が居て、第七童子は陰陽道の術を使って人々を助けるとされている。そして辰狐自身も、2人の式神を伴っており、常に遊行して福徳と寿命を司るとされている。この役割は、星神と同じである(昔は、流星をアマツキツネとも言った)。

キツネは、稲の神であると同時に、火を司る神ともされている。この性質から、害虫から稲を守る火、灯台の火、城や砦を照らす篝火といった各種の火の象徴を引き受けた。城や砦との関係では、「将軍」の解釈と連結する事も可能である。

稲荷の御遣いのキツネは、夜になると、狐火を持ってあちらこちらと移動(遊行)する。これは星の火とも同一視されていた。夜間の光は導きの光であり、「火知り」=「聖」との連想も働く。

稲に関わるもう1つの火は、かまどの火である。これは火の神とも荒神とも同一視されている。星神、稲・稲荷、火神、荒神は、こうして連結してゆくのである。


「艮の金神」として知られる神も、恐ろしい荒神であり星神とされている。「金神」は「コンジン」と読むが、古くは「ゴンジン」と呼ばれた可能性がある。古くは、大将軍は「ダイショウゴン」と発音されていた。「ショウゴン神」が省略されて「ゴンジン」である。

大将軍は金星の神(太白星)であるが、これは「土用」の季節を司るとされている。四季節を五行の木・火・土・金・水に合わせると「土」が余る。そこで四季節から終わりの2週間程度の日数を集めてきて、「土用」という第五の季節を作った。

ゆえに「土用」は、最も恐るべき「季節の境目/終わりと始まり/1年の死と復活」なのである。

「艮の金神」は「土用」=「巡回する季節の終わり」を司るゆえに恐れられた。方位で言えば、十二支の終わる方位「戌」「亥」で「乾」、つまり北西である。

「終わり」を汚せば、「始まり」「復活」は無い。だから北西の方位は恐れられた、と解釈できるのである。