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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

研究:媽祖信仰

論文(PDFファイル)=「拡大する《中国世界》-媽祖信仰というカギで解いてみると-」
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/tabunka/journal/1-4-2.pdf/樋泉克夫・著

《以下、転載》

はじめに

華僑は血縁(同族)、地縁(同郷。同一方言)、業縁(同業)の「三縁」を相互扶助の紐帯として、ことば・風俗習慣・進行・たべものなどの異なる環境である異境、いいかえるなら異文化に囲まれながら日々の生活を送る。この他、神縁(同一民間土俗信仰)、物縁(同一物産)もまた、彼らが異境において生き抜くためにはなくてはならない縁だといえる。異境における相互扶助の紐帯である血縁、地縁、業縁、神縁、物縁を一括りにして「五縁」と呼ぶ。

本小論では五縁の1つである神縁に焦点を当て、宋代に福建の漁村で生まれた媽祖信仰を一例に、媽祖信仰が空間的にどのように拡大し、時間的にどのような経緯をたどって現在にいたったのかを跡付けると同時に、それが現在ではどのような役割を果たしているのかを検証してみたいと思う。この作業は、とりもなおさず媽祖信仰を縁とする人々の空間的・時間的広がりを再確認することにつながるはずだ。

1.媽祖信仰の発生と伝播

媽祖信仰誕生については様々な説話が残されているが、たとえば明代に著わされたと伝えられる「天妃顕聖録」には、次のように記されている。

時は宋の太祖建隆元(960)年春3月のある日の夕刻、所は福建の海浜に位置する莆田県にある林家の一隅。そこに紅色の光が差しこむや、部屋は急に明るくなり、女の子が生まれた。男子と思い込んでいた両親は落胆したものの、とても慈しんだ。娘は幼時、泣くことがなかったことから、「黙」の一字を添えて「林黙娘」と名づけられることになる。彼女は同世代の女の子とは違い、とても聡明であり、8歳の時に私塾で学び古典を理解し、10歳ほどで仏教を学び仏の道を体得したという。13歳である道師から道教の秘法を授かり、16歳で井戸から呪いの符をえて、つに邪を除き、世の中を救う霊力を身につけ、雲に駕り大海原を渡ることができるようになった。さらに海洋の気象や海難事故を予知する能力を身につけ、多くの人々を海難事故から救ったことで、誰もが「通賢霊女」と呼び崇めるようになる、だが雍煕四(987)年の9月9日に人知れず仙化してしまった。そこで周辺の人々が莆田県の沖合に浮かぶ湄洲島に廟を建立し、彼女を祀ると共に海の安全を祈願することとなったのである。

やがて霊権あらたかなることが四方八方に伝わり、信徒の数も増す。この話が朝廷に達したことから宋の徽宗は、宣和四(1122)年、彼女の霊に「寧海鎮墩神神女祠」を下賜している。以後、元では文宗が天歴二(1239)年に彼女を「天妃」に奉じ、明代に朝廷は彼女の子孫といわれる人々に報奨を与えている。彼女が――正確にいうなら彼女の霊が天子たる皇帝から認められたことで、信仰は地域的にも広がりをみせるようになり、各地に彼女を祀る廟が建立されることになる。いま、『1995年 澳門媽祖信仰歴史文化検討会論文集』に拠って、廟が建立された主な地点を時間の経過にしたがって追ってみると、次のようになる。なお廟の名称は異なるが、本尊は全て媽祖である。また、●は中国本土、○は台湾、◎はそれ以外の地点をしめす。

●湄洲島・天妃廟=宋天聖年間(1022-1031)
●山東省登州・天后聖母廟=宋崇寧年間(1102-1106)
●山東省長島県廟島・顕応宮=宋宣和四(1122)
●浙江省寧波・天后宮=宋紹熙二(1191)
●福建省泉州・聖妃宮=宋慶元二(1196)
●浙江省杭州・聖妃廟=宋開禧年間(1205-1207)
●江蘇省鎮江・恵妃廟=宋嘉熙二(1238)
●広東省広州・聖妃廟=宋嘉熙四(1240)
●江蘇省上海・聖妃廟=宋咸淳七(1271)
◎香港/南宋咸淳十(1274)林氏夫人廟(宋代)/天后廟(元代)/聖妃廟(明代)/天后廟(清代)/現在、50-60ヶ所の末廟あり○元至元十八(1281):澎湖島に娘媽宮を建設
●江蘇省太倉劉家港・天妃宮=元至元二十三(1286)
●天津・天后宮=元泰定三(1326)
◎沖縄/下天下妃宮=明永楽二十二(1424)
◎マカオ/媽祖閣=明弘治元(1488)
○明嘉靖四十二(1563):娘媽宮を拡充
◎マレーシアのマラッカ/青雲亭=明隆慶元(1567)
◎フィリピンのルソン島南部Taal Batangas/天上聖母廟
◎長崎/興福寺(通称「南京寺」=1623年、泉州寺(別名「漳州寺」)=1628年、崇福寺(一名「福州寺」)=1628年。共に仏教寺院だが、境内に媽祖を持つ。当時は明清交替時期。1616年に後金(1636年に大清と改める)建国、1644年に明滅亡。
◎インドネシアのジャカルタ/金徳院=1650年前後
◎ベトナムの会安(ホイアン)・天后廟=清乾隆六(1741)年の記録に「明後期に各省の船長が創建」
○清順治十八(1661):台湾での最初の天后宮を彰化鹿港に建立
○清康熙元(1662):鹿耳門(現在の台南安南区)に媽祖廟を建設
●遼寧省錦州=清雍正三(1725)
◎シンガポール・恒山亭=清道光八(1828)
●山東蓬莱県蓬莱斯閣・天后宮=清道光十七(1837)
◎ミャンマーのヤンゴン/慶福宮=清咸豊十一(1861)
●山東省烟台・天后宮=清光緒十(1884)
◎タイのバンコク/順興宮=清同治十(1871)

以上から媽祖を祀る廟宇の建立は湄洲島で始まり、先ず海岸線を北上して山東省に。浙江、福建、江蘇、広東と続き、13世紀後半に相前後して香港と台湾海峡に浮かぶ澎湖島に。再び天津まで北上した後に南下。沖縄、マカオ、マレー半島、フィリピンのルソン島、長崎、ジャカルタ、ホイアン、台湾本島へ。渤海を南渡して山東を経てヤンゴン、さらにバンコクへと続くことになる。もちろん、廟宇が以上の順序で整然と行なわれたわけではなく、各地で進められていたに違いない。だが、少なくとも最初の廟宇建立が時代的にも特定できるのが、ここに挙げた地点である。以上を敷衍するなら、湄洲島に天妃廟が建立された宋の天聖年間からバンコクの順興宮建立の清同治十年までの850年ほどの間に、媽祖信仰は遼寧省錦州を北、ミャンマーのヤンゴンを西、インドネシアのジャカルタを南、長崎を東の端とする広い範囲に広がっていったことが判るだろう。ならば信仰の輪は、中国東部沿海を三日月形に遼寧省から広東省へと繋がり、台湾を加え、これを西からミャンマー、タイ、マレーシア、インドネシア、ベトナム、フィリピン、日本と包むように広がっていると言えそうだ。

じつは現在、上記の国々に加え、カンボジア、ラオス、さらに朝鮮半島、インド、フランス、デンマーク、アメリカ、ブラジル、アルゼンチンなどにあるチャイナタウンでも媽祖が建立され、媽祖信仰の伝播が認められるのである。ということは、やや大げさに表現するなら、媽祖信仰は地球規模で拡大しているということだろう。

タイで発行されている華字紙の「亜州日報」(2000年3月29日付)によれば、全世界に広がる媽祖信徒は約2億人を数え、台湾では人口の75%が信徒であり、湄洲島の天妃廟から枝分かれした媽祖廟分社は世界中で4千社を超える。1992年、中国政府が同島を全面開放したことで、湄洲島の天妃廟世界の媽祖信徒にとっての「聖地」となった――とのことだ。

2.媽祖信仰伝播の原因

では、なにゆえに、このような形で媽祖が伝播したのだろうか。この問題を考える前提として、宋代に発達した航海術と移動・定住を繰り返しながらも「五縁」に象徴される移動元の生活文化を維持しようとする漢民族の生き方をみておく必要がありそうだ。

まず航海術についてだが、宋代は大型外洋船の建造が可能となり羅針盤が発明されたことで、それまでの時代と様相を異にする。つまり大量の荷物を遠方まで正確・安全に運べるようになったのだ。次いで生活文化についてみると、「五縁」はそれを共有する手段の相互扶助の紐帯だったのである。

第2次大戦前、中国の社会構造を現地調査した仁井田陞は、その成果の一端を綴った『中国の社会とギルト』(岩波書店1995年)において、中国社会の内面構造を次のように綴っている。

中国社会をその内面構造の上からとらえてみれば、同族(血縁)や、同郷(地縁)や、同学(学縁)や、同教(教縁)や、同業(業縁)や、又、血縁の擬制というべき親分、子分、兄弟分関係の緒結合など、大小いくつもの、又、幾種もの社会集団が重なり合っているのであって、人はそのうちの一つに限らず、そのいくつもに関係をもってきた。人は生きて行くために、よりよくその生命と財産とを守るために、血縁のような自然的結合関係にたよるのは勿論のこと、人為的な結合関係をもできるだけ作って、つとめてこれをたよりにしようとする。

つまり中国においては、「人は生きて行くために、よりよくその生命と財産とを守るために、血縁のような自然的結合関係にたよるのは勿論のこと、人為的な結合関係をもできるだけ作って、つとめてこれをたよりにしようとする」わけだが、これを別の視点で考えるなら、そうしないかぎり、中国においては、「人は生きて行く」ことも、「よりよくその生命と財産とを守る」ことも困難になるということだろう。

長い中国の歴史を俯瞰してみると、王朝の交替とそれに伴う戦乱、自然災害、人口爆発など、社会を混乱させる要因は常に存在した。たとえば新王朝に倒された前王朝の王族や遺臣は王都を逐われ、自然災害によって生きる全てを失った農民はそれまでの生活を棄てて、人口が爆発したことによりメシが食えなくなった庶民は流民となって、新しい生存空間を求めて広い大陸で移動・定住。再移動を繰り返してきた。これこそが漢民族が生まれながらに背負うこととなった性質の一端といえるはずだ。

宋代以降にみられるようになった東南アジア各地への港市への移動、あるいは18世紀末以降の西欧植民地勢力の本格的な植民地開発に伴って華工と呼ばれた大量の無資本労働者の海外への移動になって初めて華僑と総称するようになったが、この華僑という現象を漢民族が新しい生存空間を求めて移動を繰り返す人の流れの一貫として捉え直すなら、華僑は中国世界の外、中華帝国の版図外ともいえる海外において初めてみられるのではなく、中華帝国の内側で繰り返されてきた移動・定住のサイクルが、或る時点から中華帝国外に飛び出して行った現象と見做すべきではなかろうか。

(中略)

…じつは神縁は、次に挙げる2つの相互扶助の機能を持って「内面構造」の一角を形成してきたというわけだ。

一つは移動先での団結力の中心である。土俗信仰、いいかえるなら媽祖神の信仰を同じくすることで故郷(方言)を同じくする人々の団結の象徴となり、移住者集団の結びつきを強め、移動先での種々の困難に対応できる。台湾の農村部に顕著にみられうように、この団結が後に集落、村落へと発展していくことになる。

残る一つは械闘発生の際、同郷集団を糾合・団結させ他の宗族に対する武装集団となり自己防衛の機能を持つ。械闘とは中国南部の農村地帯に顕著に見られる、水争いなどを原因として農民相互が徒党を組み武器を持って戦う減少を指すが、清朝中期以降の台湾を見ると、明らかに信仰する祖籍神の違う移住者集団の間で械闘が繰り返されている。乾隆三十三(1768)年から光緒十三(1887)年の120年間、平均2年に1回の割合で械闘が発生している(計57件)。械闘の頻発は、神縁による紐帯の強さの傍証ともいえるだろう。

(以降、略)

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