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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

四国訪問の記録

知人と、二泊三日で四国を(大急ぎという感じで)回りました:

  • 一日目=瀬戸内しまなみ海道、亀老山(展望台)、道後温泉
  • 二日目=内子、四万十川、桂浜、高知駅前
  • 三日目=祖谷エリア、大歩危、金刀比羅宮、善通寺、瀬戸大橋

雨天や暑熱が心配でしたが、幸い、穏やかな天候に恵まれました

一日目/先行業務を片付けてからの出発でしたので、一日目はその疲れが残っていて、余り記憶がハッキリしていません

瀬戸内しまなみ海道が通る島々は、「何となく平べったい小島の集まり」と言うイメージがあったので、高い山あり・深い谷ありの、面積広大な島々の群れにはビックリさせられました(多分、自分の地理感覚が、こじんまりとした物だと言う影響もあると思います)

なおかつ島々の間隔が、「これは、頑張って泳げば、肉体一つで渡れるんじゃ無いか?」と思える程の距離。海じゃなくて、大きな川を挟んでいるような感じです。瀬戸内海の海霧や潮流が強烈じゃ無ければ、「ミニ・ドーバー海峡みたいな感じ」だったのでは無いかと思います

「20世紀の土木技術の粋を集結すれば、島々を繋ぐ大きな橋を建設する事も夢では無い」と、当時の技術者たちが考えた…というのも納得の光景でした

亀老山は、そんな島々の一つにある山。高さ300メートルから400メートル。頂上に展望台。実にあっさりとした構造の展望台で、天井の無いスタジアムの階段を登って頂上に出る…というような感じです

※そう言えば、展望台の落下防止の鉄製ロープにズラズラと取り付けれられた南京錠は、あれは一体全体…、妙なデザインの南京錠もありましたし、恋愛維持のオマジナイか何かでしょうか(汗)

時は6月、湿気が多い季節という事もあって、距離のある部分はモヤに煙っていましたが、瀬戸内海の全体の印象は、「たなびく雲&かすむ島々」と言う感じです

一日目は、道後温泉の近辺の、或る旅館に泊まりました

夏目漱石『坊ちゃん』の舞台にもなった明治時代の建築、道後温泉本館は、みやげ物店などが並ぶ温泉タイプ繁華街の真ん中の広場に、主人のように「デン」と座っている感じです。
道後温泉・本館
「ほぼ夏至」と言うタイミングでしたので、夕方6時頃になってもまだ明るく、ケータイでも割とクリアな写真が撮れました

鷺伝説のあるお土地柄の故か、屋根の上には白鷺の作り物があり、「お神輿っぽいな」と思ったのもご愛敬。近所の別の一角には「からくり時計」があり、『坊ちゃん』を題材にしたショータイムを楽しませて頂きました

道後温泉からくり時計普段の様子道後温泉からくり時計ショータイム

(個人情報の都合で、撮影写真から人々の姿の部分は可能な限り削除しましたが、ショータイムを楽しみにしていた人々で、時計前の広場はごった返していました。ショータイムが始まったと同時に、あちこちからiPadやスマートフォンが湧き出て来たのは、流石に「現代だな」とシミジミです)

四国は、都市部分では市電が現役のようです市電

撮影したのは翌朝の道後温泉の近辺の、大きな交差点の朝の光景(地元の人なら、此処が何処の辺りかは、パッと分かるかも知れません)。此処で出逢った市電は、レトロな感じがなかなか素敵でした。二日目は、高知駅前の三志士の銅像と市電を見物しました。こちらの市電の方は、車両の種類が割と豊富だったので驚きました

二日目/四国の西南部をぐるりと回りました。結構な移動量だったと思います

江戸後期から明治初期、和ろうそくで繁栄した内子の町を訪問。和ろうそくは初めて触りましたが、薄くロウを塗った和紙と言う感覚があり、成る程、華麗な絵ろうそくも可能であると納得しました

昔は電気が無かったから、この和ろうそくは、安価なパラフィン製品が出現するまでは、天下を制した商品だったと思います

ただ、とても高価な品なので、お城や神社仏閣、豪商などのお金持ちが、メインの顧客だったか…と、想像です。通りに出ていたろうそくをザッと見ただけでも、小さいものでも3000円はかたく、大きなものになると1万円以上の物もあり。江戸時代はもっと高価だった筈で、日常的に使うにはちょっと苦しいし、やはり特別な時に使われる品という感じだったかも

和ろうそくの生産・流通を手がけた本芳我、中芳我…云々の家がとても立派で、「ナントカ芳我」系統の家が、この辺りでは地元の名家だったかと、シミジミです(うろ覚えですが、うち一つの家のご主人は、何処かの銀行の頭取だったとか)

四万十川や桂浜(竜馬の銅像がある)の方は、多くの情報がありますので、大部分は省略

四万十川の方では、平成17年9月6日、台風14号に襲われた時、川の水位が大幅に上昇したという記録が近くの崖に刻まれていて、「あんなところまで、水が…」と驚きました。辺り一帯の家は、全て飲み込まれていたようです

川岸も注意深く観察してみると、最近の豪雨でやられた傷痕が残っていたり(川下へ向かって、岸辺の樹木が一斉に折れたり倒れたりしている…)。最近の異常気象には、目を見張らされるものがあります

二日目の旅館では、「よさこい踊り」を見せて頂きました

江戸時代の頃、お坊さんが近くの娘さんにかんざしを贈り…という話があったとかで、高知県バージョンのよさこい踊り「土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た」は、そこから派生したとか。話題になった二人の心境を考えると、何となく妙な気分にもなって来ますが(ニガワライ)

そういえば、近所にはラブホテルが多かったです(汗)

からくり時計が、高知駅に程近い「はりまや橋」の近くのビルにあり、此処でもショータイムを楽しませて頂きました(ちなみに今回は、何故か時間の都合で、神社仏閣よりも、「からくり時計」に縁がありました)。こちらの「からくり仕掛け」は、高知城、坂本竜馬、はりまや橋の二人、よさこい踊り五人娘、の四種類でした

普段の様子はりまや橋からくり時計ショータイムの様子

※「はりまや橋」は、交通量の多い現代的な大きな交差点にありました。江戸時代よりもずっと昔から、交通量の多い、繁華街と言って良いストリートだったのでは無いかと思います。交通の要衝は、時代の変遷に伴って激しく変化するので、昔の面影が無くなってしまう事の方が多いと思いますし、「こんな物だろうな」という感じです(東京・日本橋の界隈とか)

三日目/雨の予報があって心配しましたが、幸い「時たまのパラパラ降り」程度でした

祖谷エリア・大歩危は、いろいろ情報がありますので省略

金刀比羅宮も省略(時間の都合で、やはり階段がハイライトでした。道連れの方々は、こういう場所だという事もあって、お年を召した方が多かったのですが、皆さん健脚で驚き)

善通寺は弘法大師・空海の生誕地を抱えるお寺。四国八十八ヶ所、第75番の札所だそうで、白装束の方々が次々に訪れていました。今年は、ちょっとした記念の年ではあるそうです(=後で調べてみたら、四国霊場開創1200年だったようです。空海誕生は1200年より少し前?のようです)

※四国巡礼と聞くと、やはり、話題になっていた「あの方(=四国巡礼に出ると宣言していた、少し前の首相)」を思い出します。首相としての資質には少し疑問符が付く(?)ようですが、東日本大震災という奇禍に遭遇した首相だった訳で、やはり、彼・個人的には、真面目な意味で、色々と思うところがあったのだろうと言う風に思います

四国巡りの後は、瀬戸大橋であります(淡路島方面は、時間の都合で抜き)。今のところ、世界最長のブリッジだそうです。阪神淡路大震災の衝撃にも耐えたと言う話ですから、まだ当分はもつのであろうと思案です

近頃、笹子トンネルの崩落などのインフラ危機が叫ばれております。公共施設には巨大なものが多く、修理・維持費も膨大な額になるという事で、これもまた税金から充当される可能性が多そうです。高齢化社会にインフラ老化社会も加わって、近未来の日本は、なかなか大変な事になりそうですが、まあそれなりに、何とかして乗り切るしか無いという事で…

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詩歌鑑賞:ヘルダーリン「生の行路」「眺望」

生の行路(ドイツ詩人ヘルダーリン・作/手塚富雄・訳)

もっと偉大なことを求めておまえも昇ろうとした、しかし愛は
私たちすべてを引きもどす。悩みはもっとつよい力で私たちの軌道を下にたわめる。
だが私たちの生の虹が
ふたたび大地に戻るのは意味のないことではない。
昇るにせよ、下るにせよ、物言わぬ自然が
未来の日々を思念のうちに孕んでいる聖なる夜にも、
またはひびきの絶えた冥府にも、
愛のいぶきは吹きかよっているのではないか。
このことをわたしはようやく知った、この世の師たちとはちがって、
万物をたもつおんみら 天上の神々は
わたしの知るかぎり 心して
わたしをみちびいて平坦な道をいかせはしなかったのだ。
天上の神々はいう、人間はすべてのことを試みよ、
そして強い滋養をうけて すべてのことに感謝することを学べ、
そして知れ、自分の望むところを目指して
敢為に出発するおのが自由を と。

Die Aussicht / Friedrich Hölderlin

Wenn in die Ferne geht der Menschen wohnend Leben,
Wo in die Ferne sich erglänzt die Zeit der Reben,
Ist auch dabei des Sommers leer Gefilde,
Der Wald erscheint mit seinem dunklen Bilde.

Daß die Natur ergänzt das Bild der Zeiten,
Daß die verweilt, sie schnell vorübergleiten,
Ist aus Vollkommenheit, des Himmels Höhe glänzet
Den Menschen dann, wie Bäume Blüt umkränzet.

「眺望」

人の住む生の世界が遠ざかり
葡萄の時の輝きもはるかになれば
夏の野はうつろに拡がり
森は黒々とかたちをあらわしている。

自然が季節のかたちを補完し
とどまり そして過ぎ去るのは
完全性の故なのだ、天の高みはひとに
輝く 木を花が囲み咲くように。

『ヘルダーリン詩集』川村二郎・訳/岩波文庫

人間の住み慣れた生活が遠くへ去るとき、
葡萄の季節が遠くに輝く場所、
そこには夏の何もない広野がある、
森はその暗い姿で現れる。

自然が時の姿を補い、
自然が留まり、時が素早く通り過ぎて行くのは、
完全さに由来する、天の高みはその時
人間に向って輝く、木々の回りを花が飾るように。
(高木昌史・訳?)

詩歌鑑賞:西脇順三郎「旅人かへらず」

旅人かへらず/西脇順三郎

旅人かへらず/1節(冒頭節)

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃

旅人かへらず/10節

十二月の末頃
落葉の林にさまよふ
枯れ枝には既にいろいろの形や色どりの
葉の蕾が出てゐる
これは都の人の知らないもの
枯木にからむつる草に
億万年の思ひが結ぶ
数知れぬ実がなつてゐる
人の生命より古い種子が埋もれてゐる
人の感じ得る最大な美しさ
淋しさがこの小さい実の中に
うるみひそむ
かすかにふるへてゐる
このふるへてゐる詩が
本当の詩であるか
この実こそ詩であらう
王城にひばり鳴く物語も詩でない

旅人かへらず/30節

春には
うの花が咲き
秋には
とちの実の落ちる庭
池の流れに
小さい水車(みづぐるま)のまはる庭
何人も住まず
せきれいの住む
古木の梅は遂に咲かず
苔の深く落ちくぼみ
永劫のさびれにしめる

旅人かへらず/32節

落ちくぼむ岩
やるせなき思ひ
秋の日の明るさ

旅人かへらず/36節

はしばみの眼
露に濡れる頃
真の日のいたましき

旅人かへらず/39節

もはや詩が書けない
詩のないところに詩がある
うつつの断片のみ詩となる
うつつは淋しい
淋しく感ずるが故に我あり
淋しみは存在の根本
淋しみは美の本願なり
美は永劫の象徴

旅人かへらず/66節

野辺に出てみると
淋しい風が吹いてゐた
水車の音がするばかり

旅人かへらず/67節

こほろぎも鳴きやみ
悪霊をさそふ笛の
とりつかれた調(しらべ)
野を下り流れ行く

旅人かへらず/73節

河原の砂地に幾千といふ
名の知れぬ草の茎がのびてゐる
よしきりや雲雀の巣をかくして
その心の影

旅人かへらず/104節

八月の末にはもう
すすきの穂が山々に
銀髪をくしけづる
岩間から黄金にまがる
女郎花我が国土の道しるべ
故郷に旅人は急ぐ

旅人かへらず/105節

虫の鳴く声
平原にみなぎる
星もなく夜もなき
生命のつなぎに急ぐ
この短い永劫の秋に
岩片にひとり立ちて
このつきせぬ野辺を
聴く心の悲しき

旅人かへらず/112節

とき色の幻影
山のあざみに映る
永劫の流れ行く
透影(すきかげ)の淋しき
人のうつつ
この山影に
この土のふくらみに
ゆらぐ色

旅人かへらず/158節

旅から旅へもどる
土から土へもどる
この壺をこはせば
永劫のかけらとなる
旅は流れ去る
手を出してくまんとすれば
泡となり夢となる
夢に濡れるこの笠の中に
秋の日のもれる

旅人かへらず/165節

心の根の互にからまる
土の暗くはるかなる
土の永劫は静かに眠る

種は再び種になる
花を通り
果(み)を通り
人の種も再び人の種となる
童女の花を通り
蘭草の果を通り
この永劫の水車
かなしげにまはる
水は流れ
車はめぐり
また流れ去る

無限の過去の或時に始まり
無限の未来の或時に終る
人命の旅
この世のあらゆる瞬間も
永劫の時間の一部分
草の実の一粒も
永劫の空間の一部分
有限の存在は無限の存在の一部分
この小さい庭に
梅の古木 さるすべり
樫 山茶花 笹
年中訪れる鶯 ほほじろなどの
小鳥の追憶の伝統か
ここは昔広尾ヶ原
すすき真白く穂を出し
水車の隣りに茶屋があり
旅人のあんころ餅ころがす
この曼陀羅の里
若き水鳥の飛立つ
花を求めて実を求めず
だが花は実を求める
実のための花に過ぎぬ

旅人かへらず/167節

山から下り
渓流をわたり
村に近づいた頃
路の曲り角に
春かしら今頃
白つつじの大木に
花の満開
折り取ってみれば
こほつた雪であつた
これはうつつの夢
詩人の夢ではない
夢の中でも
季節が気にかかる
幻影の人の淋しき

旅人かへらず/168節(最終節)

永劫の根に触れ
心の鶉(うずら)の鳴く
野ばらの乱れ咲く野末
砧の音する村
樵路の横ぎる里
白壁のくづるる町を過ぎ
路傍の寺に立寄り
曼陀羅の織物を拝み
枯れ枝の山のくづれを越え
水茎の長く映る渡しをわたり
草の実のさがる藪を通り
幻影の人は去る
永劫の旅人は帰らず