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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

読書ノート『文明と文化の思想』

読書ノート:『文明と文化の思想』松宮秀治・著(白水社2014)

「文明」「文化」という二つの概念は、人類社会を捉えるための思想において、パラダイムシフトを起こした。伝統社会の価値体系を見直すと共に、近代以降の社会の価値体系を創出するという画期的な概念であった。

その画期性は、「人類こそが世界の支配者であり、主導者、管理者であるべきだ」という考えを明らかにした事による。今でこそこの考えは普遍的な内容として捉えられているが、西欧近代の黎明期において、この「文明」「文化」という概念は、革命的なものであった。

「文明」は、進歩の概念と結合し、人間が生み出す技術的・科学的成果というベクトルを含み、人間社会の物質的豊かさを促進する価値の総称として理解されるようになった。それは、伝統社会の宗教的な価値観念体系に取って代わるものとなったのである。

それに対して「文化」は、進歩の概念と結合しながらも、人間の精神的・内面的な成果のベクトルをより強く含む。「文化」は、人間の道徳的向上、人間性(ヒューマニティ)の増進、情緒的豊かさ、知的向上、教養の拡大を目指す人間的諸活動の成果全体を意味するようになった。

「文明」と「文化」は極めて曖昧な概念であり、それはむしろ互換可能性を持つ言葉として、 相互補完的に言及されてきた物であった。しかし、その「文明」「文化」概念は、西欧近代がそのプログラムを始動させるための革命的な概念であったのであり、現代につながる、西欧近代を支える諸価値の観念体系を創出したのである。

《「歴史」とは何か》

民族宗教に彩られた伝統的な社会にあっては、「歴史」は、神の摂理、つまり神が被造物をその救済の目標に導こうとする計画の実現過程であった。仏教で言えば、仏教的な宇宙原理の進行であり、中国思想で言えば、天命思想の反映による宿命的な人類の運命であった。

しかし、「文明」「文化」という概念は、次のように語る。「歴史」とは、人間による主体的な働きかけの結果としての、世界の推移プロセスなのである。この理解の仕方において、伝統的宗教(キリスト教)社会が構築する「普遍史」に対して、「世界史」とは、人類の歴史認識の革命であった。

つまり、人類の現状は、神や超越者の意思や関与の結果ではなく、人間自身の意思の産物なのだ。近代的な意味で言及される「歴史」は、人間自身の進歩への意志と自己完成への意志の結果、人間自らが達成させてきた業績そのものであるとする考え方から導かれる概念なのである。

西欧の啓蒙思想は、まさに以上の内容を推し進めてきた物であった。ホルクハイマーとアドルノによる『啓蒙の弁証法』は、「啓蒙のプログラムは、世界を呪術から解放する事であった。神話を解体し、知識によって空想の権威を失墜させる事こそ、啓蒙の意図した事であった」と語る。そして、この「人間の思考の脱魔術化」を意図する啓蒙プログラムの要こそが、「文明」「文化」という両概念であった。

ホルクハイマーとアドルノは、「神話は啓蒙へと移行し、神話は単なる客体となる」というテーゼを提出した。このテーゼは、「世界と歴史と自然は、文明と文化の概念枠内の存在である」という認識をもたらした。かつて、神や超越者の存在を以って説明されて来た、世界と歴史と自然の神話的解釈が、「科学」という合目的な意図の下に再編成される事になったのである。

《近代神話/絶対的公準(ポストラート)》

西欧の「近代」以降にあっては、「文明」「文化」が伝統社会の神や超越者に代わる新しい神々を創造する概念装置となり、「科学」「技術」「芸術」という神聖価値の観念体系を構築する基礎となる。

啓蒙と神話の関係は、結果として、二律背反的な物となった。神話的解釈を排除しておきながら、自らが新たな神話の製作者になるという逆説性・矛盾性を抱え込むようになったのである。

ホルクハイマーとアドルノによる『啓蒙の弁証法』は、この辺りの事情を、以下のように巧みに喝破して見せる:

様々の神話が既に啓蒙を行なうように、啓蒙の一歩一歩は、ますます深く神話論と絡まり合う。啓蒙は神話を破壊するために、あらゆる素材を神話から受け取る。そして神話を裁く者でありながら、神話の勢力圏内に落ち込んで行く。

「近代」の神話は、「科学」「技術」「芸術」「民主主義」といった新しい神々を作り出し、またそれは、近代の啓蒙の哲学が考え出した理性、悟性、感性という人間認識能力の3つの方向での機能に基づく物とされた。

近代以前の宗教的神話は、その教義体系を成立させるために、「信仰=絶対的公準(ポストラート)」を要請した。同じ強制が、近代以後の「近代神話」でも発生したと言う事が出来る。

近代の神聖価値は、以下のように体系化され、近代の神学を創出し、近代神話への「信仰」を不可避な物として行く。

  • 「民主主義」の教義・実践⇒議会制度と三権分立と司法の独立
  • 「科学」の教義・実践⇒真理の探究と学問の自立性の要求/高等教育機関・研究機関の制度化
  • 「芸術」の教義・実践⇒ミュージアムの神殿化、美の自立的価値
  • 「技術」の教義・実践⇒社会進歩と人間の幸福の増大

しかし、こうした近代神話も、自らの教義を展開・発展させる中で、やはり、伝統的宗教社会と同様に、自らのうちに内部矛盾、即ち「異貌」を生じて行くのである。

  • 「民主主義」⇒ファシズム化、或いは衆愚政治化への危機
  • 「科学」⇒超越的絶対者の領域に踏み入る=遺伝子改変、クローン操作など
  • 「芸術」⇒独断的自己満足
  • 「技術」⇒公害・環境破壊・地球汚染

「文明」「文化」の概念分化とその対立、更にはその対立のイデオロギー化は、つきつめて考えれば、「近代」の価値は何処にあるかという事、言い換えれば「進歩」の尺度は何処に求められるべきかという問題に帰着する。

  • 科学技術の進歩による物質的な生活による富裕の増大
  • 社会諸制度の整備による自由と平等の浸透による精神的安定
  • 社会変革や政治・経済の構造や仕組みを絶えざる改善、改良、変革の意識の持続によって社会的不平等、社会悪を漸進的に或いは飛躍的に変化させる革新的進歩
  • 「近代」の中にも根強く生きながらえている伝統や、人間の生物的条件の中に残存し続ける変化に対する恐れと不安という保守主義的要求との妥協と調和への欲求

《聖俗革命/西欧近代の歴史意識の転換の結果としての「世界史」》

西欧近代がキリスト教的な超俗的な主教価値によって作り上げられてきた価値体系を崩壊させ、新たに人間の欲望を肯定する世俗価値体系を作り上げるためには、ギリシアが必要であった。

西欧近代は、産業革命やフランス革命と言った現実的な革命の他に、西欧近代人の中に集合的に推進された「聖俗革命」という、世俗価値の勝利が必要であったと言う事である。

村上陽一郎『近代科学と聖俗革命』より:

聖俗革命という概念によって截り出される一つの局面は、まさに此処(アイザィア・バーリンの著作の中)に言われている「全知の存在者の心の中に」ある真理、という考え方から、「人間の心の中に」ある真理という考え方への転換であり、「信仰」から「理性」へ、「教会」から「実験室」への転換であるからである。私はこうした動きの中に、真理の聖俗革命、真理の世俗化、知識の世俗化を見たいのである。

言い換えれば、「科学的真理」が、真、善、美の聖俗両界の究極的価値の独占者たる「全知全能の神」の手から人間の手に渡される事を意味する物である。即ち、「世俗神学」の教義の確立である。

  • 真(科学的真理):神の手から「科学者」という専門家の手に移行
  • 美(芸術的価値):神の手から「芸術家」という美の創造者の手に移行
  • 善(道徳的価値):神の手から「裁判官」という専門の司法職の手に移行

これはまた、科学信仰、芸術信仰、国家信仰というように、近代的・多神教的に、専門的に分化された形で社会の中に現れて来る。これらの個別的な現象の理論体系化の根拠を、ギリシアに由来する哲学が、伝統的神学に代わって提示したのである。

  • 政治哲学=人間の欲望肯定の理論を通じて市民社会の確立を説く
  • 歴史哲学=「進歩」の理念を通じて国民国家の成立の必然性を説き、国家を人間の道徳的・倫理的規範の創造者とする
  • 科学哲学=仮説と実験による真理探究の方法を開拓を説く
  • 芸術哲学=美的教養こそが人間のもっとも内面的な価値と創造精神を育成しうるという芸術の神聖価値論を説く

このギリシア哲学への過剰な依存は、西欧が認識する「世界史」にも影響を及ぼしている。西欧近代は、以下のように、ギリシアを自己の歴史圏内に取り込む事で(歴史的源泉の逆投影とも言う)、「世界史」を完全に自己の独占物とする事に成功したのであった。

ギリシア芸術の卓見性の発見に平行して、西欧人の歴史意識は転換していた。カール大帝・神聖ローマ帝国の起源をローマ帝国に求めるという、ローマ帝国理念を元にした「イデオロギー化されたローマ帝国」という物があり、その継承者としての西欧史を意識していたが、それが更にギリシアを飲み込んだのである。

転換した西欧人の歴史意識は、以上のように、ギリシアを「古典古代」として飲み込む事によって、東洋世界と断絶した西欧世界を構想して行ったのである。

このような歴史意識の転換は、西欧近代が進歩の観念を中核とした「世界史」を構築するために必要とした、観念装置であった。

そして、「世界史」は、非西欧世界を「停滞社会」として描き出すようになったのである。いわく、東方世界とは、変化を受け付けない世界であり、歴史的発展が無く非歴史的社会である。非西欧世界は、「世界史」の圏外の存在として、歴史学的な対象から外され、民俗学・社会学・文化人類学の対象とされるようになった。

《旋回と逆旋回の結果/グローバリゼーション》

西欧近代とは啓蒙主義とロマン主義、合理主義と反合理主義、進歩主義と保守主義が一見それぞれに独立した要請をもって相互対立、相互敵対しているようだが、実のところは、それぞれが相互補完的に作用する事で、一つのまとまりを成している時代の事である。

「文明」と「文化」の両概念は、一方が他方の上位概念となろうとする要求を内在させる物であったが、西欧近代がその方向を回避して来たのは、両概念の蜜月的一体化の状態こそが、西欧近代の栄光と優越を保証して来たからである。西欧近代はミュージアム制度で「文化」を、博覧会制度で「文明」を視覚化し、西欧近代の優越性を可視的な物として来た。

しかし、この可視化された「文明」と「文化」が、逆説的にそれぞれの概念の相対化を招き、西欧近代の諸価値の優越性と相対化をも招く事になった。

※マルクス主義は進歩主義の究極であるが、これは保守主義の価値を無化する価値体系を構築した。「文明」価値の優位性と独立性を強調した。

帝国主義的な利害関係の中で、フランスやイギリスのような先進的国民国家がドイツのような後進的民族国家の「文化」に対する「文明」の優位性をイデオロギー化した。また、人類学や民俗学は「文化」概念の相対化を促進した。このようにして「文明」「文化」の分離と敵対化がもたらされたが、これが、結果的に「近代の終焉」という西欧近代の弱体化と相対化につながったのである。

米ソ冷戦の後、社会主義陣営の没落は「文明」を死語化した。社会主義陣営が「進歩」から「保守」へ急旋回すると共に、「文化」を擁護していた自由主義陣営は「保守」から「進歩」へと逆旋回した。

自由主義陣営のこの逆旋回は、「文明」に代わる概念として「グローバリゼーション」という指導原理を生み出している。金融資本の世界化、貿易の国家間障壁の排除・撤廃・軽減、通信や情報伝達の一元化などである。

「グローバリゼーション」概念の強大化と共に、「文化」は、"文化財"や"世界遺産"を取り巻く、ささやかな価値概念まで後退した。

かつての「文化」を存立基盤にしていた学問、即ち文化社会諸学は、全く新しい価値・理念の指標を成しうる理論構築に成功しない限り、大学と言う閉鎖空間の中でのみの物となるか、或いは「御用学問/反・御用学問」として、国家行政と共に運命を共にするのみの物となるであろう。

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2015.02.27ホームページ更新

2015年2月27日付の、ホームページ更新内容は下記のとおりです。

■物語ノ本流》http://mimoronoteikoku.tudura.com/astrolabe/content.html
第二部・第一章「水無月」(ページ編集済)を公開しました

■物語ノ時空》http://mimoronoteikoku.tudura.com/garden/song.html
コーナー:葉影和歌集》新作詩歌「冬至」を公開しました

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今回、制作していた「水無月」の章に関して勉強したこと・メモ

《伊勢神宮のお祭り》(伊勢神宮HPより引用)

神宮のお祭りは、恒例祭(こうれいさい)と臨時祭(りんじさい)に分けることができます。恒例祭とは、毎年定められた日時に行われるお祭りでその内、神嘗祭(かんなめさい)と6月・12月の月次祭(つきなみさい)は古来、三節祭(さんせつさい)といわれ、重要なお祭りです。また、これに祈年祭(きねんさい)と新嘗祭(にいなめさい)を加えて、五大祭と呼ぶこともあります。臨時祭とは、皇室・国家に重大事があったとき、臨時に行われるお祭りです。

《斎王のつとめ》(斎宮歴史博物館HPより引用)

斎王が伊勢神宮へ赴くのは、6月と12月の月次祭と9月の神嘗祭の3回に限られていました。これを三節祭と呼び、外宮では15・16日、内宮では16・17日に行われます。斎王はその前月の晦日に祓川や尾野湊(大淀浜)で禊を行い、15日に斎宮を出て離宮院に入ります。翌16日には外宮、17日には内宮に赴き、まつりに奉祀して、18日に再び斎宮に帰るのです。

《斎宮寮と祭祀》(ウィキペディアより引用)

伊勢での斎宮の生活の地は、伊勢神宮から約20キロ離れた斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)であった。普段はここで寮内の斎殿を遥拝しながら潔斎の日々を送り、年に3度、「三時祭」(6月・12月の月次祭と9月の神嘗祭。三節祭とも)に限って神宮へ赴き神事に奉仕した。
斎宮寮には寮頭以下総勢500人あまりの人々が仕え、137ヘクタール余りの敷地に碁盤目状の区画が並ぶ大規模なものだったことが、遺跡の発掘から判明している。特筆すべきは緑(青?)釉陶器の出土であり、色に何か意味があった可能性も考えられる。なお、斎宮跡は昭和45年(1970年)の発掘調査でその存在が確認され同54年に国の史跡に指定されたが、その後も発掘中である。
三時祭は外宮では各月の15・16日の、内宮は16・17日の両日に行われるが、斎宮はその2日目に参加し、太玉串を宮司から受取り、瑞垣御門の前の西側に立てる。また、2月祈年祭、11月新嘗祭で多気、度会の両神郡内の115座の神々に幣帛を分配する。

読書覚書『古代の都と神々』

『古代の都と神々』榎村寛之・著/吉川弘文館2008

古代の大和朝廷は、その直接支配下に(王権の機能を各地に分散させた上で)、王権を支える祭祀施設を幾つか有していた。三輪、石上、大倭(大和坐大国魂)、住吉など。

畿内周辺には朝廷を支える氏族ごとの有力社(氏族ごとの祭祀施設)があったが、こうした神社は、氏族の没落や断絶と共に消滅するものが少なくなかった。藤原氏以外の氏族、すなわち、石上(物部)氏、石川(蘇我)氏、大伴氏、阿倍氏、多治比氏などの神は埋もれてしまった。

古代の神は、王権によって体系的な国家祭祀として組織されたものではなかった。有力神社を公認し、一定の補助を与える代わりに緩やかな統制を加えるような体制であり、古代の朝廷は、氏族ごとの信仰の中身にまで立ち入ってはいなかったのである。

一方、考古学的知見から、次のような内容が指摘できる。

原始的国家(大和朝廷)から律令国家へと移り変わる時代、一定の価値観のもとに祭祀道具が配布され、或いは作られる例があった。鏡や滑石製品などである。

5世紀ごろから一般化したとされる滑石製の勾玉は、翡翠製や瑪瑙製とは違い、何処にでもある石から作られるものなので大量生産も可能であり、誰かによって一定の価値を保証されなければ、タダのガラクタでしかない。

この事から、滑石製勾玉の分布は、王権の及ぶ祭祀の分布を示す可能性が指摘される。

権力の側から、各地の様々な「神」に一定の情報やルールを押し付ける事は可能であり、滑石製勾玉は、そうした地方の祭祀で権力者のルールの下に扱われるか否かによって王権との関係を規定する物であった、と推察できるのである。

つまり滑石製品の類の祭祀道具は、王権のルールに従うか否か、という「踏絵」だった可能性があるのである(例えば、紙幣はタダの紙であるが、一定の領域の中で、経済の一定のルールに従って扱われるが故に、領域内の経済取引において、有効な道具となる)。

「記紀神話」の成立は、律令国家の確立をも示唆する、歴史的な事件であった。「記紀神話」成立より前の時代の「神」観念は、実はハッキリしない物であったと言われている。現代のような人格神や血縁関係が語られるようになったのは、「記紀神話」成立より後の時代になってからである。

日本においては、体系的な漢字受容期に、道教における「神」より上の概念である「仙」の用法が明確に定められなかった。これは、中国における「神・仙」セットが直接に流入して来なかった事を意味している。

「神」は「仙」より身分が低いという事から、漢字文化圏の周縁に位置する人々(華に対して夷と呼ばれる人々)が祀ったモノを示す文字として使われたであろう事は充分に考えられる。朝鮮半島で祀られたモノは、日本列島に先駆けて「神」という文字で表現されており、それが列島に流入したのである。

これは、日本における「神」の概念に、複雑な事情をもたらした。

  • 中国大陸における正統派の、「仙」の下位概念としての「神」概念
  • 渡来系氏族の祭祀対象の「神」
  • 古来の列島の「カミ」

これらの成分が混合して新たに立ち上がってきたのが、現代につながる「神」、すなわち「記紀神話」という形で体系的にまとめられた神話群の神々である。「新しく出来た《神》観念」は、渡来系知識人を取り込んだ王権によって、列島各地に一定のルール(祭祀における踏絵)を伴って、普及したと言う事が出来る。

「神」の祀り方のマニュアルを作り、その理解を普及させる事で、中央権力は「正義正統の神」と「淫祀邪教」を区別できる。中央から発信された新しい知識・思想などの情報に基づいて、「秩序を乱す神」を討伐する物語は、数々の神話として再編集された。

例:ヤマトタケル神話、夜刀神話、スサノヲ神話、高天原神話

律令時代の祭祀はこのような事情の下に成立し、律令時代の王権を支えて来たのである。

◆都城の形成と王権祭祀

《飛鳥京と藤原京の違い》

飛鳥京は、6世紀後半頃から次第に大きくなってきた「大王の宮殿のある所」+「関係者の住む所」である。斉明天皇の頃、国際的政権を強調するため、新羅的な苑池施設や迎賓施設などの都市的な装飾を付属させ、周辺地域と隔絶したイメージを押し出して成立。

このような都市計画は他に類例がなく、飛鳥京を飾った装飾品は、その意味が早くに忘れられ、二面石、猿石、酒船石、須弥山石など、「謎の石造物」になってしまった。

藤原京は、「大王の集落」の意味を超え得なかった飛鳥京に比べると、律令国家体制を体現した中国風の計画都市として成立していた。

それ以降の平城京や平安京は、藤原京を敷衍した都市となっている。この意味では、「京」イメージの歴史的大転換であったとも言える。

《都市住民の発生》

藤原京には、律令体制を維持するための、貴族層から労働者層に至る様々な定住人員が集められた。彼らは、「京戸」=京に本貫地を持つ者として掌握され、諸々の義務やそれに対応した税制優遇など、周囲の一般公民とは異なる待遇をされた。

「京戸」は「氏」を基本とする集団ではなく、「家」を基本とする集団であった。「隣人は、血縁関係の無い他人である」という、都市住民の有様を形成したのである。

《都城と神々》

京の中心である「宮」には様々な神々が祀られた(平安京の場合は、地主神、高天原の神々など)。

しかし、「京」そのものを守護する神々は入っていなかった。中国の京に一般的な宗廟・社稷(祖先祭祀)、祈年祭、農耕祭祀なども存在しなかった。

宮中祭祀にしても、天皇の身体護持や国土の象徴化といった祭祀が中心であり、「王権の前に、各地の全ての神々は無ないし平等である」とする、律令国家最大の祭祀である祈年祭も、建前のみに留まっていた。そもそも「記紀神話」は、律令的な神祇支配の起源の神話を持っていない(各地の神々を血縁的に位置付け、中央神話に集結しただけである)。

つまり「京」は、それ自身の守護神を持っておらず、「神なき空間」として始まっていたという事が言える。

伊勢神宮の経営は壬申の乱後、大海人皇子によって本格的にスタートする。そもそも壬申の乱が、既成勢力に対する反逆から始まったものであるという経緯を持つが故に、伊勢神宮は、その後に完成してゆく律令体制国家に対し、齟齬をきたす存在であり続けた。

律令祭祀の頂点が伊勢となった事で、京には宗廟が存在しないという異常事態が発生したのである。しかも「私幣禁断」のルールを定め、天皇祭祀独占とした事で、「天皇」という機関を強化する方向に向かっていった。伊勢神宮によって、天皇は、官人として再編成された全豪族・全皇族の上にイデオロギー的に君臨する事になった。

律令国家が最初に造営した藤原京は、『周礼』に基づく理想都市を目指したものであったが、「神まつりの場」を都城の中に取り込むという形態が根付かなかった事は重要である。日本の都城は、その領域を守る宗教施設を持たなかったのみならず、その草創期には、取り込んでいた既成の祭祀の場を、殊更に排除する方向に進化した(伊勢神宮の整備の経緯)。

都城は、それ自身特殊な祭祀空間とされていた大和盆地の中で、更に特殊な空間として発生した。その空間自体が、特定の神によって護られていない。「京」とは、共同体祭祀的なレベルに留まっていた当時の神観念では、律しきれない空間だと認識されていたらしい。

◆「都市の神」の発生/中央都市が創出する宗教情報文化

京は「神なき空間」として始まったが、同時に新しい空間でもあった。其処に、新しい時代を彩る新しいタイプの神が発生する契機があった。

日本の都城の特徴は、城壁を持たない事である。城壁、すなわちハッキリした境界を持たず、従って、何を以って周辺から「都市」として切り取られるのかという事が、曖昧であった。

大宝令の段階では、既に「京職(きょうしき)」が置かれ、守護されるべき「京の空間」が定義されていた事は、明らかである。

羅城門の内側の、計画的な辻の連なる空間を以って「京」としていた。つまり「京」とは、辻によって結界された都市であった。この結界を強固にするものとして始まったのが、京の四隅で行なわれる道饗祭である。

ここで、在来の道饗祭の様式と、国家が新しく定める道饗祭の様式が衝突する。国家は、民間祭祀を「淫祀邪教」として弾圧した。計画的都市であった「京」にとっては、不法集会に他ならなかった故である。

実際、人面墨書土器、土馬、まじない人形などが平城京の跡地から出土している。これらは、新しい渡来系の呪術的知識に基づくものである。「神なき都市」である「京」では、不思議な出来事に対しても新しい対処方法が必要とされ、ここに大陸の先進的な呪術が混交する余地があった。なお、こうした渡来系呪術は、百年も経たずに陸奥エリアまで波及した。

祈年祭に代表される神祇ネットワークの全国的普及は、延暦17(798)年に、国府が地域の有力者に班幣を行ない、官社化してゆくシステムが成立してから後の事と言われている。神祇ネットワークの構築は、個別に存在していた名を持たない「カミ」を新たな「神」という概念の下に書き換え、編成する作業であった(いわば、《神》ロンダリングであった)。

この作業は、国家仏教の成立と同時に行なわれていた(東大寺を頂点とする国分寺体制に裏書されたものであった)。仏教と言う概念を媒介に使わないと、既存の「神」観念と「京」という空間は、折り合う事ができなかったのである。

後に怨霊をメインとする御霊信仰が発生する(早良親王、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麻呂など)。

「既成のイデオロギーと新しい思想の結合で生み出された」信仰という指摘がある/都市住民のパニック意識の蔓延と新興仏教である天台・真言の伸張という宗教社会の地殻変動を、体制側が正面から受け止め、既成の仏教イデオロギーの枠内で怨霊に名を与え、守護霊に昇華する方法を示唆した。

地方では新田開発が続き、「新規開発は新しい開発守護神を生む」という状況が生じ、既存の「王権の下に全ての神は無ないし平等」という神祇ネットワークが揺らいた。これは必然として新旧勢力の対立を生んだ。中央国家は内紛を防止するため、結果的に勝ち残った神の方に加担した。これが、既成・新興関係なく、勝ち残った神社の方をランク付けしてゆく「神階制」である。

「神階制」によって神社ごとの個性がクローズアップされるという変化が起きた。現代的な意味での、不特定多数の万人に対する「現世利益」を旨とする神社も発生する(それまでは、現世利益は、一時的な流行神が担っていた)。その流れの中で、都市は神宮寺という新たな形式(平安時代的な展開)を発生した(その典型が、例えば石清水八幡宮)。呪術的仏教の力で神と交感し、それを有効活用するという形である。

9世紀後半、本来律令制下では伊勢神宮にのみ許された「皇太神」と称される神社が急増する。貞観年間に起こった新羅「賊船」の来襲を契機として、六国史の中だけでも、17社が宣命の中で「皇太神」と呼びかけられている。これは、平安京の時代には、既に「京」が多数の有力神によって護られていると言う認識が普及していた事を示している。

以上のような変化は、「京」を「現世利益的な有力神によって封じられた内部空間(閉じ篭もり)」と化す認識を促した。外交的にも大陸との関係が薄くなり、国風文化が発達する。怨霊の御霊化というテーゼは、「その時々の怪異を吸い取り、逆に現世利益を期待できる守護神&神社とする」という、宗教戦争における常勝のパターンを生み出した。

「京」と「天皇」および閨閥を守護するための新しい神々が次々に創出&重用され、それまでの古代由来の氏族関係の神社は、より地位を低下させた。

以上のようにして、都市の宗教情報文化、すなわち「都市の神/神社」が生じた。中世・封建時代に至っても「京」がなお中心性を持ちえたのは、こうした宗教情報文化の中心であり続けたからであると言う事が指摘されている。


志多羅神の覚書/読書『古代の都と神々』より

『古代の都と神々』榎村寛之・著/吉川弘文館2008

天慶8(945)年7月、摂津国から「志多羅神」が上京する。元々この頃、京洛の間(=京内)では東西の国より神々が上洛してくると言う噂が流れていた。

志多羅神の別名=「小藺笠(こいがさ)神」、「八面神」。

「したら」とは、手拍子の事ともビンザサラの事とも言われる。藺草は笠の原材料の一つ。志多羅神は「笠をかぶる神(或いは鬼)」とも思われたらしい。多面の神は、両面宿儺の例にも見られるように、普通の穏やかな神では無いというサイン。

7月28日付、摂津国司が送付した解文:
摂津国豊嶋(としま)郡からの報告で、志多羅神と号する輿が3体、数百人の人々に担がれて今月7月25日に河辺郡の方からやって来た。幣を掲げて鼓を打ち、列を成して歌舞しながら当郡にやって来た者は、僧俗・男女・身分の高下・老少関係無かった。この一団は朝から翌日の暁方まで市を成すように集まり、山を動かすような歌舞をして、26日の辰時頃に、その大騒ぎと共に、嶋下(しましも)郡に出発して行った。その神輿(しんよ)の第一は檜皮で葺かれ、鳥居が付いていて、「文江自在天神(ぶんこうじざいてんじん)」と称していた。他の2基は檜の葉で葺かれていた。

※河辺郡から嶋下(しましも)郡に移動=淀川沿いに京に向かうコースである。

ところが8月3日、石清水八幡宮の言上ではガラリと内容が変わる:なお、以下に述べるように神輿の名が「文江自在天神」から「宇佐宮八幡大菩薩」に変化したのは、権力側の政治的策謀によるものという指摘が出ている

第一の神輿は「宇佐宮八幡大菩薩御社」となっていた。他に5社の名の分からない神輿が加わっていた。この神輿の一群は、山崎郷から数千とも数万ともつかない人々とやって来た。

その中の崎郷の郷刀禰(ごうとね)曰く(※郷刀禰=郷の中の官位を持つ程度の有力者):
「7月29日の酉刻頃に嶋上郡からこの大群衆がやって来て、恐々としていたら、同日の亥刻頃に、ある女に託宣が下り、「吾は石清水に早く行きたい」の事だったので、此処にやって来た」

群集の歌:

月は笠着る 八幡は種蒔く いざや我らは荒田開かむ
志多羅打てと 神はのたまふ 打つ我らが 命千歳
志多羅米 早河は 酒盛らば その酒 富める始めぞ
志多羅打てば 牛はわききぬ 鞍うち敷き 佐米(さめ)負(お)はせむ

〔反歌〕朝より 蔭は蔭れど 雨やは降る 佐米(さめ)こそ降る
富は揺すみきぬ 富は鎖懸け 揺すみきぬ 宅儲けよ 煙儲けよ
さて我らは 千年栄へて

同時代の醍醐天皇の皇子・重明(しげあきら)親王が記した日記『吏部王記(りほうおうき)』では、この神輿は、第一「故右大臣菅公(菅原道真)霊」、第二「宇佐春王三子」、第三「住吉神」として、山陽道を上洛して来たと書かれている(=いずれもが新しい神では無く、この時代を代表する流行神)。

※権力側の論理では、志多羅神は、「西からやって来る流行神」という既成の枠の中で説明された事を示している。

この「志多羅神」事件の最大の特徴は、開発の著しい進行によって蓄積されたエネルギーが宗教的狂奔となって爆発したが、その行動が、天神や八幡などの既成の枠内の神によって説明され、最終的に安全着陸してしまった事にある。

つまり、京を護る神社の中に、新しい神の動きは吸収されてしまったのである。ここには、神社という物が持つ機能の発展を見る事が出来る。

石清水八幡宮には、新しい民衆エネルギーの発動に対して、権力の側が設定した吸引装置の機能が期待されるようになっていた。同様の性格は、稲荷社、祇園社など、この時期に強大化する神々にも求められる。それらは京と外部の境界にあって、京に新たな「世を乱す神」が入るのを防ぐと共に、その霊験を吸引し、「京の人々の集まるレジャー施設」の中に開放すると言う「政治的施設」であったと言える。