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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

研究:中華経済の近代史(後篇)

《研究:中華経済の近代史(中篇)から続く》

《20世紀の中華経済…旧弊社会構造の打破&国民経済の建設》

上海バブルの時代、大量に流通した中央銀行券は、各地方の工業生産の国内回帰とシンクロしつつ、各地方の財源と中央財源とを、強力に連結しました。

しかし戦乱の疲弊から回復した西洋列強は再び金本位制に復帰し、為替レートが逆転しました。銀価は再び下落します(政府銀は下落、民間銭は上昇)。

これは、中国の工業・製造業にとっては生産コスト割れを意味しました。

中央政府にとっては、余剰財源の収縮によって貨幣の信用が目減りし(=つまり以前に比べて、相対的に大きな金額で信用を保証しなければならない)、借金返済で苦しくなるという事態をもたらしました。

打開策として、関税自主権の回復が主張されましたが、このためには列強と渡り合うための強力な中央政府機関を必要としました。袁世凱の死後、軍閥抗争のさなかにあって、北京政府は弱体化する一方であり、これに代わって勢力を伸ばしたのが、蒋介石の南京国民政府でした。

国民革命を標榜した南京国民政府は、経済界の期待に応え、関税自主権を回復(北伐1926~1928、北京政府を打倒し全国統一)。その後の世界大恐慌(1929)の影響で強力なデフレに見舞われましたが、中央政府は銀を国有化して一元的管理紙幣「法幣」を発行、これを地方政府に買い取らせ、その一方、兌換に関わる金銭管理を厳格に運用する事で為替レートを安定化させ、財政を立て直しました。

しかし、この動きは国民経済の確立に結びつく物ではありませんでした。国共内戦(1927~1937)や日中戦争(1937~1945)は、大陸的な視野から見れば、地方軍閥割拠、および軍閥抗争の延長線上にあったと言えます。

日本は満洲国を中心にして長江流域の経済圏を分断しましたが、重慶に立て篭もった南京国民政府を打倒できず、分捕った利権の再構築(=経済的統合)も成し得ないままに終わりました(1945年、日中戦争の終了)。

第2次世界大戦においても戦勝国となった南京国民政府でしたが、分断された長江流域の経済圏の統合という課題が残されました。南京国民政府は有効な政策を打ち出せず、更に、地方軍閥割拠の延長として、国共内戦が再開します(1946~1950)。

全国統一を成し遂げたのは、毛沢東・周恩来が率いる国民共産党(中華人民共和国)です。

南京国民政府の中央集権化プロジェクトを、共産党政府は引き継ぎました。それは、20世紀半ばにおける時代上の要請ともあいまって、旧来の伝統、すなわち「官/民」における激しい経済格差や、身分差をもって成る旧来の社会構造への挑戦ともなりました。

共産党政府による「大躍進政策(1958~1961,経済振興政策の一種?)」や「文化大革命(1966~1976)」は余りにも有名ですが、その「革命的意義」は、2点に絞る事ができます。

【土地革命】・・・階級闘争を通じて地主を打倒、土地の再分配を実施して貧富の格差を解消すると共に、地域の利権構造に介入して「官/民」権力構造を打破し、再編を促す。底辺の庶民社会への中央権力の浸透を図る。

【通貨統一】・・・南京政府は莫大な財政赤字を計上しており、ハイパーインフレをもたらしていた。いったんは押さえ込んだが、朝鮮戦争(1950~1953)が始まると再びインフレが始まったため、三反五反運動などを通じて物資・金融の両面で管理統制を強化し、新通貨「人民幣」の安定運用にもちこむ。

共産党政府が通貨統一に成功したのは、冷戦構造の産物とも言えるでしょう。

社会主義陣営に属した事で、資本主義諸国の経済的影響が低下しました。固定相場制を採用し、結果としてグローバル経済から切り離され、大陸内部で完結する、いわば「近代版・中華人民の経済圏」を現出したのです。

《21世紀の中華経済に関する私見》

共産党政府による経済統一プロセスは、明帝国の初期の頃に似ています。

そして文化大革命後の経済を立て直すため、鄧小平を中心として実施された「改革開放(市場経済への移行)」という経済政策(1978~)があり、これは現在も続行中ですが、結果として、官僚汚職の深刻化や著しい経済格差を招いている様子を見ると、戦前の地方分立の状況へと、時代的には逆行していると言えなくもありません。

習近平は、袁世凱よろしく自らの帝政の宣言はしていませんが、自らの権力基盤を確立しつつも、「反腐敗運動(2012~)」を演出するなど、世論や民心の掌握に長けている事は確かなようです。当座のところは、「袁世凱よりも有能な、中央集権化プロジェクトの立役者にして支配者」という評価ができるかも知れません。

「反腐敗運動」は、かつて朝鮮戦争がもたらした急なインフレを抑えるための「三反五反運動1951~1953」の焼き直しと言えなくもありません。「三反五反」の結果、強烈な国家統制経済が確立しています。「反腐敗運動」にも、類似の結果をもたらす作用があると推察する事はできます。

では社会格差や身分格差は、と言うと、これはかつての「官/民」の格差を打破したにも関わらず、結局は、「高位の共産党員/底辺の共産党員&民」という風に、支配者層の名前を書き換えただけのレベルに留まっているようです。

従来と異なるのは、情報テクノロジー革命の影響が、プラス・マイナスのいずれにせよ、これまでは考えられなかった程の広い社会階層に及んでいるという事です。これは、20世紀から21世紀に至るまでの科学文明の急進がもたらした、「新たな事態」と言う事が出来るかもしれません。

共産党政府は、情報統制に力を入れると共に、サイバー戦テクノロジーを発達させています。

目下「万里の長城」よろしく「量の問題」レベルであり、そこで「質への転換(パラダイム・シフト)が生じるか」は、まだ未知数です。民間社会における世界認識が、旧来の中華思想を基盤とする内容に留まっている状況を見ると、習近平をはじめとする支配者層およびテクノクラート層の頭脳次第であるように思えます。

それに比べれば、進行中の「反腐敗運動」と言う名の権力闘争は、歴史の中で何度も繰り返されていた闘争スタイルであり、影響の度合いによっては、枝葉末節でしか無いと言えます。

従来、その枝葉末節の「量」が余りにも多い事が、伝統的に「質への転換」を不可能とさせて来た要因の一つであり続けた事は、確かです(他にも様々な要因があると思いますが、「中華」に余り詳しく無いので、この点のみです)。

コンピュータの演算能力の増大は、この状況に変化をもたらすのでしょうか?(大室幹雄氏の指摘する『桃園の夢想』という「認識の壁」を、超えられるのでしょうか)

…という疑問で、研究の記録をしめくくらせて頂くものであります。


《補足的な見解:天体運動を中国人は量的な数の問題と捉えた》

https://twitter.com/history_theory/status/1424902119304302594

山田慶児『混沌の海へ』朝日新聞出版 1975

中国人は、枚挙的な記述とその分類により、世界を体系的に把握しようとした。

だがそれは、世界の規則性と統一性を示しはしない。

それを把握するには別の原理が必用だった。

量的認識とパターン認識がそれである。

世界の多様性は、量への還元により一つの平面に射影される。

量的関係に何らかの規則性が発見されるならば、世界の統一的な像がその上に描き出されよう。

しかも、事物と現象の量的な把握は、国家統治や生産と流通の不可欠の手段でもある。中国人は量的な観測・観察・測定・実験・調査・計算・記録・説明・思索のおびただしい資料を残している。

正史には志(誌)と呼ばれる部分があり、そこには量的認識の氾濫が見られる。

天体の位置と運動についての、暦計算についての、楽器の音程についての、祭器や車や衣服の規格についての、人口についての、官職の定員と俸給についての、刑法の量的規定についての、貨幣や経済政策や土木事業についての。

しかも、量は事実として投げ出されているだけでなく、量を秩序づけ、様々な量の間に連関をつけ、何らかの規則性を発見しようとする志向がそこに働いている。

中国の天文学は代数的天文学であり、ギリシアの幾何学的天文学との鮮やかな対照を示している。

天体の運動は、すべて仮想的な球面上において、赤道座標系に基づいて量的に把握される。

惑星系の幾何学的な構造は問われない。

観測された量はいくつかの現象の複合であるが、その諸要素を量的に分離しながら、ひたすら計算を進めてゆく。

それだけに、計算法の発展には目覚ましいものがあり、たとえばニュートンの補間公式に匹敵する補間法が生まれたのは6世紀、隋の時代だった。

中国人は、天体運動を自然に備わる数として捉えたのである。

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研究:中華経済の近代史(中篇)

《研究:中華経済の近代史(前篇)》から続く

《近代化を試みる(19世紀後半~20世紀:同治中興&洋務運動)中華経済》

アヘン戦争後の上海租界の繁栄は著しいものでした。現代史では不平等条約の結果として受け止められていますが、大きい意味での中華帝国から見ると、当時は、華人(私幣)経済圏のバリエーションでしか無かったと解釈できます。

しかし、「量の問題」、つまり密輸・脱税を含めて膨大な額に上った貿易取引は、無数の秘密結社や密輸専門の犯罪団体を生みました。この治安悪化を伴う変化は、清帝国に、無視できない内乱発生の因子を認識させるまでになります(太平天国の乱の発生など)。

1850年代の清は、秘密結社が関与するおびただしい内乱に見舞われ、その平定に追われました。反乱側であれば「秘密結社」であり、彼らが帝国体制側に寝返れば、「義勇軍」になりました(例:曾国藩の湘軍、李鴻章の淮軍)。別の方向から見れば、帝国内部の権力構造の再編プロセスでもあります。

義勇軍を組織していたのが省の軍政・民政を一手にあずかる総督・巡撫でしたが、これらの義勇軍を運営するための資金は清の国庫からは出ず(そもそも国庫支出という概念が無い)、総督・巡撫は大きな権限を持って経費を調達していました。

その経費は、新しい地方税「釐金(りきん)」と呼ばれ、商人からの寄付・納付という形で調達されていました。密輸を合法化してやる代わりに、上前をはねる…というスタイルで、アヘン取引もアヘンを扱う業者も、この流れに乗って、次々に合法化されていました。

※扱う商品価格の一厘(=釐,1%)の率で拠出金を課したので釐金という

清帝国は結局、内乱を平定し、新たな安定状況に入ります(これを「同治の中興」といいます)。

それと共に、地方権力者である総督・巡撫の、中央政治における立場が大きくなりました。 ここに、将来における地方軍閥割拠の原因が生まれたと言えます。

なお、この安定した時代に権力を掌握したのが、西太后と李鴻章です。

貿易取引という側面から見ると、この時代の取引量は増大しています。しかし、その品目割合は様変わりしていました。従来の江南エリア産物=高付加価値商品=中華ブランド(絹、茶、磁器)の輸出量は頭打ちになり、華北生産物である大豆、羊毛、皮革、綿花、鶏卵などの輸出が増えました。

  • 1883年1億4千万両→1903年5億4千万両:20年で4倍に増加、この増分のほとんどが華北生産品
  • ヨーロッパの蚕業・製糸業の回復あり、日本の生糸シェアも増加
  • インド製茶業の成長により、中国茶のシェア低下
  • 1870半ごろ~欧米で金本位制採用:銀価値が低下=中国銀の安値(中国にとっては輸出有利。
    同時に、国内の銅貨に対しても銀価値は低下していた。これらの為替レートの変動は、銅貨決済する農村部にとっては、外来品、例えばイギリス植民地インド製の機械製綿糸を安値で購入できるようになった事を意味する

かつて江南デルタの開港場に集中していた貿易利権は、北から南に至る各地の開港場に分散します。これらの変化は、開港場を取り巻く各地方の地域ごとの経済圏の現出、地域分業化、ひいては地方分立の様相を呈するようになりました。

外国人が管理した関所税のレポートは、不完全ながらも清帝国側の輸入超過を記録しており、当時の清の官僚たちは入超による国富の流出に警戒感を抱くようになります。李鴻章のスタッフたちが提起した対策としては、西洋流の保護関税の導入、および国内での近代産業の振興ですが、いずれも利害関係が複雑に錯綜していたため、20世紀までは実現しませんでした。

▼保護関税の実現を妨害する利害関係
欧米列強は、関税自主権に伴う不平等条約の撤廃の見返りに、釐金の減免を求めたが、清帝国にとっては総督・巡撫の権力(督撫重権)を維持する経費、治安維持費の調達になっていたから、とうてい応じられるものではなかった。
※欧米列強は、「釐金=事実上の関税障壁」と理解していたらしい
▼富国強兵&殖産興業(洋務運動の遂行)を妨害する利害関係
日本では、国家体制そのものの近代化や産業構造の高度化といった変化の一環として、富国強兵と殖産興業があった。
中国では、洋務運動は督撫重権を維持するために実施されたのであり、現代中国と同様、権力側の利権構造の一環として組み込まれていた。そのため清帝国内部の経営において、異国のごとく異なる社会階層に属した底辺庶民たちのニーズを掴む事ができず、需要と供給の食い違いが長期化し、期待するほどの利益を上げられなかった。
また、投資資金を集めて運用するルール(株式)が確立されておらず、軍需工場のような大規模工場を建築し経営するための資金の確保が困難化した。
※政府の公金支出には限りがあった/民間で公司(カンパニー)を設立して資金を出し合う方法では、法の監視が行き届かず、共同出資者の誰かに資金を持ち逃げされるリスクが高まっていた(民間マネーは不足しがちであり、企業投資に対する保証といった習慣も皆無だった。巨大な経済格差がもたらした、もう一つの困難であった)

近代経営のための解決策として、官辨(官督商辦)という方法が採られました。

すなわち国営企業というスタイルです(軍需工場は、ほぼ国営)。民需企業の分野では、経営実務を民間に任せ、政府はそれを監視するというスタイルになりました(故に、官督商辦)。

※合股=民間で新しく広がった企業経営の習慣。出資者が利権を一定額ずつ等分し、1年ないし3年の年限で運営する。出資者はほとんど地縁・血縁・知友で、連帯無限責任を持ち、外部の専門の経営者に経営実務を担当させた。経営者は、経営利益とは無関係に、限られた年限の中で出資者に利益配当や貸付利息を支払う義務を負った。これは企業経営において大変な負担を強いるものであった。従って、大規模化した国営企業に対して、民族資本は零細企業の規模に留まった(紡績業が多い)。ちなみに浙江財閥は巨大な民族資本であるが、これは買辦企業から発展したものである。

しかし、当時の官僚登用システム(科挙制度)は経営実務能力を問うものでは無く、必要な手腕を持つ人材に欠けていた事は確かです。李鴻章らは、洋務運動の一環として、科挙とは別の教育機関や留学制度を試みていますが、余り効果は無かったと言われています。

それ程に、伝統的な「官/民」の身分差は大きいものでした。能力のある庶民が専門知識や技能を修得したとしても、身分差という障害があったため、「末は博士か大臣か」といったような立身出世は不可能だったのです。また、官僚子弟たちにとっても、科挙に比べると処遇上のメリットは薄かったようです。

洋行帰りや留学生が優遇された明治日本の人材登用システムとは、非常に異なっていたと言えます。

日清戦争(1894~1895)の後、事態は急展開しました。

多額の戦費および賠償金の調達のため、従来とは桁の違う莫大な金額が動きました。これらの費用は、民間からの更なる収奪の他(=この収奪で民間は更に困窮し、義和団事件などの暴動が相次ぐ)、主に列強からの借款によってまかなわれました。その担保として、列強は、清帝国から、関税収入の他、鉄道や鉱山の利権を獲得します。

ここには、清帝国内部の構造に対する誤解があったらしい事が指摘されています。当時の清は、各地方の関税や鉄道、鉱山の管理に関しては直接にタッチしていません。これは地方官僚(地方政府?)の税収権限であると共に利権であり続けてきたものです。中央が関与したのは、地方の表面的な「国富」を動かす事だけでした。

しかし、各地方の関税や利権が「担保」と見なされた事により、存在しなかった筈の「清の中央政府」が実体化しました。「清の中央政府」は、地方官僚から各種の税収権限を没収し、中央財源としたのです。地方にとっては、「中央による収奪」でした。

これまで曖昧だった国富管理の権限の明確化・差別化は、中央と地方との間に、深刻な対立を生じるようになって行きました。清帝国内部は、地方軍閥割拠という様相を呈しました。

※最も典型的だったのが満洲の軍閥政権です。満洲では大豆が貿易取引の主力商品になりました。華北各地の開港場で起きていた貿易取引量の増大と共に、著しい経済成長を遂げます。中央からの分立状態は大きく、満洲の実質的支配者として権力を振るったのが、張作霖でした。張作霖政権は、100種以上の民間私幣を整理統合し、「奉天票(紙幣)」という満洲共通通貨を発行しました。

当然、清朝末期の中国知識人は、この有様について「中央集権的な統一国家、国民経済の進展に逆行する」と批判はしましたが、彼らもまた地方有力者の一であり、その行動は、在地権力の支持に向かいました(=つまり、「地方の群雄割拠をいっそう固定化する」事につながっていました。発言と行動が、互いに逆だったのです)。

孫文が主導した辛亥革命(1911)は、この「群雄割拠に向かうベクトル」の一つだったと言えます。実際、辛亥革命の後、13省が相次いで「独立」を宣言しています。

清朝末期の混乱を彩り、そして清滅亡に結びついたのは、こうした中央と地方の対立でした。

元・李鴻章の部下であった袁世凱は、清朝政府の中央集権化プロジェクトに協力しつつも、多くの政変を切り抜けて独自の権力基盤を構築し、辛亥革命においては、清朝の弱体化を見越して、孫文と手を結びました。袁世凱が予期したとおり、孫文をリーダーとする中華民国は支持基盤が弱く、清朝・宣統帝(最後の皇帝)の退位と引き換えに、袁世凱を孫文の後任として迎える事になりました。

しかし、多くの地方軍閥は袁世凱政府という新たな中央集権プロジェクトに反発し、第三革命(1916)を起こしました。袁世凱は失脚、および死亡し、その後は、地方軍閥の抗争の時代となります。

(1914年、第1次世界大戦が勃発すると袁世凱政権は中立を宣言したが、日本はドイツ基地のある青島を占領、翌15年に袁世凱政府に対し「二十一カ条の要求」を提出。5月、最後通牒を突きつけられた袁世凱政府は要求を受諾、激しい非難を受ける。袁世凱は帝政宣言を発して乗り切ろうとしたが、反・袁世凱運動として第三革命が発生、日英露仏の列強も帝政を支持しなかった)

袁世凱が清朝から引き継いだ形となった中央集権化プロジェクトの一つに、大陸全土の共通通貨(国幣national currency)「袁世凱銀元」の発行があります。これは、雑多な地方通貨の整理統合を目論むものでもありました。

袁世凱の死後、この「銀元」を兌換紙幣として、中国銀行券(中央銀行券)が継続的に発行されました。皮肉な事に、袁世凱の死をもって葬り去られる筈だった、この中央銀行券が地方通貨を駆逐し、ひいては地方軍閥割拠の状況を打開する事になります。

※第一次世界大戦で莫大な国費を失った西洋各国は、財源枯渇により金本位制を放棄。それまで下落が続いていた銀価は一転して急騰し、中央銀行の財源(元は関税など、金額がハッキリしている部分)に余剰金が生じ、中国では政府銀上昇、民間銭下落という状況となった。従って、中央政府発行の銀行券は財源余剰によって信用の裏づけが強化され、中央政権が起こした国債が成功するという画期的な結果をもたらした。折りよく、上海を中心とした内地で、民族資本の黄金期と言って良い程の活況(バブル経済)を呈したため、この中央銀行券は大量に流通した。

研究:中華経済の近代史(前篇)

中華経済圏の歴史について、もう少し詳しく見てみる事は、「21世紀の中華」がどのように動くかを予測する上でも参考になるかと思いますので、チャレンジです。

《プレ近代(18~19世紀)の中華経済:明&清》

中華帝国の経済構造の基礎は、明・清の時代に確定しました。

宋・元(モンゴル)の後の大陸を支配した明帝国の、最初の課題は、まず何よりも、南北の経済格差であったろうと思われます(経済構造そのものも、異国レベルと言って良いほどに異なっていた)。

実際、前王朝であったモンゴル帝国も、華北・華南で同一の統治を行なっていません。 華南から発生した明は、華北を、自らの地元でもある華南(江南)の経済構造の中に同化しようとしました。

初期は、王朝交代に伴う激しい戦乱が収まっておらず、現物主義の決済システムとなりました。モンゴル帝国が保持していた紙幣制度の崩壊という事情もあり、貨幣は余り重視されなかったのです。

華北経済圏と華南経済圏…生産力も経済システムも全く異なる2つの経済圏を「中華経済」として統合し、なおかつ南北格差を解消するため、明は現物主義を取りました。初期の明政権の江南に対する弾圧・収奪は、過酷なものとなったのでした。

※土地・人民を調査した資料として、「魚鱗図冊」や「賦役黄冊」が有名です(太閤検地みたいなものでしょうか)。それに基づいて、物納や徴発という形で物資・労働力を直接に取り立てました。明朝の貨幣「永楽銭」が知られていますが、鉱山資源の枯渇もあって、実際には現物決済の補助的な役割しか無かったようです。

明の経済は、貨幣の流出を防止するため、モンゴル時代のグローバル経済とは違って、朝貢経済の復活と共に厳しい海禁(鎖国)政策を伴うものとなりました。「万里の長城」が明の時代に完成したのは、この鎖国政策の固持という理由によっています(実際、モンゴルも清も、万里の長城を越えて侵入する事は困難でした)。

一方、江南デルタでは、土砂堆積作用によって主要河川の流路が変化し、広大なエリアで水不足が起き、米作を断念せざるを得なくなりました。稲作メイン地帯は別地方に移りました(「蘇湖熟すれば天下足る」から「湖広熟すれば天下足る」へ)。

江南デルタの中央部では桑、木綿、麻、麦といった多様な商品作物が増え、いっそうの労働力の集約とマニュファクチュア(工場制手工業)の分業化が進みます。

江南経済は貨幣決済を強力に必要としましたが、明は現物決済主義です。そこで、江南地方では私鋳銭が増加しました(違法ではあります)。近隣の取引では様々な質の銅貨が一定の双方合意のもとに流通し、遠方の取引では広く共通価値が付与される貴金属=銀が使われました。

遠方取引(海外貿易)においては、ヨーロッパ大航海時代を迎えた事もあって、大口取引(絹・茶・磁器などの中華ブランド品)の需要が爆発的に増加しました。江南エリアでの付加価値生産力の上昇と商業発展に伴い、銀需要は飛躍的に高まります。

倭寇などの密貿易集団(海賊)が活躍した時代でもあります(※台湾の鄭成功が有名)。

※外国資本の流入による、この江南エリアの経済ビッグバンもまた、「量の問題」に帰結すると言えます。ヨーロッパ科学革命のような、将来の産業革命に連結してゆく「質における革新&革命」は、遂に発生する事はありませんでした。これは中華帝国の世界観や哲学史・科学史を考える上で、非常に興味深く、また厄介な問題でもあります

こうして明が保守した現物決済主義の経済システムは、グローバル的な時代変動の圧力の前で、立ち行かなくなりました。鎖国政策を続ける政府と、自由貿易を求める民間。相反するベクトルの中で、双方の距離は拡大し、身分や貧富などといった社会格差、大きくは南北格差も巨大になって、明は内乱で疲弊します。その明に取って代わったのが、清でした。

清は、明帝国の後裔という立場上、明の経済政策を概ね敷衍していました。

近現代の財政(国庫スタイル)とは、非常に異なったスタイルです。プレ近代の中華帝国には、「国庫(大蔵省・財務省)」という一括的な財務処理機関の概念がありませんでした。

理論上、国富はすべて皇帝の下に集結するのですが、実際の「国レベル税収項目」は「国レベルの支出項目」と一対一で連結していなかったのです。地方ごとに、(国庫的な)負担項目と負担レベルが決まっており、地方は中央の裁定に従って、個別に全額を納入しなければなりませんでした(差額による相殺は無し。つまり国税&地方税、国家財政&地方財政、という統一的な概念も無かった)。

このようにバラけた国富管理(歳入/歳出)を、限られた政府役人メンバーのみで正確に把握する事は不可能です。ゆえに、清は、定額管理財政を志向しました。

しかし実際の行政支配においては、国家予算の額が通年平均を超える事もままあります。このような事態に、定額管理財政は対応できません。そこで、不足分の予算を確保するために、臨時の追加徴発や付加税という形での収奪が、不定期に、かつ頻繁に行なわれました(国債という概念は生まれなかった)。

ここに、官僚汚職(私的かつ不法な収奪、および差額の着服)の基盤が、強固に確立し定着する余地がありました。

清は、共通決済通貨として「銀」を公認しています。銅鉱山の開発を進めたため銅貨も増えましたが、明スタイルを引き継ぐものとなったため、貨幣管理に国家権力が介入する事はありませんでした。

そのため地方では多種多様な私幣(現地通貨)が弾力的に運用され、専門の金融業(銀行業、信用投資、保険業、帝国内部の共通の株券・証券など)が発達しませんでした。

「関税」の扱いもまた同様です。それは、清の海禁政策の実施において、帝国の内と外を峻別する「国境」概念と結びつくことはありませんでした。内地の交通・流通を、国境および国境外(客家・華人経済圏の及ぶ限り)にまで延長したものとして、取立てが行なわれていたのです。

※この「国境」「関税」に対する定義の曖昧さは、現代にまで持ち込まれているようです。中華帝国の版図の野放図な拡大現象は、これで説明できるかも知れません。ボンヤリとした定義の都合上、「中華帝国」における「国境」は、無制限に膨張する性質を持っていると言えるでしょう

さて、清の時代に、領土の膨張を遥かに凌駕する勢いで、激しい人口増加があった事が知られています。この人口増加は「パイ(限られた土地・資源)の奪い合い」を激化させ、社会における貧富の格差をいっそう拡大しました。昔に比べると、働いても働いても収入が増えない…すなわち人件費(賃金)の著しい低下という形で、「量の問題」がここにも発生していたのです。

こうした社会は、必然として摩擦や紛争(械闘)が増えます。これらを中心になって処理したのが、民間結社、つまり地縁・血縁を基盤とする中間団体でした。こうした団体は、私幣(現地通貨)運用に関して強い権限を持っており、その価値を保証するため、しばしば密貿易にも関わったと考えられます。

以上のボンヤリとした国境概念、華人(私幣)経済圏の増加、膨大な貧民の発生といった変化が、緻密に張り巡らされた密貿易ネットワーク(地下経済)を発達させました。密貿易を専門とする秘密結社は、星の数ほど存在した事が知られています。

《近代化直前(19世紀アヘン経済発生~アヘン戦争とその後)の中華経済》

清における国家と民間の経済の巨大な乖離の故に、アヘン経済は成功しました。

清はアヘンを禁じていましたが、無数の秘密結社が、国内需要にこたえて大量のアヘン取引を行なったのです。塩の密輸市場を遥かに超える勢いで、アヘン市場が急成長した事が知られています。

元々、海外貿易における大口取引では、国家公認の少数大手の貿易商がメインでした。外国商人の注文に応じて、清の商人が国内から商品を買い付けるという形です。イギリスの場合、発達した株式や銀行によって巨大資金を集め、大口発注を増やすことが可能でした。それに対して清公認の商人は、各地方から資金を集める事が不可能でした。貿易量の増大と共に、金融処理の限界が来てしまったのです。

清公認の商人は、イギリス各国に借金して運転資金を捻出する羽目になりましたが、返済能力が無いため倒産する商人が多く、商取引は滞りました。

そこに非公認の華人貿易商、つまり秘密結社が進出する余地があったのです。非公認の華人貿易商は、外国から資金を提供され、貿易商品の買い付けを担当しました。いわゆる買辦企業の始原です。非公認であるため、私利を追求しての密輸も脱税も、日常的に行なわれていたと推察できます。

アヘン貿易もまた、このような密貿易の容易な構造の中で、発達したのです。更に言えば、アヘンは銀に代わる高額決済通貨としての価値があったため、国内流通においては、大きな混乱は無かったと言われています。

※清帝国から大量の銀が流出しましたが、アメリカ西海岸やオーストラリアのゴールドラッシュにより、新たな中華ブランド商品の消費市場が生まれたため、銀は再び清帝国に流入し始めました。その様相を見ると、総じて、買辦企業(華人商人)の方が取引の主導権を持っていたとも言えます。それゆえ、不満を持った外国企業との間で、しばしば紛争が起きました。アヘン戦争は、その拡大版として理解する事が可能です。

買辦企業を運営する華人商人と外国商人は、アヘン戦争などの大きな紛争を重ねながらも、結託の度合いを増します。アヘン戦争後に条約が結ばれ、その結果、爆発的に増加した貿易取引は、外国商社と華人商人がメインです。そこには、条約によってより参入の度を増した外国商人による、現地銀行の設立がありました(新たな金融業の発生)。

外国銀行は、外国商社に対する融資や、華人との貿易取引における送金決済を処理すると共に、外国通貨建ての現地通貨を発行しました。清にとっては、従来の、国境を曖昧とする華人(私幣)経済圏の拡大版と言えるものであります。

対して、清国内の金融業務を担当したのが、土着金融機関の「票号」「銭荘」でした。「票号」「銭荘」は、業務拡大にあたり、やはり清国内から資金を集める事が出来ず、外国資本の融資に頼っていました。

海外・外部からの資本流入によって貿易量が増加し、江南デルタを中心とする流通経済が(地下経済も含めて)極度に活性化するという、現代中国でも見られる他力的な経済発展スタイルは、明・倭寇(ヨーロッパ大航海時代)の頃から既に存在していたと言えます。そして、その発展の有様は、常に「質の革命」を伴わず、「量の増大」のみの現象となりました。

「量の問題」は、ここにも共通して見られるものであります。