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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

研究:中華経済の近代史(中篇)

《研究:中華経済の近代史(前篇)》から続く

《近代化を試みる(19世紀後半~20世紀:同治中興&洋務運動)中華経済》

アヘン戦争後の上海租界の繁栄は著しいものでした。現代史では不平等条約の結果として受け止められていますが、大きい意味での中華帝国から見ると、当時は、華人(私幣)経済圏のバリエーションでしか無かったと解釈できます。

しかし、「量の問題」、つまり密輸・脱税を含めて膨大な額に上った貿易取引は、無数の秘密結社や密輸専門の犯罪団体を生みました。この治安悪化を伴う変化は、清帝国に、無視できない内乱発生の因子を認識させるまでになります(太平天国の乱の発生など)。

1850年代の清は、秘密結社が関与するおびただしい内乱に見舞われ、その平定に追われました。反乱側であれば「秘密結社」であり、彼らが帝国体制側に寝返れば、「義勇軍」になりました(例:曾国藩の湘軍、李鴻章の淮軍)。別の方向から見れば、帝国内部の権力構造の再編プロセスでもあります。

義勇軍を組織していたのが省の軍政・民政を一手にあずかる総督・巡撫でしたが、これらの義勇軍を運営するための資金は清の国庫からは出ず(そもそも国庫支出という概念が無い)、総督・巡撫は大きな権限を持って経費を調達していました。

その経費は、新しい地方税「釐金(りきん)」と呼ばれ、商人からの寄付・納付という形で調達されていました。密輸を合法化してやる代わりに、上前をはねる…というスタイルで、アヘン取引もアヘンを扱う業者も、この流れに乗って、次々に合法化されていました。

※扱う商品価格の一厘(=釐,1%)の率で拠出金を課したので釐金という

清帝国は結局、内乱を平定し、新たな安定状況に入ります(これを「同治の中興」といいます)。

それと共に、地方権力者である総督・巡撫の、中央政治における立場が大きくなりました。 ここに、将来における地方軍閥割拠の原因が生まれたと言えます。

なお、この安定した時代に権力を掌握したのが、西太后と李鴻章です。

貿易取引という側面から見ると、この時代の取引量は増大しています。しかし、その品目割合は様変わりしていました。従来の江南エリア産物=高付加価値商品=中華ブランド(絹、茶、磁器)の輸出量は頭打ちになり、華北生産物である大豆、羊毛、皮革、綿花、鶏卵などの輸出が増えました。

  • 1883年1億4千万両→1903年5億4千万両:20年で4倍に増加、この増分のほとんどが華北生産品
  • ヨーロッパの蚕業・製糸業の回復あり、日本の生糸シェアも増加
  • インド製茶業の成長により、中国茶のシェア低下
  • 1870半ごろ~欧米で金本位制採用:銀価値が低下=中国銀の安値(中国にとっては輸出有利。
    同時に、国内の銅貨に対しても銀価値は低下していた。これらの為替レートの変動は、銅貨決済する農村部にとっては、外来品、例えばイギリス植民地インド製の機械製綿糸を安値で購入できるようになった事を意味する

かつて江南デルタの開港場に集中していた貿易利権は、北から南に至る各地の開港場に分散します。これらの変化は、開港場を取り巻く各地方の地域ごとの経済圏の現出、地域分業化、ひいては地方分立の様相を呈するようになりました。

外国人が管理した関所税のレポートは、不完全ながらも清帝国側の輸入超過を記録しており、当時の清の官僚たちは入超による国富の流出に警戒感を抱くようになります。李鴻章のスタッフたちが提起した対策としては、西洋流の保護関税の導入、および国内での近代産業の振興ですが、いずれも利害関係が複雑に錯綜していたため、20世紀までは実現しませんでした。

▼保護関税の実現を妨害する利害関係
欧米列強は、関税自主権に伴う不平等条約の撤廃の見返りに、釐金の減免を求めたが、清帝国にとっては総督・巡撫の権力(督撫重権)を維持する経費、治安維持費の調達になっていたから、とうてい応じられるものではなかった。
※欧米列強は、「釐金=事実上の関税障壁」と理解していたらしい
▼富国強兵&殖産興業(洋務運動の遂行)を妨害する利害関係
日本では、国家体制そのものの近代化や産業構造の高度化といった変化の一環として、富国強兵と殖産興業があった。
中国では、洋務運動は督撫重権を維持するために実施されたのであり、現代中国と同様、権力側の利権構造の一環として組み込まれていた。そのため清帝国内部の経営において、異国のごとく異なる社会階層に属した底辺庶民たちのニーズを掴む事ができず、需要と供給の食い違いが長期化し、期待するほどの利益を上げられなかった。
また、投資資金を集めて運用するルール(株式)が確立されておらず、軍需工場のような大規模工場を建築し経営するための資金の確保が困難化した。
※政府の公金支出には限りがあった/民間で公司(カンパニー)を設立して資金を出し合う方法では、法の監視が行き届かず、共同出資者の誰かに資金を持ち逃げされるリスクが高まっていた(民間マネーは不足しがちであり、企業投資に対する保証といった習慣も皆無だった。巨大な経済格差がもたらした、もう一つの困難であった)

近代経営のための解決策として、官辨(官督商辦)という方法が採られました。

すなわち国営企業というスタイルです(軍需工場は、ほぼ国営)。民需企業の分野では、経営実務を民間に任せ、政府はそれを監視するというスタイルになりました(故に、官督商辦)。

※合股=民間で新しく広がった企業経営の習慣。出資者が利権を一定額ずつ等分し、1年ないし3年の年限で運営する。出資者はほとんど地縁・血縁・知友で、連帯無限責任を持ち、外部の専門の経営者に経営実務を担当させた。経営者は、経営利益とは無関係に、限られた年限の中で出資者に利益配当や貸付利息を支払う義務を負った。これは企業経営において大変な負担を強いるものであった。従って、大規模化した国営企業に対して、民族資本は零細企業の規模に留まった(紡績業が多い)。ちなみに浙江財閥は巨大な民族資本であるが、これは買辦企業から発展したものである。

しかし、当時の官僚登用システム(科挙制度)は経営実務能力を問うものでは無く、必要な手腕を持つ人材に欠けていた事は確かです。李鴻章らは、洋務運動の一環として、科挙とは別の教育機関や留学制度を試みていますが、余り効果は無かったと言われています。

それ程に、伝統的な「官/民」の身分差は大きいものでした。能力のある庶民が専門知識や技能を修得したとしても、身分差という障害があったため、「末は博士か大臣か」といったような立身出世は不可能だったのです。また、官僚子弟たちにとっても、科挙に比べると処遇上のメリットは薄かったようです。

洋行帰りや留学生が優遇された明治日本の人材登用システムとは、非常に異なっていたと言えます。

日清戦争(1894~1895)の後、事態は急展開しました。

多額の戦費および賠償金の調達のため、従来とは桁の違う莫大な金額が動きました。これらの費用は、民間からの更なる収奪の他(=この収奪で民間は更に困窮し、義和団事件などの暴動が相次ぐ)、主に列強からの借款によってまかなわれました。その担保として、列強は、清帝国から、関税収入の他、鉄道や鉱山の利権を獲得します。

ここには、清帝国内部の構造に対する誤解があったらしい事が指摘されています。当時の清は、各地方の関税や鉄道、鉱山の管理に関しては直接にタッチしていません。これは地方官僚(地方政府?)の税収権限であると共に利権であり続けてきたものです。中央が関与したのは、地方の表面的な「国富」を動かす事だけでした。

しかし、各地方の関税や利権が「担保」と見なされた事により、存在しなかった筈の「清の中央政府」が実体化しました。「清の中央政府」は、地方官僚から各種の税収権限を没収し、中央財源としたのです。地方にとっては、「中央による収奪」でした。

これまで曖昧だった国富管理の権限の明確化・差別化は、中央と地方との間に、深刻な対立を生じるようになって行きました。清帝国内部は、地方軍閥割拠という様相を呈しました。

※最も典型的だったのが満洲の軍閥政権です。満洲では大豆が貿易取引の主力商品になりました。華北各地の開港場で起きていた貿易取引量の増大と共に、著しい経済成長を遂げます。中央からの分立状態は大きく、満洲の実質的支配者として権力を振るったのが、張作霖でした。張作霖政権は、100種以上の民間私幣を整理統合し、「奉天票(紙幣)」という満洲共通通貨を発行しました。

当然、清朝末期の中国知識人は、この有様について「中央集権的な統一国家、国民経済の進展に逆行する」と批判はしましたが、彼らもまた地方有力者の一であり、その行動は、在地権力の支持に向かいました(=つまり、「地方の群雄割拠をいっそう固定化する」事につながっていました。発言と行動が、互いに逆だったのです)。

孫文が主導した辛亥革命(1911)は、この「群雄割拠に向かうベクトル」の一つだったと言えます。実際、辛亥革命の後、13省が相次いで「独立」を宣言しています。

清朝末期の混乱を彩り、そして清滅亡に結びついたのは、こうした中央と地方の対立でした。

元・李鴻章の部下であった袁世凱は、清朝政府の中央集権化プロジェクトに協力しつつも、多くの政変を切り抜けて独自の権力基盤を構築し、辛亥革命においては、清朝の弱体化を見越して、孫文と手を結びました。袁世凱が予期したとおり、孫文をリーダーとする中華民国は支持基盤が弱く、清朝・宣統帝(最後の皇帝)の退位と引き換えに、袁世凱を孫文の後任として迎える事になりました。

しかし、多くの地方軍閥は袁世凱政府という新たな中央集権プロジェクトに反発し、第三革命(1916)を起こしました。袁世凱は失脚、および死亡し、その後は、地方軍閥の抗争の時代となります。

(1914年、第1次世界大戦が勃発すると袁世凱政権は中立を宣言したが、日本はドイツ基地のある青島を占領、翌15年に袁世凱政府に対し「二十一カ条の要求」を提出。5月、最後通牒を突きつけられた袁世凱政府は要求を受諾、激しい非難を受ける。袁世凱は帝政宣言を発して乗り切ろうとしたが、反・袁世凱運動として第三革命が発生、日英露仏の列強も帝政を支持しなかった)

袁世凱が清朝から引き継いだ形となった中央集権化プロジェクトの一つに、大陸全土の共通通貨(国幣national currency)「袁世凱銀元」の発行があります。これは、雑多な地方通貨の整理統合を目論むものでもありました。

袁世凱の死後、この「銀元」を兌換紙幣として、中国銀行券(中央銀行券)が継続的に発行されました。皮肉な事に、袁世凱の死をもって葬り去られる筈だった、この中央銀行券が地方通貨を駆逐し、ひいては地方軍閥割拠の状況を打開する事になります。

※第一次世界大戦で莫大な国費を失った西洋各国は、財源枯渇により金本位制を放棄。それまで下落が続いていた銀価は一転して急騰し、中央銀行の財源(元は関税など、金額がハッキリしている部分)に余剰金が生じ、中国では政府銀上昇、民間銭下落という状況となった。従って、中央政府発行の銀行券は財源余剰によって信用の裏づけが強化され、中央政権が起こした国債が成功するという画期的な結果をもたらした。折りよく、上海を中心とした内地で、民族資本の黄金期と言って良い程の活況(バブル経済)を呈したため、この中央銀行券は大量に流通した。

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研究:中華経済の近代史(前篇)

中華経済圏の歴史について、もう少し詳しく見てみる事は、「21世紀の中華」がどのように動くかを予測する上でも参考になるかと思いますので、チャレンジです。

《プレ近代(18~19世紀)の中華経済:明&清》

中華帝国の経済構造の基礎は、明・清の時代に確定しました。

宋・元(モンゴル)の後の大陸を支配した明帝国の、最初の課題は、まず何よりも、南北の経済格差であったろうと思われます(経済構造そのものも、異国レベルと言って良いほどに異なっていた)。

実際、前王朝であったモンゴル帝国も、華北・華南で同一の統治を行なっていません。 華南から発生した明は、華北を、自らの地元でもある華南(江南)の経済構造の中に同化しようとしました。

初期は、王朝交代に伴う激しい戦乱が収まっておらず、現物主義の決済システムとなりました。モンゴル帝国が保持していた紙幣制度の崩壊という事情もあり、貨幣は余り重視されなかったのです。

華北経済圏と華南経済圏…生産力も経済システムも全く異なる2つの経済圏を「中華経済」として統合し、なおかつ南北格差を解消するため、明は現物主義を取りました。初期の明政権の江南に対する弾圧・収奪は、過酷なものとなったのでした。

※土地・人民を調査した資料として、「魚鱗図冊」や「賦役黄冊」が有名です(太閤検地みたいなものでしょうか)。それに基づいて、物納や徴発という形で物資・労働力を直接に取り立てました。明朝の貨幣「永楽銭」が知られていますが、鉱山資源の枯渇もあって、実際には現物決済の補助的な役割しか無かったようです。

明の経済は、貨幣の流出を防止するため、モンゴル時代のグローバル経済とは違って、朝貢経済の復活と共に厳しい海禁(鎖国)政策を伴うものとなりました。「万里の長城」が明の時代に完成したのは、この鎖国政策の固持という理由によっています(実際、モンゴルも清も、万里の長城を越えて侵入する事は困難でした)。

一方、江南デルタでは、土砂堆積作用によって主要河川の流路が変化し、広大なエリアで水不足が起き、米作を断念せざるを得なくなりました。稲作メイン地帯は別地方に移りました(「蘇湖熟すれば天下足る」から「湖広熟すれば天下足る」へ)。

江南デルタの中央部では桑、木綿、麻、麦といった多様な商品作物が増え、いっそうの労働力の集約とマニュファクチュア(工場制手工業)の分業化が進みます。

江南経済は貨幣決済を強力に必要としましたが、明は現物決済主義です。そこで、江南地方では私鋳銭が増加しました(違法ではあります)。近隣の取引では様々な質の銅貨が一定の双方合意のもとに流通し、遠方の取引では広く共通価値が付与される貴金属=銀が使われました。

遠方取引(海外貿易)においては、ヨーロッパ大航海時代を迎えた事もあって、大口取引(絹・茶・磁器などの中華ブランド品)の需要が爆発的に増加しました。江南エリアでの付加価値生産力の上昇と商業発展に伴い、銀需要は飛躍的に高まります。

倭寇などの密貿易集団(海賊)が活躍した時代でもあります(※台湾の鄭成功が有名)。

※外国資本の流入による、この江南エリアの経済ビッグバンもまた、「量の問題」に帰結すると言えます。ヨーロッパ科学革命のような、将来の産業革命に連結してゆく「質における革新&革命」は、遂に発生する事はありませんでした。これは中華帝国の世界観や哲学史・科学史を考える上で、非常に興味深く、また厄介な問題でもあります

こうして明が保守した現物決済主義の経済システムは、グローバル的な時代変動の圧力の前で、立ち行かなくなりました。鎖国政策を続ける政府と、自由貿易を求める民間。相反するベクトルの中で、双方の距離は拡大し、身分や貧富などといった社会格差、大きくは南北格差も巨大になって、明は内乱で疲弊します。その明に取って代わったのが、清でした。

清は、明帝国の後裔という立場上、明の経済政策を概ね敷衍していました。

近現代の財政(国庫スタイル)とは、非常に異なったスタイルです。プレ近代の中華帝国には、「国庫(大蔵省・財務省)」という一括的な財務処理機関の概念がありませんでした。

理論上、国富はすべて皇帝の下に集結するのですが、実際の「国レベル税収項目」は「国レベルの支出項目」と一対一で連結していなかったのです。地方ごとに、(国庫的な)負担項目と負担レベルが決まっており、地方は中央の裁定に従って、個別に全額を納入しなければなりませんでした(差額による相殺は無し。つまり国税&地方税、国家財政&地方財政、という統一的な概念も無かった)。

このようにバラけた国富管理(歳入/歳出)を、限られた政府役人メンバーのみで正確に把握する事は不可能です。ゆえに、清は、定額管理財政を志向しました。

しかし実際の行政支配においては、国家予算の額が通年平均を超える事もままあります。このような事態に、定額管理財政は対応できません。そこで、不足分の予算を確保するために、臨時の追加徴発や付加税という形での収奪が、不定期に、かつ頻繁に行なわれました(国債という概念は生まれなかった)。

ここに、官僚汚職(私的かつ不法な収奪、および差額の着服)の基盤が、強固に確立し定着する余地がありました。

清は、共通決済通貨として「銀」を公認しています。銅鉱山の開発を進めたため銅貨も増えましたが、明スタイルを引き継ぐものとなったため、貨幣管理に国家権力が介入する事はありませんでした。

そのため地方では多種多様な私幣(現地通貨)が弾力的に運用され、専門の金融業(銀行業、信用投資、保険業、帝国内部の共通の株券・証券など)が発達しませんでした。

「関税」の扱いもまた同様です。それは、清の海禁政策の実施において、帝国の内と外を峻別する「国境」概念と結びつくことはありませんでした。内地の交通・流通を、国境および国境外(客家・華人経済圏の及ぶ限り)にまで延長したものとして、取立てが行なわれていたのです。

※この「国境」「関税」に対する定義の曖昧さは、現代にまで持ち込まれているようです。中華帝国の版図の野放図な拡大現象は、これで説明できるかも知れません。ボンヤリとした定義の都合上、「中華帝国」における「国境」は、無制限に膨張する性質を持っていると言えるでしょう

さて、清の時代に、領土の膨張を遥かに凌駕する勢いで、激しい人口増加があった事が知られています。この人口増加は「パイ(限られた土地・資源)の奪い合い」を激化させ、社会における貧富の格差をいっそう拡大しました。昔に比べると、働いても働いても収入が増えない…すなわち人件費(賃金)の著しい低下という形で、「量の問題」がここにも発生していたのです。

こうした社会は、必然として摩擦や紛争(械闘)が増えます。これらを中心になって処理したのが、民間結社、つまり地縁・血縁を基盤とする中間団体でした。こうした団体は、私幣(現地通貨)運用に関して強い権限を持っており、その価値を保証するため、しばしば密貿易にも関わったと考えられます。

以上のボンヤリとした国境概念、華人(私幣)経済圏の増加、膨大な貧民の発生といった変化が、緻密に張り巡らされた密貿易ネットワーク(地下経済)を発達させました。密貿易を専門とする秘密結社は、星の数ほど存在した事が知られています。

《近代化直前(19世紀アヘン経済発生~アヘン戦争とその後)の中華経済》

清における国家と民間の経済の巨大な乖離の故に、アヘン経済は成功しました。

清はアヘンを禁じていましたが、無数の秘密結社が、国内需要にこたえて大量のアヘン取引を行なったのです。塩の密輸市場を遥かに超える勢いで、アヘン市場が急成長した事が知られています。

元々、海外貿易における大口取引では、国家公認の少数大手の貿易商がメインでした。外国商人の注文に応じて、清の商人が国内から商品を買い付けるという形です。イギリスの場合、発達した株式や銀行によって巨大資金を集め、大口発注を増やすことが可能でした。それに対して清公認の商人は、各地方から資金を集める事が不可能でした。貿易量の増大と共に、金融処理の限界が来てしまったのです。

清公認の商人は、イギリス各国に借金して運転資金を捻出する羽目になりましたが、返済能力が無いため倒産する商人が多く、商取引は滞りました。

そこに非公認の華人貿易商、つまり秘密結社が進出する余地があったのです。非公認の華人貿易商は、外国から資金を提供され、貿易商品の買い付けを担当しました。いわゆる買辦企業の始原です。非公認であるため、私利を追求しての密輸も脱税も、日常的に行なわれていたと推察できます。

アヘン貿易もまた、このような密貿易の容易な構造の中で、発達したのです。更に言えば、アヘンは銀に代わる高額決済通貨としての価値があったため、国内流通においては、大きな混乱は無かったと言われています。

※清帝国から大量の銀が流出しましたが、アメリカ西海岸やオーストラリアのゴールドラッシュにより、新たな中華ブランド商品の消費市場が生まれたため、銀は再び清帝国に流入し始めました。その様相を見ると、総じて、買辦企業(華人商人)の方が取引の主導権を持っていたとも言えます。それゆえ、不満を持った外国企業との間で、しばしば紛争が起きました。アヘン戦争は、その拡大版として理解する事が可能です。

買辦企業を運営する華人商人と外国商人は、アヘン戦争などの大きな紛争を重ねながらも、結託の度合いを増します。アヘン戦争後に条約が結ばれ、その結果、爆発的に増加した貿易取引は、外国商社と華人商人がメインです。そこには、条約によってより参入の度を増した外国商人による、現地銀行の設立がありました(新たな金融業の発生)。

外国銀行は、外国商社に対する融資や、華人との貿易取引における送金決済を処理すると共に、外国通貨建ての現地通貨を発行しました。清にとっては、従来の、国境を曖昧とする華人(私幣)経済圏の拡大版と言えるものであります。

対して、清国内の金融業務を担当したのが、土着金融機関の「票号」「銭荘」でした。「票号」「銭荘」は、業務拡大にあたり、やはり清国内から資金を集める事が出来ず、外国資本の融資に頼っていました。

海外・外部からの資本流入によって貿易量が増加し、江南デルタを中心とする流通経済が(地下経済も含めて)極度に活性化するという、現代中国でも見られる他力的な経済発展スタイルは、明・倭寇(ヨーロッパ大航海時代)の頃から既に存在していたと言えます。そして、その発展の有様は、常に「質の革命」を伴わず、「量の増大」のみの現象となりました。

「量の問題」は、ここにも共通して見られるものであります。

中華ナショナリズム・考

中華の近代史を垣間見する事を通じて、中華ナショナリズムの内容を見透かしてみる…という風に書いてみたいと思います(ちょっと難しいかもですが・汗)。

詩的:「シナの問題はすべて量に還元できる」http://marco-germany.at.webry.info/200803/article_1.html

(と言う事は、「中華の歴史の謎は、経済に始まり経済に終わる」と言えるかも)

★まずは、地理・版図とか。

今日、我々が「中国(中華人民共和国)」として認識するエリアを確認。

中心となるのは、英語で「China Proper:チャイナ・プロパー」、即ち「中国本土」と呼ばれる範囲。伝統的な歴史用語で言えば「中原」でしょうか。英語の定義はハッキリしていて、「元々のChina」と言う意味であり、秦の始皇帝が支配した(と、されている)版図に由来しています。

その周縁部が、現代の中華人民共和国が主張する周縁部の最大版図と言う事になります。此処では近現代史に注目したいので、目下、領土問題などで騒がしくなっている南沙諸島などは省いて、1945年~1950年ごろの版図をイメージしたいと思います。

★歴史を垣間見。

黄河流域すなわち中原が、古代における中華揺籃の地でした。

黄河流域は、地理や古代史上の群雄割拠などで見ると大きく3ブロックと見る事が出来ます。

関中盆地(渭水流域)、洛陽盆地(洛水流域)、河北平原(太行山脈)。

いずれもアワ・キビ農耕ないし遊牧による生産を主とした寒冷地であり、気象激変(春夏旱魃、夏秋大雨)を恐れる自然環境の中にありました。

黄河氾濫がいっそう激しくなった頃に、治水事業に力を注ぐ古代王朝の時代が展開しました。 そして、灌漑テクノロジーが発達し、生産力を飛躍的に伸ばします。最も早期に技術力および生産力のトップを築いたのが、関中地域でした。

古代の歴代王朝は関中に都を築き、国富の半分以上が関中に集中しました。首都・長安の時代でもあります。

ただしこの長安、防衛拠点としては優秀でしたが、交通事情が悪く、飢饉の時に周辺から食糧を運び込むのが難しかったので、都内の食糧事情はたやすく悪化し、たびたび多くの流民=人口移動を発生させました。

流民は何処へ向かったか。まずは洛陽盆地の大都市・洛陽です。防衛機能は長安に比べるとずっと弱かったのですが、昔から物流の拠点として栄え、食糧の確保も容易でした。

唐帝国の時代になると、こうした、食糧危機をきっかけとする人口移動が激化します。領土の急拡大と共に都内の人口爆発も進み、関中地域だけでは都内の人口を維持できなくなっていたためです。そして、「中華」は黄河流域から溢れ出て、周縁部への大量流出を始めました。

★中華ナショナリズム史

魏晋南北朝に始まり唐宋帝国に続く、この「反劇場都市(伝統的な古代都市コスモスの崩壊=皇帝なき桃源アルカディア夢想)」と「反都市(飢餓難民パワー)」に彩られた、危機の時代にこそ、逆説的に、河北を淵源とする中華ナショナリズムの種子が蒔かれたと考えるものであります。

「シナの問題はすべて量に還元できる」…河北から溢れ出した「量」は膨大な物であり、それは江南を圧倒したと言う事が出来ます。

唐・宋の時代に起きたのは、長江流域の大征服と、それに続く大開発です。宋帝国は長江流域に首都をおきました。宋帝国の繁栄は、更なる人口爆発を生みました。

長江流域が河北勢力に占領されたと言う事実は、政治力において、江南勢力が、河北勢力のそれに劣っていたと言う事実を暗示するものであります。河北中原を発生源とする中華ナショナリズムの行く末は、この唐・宋の時代に固定化したと言えるかも知れません。

「江南コンプレックス/桃源の夢想(by大室幹雄氏)」と「中華ナショナリズム」は、おしなべて「中華」という世界観を明確に持つエリート支配者層の心理において、裏と表の関係を成している…

端的にいって、戦国期的な渾沌と自由の再来にも関わらず、世界解釈の枠組みが伝統として完成されすぎていたのである。そのため世界を初め、国家、社会、人間をめぐって未来を展望し、それらの新たな諸関係を構想し、世界解釈全体を構成しなおす想像力の潑溂はどこにも湧き起こらなかった。 /大室幹雄・著『桃源の夢想』より

※大室氏の指摘には、改めて「成る程」と思わされるところがあります※

長江流域(江南)の特徴は、大局的には黄河と似通った地形を持ちながらも、その流域に展開する複雑な地形により天然ダムを多く生じるため、ダムの調節機能が働いて、水位が安定してくる(運河として極めて有効)という事です。

このため、江南は、生産力において河北の上位に立ちながらも、国家的危機に対する強力な政治的対抗力を持ちえませんでした。宋が、いつの間にか政治的には弱体化し、新たな河北勢力として現れた遊牧騎馬民族の王朝に対抗し得なかったのは、まさに、この江南ジレンマによる物と言えるでしょう。

※この「政治的な戦力において、より劣勢である」という事実は、日本にも言えます。日本と江南とは、自然環境も文明的・政治的発展の有様も、いやに似通っているのです。日本が江南に比べて幸運だったのは、ただひとえに、海によって隔絶されていたからに他なりません(汗)

江南の開発には前期(3世紀~9世紀・魏晋南北朝~唐代)と後期(10世紀~・宋代)があります。俗に「江南デルタ」と呼ばれる低湿地の開発が進んだのは後期です。宋の時代に、海水の進入を防ぐ護岸工事が進み、広大な稲作地帯が生まれました(蘇湖熟すれば天下足る)。

★分裂動乱と中華ナショナリズム

中華ナショナリズム/中華イデオロギーの問題を考える時、中原に展開した遊牧騎馬の社会と農耕社会との折衝・交渉の歴史を抜きにする事は出来ません。

日本や西洋で展開した「国民意識(ナショナリズム)」と同じような地理的・歴史的尺度で考えるのは不可能です。ここに「中華」という概念の特殊性があります(=「シナの問題はすべて量に還元できる」)。

黄河流域すなわち中原は、西域に展開した遊牧騎馬民族と関係の深い土地であり、しばしば、貿易・略奪・戦争・官僚汚職の現場となりました。群雄割拠…分裂抗争の頂点を構成する土地でもあったのです。

山西省や河北省は、江南へ向かって拡大を続ける中華世界に対して、しばしば分裂勢力を生み、歴史的には、しばしば大陸動乱の発生地となっています。西域と密接な地政学関係にある都市(長安・洛陽)が歴代王朝の首都に選ばれたのは、こうした分裂動乱に備える必要があったためです。

必然として、軍事費・領土の占領&掌握のための出費が異常に突出しました。これこそ、まさに「量の問題」であります。古代から現代まで、河北と江南を強引に一体化して成立した「拡張版の中華」を彩り続けてきた特性でもあります。おそらく未来もこの特性を保ち続ける筈です(地政学的状況が不変である限り)。

現在の中華人民共和国は、長安・洛陽では無く、北京を首都としています。北京は中原の最北端に位置し、「中原の中心に都する」という河北の伝統的な中華コスモス観からすると非常に偏っていると言えますが、近現代の国際状況がもたらした特殊な事態かどうかは、後の時代になってみないと分かりません。

※朝鮮半島とロシア、両方の動きに素早く対応できる地政学的位置にあると言う事は指摘できます。更に言えば、その視線は、日本ひいてはアメリカに向いているのかも知れません。「海に近い位置でもある」という事実には、奇妙に暗示的な物を感じます。

首都・北京(紫禁城)は、元々は明の時代に永楽帝が首都とした事に由来します。当時、モンゴルを辺境に追い払い、その後もモンゴル対策が必要だったという事と、皇帝の地元が北京だった事、という理由が指摘されています。

その後の清帝国は、建前上、明帝国の後裔という立場であり、北京(紫禁城)をそのまま受け継ぎました(清の本拠地は東北部・満洲にあった)。

近代の中華ナショナリズムは、最初は清朝末期、西欧列強に対する利権奪還という「国民的行動」を通じて、 全土レベルで燃え上がった物でした。

それは、日本の明治維新をモデルにした辛亥革命に、必然の如く連結して行きましたが、結局は地域軍閥ごと・エリートごとの抗争の中で挫折します(皇帝・袁世凱の失敗の問題もあり複雑化します)。その後は抗日戦線においてロシア共産党との共闘があり、満洲・朝鮮半島の動乱がありました。

ちなみに傀儡帝国と言われる満洲国(1931-1945)の首都は「新京」、「中華民国の後裔としての台湾」の名目上の正式な首都は「南京」。ある意味「中華に対する分裂独立勢力であった/である」と言えるのかも知れません。

近現代(19世紀~20世紀)を彩った政治的危機は、おそらく「拡張版の中華(河北&江南)」においては、歴史上最大の四分五裂の危機であり、おそらくは最大範囲にわたって最大影響力を及ぼしました。

辛亥革命や中華民国・日中戦争(抗日戦争)といった分裂動乱の時代は、首都の位置も、南北の間で揺れ動きました。この最大危機が、逆説的に、科挙エリートや富裕層の間で、「中華ナショナリズム」の拡大激化を促したと言えるでしょう。

※一応、元=モンゴル帝国が最大版図ですが、モンゴル帝国は広大すぎたし、早々と分裂し始めたので、中華化が間に合わなかったとも言えます。情報の展開スピードの問題もあるかも知れません。

しかし、近現代の「国民国家/国民意識」を構成する筈だった近現代の「中華ナショナリズム」は、「拡張版中華帝国の領土分裂の危機」に際して、ゾンビの如くよみがえった「古代的な中華イデオロギー」の下敷きになり、複雑骨折して行きました。

(戦後の歴史教育においては、それは「反日」で裏付けられる物となっています。通常、常識的に言及される「国民国家の誇り」と連結するナショナリズムとは異なっており、古代都市に由来した中華エリート意識に依存しながら他者依存性を強めたナショナリズムという点で、それは「非常に歪な"何か"」と申せましょう)

★当サイトなりの「中華ナショナリズム」に対する見解&結論

「シナの問題はすべて量に還元できる」…中華帝国の財政は、かなり特殊な様相を呈します。

今日、先進国が国民全体からの税収で国家財政を成り立たせるのとは対照的に、中華帝国では、ごく一部の富裕層からの税収で国家財政を成り立たせて来ました。

大多数の人民の数が多すぎて、把握しきれないからです。戸籍システムは、中華世界の拡大と共に拡大発展する事はありませんでした。ひとえに「量の問題」なのです。戸籍の格差に伴う特権や税収、「国家財政の皮をかぶった"何か"」は、伝統的に、都市の富裕層を中心に展開しました。

「都市」という網目ポイントのみで構成される中華帝国、それは、周縁部の領土の広大さに対して、遥かに「小さな政府」を呈します。中央(中原・中華・特権階級)における驚くべき富の集中と蕩尽、「皇帝」を中心に展開する特権(ないし権力)、そして大多数の周縁部・下層階級に対して展開する盲目的な搾取とそれに伴う汚職の横行、それは「国家の目」の及ぶ視野を「中原」のみに限った、「小さな政府」にして可能な事であります。

現代の中華人民共和国の財政状況を見ても、富裕階級を成す国有企業や官僚のみが肥え太り、大多数の民間企業・庶民は搾取され切り捨てられる…そういう、古代社会のコピーの如き、歪なまでの「小さな政府」&「格差社会」の存在を指摘できる。

絶望的なまでの格差社会が生み出す、「富裕」に象徴される中央・中華(エリート層)への憧れ、羨望…

社会的・国土的・歴史的には分断状態にある筈の、広大な領土を結びつけるのは、中華イデオロギーを現実化した都市たちによる、網目の如きネットワーク。その網目から漏れ出すかの如き、人口流出…そしてそれに伴う、領土の分裂性と膨張性。

拡大深化し続ける政治混乱と矛盾を内部に含みながらも、なおも外側へと膨張を続ける帝国。日本の隣にあるのは、そういう「異形の帝国」だと言う事実を、我々日本人は、きちんと考える必要があるのだと思います。

【孫文の演説:中華民国の建国宣言の時の「中華民国臨時大総統宣言書」】

「国家の根本は人民である。漢、満、蒙、回、蔵の諸地方を一つにして一国家とするとは、すなわち、漢、満、蒙、回、蔵の諸族を一つにすることである。…これを民族の統一と言う。…武漢を皮切りに十数行省がまず独立した。いわゆる独立とは清廷の支配から離脱し、各省が連合することである。蒙古、西蔵の願いもまたかくのごとし。行動を統一させ、道を踏み外さず、重要決定は中央で行い、縦糸横糸を四方の境界に張り巡らす…これを領土の統一と言う。」

この宣言には、漢、満、蒙、回、蔵の五族を一つに融合同化して単一の「中華民族」を創出するという意図が含まれている。五族が各々自主独立するという「民族主義」は、列強の侵食を許す分裂亡国の民族主義として退けた。

【1920年~1921年の孫文の言葉】

「我が中国のあらゆる諸民族を一つの中華民族に融合せねばならない。同時に中華民族を文明的民族に作り上げなければならない。そうして初めて民族主義は仕上がったことになる」
「中国に唯一存在して良いのは漢族=中華民族の民族主義のみで、他の民族の独立を謳うような複数の民族主義は存在してはいけない」

優秀な漢族が中心になって、遅れた他の四族を指導し平等化するという中華民族国家体制を想定している。この意味で「近代化した華夷秩序/中華イデオロギー」と言える。中華ナショナリズムはこのように、「民族平等思想」と言う名の新たな中華思想の下敷きとなり、複雑骨折していった。現代の中華人民共和国は、この孫文の「民族平等思想」を継承している。

現代の「少数民族」には相反する二つのイメージがある。「大一統の下に凝集」「保守で落後」。これが少数民族優遇政策の際のイメージとなっている。少数民族の到達目標は漢族とする。少数民族は皆、漢語を学び、漢族的な思考・行動様式を取るように指導される対象である。 民族独自の生活様式や宗教信仰の自由は、中国共産党に許容される範囲内に限られる。

【習近平の演説:2015.09.03北京軍事パレードにて】

「靡不有初、鮮克有終(初め有らざるはなし、克〈よ〉く終わり有るは鮮〈すく〉なし=誰でも最初は頑張れるが、最後までやり遂げるのは少ない) 。中華民族の偉大な復興の実現は、一代、そしてまた一代の人々の努力が必要だ。中華民族は5千年以上の歴史を持つ光り輝く文明を創造した。必ずやいっそう光り輝く将来も作り出すことができる。」

過去の歴史をどのように認識し解釈しているか、その内容も窺える演説となっている。「中華民族」は近代に出来た言葉であり概念だが、その概念を5千年に渡る過去の大陸史に一気に投影する事で、現在の状況を正当化するという形になっている。


『シナ(チャイナ)とは何か/第4巻/岡田英弘著作集』藤原書店2014
https://twitter.com/history_theory/status/1615361771279355905

日本は長くシナ文化圏にあった。
ところがそれが逆転して、シナが「日本文化圏」に入るという世界史上の大事件が起こった。 日清戦争における清国の敗北である。
なにしろ、わずか30年前に欧化政策を取り入れ、近代化の道を歩み始めたばかりの日本に、清では最新の西洋式軍備を備えていた李鴻章の北洋軍が壊滅させられたのだから、ついに清朝も近代化の必要性を認めざるを得なくなり、海外に留学生を派遣して官吏に登用し、やがて1300年続いてきた科挙は廃止された。
シナは独立性を失い、世界史の一部、それも日本を中心とする東アジア文化圏に組み込まれた。 そして、10万人を超える日本留学経験者が持ち帰ったものが、現在の中国文化の基礎をつくった。
なかでも最も根本的なのは、日本語がシナの言葉に与えた影響だった。
清国留学生は、日本の教科書や参考書を読んで大喜びしたはずである。
西欧語はチンプンカンプンでも、日本の本には漢字がたくさん使われているので、どれを読んでもなんとなく意味がわかる。
もともと漢字は不完全なコミニュケーション・ツールで、異種族同士の符牒に過ぎないので、なんとなく意味が通じればそれでいい。
日本語がわかろうがわかるまいが、日本語の発音がどうであろうが、そんなことは問題ではない。
もともと何かを突きつめて100%理解しようという文化は彼らにはない。
すべてアバウトな「馬馬虎虎」(まあまあ適当に)とか「差不多、一様」(大した違いはない)とかいう精神で生きているから、日本人の翻訳した漢字の並びを見て、6、7割わかればそれで充分だった。
ヨーロッパの最先端の思想が、日本語の漢字の並びを眺めているだけで漠然とわかるのだから、これは便利だとばかり、そうした「和製漢語」を本国に大量に持ち帰った。
日本がすでに30年かけて、これだけの「漢語」をつくっているので、これを使えば、我々は2年くらいで近代化(西洋化)を終えて日本を追い越せると考えたのである。
そのメンタリティは現代でも変わっていない。