忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

派閥の力学・考(後篇)

派閥レイヤーを形成する「力学」とは何だろう・・・と、これまたおっとりペースで、頭をクルクル回しておりました。これはむしろ、心理学、サイコの問題なので、カルトや呪術戦、または心霊戦(サイキック・ウォーズ)の話題にも、少しばかり頭を突っ込んでおりました・・・

(参考資料)やほよろづ.COMの管理人のブログ記事。
特に派閥の力学との関連でピンと来たのが、「メサコン」のお話でした。
◆メサコン(メサイア・コンプレックス)・・・派閥を形成してゆく力学。
http://novocaine.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-9d64.html
◆ネットカルト脱会の勧め(8)・・・盲目&熱狂的服従のもたらす恐怖。
http://novocaine.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-6616.html

政治の世界での派閥も、カルトと似た面はあるかも知れません。カルト方面でいう「霊能&呪術」が、「財力と軍事力」に置き換わっただけである・・・とシロウト想像。どちらも、自らの権益を保証し、他人をコントロールするのに便利な道具・・・

じわじわと、『クトゥルー神話』っぽくなってきた・・・> <;;;
書いている間も、ずっと『クトゥルー神話』の場面を連想していて鳥肌アワワ。
・・・これは恐怖の「依存症」なのですテケリ・リ。

派閥というのは、純粋に利害関係で成り立つ事が可能です。(と、思います。)という事は、派閥の人脈の原理はきわめてシンプル・・・本来は、現実世界では極めて特殊な部類にある人脈であり、それは、利益や損害などの「因縁」が濃密になればなるほどに、宗教系の人脈に近くなるのかも知れない、と想像しています。

――ネット依存症、という言葉があります。

ネットは、あらゆる身分制限を越えてリンクする事が可能です。という事は、シンプルかつフラットな仮想人格によって成り立つ人脈が築かれるという事です。これは、シンプルな原理・・・利害関係のみでつながる派閥人脈と、相似であり同質です。

・・・と、想像しています。
その筋の専門家では無いので、この考察は、本当はあまり自信ありません。
物語制作でシナリオの伏線を張ってゆく作業があるのですが、その応用でしか無いです。
歯切れが悪くなるのは避けられない > <;;

ネット依存症の本質とは、「派閥依存症」である・・・筈なのです。集団幻想の暴走・・・それがおそらく、宮崎市定氏が警告するところの、「文明の爛熟がもたらす病弊」なのでは無いでしょうか・・・

派閥への心理的依存・・・
ここに、古代文明社会の祭政一致体制、絶対権力の始原を見たいと思います。

人間の欲の中で、一番強いのが、おそらくは集団欲。もともと、人間は常に孤独感を埋める事を欲する、(たぶん愚かで)か弱い生き物です。「集団依存」は、狂いやすく壊れやすい人間の精神を保護するためにも、必要不可欠のものであると言えましょう。

そして人間は、孤独感が埋まる安堵感を通じて、ある種の催眠状態に落ちてしまい、周囲が見えなくなることがあります。メサイア(救世主)という権威の光が生み出す魅惑の乱反射、ありとあらゆる錯覚・・・現実と虚構とが入り交ざってしまう・・・集団幻想、という現象が起こりやすい・・・

悲劇が起こるのは、その依存先の集団が、きちんとした現実多層の絆で結ばれた家族や友人ではなく、壊れてしまった家族や友人(例えば無理心中や集団自殺に誘う友人)であり、派閥やカルトといった、シンプルな利害原理のみで築かれている集団である時・・・

本来フラットであるべき仮想人格が、ネットあるいは派閥といった仮想人脈の時空で起こる様々な問題により(カルトの場合は何らかの呪術?により)、「感情」を増幅させられる。ついにはその「感情」が、本人の現実の人格を占領し、最悪の場合、破壊してしまう事がある・・・

・・・政治のジャンルで思い出すのは、ヒトラーやスターリンです。彼らは、知性や感覚には異常が認められないので、いちおう狂人では無いらしい、ですが、情操・・・情緒といったところで、深刻なクラッシュを起こしていたのでは無いでしょうか・・・(派閥社会がもたらした苛酷な重圧によって素朴が吹き飛んだ人物、六道輪廻でいう地獄道的人物である、と思っています)

政治界でも、宗教界でも、「依存」と「依存症」は紙一重。この区別は難しいです。「集団幻想」と「メサイア幻想」とが交差し、分断し、生成する人の心のラビリンス、この無限の狂える境界。うつ病に対するセラピーも、この混沌たる領域において行なわれる・・・訳ですが・・・

自覚できない「依存」は、盲目のパッション・・・闇の迷宮。
・・・やがて人は、その迷宮の奥に、美しい灯りを見つけるでしょう・・・
しかし、その灯りは、ミノタウロスの庭園の灯にほかならないのです――

(・・・くだんの知人から、逆に色々学んだような・・・^^;)

派閥の病弊・・・集団幻想がもたらす迷宮の催眠術を見切ってゆくために――個人に必要なのは、自覚。「依存」をコントロールする自覚が出来るかどうかで、明確に異なってくる筈なのです。最終的には、自分の力で、精神の宇宙における自立を果たす事、が理想なのでは無いでしょうか・・・

ちなみに、派閥が完全に悪なのか、というと、現実にはそうでも無いらしいのです。シンプルな利害原理で動く分だけ、条件が揃えば、不倶戴天の敵と同盟を結ぶとか、不可能な事を可能にしてしまったりしている・・・それで最悪の局面、たとえば戦争が回避できたりする訳ですね。さすがに集団ファシズム化や集団カルト化は論外ですが・・・^^;

後篇はオカルトと心理学になってしまいましたが、派閥の力学・・・
派閥の迷宮に棲む「ミノタウロス」を見切るための、何らかのヒントになれば幸いです・・・

このささやかなシリーズエントリが、いつかどこかで、
誰かのお役に立てればいいな・・・と思いつつ。

PR

派閥の力学・考(中篇)

ちょっと思いついた事があったので、編集し直して、中篇を入れました。中篇は、文明社会と派閥との関わり・・・という感じの話です。

文明主義の別の姿とは、「派閥主義」では無いだろうか・・・と思いついたのは、以前に読書した本の内容が、いつまでも心にひっかかっていたからなのです・・・

宮崎市定(礪波護・編)、『中国文明論集』、岩波文庫1995。
「素朴主義と文明主義再論」の章。

この章の内容については、改めて感想を書き直して、ホームページに掲載してみようかなと思っています。心にひっかかった文章を、以下に適宜、引用します・・・


【引用始】・・・およそ文明というものは、進歩するに伴って必ず一方では毒素が発生して堆積し、やがてはその社会を腐敗させ、崩壊させてしまうのが、これまでの歴史が辿る運命であった。

中国もその例に洩れないが、ただし中国ではそういう場合に、周囲の未開な異民族が中国文明の刺激を受けて成長し、やがて中国に侵入してこれを占領支配する。これは中国社会にとっては災厄であるが、しかし新しい支配者の下で秩序が恢復されると、中国社会は再び新しく生気を取り戻して復活し、従前にも増して積極的な活動を開始する。

その最近の例は明に代って中国を支配した満州族の清朝の場合である。明政府の下では乱れに乱れて手のつけられなかった中国の社会が、清朝が統治すると空前の繁栄を誇るようになる。これは歴史上の事実であって、何人も疑うことができない。このような対立を私は素朴主義の民族と文明主義の社会と名づけて、過去の沿革を辿ってみたのである。・・・(中略)

・・・四人組時代の紅衛兵の狂態は、他の国では考えられぬ極めて特異な現象である。これは文明の爛熟しきった老大国にして初めて起こりうるもので、私の言う文明主義の病弊である。国を挙げて狂うが如く、一切の産業施設を破壊し、学校の教育設備にまで暴力の手が及んだ。

この騒動で最も悪い点は、その裏に、利己的な打算が匿されていたことである。自己を顕示し、自己の地位を上昇させんがための暴力競争であって、言わば科挙と同じ原理の上に立っていたのである。この点はフランスの五月騒動と全く性質が異なる。

紅衛兵の輸入が行なわれかけた日本では、さすがにそこまで文明主義が爛熟していなかった。しかし相当な打撃を蒙ったことは事実で、余燼は未だに燻っている。

日本はもともと素朴主義の民族であったが、明治以後、国力の進展と共にその変質が始まった。不幸なことに一番早く腐敗し出したのが軍部であった。殊に支那事変と称せられる中国との交戦以後、権力が軍部に集中すると、本来は素朴主義の中核たるべき本山の軍部が、国民の困苦を他処にして、一路堕落の淵へ落ち込んで行った。無名の師を起こしては、代る代る凡庸な将軍連が出征し、戦線を拡げて帰って来ては大きな勲章にありついた。これは中国で科挙と並行して行なわれた軍人の科挙、すなわち武挙の精神なのである。

これには満州事変の火元である石原莞爾がすっかり失望した。現役の師団長であった彼が京都大学在郷将軍団に招かれて来て講演し、上級の軍人精神がいかに堕落しているかを、無念の涙をおさえながら告発した。その師団長の車の傍に、東条方の憲兵が絶えず付き纏って監視していたのも異様な光景であった。

(コメント)ここの部分は、何だか昔の話ではなく、現在進行中の話のような気がして、ちょっと鳥肌が立ちました。派閥につきものの「暴力競争」、「武挙の精神」の部分を、「改革&グローバル」金融経済が牽引する過剰な投機競争に置き換えてみると、今の社会経済のヒートアップ状態が恐ろしいと思われました。

一方蒋介石の国民政府は、日本軍と交戦する度に強くなった。どうやら日本が放出した素朴主義を吸い取ったかに見えた。・・・(中略)・・・しかし、日本軍が敗退して、久しぶりに繁華な大都会を奪回すると、もういけない。今まで国難に際して引っこんでいた文明主義が一挙に表面まで吹き出してしまったのである。共産軍の侵攻にあたって、まことにあっけなく大陸の全領土を譲り渡さねばならなかった。

国民政府に代った中国共産党は、辺境の地に雌伏している間に、中国が忘却していた素朴主義を復活したかに見え、これこそ中国の文明主義社会に対する救世主かと思われた。ところがこの共産党も、前の国民政府と同様、海岸地域の文化先進地帯に足を踏み入れると、たちまちどこかがおかしくなってきた。党の首脳から何度か形を変えては、整風運動が発令された。四人組時代の紅衛兵騒動も本来の趣旨は、一種の整風運動であり、私に言わせれば素朴主義への復活を目的としたものの如くであった。ところがそれが文明主義の社会の中で動き出すと、収拾のつかぬ大混乱を世上に巻き起こすだけの結果となったのである。・・・(中略)

・・・敗戦直後の日本は総てのものを失った廃墟の上に立たされた。東亜におけるどの民族よりもみじめな状態におかれた。しかし困苦の中にも何とか立ち直ったのである。……国勢を盛り返すには働くより外はない。決して自民党政権を謳歌するのではなかったが、政権交代による時間のロスが惜しかったのである。・・・(中略)・・・日本の社会は戦時中の腐敗した首脳が敗戦によって一掃されると、本来の面目を取り戻した。素朴主義はまだ日本社会の底辺に温存されていたのである。

日本は、明治維新直後の近代化に続いて、戦後二度目の産業復興という奇蹟に近い放れ業を演じたことになる。しかしこの成功が急激に齎されただけに、その間に各種の矛盾を内蔵していることは避けられない。素朴主義は決して民族に先天的に具わっているものではない。歴史によって培われて成長したものである以上、また環境によって衰退する。素朴主義の発するエネルギーが、どこまで続くかが今後の問題である。

職業の区分の上から言えば、美術、音楽、文芸、学術などの分野は、最も文明主義の弊害に侵されやすい性質をもつ。これらの職種は本質的に個性的であるが故に、同時に個人主義的であり、孤立的であり、しかも一方、名声や営利と離れ難い。だから文明主義の害毒はしばしば社会の最も綺麗であるべき分野の、しかもその頂上から始まることが多い。更にその病弊は潜伏して拡大する傾向があって、世人の目に触れにくい。一、二の発覚した事例は、その幾十層倍もの事実を物語るものとして警戒するより外ないであろう。

(コメント)案外、真実を衝いている感じです。たとえば熱狂的な愛国心で名高い某隣国は、本来、純粋な人間の物語であり学問であるべき歴史ジャンルを、派閥の都合でメチャクチャに足蹴にしてしまっています。(と、思われます。)その結果、歪んでしまった知識が猛烈な毒素となって、国家組織そのものに悪影響を及ぼしているような・・・

・・・日本人が私の本から、素朴主義とはいかにうつろいやすく、はかないものであるかを知って、自戒してもらうのでなければ、私の本は全く期待外れに終わったことになる。【引用終】

(コメント)個人的には、すごく心に残った警句でした。愛国心にしても、熱狂的な愛国心と素朴な愛国心とは、割に異なるもののように思えます・・・社会が荒れ出したりすると大変むずかしくなる事ですが、「一、二の発覚しうる事例」には、出来る限り敏感でありたいなと思います。

派閥の力学・考(前篇)

毎度のおっとりペースで、ずっと前に福田氏と麻生氏の一騎打ちとなった総裁選(自民党総裁選の投開票日2007.9.23)があったのを思い出した後、しばらくじーっと考えておりました。

福田氏も麻生氏も、派閥の都合で総裁に決まってゆく、という運命から自由では無いのだな・・・と思った出来事でした。一見「民主主義」という顔をしていても、実際の政治は異なるのだ・・・と感じたきっかけが、この出来事。

これはもしかしたら、縁起のレイヤーに関わってくるお話かも知れない・・・と思ったのですが・・・どうなのでしょうか、少しどきどきです。

縁起のレイヤーの変種(?)としての、「派閥」・・・派閥人脈というのは不思議です。「好き嫌い」や「相性」や「志」ではなく、純粋に利害関係のみで繋がる人間関係。不倶戴天の敵とさえ、固く手を結ぶ事を可能にする人脈・・・(もしかして、これも地政学要素だったりするのかな・・・と思っていますが、よく分かりません・汗)

財力と軍事力(または暴力)を背景とした心理的圧力(権威)による、人脈の囲い込み。タイミングと謀略と心理戦と雄弁が幅を利かし、敗れ去った者の怨念のみが増大する、不穏なシロモノ・・・

利害関係のみで成り立つレイヤー、であるが故に、宗教や思想すら、派閥を保証するための道具でしか無い、のかも知れません。イデオロギーは、派閥を固め、派閥内の権力を演出するための道具でしか無い・・・時には、強すぎる宗教心や愛国心をつなぎの道具としていたり・・・とか、と想像。

人脈にすがって、あわよくばライバルを足蹴にして・・・この世の最強の権威と権力を独占しようとする人、人、人。『ロード・オブ・ザ・リング』で描かれた、黄金の指輪の呪いさえ浮かび上がってきそうな光景です。

おそらく、複数の部族がその境界を接触し、覇権を争い始めたときから始まる、最も古いレイヤーかも知れない、と想像する部分もあります。文明の発祥と時期を同じくしているかも知れません。文明主義とはその実、派閥主義なのかも知れない・・・

古今東西の政治を裏から動かしてきたのが、この「派閥」というシステムで・・・この得体の知れないレイヤーは、派閥における最大利得を求めるために、戦争すら起こすものなのだ、と。戦争を起こして、その残骸から更に利得を求めようとしたり・・・

空虚になる。――色々な出来事に関わりすぎると、ますます自分の力が残り少なくなってゆく。だから、大政治家達は、全く空虚な人間になる事がある。それでいて彼らもかつては充実した豊かな人間であったかも知れないのだ。

・・・と、ニーチェは言います。派閥のある限り・・・勝ち組といえども、ひと群れの生ける屍、なのかも知れません。

光に向かって。――人間が光に向かって殺到するのは、もっとよく見るためにではなく、もっとよく輝くために、である。――その人の前に居れば自分も輝くような人を、世間の連中は好んで光と見なしたがるものである。

・・・実際の屍となり果てても、人は、黄金の指輪を決して捨てようとはしない・・・

(・・・暗すぎるかな・・・)^^;;;;

でも「人」はそれだけの存在では無くて、もっと複雑な生き物ですから、歴史を調べていて、思いがけないところでホッとしたり、面白かったりもするのであります。命をすり減らしてゆく派閥の重圧の中にあって、キラッとひらめくのが、素朴な友情であるように思いました。漢詩が「友情」を大切なテーマにしているのも、うなづけるところであります^^