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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

トールキン「神話を創る」

「神話を創る」――J.R.R.トールキン

神話は嘘の話、だから価値がない、たとえ
銀の笛で奏でられようと、と言った人へ

フィロミュトスよりミソミュトスへ(神話を愛する人から神話嫌いの人へ。即ちトールキンからC.S.ルイスへ)

君は木を見て、木と名づける、
(なぜなら木は〈木〉だし、生えるは〈生える〉だから)。
君は地球を歩く。宇宙にあまた在る
小惑星のひとつをもったいぶって踏みしめる。
星は星だ、なにやら球形をした物質で、
冷たい無限の空間を厳密に編成された
道のりに従って動いている、
毎秒、定めのままに、無数の原子が死にゆくなかを。

大いなる意志にわたしたちは従う(従わねばならない)が、
ただぼんやりと知るだけで、
大いなる行進は続き、〈時〉は
暗い始まりから不確かな目的地へと開示してゆく、
筋書がわからない物語を。
文字と色もあやに描かれた
無数のかたちが群れなして現れる。
恐ろしいもの、か弱いもの、美しいもの、奇妙なもの、
それぞれ異質であって、しかもひとつのはるかな
始原の裔(すえ)である、蚋(あぶ)、人、石、そして太陽。
神は石質の岩石、樹木のかたちの木木、
地球のかたちの地球、星型の星、そして
地上を歩き、光と音に触れると
うずいて震える神経を持ち、人のかたちをした人をお創りなされた。
海のうねり、木木の枝を吹く風、
緑の草、ゆっくり動く大きくて奇妙なかたちの牛、
雷と稲妻、空に輪を描き飛び鳴く鳥、
泥から這いあがって、生きて、死ぬなめくじ、
みな、ひとつひとつ
脳のしわにきちんと刻まれている。

木はまだ〈木〉ではない、木と名づけられて、見られるまでは。
人が言語のこみいった息づかいを解きほぐすまで、
木は木という名前を持たなかった。まだ世界の
発する微かなこだまとおぼろげな絵、
音もかたちも捕えがたい
予見、判断、そして笑い。
木木や獣たちの星星の生死を告げる
深い動きに心動かされて
人は木を木と呼んだのだ。
見えない壁を掘り崩し、経験から先見を見つけ
感じたことから知識を掬い分けて、
囚われていたものを解き放った。
人はゆっくりと自らのなかから偉大な力を採り出した。
振りむくと妖精たちが
巧みに鍛冶場を作り、
秘密の織り機で光と闇を織り合わせるのを見たのだ。

古い歌に歌われた、花のように輝き燃える
力強い銀の星を見た人こそが、
空の星を見るのだ。その歌の
名残のこだまを、人は
追い求めて来た。神話が織りなし、
妖精が宝石をちりばめ飾った
空の天幕がなかったら、大空は無く、空虚あるのみ。
大地もない、命の源である母の胎(はら)がなかったら。
人の心は嘘でできているのではなくて、
全知の神からいくばくかの知恵を仰いだものとして、
いまなお神を想いおこす。楽園を追われて久しくとも、
人は堕落しきったのでもなく、まったく変わってしまったのでもない。
神の恩寵を汚したかもしれないが、被造物の王座を追われてはいない。
かつてまとうていた王の衣、その破衣(やれい)を、
世界の主権を、創造という行為を通してまだ持っている。
巨大人工物など崇めようとは思わぬ。
人は準創造者、屈折した光、
唯一の神の純白の光を多様な色に分け、
無数の組み合わせによって、
心から心へと伝わる生きたかたちを創る者。
わたしたちは、世界中の大地の裂け目を
妖精や小鬼で満たし、大胆にも闇と光から
神々を創り、神の館を建て、竜の種を蒔いた。
創ることは人の権利だ(善く使われたこともあるし、悪用されたこともあるが)。
この権利は衰えていない。今なおわたしたちは
神の定めた掟のままに創造するのだ。

そうなのだ! 願いをかなえる夢をわたしたちは紡ぐ、
臆病な心と醜い事実を打ち負かすために。
願いはどこから、夢見る力はどこからくるのか?
そして善いもの、醜いものを知り分ける力は?
すべての願いは無駄でなく、わたしたちはいたずらに
願いをかなえようとするのではない。ただ痛み苦しみは
願い下げだ、悪いものだから。
願いを叶えようと焦るのも、願いを抑えるのも、
ひとしく神の恩寵に背くこと。そして悪についておそろしくも
確かなのは悪は存在するということだ。

幸いなるかな、臆病な人よ。悪を憎み、
悪の影に脅えながらも、門を閉ざして、
会うことをこばみ、狭く家具もない部屋にひきこもって、
ままならぬ織り機に向かい、影の支配のもと
希望と親交の揺らぐことなかった昔日の
金箔を施した薄絹を織る人よ。

幸いなるかな、ノアの一族よ、小さな箱舟を作り、
もろく積荷も乏しいながら、逆風のなか、
信仰の導くままに、人びとの噂をつてに
まぼろしの港に向かって漕ぎ進んだ人びとよ。

幸いなるかな、伝説の作り手よ、
有史以前のことどもを詩に歌った人びとよ。
彼らは夜を忘れなかった。
物質的快楽を求めて、蓮食い人の住む島の
組織ぐるみの歓楽に逃避せよと命じたり、
キルケのキスをいたずらに約束などしなかった。
(それは、機械で作られた偽の誘惑、
二重に誘惑された者の偽の誘惑というものだ。)

そのような島島、さらに美しい島島を詩人たちははるかに見た。
その話を聞くものは今なお用心するがよい。
詩人たちは死と究極の敗北を見たのだが、
それでも絶望して退こうとはしなかった。
幾たびも竪琴を奏でて勝利に導いた。
心に伝説の火をともし、
現在と暗い来し方を、人がまだ目にしたこともない
太陽の光で照らし出した。

わたしは吟遊詩人とともに歌い、
目に見えぬものを竪琴の震える弦に呼びおこしたい。
険しい絶壁で細長い木を伐りだし
あてもないさすらいの旅に船出して、
伝説の西方の国のかなたに行ったという、
大海原の船乗りたちとともに旅したい。
わたしは愚者たちとともに語り伝えられたい。
隠れ家に金の原石を僅かながらも蓄えて
はるかな古(いにしえ)の王のおぼろげな像をかたどって、
目に見えぬ神の輝く紋章を
不思議な旗に織り上げる愚者たちとともに。

わたしは、君の直立した賢い
進歩的なサルといっしょには歩くまい。その進歩の
行く手には闇の地獄が口をあけているから――
神の慈悲によって進歩が止まるのでなければ。
名前を変えるだけで、絶え間なく
無益な進行を繰り返すだけならば。
わたしは君のほこりまみれの単調な道を
あれこれにあれこれと印をつけながら行きたくはない。
君の変化にとぼしい世界の中では、小さな作り手が
作る技を生かす場所を持てないからだ。
わたしはまだ鉄の王冠に屈しない、
わたしはこの小さな黄金の笏を捨てはしない。

天国で、時として、永久不変の白昼から
目をそらし、太陽に照らされた地上の
真理の似姿を思い起こすことがあるかもしれない。
そして天国を目のあたりして、すべてはあるがままで、
しかも解き放たれて自由であるのを見るであろう。
主なる神の救済は変わることなく、
庭も庭師も、子どもも玩具も、破壊されることはない。
目は悪を見ないであろう、なぜなら悪は
神の描く絵にはなく、ゆがんだ目の中にあるからだ。
起源にはなく、邪悪な選択にあるからだ。
音にではなく、調子はずれの声にあるからだ。
天国で、人びとはゆがんだ目で見ることはない。
新たに作るけれども、嘘は作らない。
人びとはなおも作ると信じるのだ、死んではいないのだから。
詩人は頭上に炎を戴き、
竪琴がそのあやまたぬ指に天降るであろう。
天国では、ひとりひとりが、永遠に、森羅万象から選ぶのだ。

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鑑賞:世界夫人

原詩ヘルマン・ヘッセ,植村敏夫訳/作曲・編曲 Pantax's World

世界は がらくたの中に横たわり
かつてはとても愛していたのに
今 僕等にとって死神はもはや
それほど恐ろしくはないさ

さようなら世界夫人よ さあまた
若くつやつやと身を飾れ
僕等は君の泣き声と君の笑い声には
もう飽きた

世界は僕らに愛と涙を
絶えまなく与え続けてくれた
でも僕等は君の魔法には
もう夢など持っちゃいない

さようなら世界夫人よ さあまた
若くつやつやと身を飾れ
僕等は君の泣き声と君の笑い声には
もう飽きた
コメントメモ=アムゼルさま
「頭脳警察」というのは1970年前後にいわゆる「新左翼」系学生大衆に非常に人気のあったロックバンドです。当時の共産同赤軍派のマニュフェストをアジ演説調に叫んだり、風俗関連の俗語をとりいれたりと過激な歌詞で人気を集めました。そのなかでは『さようなら世界夫人よ』は異色でヘッセの詩をもちいた素敵なバラードでした。ぜひ聞いていただきたいのですがねえ・・・風潮は左に大きくぶれていたような時代でしたが、実はわたしのような右も左も区別せず好きなものは好きというノンポリが学生や高校生の大部分だったのです。特にロックのようなサブカルチャーは政治的メッセージの部分はすぐに色あせて、この歌のようなポエジーのあるものだけが心に残るのですねえ。

グリーン・エフェメラル

【グリーン・エフェメラル考…緑白(あおじろ)い宇宙観】

今回のエントリは、「なんちゃって断章」としてまとめてみました

「坂下宿」で引用していた、道元『正法眼蔵』の私的解釈といったものになります。『深森の帝國』ならではの、「色眼鏡がかかった解釈」なので、その点ご了承いただければ、幸いです…(正統なアカデミズムにのっとった解釈ではありません)

『正法眼蔵』のエッセンスが濃密に詰まっている…と感じているのが、山頭火の以下の俳句であります…(それで、時代考証を無視して、「坂下宿」に引用したのであります)

生(しょう)を明(あき)らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり(修証義)
生死(しょうじ)の中の雪ふりしきる…(山頭火)

ここからが、当サイトならではの解釈…「グリーン・エフェメラル考」になります。

宮澤賢治の作品に、以下のような歌があります。

そらに居てみどりのほのほかなしむと地球のひとのしるやしらむや…(宮澤賢治)

この作品を知ったのは割と最近のことなのですが、ほのかな幽体離脱感覚が感じられて、それなりに宇宙的オカルトな歌である…と思っています。なにげに伝統的和歌の範囲も拡張しているらしいのが、また興味深いなという感じです…

宮澤賢治が、本当に幽体離脱体験をしていたかどうかは知りません。ただ、かれは若くして結核をわずらったと言われており、死線をさ迷い続けた時間は、とても深い体験をもたらし続けていた時間でもあったのだろう…と推測するのみです。

昔、個人的に…理由は分かりませんが、宇宙遊泳感のある作品を作った事があります。実を言えば、『深森の帝國』物語そのものの序詩として『深森の鎮魂曲』という詩歌を作っていまして、この作品の、特に「みどりのうみ…」の部分の元となったイメージでもあります:

電場磁場あやと織り成すその果てにプラズマ燃える地球磁気圏…私製

作ったその当時は、まだどのように説明したらよいのか分からずに放置していたのですが、その後、宮澤賢治の歌を知り、山頭火と『正法眼蔵』を知り、今回の物語シーンを構想してみて、個人的にだんだん納得してきた…という気分であります。

(何はなくとも、物語は作ってみるものですね…)

私製の上の歌は、読んで分かるように、オーロラ現象を歌ったものです。

オーロラは、大気中の原子がプラズマ粒子によって励起され発光する光の集合体です:

  • 上空=濃密な酸素原子=レッド
  • 中空=希薄な酸素原子=グリーン
  • 低空=希薄な窒素原子=パープル&ピンク

(参考)オーロラについて詳しいサイト:[オーロラのしくみ

よく見られるのは、希薄な酸素原子が発する緑の炎だそうです。原子核の周りに不確定性の渦を巻いて回転し続ける電子軌道、その軌道の高揚の命はあまりにも短く、その短い一瞬が、あのような美しい緑の…緑白(あおじろ)い光を生み出す。

そして、希薄な大気の中、次にどの酸素原子の軌道が燃えるのかは、まったくの未知の領域にあります。過去にどの原子の軌道が燃えたのかは、分かっている…しかも、その記憶はだんだん薄れてゆくものです。そして、未来にどの原子の軌道が燃えるのかは、分からない。

…「今」という時空は、厳粛なる運命の〈遭遇〉で出来ている…

地球の生命を支える酸素が出す、一瞬の緑の炎…緑のアラベスク。この地球においては、生の贈与も、死の贈与も、酸素の役割…生命に欠かせない水もまた、そうです。水は、水素と酸素の化合物です。

グリーン・エフェメラル…たまゆらの、プラズマの火花。この現し世に、たまさかに映し出されて輝く、一期一会の命の息吹き。(霊能者みたいに「謎のビジョン」で見たわけではなく、単にオーロラの記録動画をじーっと見て、ふと思った、というだけの事ですが…)

個人、個人、というローカルな地球人(アーシアン)の〈場〉も、そのようなものかも知れません。

泉の底のエリキシル…と仮に名づけてみた、そういう、目を開けていられないほどのまばゆい永遠の光に貫かれて、たまさかのこの現し世に、「地球」という名を授かった深い闇の中に、「命」という名前のオーロラを映し出す。

さらに言えば、「宇宙」という事象もまた、時空マトリックスの闇の中に、たまさかに輝くグリーン・エフェメラルでは無いでしょうか…「グリーン・エフェメラル」。当サイトの言葉でイメージングするなら、「みどりのうみ」であり、「深森の鎮魂曲」であります…

電場と磁場の中を揺らぎ続ける、無数の星々の不確定性潮流…自らの重みで重力場を作りながらめぐり続ける生と死の渦巻き、巨大な幻影の中の乱舞。

<渦巻きに関する考察は、螺旋という象徴図形の考察にもつながり、自分でも訳が分からなくなって混乱してくるので、省略です。

…以上のように、『正法眼蔵』の奥義を、詩的に想像してみましたが…

さしたる霊感も無いですし(霊的知識はもっと無いですし)、理系知識の地道な延長に過ぎない平凡なもので…自分が説明できる「何か」と言っても、こんなものだろうなと思いつつ…;