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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

鑑賞:世界夫人

原詩ヘルマン・ヘッセ,植村敏夫訳/作曲・編曲 Pantax's World

世界は がらくたの中に横たわり
かつてはとても愛していたのに
今 僕等にとって死神はもはや
それほど恐ろしくはないさ

さようなら世界夫人よ さあまた
若くつやつやと身を飾れ
僕等は君の泣き声と君の笑い声には
もう飽きた

世界は僕らに愛と涙を
絶えまなく与え続けてくれた
でも僕等は君の魔法には
もう夢など持っちゃいない

さようなら世界夫人よ さあまた
若くつやつやと身を飾れ
僕等は君の泣き声と君の笑い声には
もう飽きた
コメントメモ=アムゼルさま
「頭脳警察」というのは1970年前後にいわゆる「新左翼」系学生大衆に非常に人気のあったロックバンドです。当時の共産同赤軍派のマニュフェストをアジ演説調に叫んだり、風俗関連の俗語をとりいれたりと過激な歌詞で人気を集めました。そのなかでは『さようなら世界夫人よ』は異色でヘッセの詩をもちいた素敵なバラードでした。ぜひ聞いていただきたいのですがねえ・・・風潮は左に大きくぶれていたような時代でしたが、実はわたしのような右も左も区別せず好きなものは好きというノンポリが学生や高校生の大部分だったのです。特にロックのようなサブカルチャーは政治的メッセージの部分はすぐに色あせて、この歌のようなポエジーのあるものだけが心に残るのですねえ。
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グリーン・エフェメラル

【グリーン・エフェメラル考…緑白(あおじろ)い宇宙観】

今回のエントリは、「なんちゃって断章」としてまとめてみました

「坂下宿」で引用していた、道元『正法眼蔵』の私的解釈といったものになります。『深森の帝國』ならではの、「色眼鏡がかかった解釈」なので、その点ご了承いただければ、幸いです…(正統なアカデミズムにのっとった解釈ではありません)

『正法眼蔵』のエッセンスが濃密に詰まっている…と感じているのが、山頭火の以下の俳句であります…(それで、時代考証を無視して、「坂下宿」に引用したのであります)

生(しょう)を明(あき)らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり(修証義)
生死(しょうじ)の中の雪ふりしきる…(山頭火)

ここからが、当サイトならではの解釈…「グリーン・エフェメラル考」になります。

宮澤賢治の作品に、以下のような歌があります。

そらに居てみどりのほのほかなしむと地球のひとのしるやしらむや…(宮澤賢治)

この作品を知ったのは割と最近のことなのですが、ほのかな幽体離脱感覚が感じられて、それなりに宇宙的オカルトな歌である…と思っています。なにげに伝統的和歌の範囲も拡張しているらしいのが、また興味深いなという感じです…

宮澤賢治が、本当に幽体離脱体験をしていたかどうかは知りません。ただ、かれは若くして結核をわずらったと言われており、死線をさ迷い続けた時間は、とても深い体験をもたらし続けていた時間でもあったのだろう…と推測するのみです。

昔、個人的に…理由は分かりませんが、宇宙遊泳感のある作品を作った事があります。実を言えば、『深森の帝國』物語そのものの序詩として『深森の鎮魂曲』という詩歌を作っていまして、この作品の、特に「みどりのうみ…」の部分の元となったイメージでもあります:

電場磁場あやと織り成すその果てにプラズマ燃える地球磁気圏…私製

作ったその当時は、まだどのように説明したらよいのか分からずに放置していたのですが、その後、宮澤賢治の歌を知り、山頭火と『正法眼蔵』を知り、今回の物語シーンを構想してみて、個人的にだんだん納得してきた…という気分であります。

(何はなくとも、物語は作ってみるものですね…)

私製の上の歌は、読んで分かるように、オーロラ現象を歌ったものです。

オーロラは、大気中の原子がプラズマ粒子によって励起され発光する光の集合体です:

  • 上空=濃密な酸素原子=レッド
  • 中空=希薄な酸素原子=グリーン
  • 低空=希薄な窒素原子=パープル&ピンク

(参考)オーロラについて詳しいサイト:[オーロラのしくみ

よく見られるのは、希薄な酸素原子が発する緑の炎だそうです。原子核の周りに不確定性の渦を巻いて回転し続ける電子軌道、その軌道の高揚の命はあまりにも短く、その短い一瞬が、あのような美しい緑の…緑白(あおじろ)い光を生み出す。

そして、希薄な大気の中、次にどの酸素原子の軌道が燃えるのかは、まったくの未知の領域にあります。過去にどの原子の軌道が燃えたのかは、分かっている…しかも、その記憶はだんだん薄れてゆくものです。そして、未来にどの原子の軌道が燃えるのかは、分からない。

…「今」という時空は、厳粛なる運命の〈遭遇〉で出来ている…

地球の生命を支える酸素が出す、一瞬の緑の炎…緑のアラベスク。この地球においては、生の贈与も、死の贈与も、酸素の役割…生命に欠かせない水もまた、そうです。水は、水素と酸素の化合物です。

グリーン・エフェメラル…たまゆらの、プラズマの火花。この現し世に、たまさかに映し出されて輝く、一期一会の命の息吹き。(霊能者みたいに「謎のビジョン」で見たわけではなく、単にオーロラの記録動画をじーっと見て、ふと思った、というだけの事ですが…)

個人、個人、というローカルな地球人(アーシアン)の〈場〉も、そのようなものかも知れません。

泉の底のエリキシル…と仮に名づけてみた、そういう、目を開けていられないほどのまばゆい永遠の光に貫かれて、たまさかのこの現し世に、「地球」という名を授かった深い闇の中に、「命」という名前のオーロラを映し出す。

さらに言えば、「宇宙」という事象もまた、時空マトリックスの闇の中に、たまさかに輝くグリーン・エフェメラルでは無いでしょうか…「グリーン・エフェメラル」。当サイトの言葉でイメージングするなら、「みどりのうみ」であり、「深森の鎮魂曲」であります…

電場と磁場の中を揺らぎ続ける、無数の星々の不確定性潮流…自らの重みで重力場を作りながらめぐり続ける生と死の渦巻き、巨大な幻影の中の乱舞。

<渦巻きに関する考察は、螺旋という象徴図形の考察にもつながり、自分でも訳が分からなくなって混乱してくるので、省略です。

…以上のように、『正法眼蔵』の奥義を、詩的に想像してみましたが…

さしたる霊感も無いですし(霊的知識はもっと無いですし)、理系知識の地道な延長に過ぎない平凡なもので…自分が説明できる「何か」と言っても、こんなものだろうなと思いつつ…;

アイルランド民謡「詩人トマス」

サンザシやイバラが小暗く茂る
 かなたに細い道が見えるでしょう?
たずね行く人は稀だけれど
あれこそは正義の小道。

そしてかなたのユリの花咲く野原をよぎる
 広い、広い道が見えるでしょう?
天国への道と呼ぶ人もいるけれど
 あれこそは邪悪の道。

そしてまた、シダの茂るあの丘を巡って
 美しい道が見えるでしょう?
あれこそは、今宵あなたとわたしがともに行く
美しい妖精国への道なのです。

―アイルランド民謡「詩人(うたびと)トマス」より

※トマス=13世紀ごろのスコットランドの預言者、詩人。妖精の国の女王に愛されて、妖精国に滞在、預言の能力を得たという。


妖精国の魔法は魔法のための魔法ではない。魔法の効き目が大事なのだ。たとえば人間のもっとも深い願望を満足させること。時空の底知れない深みを知りたいとか、あとで述べるように人間以外の生きものと話したいという願い。機械や魔法を使っても使わなくてもいいが、そのような願いをうまく満たしているかどうかが、妖精物語としての良さと味わいの決め手になるのである。

わたしが、旅人の物語の次に除外したい、あるいは規定外としたいのは、夢物語だ。不思議な出来事ははっきりとあるのに、それは人が眠っていて見た夢だったと説明するような夢の仕掛けを利用した話はすべて規定外だ。たとえその夢の話が妖精物語の諸条件を満たしている場合でも、わたしはどうしようもない欠陥品だと断じたい。不細工な額縁がせっかくのよい絵をだいなしにしているようなものだからだ。

たしかに夢は妖精国と無関係ではない。夢のなかでは人の不思議な力が解放される。ほんの一瞬、人は妖精国の魔力を持つことがある。すると物語が生まれ、形や色が生命を帯びて目に見える。実際に眠っていて見る夢がまるで魔法のようにそのままうまく妖精物語になることがある。しかしちゃんと目を覚ましている物語の作者が、この話は睡眠中に夢見ただけのものです、などといったら、それは妖精国の核心にある願い、(夢をつぶぎだした人の心とはまた別に)夢に見た不思議な世界が本物であってほしいと願う人の深い思いを、わざわざごまかすことになるではないか。

妖精が人間に幻覚や幻想(ファンタジー)を与えてだますという(嘘かまことかわからない)報告がたくさんあるが、これは人間の夢とは越に、妖精側の問題である。たしかに妖精にだまされたという物語はあっても、物語のなかに限りこの妖精自身は本物であって幻覚ではない。そしてこのような想像の背後に、実は人間の思いや意図とは別の、真の意思と力が存在するのである。

ともあれ、本物の妖精物語は、くだらない目的で作られた夢物語とはっきり違っていて、大事なのは、それがほんとうのこととして示されることである。(後略)

物語作者は、読者の心が入って行ける〈第二世界〉を創った。作者が物語ることは、その世界の法則に照らす限り「ほんとう」なのだ。読者はその世界の内側にいる限り、その世界がほんとうだと信じる。「不信」が頭をもたげたとたん、呪文は解ける、というより、芸術という魔法は失敗したのである。読者は再び第一世界に戻って、外側から、失敗に終わったちっぽけな第二世界を眺めることになる。

『妖精物語の国へ』J.R.R.トールキン、杉山洋子・訳(ちくま文庫2003年)