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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

断章・航海篇2ノ4

《豆知識&当時の国際情勢》

  • 東セム語=メソポタミア地方・・・アッカド語(アッシリア語・バビロニア語)
  • 西セム語=シリア・パレスチナ地方・・・アムル語、カナアン語、アラム語、古シナイ語
    (うち、カナアン語はウガリット語・フェニキア語・ヘブライ語・モアブ語を包摂)
  • 南セム語=アラビア・アフリカ地方・・・アラブ語、エチオピア語

当時の小アジア地方では印欧語系の言語が話されていた=ヒッタイト語。他に、系統不明だがフルリ語も話されていた。フルリ人はミタンニ王国などの小王国群を建国する。

ウガリット王国=東西交易路の要衝であったカナアンを押さえ、東西世界の結節点として栄えた商業王国。陸路・海路の中継貿易が盛んであった。古代東地中海の主要な貿易品として、錫、銅、金、銀、紫染料、ラピスラズリ、木材(レバノン杉)、馬、穀物、塩などが取引された。ウガリット王家は領内の商行為を保護し、それらの海上取引税、関税などは、ウガリット王国に莫大な利益をもたらした。

ヒッタイト、エジプト両帝国の間にあって、彼らの政治的抗争の中に巻き込まれざるを得ない環境の中にありながら、ウガリット王国は、他の周囲の小国群の動きにも同調せず、同時に、かなり自由のきく外交的ポジションを取る事が可能であった。ヒッタイト・エジプト両帝国が、商業貿易上に占めるウガリット王国の地位と働きとを認識せざるを得なかったから、これを利用していた故である(この当時のオリエント圏は、謀略と外交の渦巻く舞台であった。一つ間違えば国家消滅、まさに激動の時代である)。


【シュメール人の遺産・・・受け継がれた「死と復活」の神話】

シュメール人が語り継いできた「牧神ドゥムジ」、ないしは「タンムズ神」の物語は、「死と復活」の神々の物語として、その後の聖書神話・フェニキア神話・ギリシャ神話へ、大きな影響を及ぼした事が知られている。

前2000年紀から前1000年紀の古代オリエントでは、豊饒儀礼の整備に伴って、「死んで復活する神」の神話が広まっていた。冥界下りの神話として語られる物語群が、それである。

シュメール時代に好まれて『イナンナ女神の冥界下り』に語られた物語は、アッカド神話『イシュタル女神の冥界下り』として語られ、冥界の描写は『ギルガメッシュ』にも引用された。幾許かの例外はあるが、一連の冥界物語に、ドゥムジという複雑な神格の神(牧畜神/イナンナの夫)が登場するのである。

シナリオは様々であるが、イナンナとドゥムジは、半年間を基準として代わる代わる地上から居なくなる。これは季節の変動を暗示しているという説がある。牧神ドゥムジは次第に王と同化し、シュメールの王と女神官が各々ドゥムジとイナンナを演じて、豊饒を招来するための聖婚儀礼を行うようになったと言われている。

ドゥムジ神は、元々はシュメールの言葉で「ドゥズ」、より正確には「ドゥム・ジ・アブズ」、すなわち深淵の神エアの息子とされ、生長・繁茂の役割を持つ神とされていた。ドゥムジは、アッシリア・バビロニアに入って「タンムズ」と呼ばれるようになったが、ここでも同じ職能を担当し、半年間、冥界に閉じ込められるストーリーとなった。

豊饒儀礼に伴う「イナンナ、またはドゥムジ神の死と復活」の物語は、どの民族にも関心が高く、みるみるうちに神の名称と物語のシナリオを微妙に違えつつ、広範囲に広まったと推測できる。また、この物語は、古代牡牛信仰としての側面も持っており、ミトラ教との関連も深いと言われているのである。

ヘブライ語やアラム語でも、名前が訛ってタンムズ神と呼ばれた。メソポタミアからシリア・パレスチナに広まっていった「タンムズの死と復活」の神話は『旧約聖書』に取り入れられ、後にはアラブ世界にも取り入れられた。ユダヤ暦第4月、アラブ暦第4月の名前は、共に「タンムズ月」であり、古代には〝嘆きの儀礼〟が行なわれた事が知られている。

タンムズが地上に居る半年間は植物が繁茂し、動物が成育するが、タンムズが地下に居る半年間は成長が止まる。そこで泣き女たちが、タンムズが地上に戻るように、タンムズ月に「嘆きの儀礼」を行なうのである。地上に女たちが座って髪をふりみだし、胸を叩いて涙を流すという内容であり、春が到来する少し前の神話儀礼として、古代からオリエント圏では広く知られていたという事である。

「タンムズの死と復活」は、フェニキア地方に達し、キプロス・ギリシャへ伝播した。ギリシャに入ると、タンムズ神話はアドニス神話となる。「アドニス」とはセム語の呼格形「アドーナイ(我が主よ)」が訛ったものであり、タンムズの嘆きの儀礼で泣き女たちが発した呼び声が元となっていると言われている。

ついでながらギリシャ神話では、愛と美の女神アフロディテが美少年アドニスを愛したが、これを冥界の女王ペルセフォネに預けた事から争いが始まり、結局アドニスは半年ずつそれぞれの世界に身をおく事になった・・・というストーリーとなっている。なおアドニスは後には、森でイノシシに殺され、その血からアネモネが生じたとされているが、これはタンムズ神話の盛んだったレバノンで、春先にアネモネの赤い花々が一面に咲き乱れる事から現れた神話であろうと言われている。

イスラエル人は、バビロン捕囚の時代に、メソポタミア地方の標準暦(タンムズ月のある暦)を採用している。『聖書』はタンムズ信仰を偶像崇拝として非難しているが、このドゥムジ・タンムズに連なる「死んで復活する神」の系列が、「キリストの死と復活」の物語に影響を与えた事は否定できないと言われている。

※参考:『聖書(エゼキエル書)』に見るタンムズ儀礼への非難

8章14節:そして彼はわたしを連れて主の家の北の門の入口に行った。見よ、そこに女たちがすわって、タンムズのために泣いていた。
8章15節:その時、彼はわたしに言われた、「人の子よ、あなたはこれを見たか。これよりもさらに大いなる憎むべきことを見るだろう」。

・・・次回に続く・・・

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断章・航海篇2ノ3

【シュメール諸都市の物語・・・神は王権を授ける】

都市文明を築く事に成功したシュメールは、「王権は天から降ってくる」と考え始めた。

以後の時代のオリエント圏の物語は、「王権神授説」がスタンダードとなる。シュメール文明の末期、イシン・ラルサ時代に完成したとされる王名表(キング・リスト)によれば、「王権は天から降ってきたが、その後大洪水があってすべてが一新された」となっているという事である。そしてその後、諸都市の王の名前と覇権争いの顛末が、順次刻まれてゆくのである。

この王名表は、文書によって内容はまちまちだが、最初の都市エリドゥから最後の都市イシン(セム語族アモリ人国家)まで復元されている。

いわく、「天から都市Aに王権が降り、P王・在位Q年、R王・在位S年、…合計Z人の王がT年統治。都市Aが滅亡すると都市Bに王権が移行…、都市Bが滅亡すると都市Cに王権が移行…」と記されていると言う。

こうした文書は、王を戴いたオリエントの諸都市の中で次々に作成され、各都市の王権神話と分かちがたく結びついていった。いわく、「天から下された王権がこのような経緯を経て、現在のわが王朝に伝わったのである。天下に2人以上の王が並び立つ事は無く、我らは由緒正しき王統である」。

シュメール人は、伝説上の大洪水を「歴史の分水嶺」と捉え、神話に伝承した。その物語群が、オリエント交易路の一翼を担っていたヘブライ人の神話『旧約聖書』に取り入れられ、「ノアの洪水神話」という一大バージョンを生み出した事は、余りにも有名である。

メソポタミアの主要産業は農業であった。その収穫の成否は、都市の運命を左右した。灌漑組織の整備は文字通り国家の死活に関わっていたのであり、人民は毎年、運河整備や浚渫に動員されたという事が知られている。

水と人の闘い。シュメール神話における王権神話の基調音は、そこにある。そしてその物語は、水神エア(エンキ)と地母神ニンフルサグの闘争として伝えられた。この物語は、後にバビロニアの創世神話とも言われている『エヌマ・エリシュ』の起源となる。

ちなみに、バビロニア神話『エヌマ・エリシュ』では、バビロン市の神マルドゥク(古名=嵐の神エンリル)が、混沌の水の女神ティアマトの使わした各種怪獣の脅威と戦う物語・・・として再編集された。これは、オリエント文明における王権の確立に関わるもので、『旧約聖書』は洪水神話と共に、この王権神話をも受け継いだ。

シュメール神話には、「メ」という掟が述べられている事が知られている。一般に「規範/神の掟」という意味であるが、王権の維持や文化芸術の伝承に強く関連していたようである。

最古の都市エリドゥから新興の都市ウルクへ、王権ないしは文化芸術が移行した事を暗示する神話『イナンナ女神とエンキ神』がある。エリドゥの都市神が「全知全能にして水と深淵と知恵の神エンキ」で、ウルクの都市神が「天の女王にして愛と豊饒の女神イナンナ」である。

上の物語では、都市エリドゥを訪問したイナンナが、エンキを大量のビールやワインで酩酊させ、エンキが持っていた全ての「メ」(〝エリドゥの掟〟とも呼ばれていた)を首尾よく獲得し、「天の舟マアンナ」に積み込み、都市ウルクに帰還したという事が語られている。

都市ウルクでは、全ての人々が舟で到着した「メ」を喜び、あらん限りの歓迎をした。してやられたエンキは、正気に戻った後、イナンナの策略に感心し祝福したと言う。「メ」は元々抽象的なもので、「知識や芸道は、伝授しても減るものではない」という考えの下に、最後には都市エリドゥにも「メ」が復活した・・・と伝えられている。

以上のような物語は、「王権」と「繁栄」とが強く結びついていた事を暗示するものである。そして、それは、「メ」と称される「神々の掟」に結晶した《物語》であった。「世界を切り取る物語」は「世界を支配する〝絶対の掟〟の物語」となって、更に広範囲に伝播する事になったのである。

・・・付記:歴史に見る古代メソポタミアの伝統・・・

古代メソポタミア史の特徴として、「長期にわたる伝統の保持」「中央政権と地方分権との対立」の2点があげられる。

《長期にわたる伝統の保持》

古代メソポタミアにあっては、支配民族の変化による伝統断絶は、さほど大きなものでは無かった。むしろ伝統の継承が強く志向されていたのであり、そうした中で、前3000年紀に始発するシュメール・アッカドの伝統は、前2000年紀のバビロンにしっかりと受け継がれていった事が明らかになっている。

バビロンを支配したアムル人、カッシート人、カルデア人、・・・彼らはいずれも、自己の民族性の発揮よりも、バビロンの伝統の継承の方に力を注いだ。太古の知識を伝える偉大なバビロン!

伝統を保持するのとは逆に、革新を目指したナラムシンは、アッカド王朝滅亡を扱った作品『アガデの呪い』の中で、神に不敬を働いた業(=自らを神とした事)によって王朝を滅ぼした悪しき王として描かれた。古代メソポタミアに脈々と流れていた伝統継承の志向が、この作品を描かせたのであろう。

※ナラムシン=アッカド王朝(前2350年~前2100年)第四代の王。

《古代メソポタミアにおける中央政権と地方分権との対立》

ヘロドトス以降、オリエントは強大な東洋的専制国家として語られているが、現代の歴史学によれば、オリエント地域における諸都市や地方の自立傾向は強固なものであった事が知られている。これらの諸都市の自立性が、中央集権的理念の確立を阻害したとさえ言われているのである。

意外な事ではあるが、メソポタミアを象徴する歴史的文化的な統一場は確立していない。ヘレニズム世界、ローマ世界、イスラム世界…そういった普遍理念を支える統一場としての「ひとつの世界」の確立は、オリエント文明圏(とりわけ、メソポタミア地域)においては、成しえなかったのである。

オリエント圏の諸々の神話物語は、いにしえの諸々の都市が切り開き、受け継いできた、各都市の伝統世界と強く結びついている。極めて地域色の強い、個別的な面を持つ物語群であると言えよう。

21世紀に至って、地政学上の激変に飲み込まれ、四分五裂の事態に見舞われているオリエント地域。その未来が如何なるものになるのか? は、今の時点では、杳として知れない。

・・・次回に続く・・・

断章・航海篇2ノ2

【ティグリスとユーフラテスの岸辺・・・シュメール人の《悲傷》】

7000年前のイラク南部で、「ウバイド文化期」が開花した。1500年の時を経て、ウバイド文化に育まれた町・村が、都市へと発展する。この都市文明を作り上げたのが、シュメール人であった。

「神話」は、シュメールに始まる。

人が環境を理解し、環境をコントロールするための「物語」を作り・・・そして、自らの〈現実〉をこの現世に結ぶための神話(後の都市神話または国家神話)を構成し始めたのは、シュメールにおいてである。

肝心のシュメール人がどのような人々であったのかは、未だ明らかでは無い。「シュメール」とはアッカド語による呼称であり、シュメール自身は、自らの国を「キ・エン・ギ」と称したと推測されている。「大地ノ主ノ都」という程の意味合いであるらしいと言われている。

彼らは、メソポタミアの南東方面から、ペルシア南部の道もしくはペルシア湾を通じて渡来してきた人々であると推定されている。実際、彼らは、肉体的にも言語的にも、セム系統では無かったという事が言われている。早くから船を使い始めたという話がある事から、海上渡来説も提唱されている。

★もう少し詳しく言うと、7000年前に渡来した人々がシュメール人の祖族であったかどうかは分かっていないという事である(このあたりに、実は宇宙人アヌンナキが文明をもたらしたのだ、云々…という深刻なツッコミがあるのだが)。しかし、1500年経過した後には既に、間違いなくシュメール地方にシュメール人が居た。

「シュメール神話」とされるものの殆どは、後に支配者となったセム諸族の神話や(後にバビロニア神話体系を形成)、放浪の民ヘブライの神話『旧約聖書』として再編集されており、物語の原形が広く散逸して久しい現在、元々の物語が如何なるものであったかは、粘土板に刻まれた内容を復元して推測するしか無い。

(最近は、粘土板の解読研究も進み、かなりの事が明らかになってきているそうである。将来の進展が期待される。)

しかし、シュメール神話は、メソポタミアの地理環境の中で、如何にして文明秩序を守り、伝承してゆくのか? という営みと密接に関係するものであった筈である。

ティグリスとユーフラテス。この大河は周期的に大洪水を起こし、その流域に、一大氾濫原…葦の茂るみどりの岸辺、広大なる湿地帯を形成していた。

古代シュメール人がまず挑んだのは、この湿地帯との闘いであった筈である。排水を伴う灌漑技術。それは、メソポタミア地方において、都市・農耕・交易路の整備、あらゆる文明活動の道を開くための必須技術であった。

さて、シュメールの活動は以下のようなものである。

湿地帯周辺に神殿および都市を建造した。灌漑農業を行ない、コムギおよびナツメヤシを栽培し、家畜を飼育した。西アジア由来の牧畜型農耕社会の始原である。

ティグリス・ユーフラテス水系に運河を造成し、ペルシア湾を航海する船を建造し、海洋交易に乗り出した。彼らシュメール隊商は、遠くインダス文明の諸都市とも交易を行なったと言われている。また、陸路交易では、イラン高原、小アジア、シリア、エジプト方面まで流通を開くものであった。即ちオリエント交易圏の始原である。

物語とは、何か。そのもっとも劇的な回答が、シュメール人の活動の中に読み取れる筈である。

文明の確立は、何世代もの挑戦と失敗を繰り返して進んできたものである。その過程に、どれほどの《悲傷》が溜められてきたであろうか。そのやりきれぬ多くの《悲傷》が神々を求め、神々は物語を歌いだした。太古の神々の物語は、音楽と数学と共にあった。

それは大いなる言霊の発動であり、ロゴスの〈アルス・マグナ(大いなる術)〉であった。

周期的に大洪水を起こす、ティグリスとユーフラテスの岸辺。彼方から押し寄せる、異民族の襲撃。

物語の海の根源の底には、「世界」を切り取る過程で否応無く降りかかってきた挫折や矛盾や悲しみが、色濃くたゆたっている。もし、「世界を切り取る」という作業が、その裏に闇の相を持たず、楽しくまたスムーズに成功してゆくものであったならば、《物語》は決して生まれてこなかった筈である。

…光と闇で織り成される世界において、その初めより、《歴史》は光を語り、《物語》は闇を語ることを宿命付けられたのだ。

・・・次回に続く・・・