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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

2009.11.23暁の夢

迷える心理が夢になったのだろう…というような、ささやかな夢ですが、色合いがくっきりとしていた上に、何となく神聖というか、奥深い印象が強かったので、記念のために記録です。

実家の中で、何やら見知らぬ人物(外国人か、泥棒みたいな人々…)が大勢、ドヤドヤと入ってきて、宴会などをする雰囲気で騒ぎ出し、「土足で入ってくるんじゃない!」とか、箒で叩き出したりとか、いろいろ揉めているところからスタートしました。

※この揉めている部分は、起床した後で判明。実家の大掃除に駆り出されました…^^;

夢の中ながら、その見知らぬ人物の集団との交渉に疲れたのか、それとも急に無常を感じたのか、家出を決心しました。

夢の中で何故か家出を決心した自分は、縁側から、新しい草鞋を履いて出立。その扮装は、これまた何故か托鉢修行のお坊さん(制作中の物語の主人公みたい)。

何処までも続く、でこぼこな道とレトロな交通機関。

何が何やら…の感覚で、テクテクと、さ迷っていきました。

奇妙な件といえば…新しい草鞋がなかなか足に馴染まないのですね。何度も草鞋が取れたり、足指で変な位置を挟んだりして、夢の中ながら、何となく黙示されている目的地まで歩き通すのに、大変苦労しました…^^;

交通機関は、バス停留所が出てくるのが殆どでしたが、何故かバスには乗れませんでした。バス停の終着駅が目的地だという事はハッキリしていたのですが…でも、テクテクと歩いていくと、駅を通過する感じで路線をたどって行けたので、選択したコースは多分、大丈夫…かな…^^;;;;

駅の名前は、停留所の表示がレトロなタイプという事もあり、文字がひどくかすれていて、読めない…辛うじてはっきりと読み取れた駅の名前は、「星ノ宮下」とか「星雲の町云々」でした。終着駅もどうやら「星・云々」がつく名前を持っていて、全体的に「星」が多かったのですが、果たしてどういう意味があるのかは…全く謎です。

あちこちとさ迷っているうちに、どうやら目的地に到着したようで、気が付くと、明るい陽射しが差している神社の前に立っていました。わりと霊験で評判のスポットなのでしょうか(笑)、善男善女といった感じの和服を着た集団が、三々五々通り過ぎてゆきます。

苔生した石の階段を上ってゆくと、こんもりした林に囲まれた8畳程度の、拝殿の無い平らな空間。そこに、白木の鳥居…というか、余りにも古いので黒木の鳥居、だけがポンと置いてあるのです。

その鳥居を透かしてボンヤリと、雲の中の竜宮城(?)みたいな雰囲気の建物。

夢の中で、鳥居の向こうの「何か」に向かって一生懸命拝んでいたようなのですが、何をお願いしていたのかは、覚えていないです。ただ無心に拝んでいたようです…^^;

…以上、こういう感じの夢でした。

FriendFeedコメントより転載

ふうむ、集合意識にも国別があるのでしょうかねえ?あるかもなあ、日本語ラングもそこから来るんでしょうね、きっと♪ - 丸山光三

◆ついでの記録(フレンドフィードに書いていたもの)/2009.11.21暁の夢(短編)◆

http://friendfeed.com/midukideepforest/4a83c45a/2009-11-21-123

海岸沿いの集団アパートのような背の低い白モルタルの長方形の建物が、1つか2つ。明け方に震度3程度の地震が起き、海岸沿いだったので津波を心配し、高台に避難。その高台がいつの間にか、絶壁に囲まれた離れ島になる。「竹島/尖閣」という名前が黙示される。そこへ大津波到来。島の頂上まで駆け上がる波。炎のイメージも重複して黙示される。…西の国で政変か、戦争が近い?

FriendFeedコメントより転載

「国慶節」軍事パレードに見られたとおり、江沢民がまた権力回復を果たしたようで、軍内での権力闘争が熾烈化していることが推測されます。江沢民一派が主流派の足を引っ張るため外交的軍事的冒険にでる可能性もないわけではないので、ちょっと不気味です。 - 丸山光三
《返信》そんな話があるのですか…2008年3月のチベット騒乱と同時進行で後継者選び(李克強vs習近平)があって、たいそう揉めた末に、チベット騒乱の風圧で習近平に決まったのだという解釈を、この間小耳に挟みました。法輪功が1枚かんでたらしいという噂も。政治は分からないですが、内情は複雑怪奇な事になっていそうですね…
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イラスト習作:雪白の連嶺

「雪白の連嶺」イメージのイラスト習作その1、紺青の空の下の連嶺

(添付)イメージ元のテキスト/小説「暁闇剣舞姫」より

窓の外は快晴だ。

身も心も吸い込まれそうな程に青く深く、何処までも澄み切った蒼穹が広がっている。窓から見える純白の山々の間を、まばゆいばかりに白い雲がたなびいていた。どうやら、正午に程近い刻らしい。

手前に見える背の高そうな樹木の枝で、輝くような緑の葉が勢いよく萌えている。この部屋は、《大砦》なる建物の中では、どうやら中階層といった場所にあるらしい。

目下ベッドから動けず、窓から地上を見下ろせない状態だ。窓の外にはチラチラと周辺の岩山や山脈の頂上が見える――しかも総じて雪をかぶっている――ところからして、相当に険しい山岳地帯の真ん中なのだろうという事は想像された。この辺りの大いなる主が、かの『雪白』なのだ。

*****

「雪白の連嶺」イメージのイラスト習作その2、夕映えの連嶺(雲なし)

(添付)イメージ元のテキスト/小説「暁闇剣舞姫」より

武骨なまでに簡潔な、着雪と寒気を防ぐ事のみに特化した窓だ。中世風の両開き窓の周りに漂う陽光は、温かみのある金色とオレンジ色に満ちているが、見える限りの外枠には、積雪の名残が凍り付いているのが分かる。

夕方になって気温が急低下したのであろう。窓の外には、見かけを裏切るような、ブルッと震えが来るような冷気が漂っているに違いない。

窓の外の光景に気付くと――女は深く驚嘆する余り、何も言えぬまま、目を丸くした。

――深い雪に包まれた壮大な連嶺が、驚くほど近くに見える。

赤みを帯びた金色の光の中、いつまでも見ていたくなるような、息を呑む程に見事な夕映えの絶景が広がっているのだ。

「雪山……」

婆神官は、女の視線の先を見やった。

「あたしらは、アレを『雪白』って呼んでる。此処は、竜王国の最北部の飛び地だよ。今まさに雪解けが始まったとこさ」
「雪白の……『連嶺』……?」

*****

「雪白の連嶺」イメージのイラスト習作その3、夕方の豊旗雲と連嶺

「豊旗雲」イメージが中心。小説には登場しない場面だけど、習作と言う事で。「エフェメラル・アストラルシア」の瞬間は、まだ色彩を起こせていない

(添付)イメージ元のテキスト/小説「暁闇剣舞姫」より

グーリアスは『雪白』を背にして、再びリリフィーヌを振り返って来た。

「暁星(エオス)の光で、『雪白』が不思議な――何処までも透き通るような――色合いに染まる瞬間がある。この一帯では、その一瞬を『エフェメラル・アストラルシア』と言っている。あの花の名前も、そうだ。リリフィーヌ殿の目の色は、そう言う不思議な色をしている。リリフィーヌ殿が元気になったら、この《大砦》の展望台から見せたい」

グーリアスを眺めているうちに、不意に――リリフィーヌの中で、確かな直感が閃いた。心臓が、ドキリと跳ねる。

リリフィーヌは絶句し、息を詰まらせるのみだった。

古代科学漂流の章・中世4

《イスラーム世界確立以前の古代中央アジア》

イスラーム文明圏…アラビア学術の目覚ましい成長を説明するには、アレクサンドロス大王の東征まで遡らなければなりません。

オリエントでは、紀元前323年のアレクサンドロス大王の死を挟んで、かつてのアケメネス朝ペルシャのあった場所に、セレウコス朝シリアが建国されました。学芸の頂点の都・アレクサンドリアを擁したプトレマイオス朝エジプトとは隣国同士であり、ヘレニズム・バブルの中、活発な交易が行なわれていました。

これらの変化と前後して、ヒンドゥークシュの南では、チャンドラ・グプタ率いるインドのマウリヤ朝が勢力を増していました。前305年、カブールとカンダハルが、セレウコス朝シリアからマウリヤ朝に割譲されています(そのときの碑文が残っています。文字はギリシャ語とアラム語だそうです)。

アフガニスタンでは、マウリヤ朝の最大版図を築いたアショーカ王の代に、盛んな仏教布教が行なわれていた事がよく知られています(参考:マウリヤ朝はマガダ王国における前317頃-前180頃の王朝。インド大陸において、最初の統一帝国を築いた王朝でもあります)。

マウリヤ朝に一掃されていたギリシャ系勢力は、前255年、バクトリア王国、すなわち「グレコ・バクトリア」を打ち立てます。その領土は、インダス川の西、ほぼアフガニスタン(ヒンドゥークシュの北)にありました。

続いて前248年、カスピ海の東南にイラン系アルサケス朝パルティア王国が建国されました。パルティア王国の主力は西へ向かい、やがて、小アジアの領土確保(おそらく貿易利権)を巡って、ローマ帝国と争う事になります。

ついでながら、「インド含む中央アジア地域の歴史」という観点で見ると、この時代を含む500年間は、壮絶なまでの分裂闘争の時代でありました。民族分布図も勢力図もひっきりなしに入れ替わっており、この時代を明確に記す事は不可能です。

バクトリア王国は、その後、遊牧騎馬民族を含む異民族の流入が激しくなり、壊滅しました。前130年には、この場所に大月氏(中央アジアのサカ=チュルク系?)の王国が新しく出来ることになります。オリエント地域におけるヘレニズム諸王国はここで断絶し、歴史から消えますが、これらの地域におけるヘレニズム文化の交流が途絶えたわけではありません。

新たにアフガニスタンの支配者となった中央アジア系の遊牧王朝・クシャン朝(大月氏・1世紀頃-375)は、諸宗教に対し、寛容政策を採っていました。クシャン帝国の領土の拡大と共に、ゾロアスター教、仏教、ヒンドゥー教、ヘレニズムの神々など、雑多な信仰が取り込まれていった事が知られています(ちなみにマニは、3世紀前半頃にインド付近を訪れ、帰国後マニ教を創始したそうです)。

諸宗教入り乱れた古代アフガニスタンの中で、特に優勢であったのが、クシャン朝全盛期を築いたカニシュカ王(在位:130-155頃)の庇護を大いに受けていた仏教であります。クシャン朝は、仏教王国でありました。

小アジアの雄として残っていたセレウコス朝シリアは、前63年にローマ属領となりますが、東方からのパルティア王国の拡大が続いており、ローマ支配下になっても、属領シリアの領土は圧迫され続けていました。前53年に小アジアで起きたカルラエの戦いで、パルティア軍がローマ軍を破った事が知られています。

パルティア王国は後226年に滅び、その領土は、ササン朝ペルシャ(226-651)が継承しました。前7世紀から続くゾロアスター教を国教とした王国です。ササン朝ペルシャは、マニ教を弾圧しており、276年~277年にはマニ教の教祖を処刑しています。同じ頃、フン族がトランスオクシアナを越えて西方に勢力を伸ばしました。ローマ帝国領内ではゲルマン系の流入がちらほらと見られ、いよいよ「3世紀の危機」に入ろうとしているところでした。

そして同じ3世紀半ば頃、アフガニスタンの支配者クシャン帝国(大月氏)も、次第に国力低下が起こっており、ササン朝ペルシャの覇王シャープール1世の攻撃を受け、ササン朝ペルシャを宗主国とする小国に転落していました。更にシャープール2世の攻撃によりクシャン王家は瓦解し、ペルシャ属州バクトリア(バルフ)のササン王家が代わって、アフガニスタンを支配する事になります。

5世紀のアフガニスタンは、北方からエフタル(イラン系かトルコ系)の侵入を受けて更に動乱します。この時、大クシャンの後継・小クシャンもササン朝ペルシャも敗北し、エフタルを宗主とする国際関係が展開しました。実際にエフタルは、ササン朝ペルシャの王位継承に強い影響力を及ぼしていた事が知られています。

6世紀後半に、ササン朝ペルシャにホスロー1世が登場し、突厥と結んでエフタルを制圧します。ちなみに、7世紀前半(630年頃)、唐の求法僧・玄奘三蔵が、サマルカンドからアムダリア河を渡り、アフガニスタンを東西に横切り、インドを南北に横切るという大きな旅をした事は有名です。アフガニスタン諸都市で仏教が栄えていた様は、『大唐西域記』によく記されています。

以上のようなイラン・ペルシャ系その他の群雄割拠があったわけですが、このエジプト・シリア・ペルシャ・アフガニスタン一帯における文化の爛熟は、非常に高度なものでありました。その中で、ヘレニズム科学を受け入れてゆく素地が、遠く離れたローマ東方の辺境にも出来上がっていったのであります。

ここで、言語環境の推移について確認します。

ローマ世界においてはラテン語が公用語でした。都市アレクサンドリアでは、コイネーと呼ばれる汎用ギリシャ語がありましたが、西アジアとの関係が深く、コプト語・シリア語・ヘブライ語も広がっていました。ちなみに、コプト語は、ミトラ秘儀や錬金術など、魔術の共通言語としても有名です…(例えば、ナグ・ハマディ文書はコプト語で書かれました)…^^;

シリア語の前身はアラム語であり、アラム語はフェニキアの時代から商人用のリンガ・フランカでした。特にアラム文字は東方に伝えられ、インド、チベット、モンゴル、満州などの諸文字の元になったことが知られています。

・・・補足・・・

カルラエの戦い(前53年)は、西欧世界が初めて遊牧国家と対峙した戦いであり、パルティアン・ショットの記録で有名です。「パルティアの光り輝く旗」という形で〝絹〟が初めて目撃され、シルクロードがローマまで延びるきっかけともなりました。

この戦いを起こしたのは、ローマ三頭政治の一角を占めていたクラッススであります。迎え撃つパルティア側は、オロデス2世という王が代表でしたが、実際にパルティア軍を指導したのは司令官のスレナスだったという話です。えーと、微妙に、王様が無能で、部下が優秀、というケースだったようです…^^;;;;

今回、かなり頑張りました。次回からは少し小刻みになりますでしょうか…^^;;