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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

詩歌鑑賞:千家元麿「樹木」

「樹木」/千家元麿

北風が止んで夕日の傾く空に
靜かに大きな樹は沈んでゆく
難破船の最後のやうに
枝を開いた樹は妙にゆる/\目のまはるやうに
天體と共に傾いて行く、大きな渦の中に沈んでゆく。
靜かに、光りを加減し乍ら
自分は海上にたゞよふ漂泊者のやうに
涙をためて汝を見送る
靄に包まれて汝の沈み果てるまで
日に別れて行く汝の姿は悲壯だ。

日は沒し、汝も急に沈む。
然し月夜は再び汝の姿をもつて來た。
汝は優しい姿を保つて海底に見棄てられてゐる。
早くも光りの鱗屑の類ひは夥しく群れ來り
大きな藻のやうに開いた枝や葉の上に集つて
跳ね、躍り、宿つて眠る。

然うして眞夜中の潮が滿ちて來ると
汝の姿はいよ/\靜かにすみ渡つて
思ひ出した樣に打ち寄せる波に少し搖れる
眠れる魚は驚いて一時に目覺め
枝を離れて空にとび散りをどんだ光りをわきかへらせる。
その時、時は過ぎて行く陣痛のやうに、
汝は健げな産婦のやうにあわてないで落葉をする。
幽かな音を發して落葉はふれ合つてこぼれる、
思はず口をきいたやうに。
然うしていよ/\冴え渡る生命の水底に
樹はつくりものゝやうに動かない。

あゝ樹よ、汝は生きてゐる
見るものも無い眞夜中に
見て居るものがあるのを知つたら
汝は消え失せはしないか
然し汝は消える事は出來無い
汝は力を出しすぎて居る
汝の消えるのは手間がかゝる
汝はだまされたやうに
冬の最中に春が來たやうに
いよ/\靜かに光つて光りぬく。

あゝ冬の夜の戸外の美くしさ
白晝のやうな眩さ、
究り無い美くしさ、
霜と星の光線の入り亂れ
一本一本の枝はイルミネーシヨンする
その淨さ、その整しさ、
星は曉の近い赤さを帶びて
一齊に火を噴きかける。清い息を吹きかける。
然うしてぐる/\廻轉する。亂舞する。
いそがしく消えたり、光つたりし初める。
夜の潮は引き初める。
一陣の風が魔術を吹き消すやうに吹き渡り
星の鱗屑は遠い/\ところへぐる/\目を廻し乍らひいて行く。
潮の引いたやうに樹は黒い姿で現はれる。
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古代科学漂流の章・中世8

ネストリオス派がオリエントを超えてアジアへ流れていった年代は、ウルフィラの聖書ゴート語翻訳の年代とはそれほど離れていません。長くても半世紀くらいというところです。当時のキリスト教は、教義の論争を通じて、それほどに急激に変貌を遂げていたわけです。

同じ頃のインドでは、ヴェーダ哲学が完成し、『ヨーガ・スートラ』がまとめられ、数々の仏教異端や密教が次々に成立しつつありました。例えばクマラジーヴァが生まれたのが344年だそうです。歴史の神様のような存在が意思を発動していたのかどうか…、しみじみと考えさせられるところです…^^;

【ササン朝ペルシャとネストリオス派・・・アジア系キリスト教の素地】

431年のエフェソス公会議での排斥の結果、ビザンティンを追われたネストリオス派は、まずエジプトに逃れるのですが、ここでは布教のための足がかりを築くことが出来ず、西アジアに移ることを余儀なくされました。ネストリオス派は、シリア語を話すオリエントの人々の間で普及してゆく事となったのです。

ネストリオス派が本拠にしたのは、北メソポタミアのエデッサと言う町です。当時の東ローマ帝国とササン朝ペルシャとの国境に近いところです。373年に既にキリスト教の学校が建築されていたという事ですが、ここにネストリオス派が定着しました。彼らは当初のギリシャ語を捨てて、シリア語で布教を始めます。

しかし475年に東ローマ皇帝のゼノンが、エデッサでの異端布教まかりならぬ、という事でエデッサの学校を閉鎖し、ネストリオス派の迫害を始めました。そこで当時の学頭であったバルサウマという人は、ネストリオス派のキリスト教徒を引き連れて国境を越え、ササン朝ペルシャの領内に入りました。

そこでバルサウマは、ペルシャの総主教であったバボワイに歓迎され、時のペルシャ王ペーローズに謁見する事がかないます。バルサウマはペルシャ王ペーローズ(在位年:459-484)に、次のように説明しました:

「正教会は東ローマ帝国と固く結びついているが、我々ネストリオス派はこの東ローマ帝国からひどい仕打ちを受け迫害されたので、今ではまったく絶縁しており、むしろ東ローマ帝国に対して敵対的であるのだ」(出典『十二世紀ルネサンス』伊東俊太郎・著1993岩波書店)

ササン朝ペルシャは東ローマ帝国と争っていた事もあり、バルサウマは王の信頼を得て、ペルシャに居住する事を許されました。彼らはまずニシビスに学校を開き、ここをネストリオス派の本拠としました。

その後、次第にエフタル人やソグド人が活躍していたユーラシア交易路を通じて、ネストリオス派はアジア全域に拡大し、ついには唐代シナまで辿り着く事となります。シナ語では、「景教」と呼ばれました。(同じ頃、玄奘三蔵が天竺から仏典を持ち帰っています。『大唐西域記』…*^^*)

余談ですが、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で書き残した「アジアの至る所にあるキリスト教会」とは、ネストリオス派のものです。今でも西安に「大秦景教流行中国碑」という石碑が残っており、かつて長安に留学した空海は、この碑を見ているはずです(ゾロアスター教やマニ教も流行していました)。これは804年の話。

つまり、ローマ帝国以東のユーラシアの国々では(場合によっては、日本も含めて)キリスト教と言えば、この「ネストリオス派キリスト教(=景教)」であったのです…^^;

★おまけの知識=ササン朝ペルシャと異民族(エフタル、突厥)

ササン朝ペルシャ帝国は、西方にローマ帝国、東方にクシャン帝国、次いで遊牧騎馬民族エフタル(白匈奴)という強敵を持っていました。(※7世紀半にマホメットが登場した後、ササン朝ペルシャは南方にイスラームと言う強敵をも抱える事になったのです。652年、ペルシャはアラブに征服されました)

インド西北部・バクトリア地域の強国であったクシャン朝(大月氏=ガンダーラ美術で有名)は、ササン朝ペルシャの攻撃を受けて西方の領土を大幅に失い、5世紀末に滅びました。

その後、北方の異民族エフタル(白匈奴)が勢力を拡大し、ペルシャ国内への侵入が激しくなります。エフタルの妨害は、ササン朝ペルシャにおける王位継承や対ローマ作戦の遂行に影響を来たすまでになります。

その後、エフタルは、558年頃に突厥とササン朝ペルシャとに挟撃されて滅亡します(エフタルの民族系統は不明ですが、現在はイラン系とする説が有力です)。

事実上、エフタルの滅亡が、突厥…もとい、トルコ民族の、西方大移動の引き金となりました。このトルコ人(チュルク系)を中心とした遊牧民族の第2次民族大移動は、遠くヨーロッパにまで及びます。

この大移動によって突厥は、ユーラシア最強の「遊牧騎馬民族」として、歴史の表舞台に登場しました。突厥はユーラシア大陸を横断するほどの広大な「突厥帝国」を形成し、その後に東西分裂しますが、その際に西端にハザール王国が登場したと推測されています。7世紀頃の事です。

なお、トルコ人の一派といわれるアヴァール人は、東ローマ帝国やフランク王国と戦いながらパンノニア平原に落ち着いた事が知られています。アヴァール人が中央アジアから東ヨーロッパに入った頃、突厥は、東ヨーロッパのそれを「偽アヴァール」、中央アジアに残ったそれを「真アヴァール」と呼んで区別していたという事です。

※彼らアヴァール人こそが、現代にまで続くバルカン半島問題の原因となった、初期の大きな勢力だと申せましょうか…他にも色々と事情が錯綜しているようですが…^^;

ラノベ的少女キャラ(色彩絵&白黒絵)

ゴシック・ロリータ風ドレスをまとう少女

SF風少女、1点目:少女時代のなんちゃってメーテルをイメージ

SF風少女、2点目:ミステリアス、かつ印象的な目元をイメージ

ラノベに登場するヒロインは大抵、いわゆる「萌え絵」なるパターンで描かれるようです。この「萌え絵」というのが余り良く分からず、長い間、つらつらと思案していました(笑)

ひるがって、ストーリー構成という観点からヒロイン・キャラを分析してみると、総じて「異世界の根源的な秘密」との関係を有する要素でもあるのが、興味深いと思われます。いつの時代でもそうですが、「ミステリアス」というのは、人類の好奇心を盛り上げる要素であるようです