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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

タロット08正義

タロット08正義

カード・メッセージ=「均衡」

主な意味=公正さ、中立、合理化、調停、理性と感情のバランス、真面目、正しい意見が受け入れられる、つりあい、偏りを切り捨てる、無駄をなくす

「正義」は双方向性を持つ暴力によって生み出され、担保される権威である…という点を考慮して、二本の剣の間でバランスをとる天秤を描画しました

(オーソドックスな絵柄では、描かれる剣は一本である事が多いです)

人間は常に、自らの都合で動く生き物であり、真に公明正大な選択をする事は非常に困難であります。愛情の深さ故に道を誤る、無意識の執着に足を囚われる、自らの生活や立場、或いは自らの正気を守ろうとする余りに、道を外れてゆく…

危ういバランスの中で揺れ続ける天秤。剣の都合で揺れ動く中心点。天秤の皿の中にあるのは…ひとつの世界と、もうひとつの世界。天秤が傾くたびに、それぞれの皿の中の宇宙が少しずつ失われてゆくのかも知れない…

人類は、真の均衡には遠く、まだまだ未熟である…という事だけは、事実です。或いは『イティハーサ』(水樹和佳子・著)で考察されたように、「人類は進化する反調和である」が故に、宇宙の均衡を破り、ひいては最終的な正義を乱し続ける存在であるのでしょうか

生きてあるが故の不条理の中で、それでもなお…と、願いを込めざるを得ないカードであります

☆タロット連作&解釈の一覧を作成=〔ホームページ更新2013.6.14

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《私感》憲法十七条

憲法十七条は、「種々の思想を適当に入れて」成立したとは思えないのだけれど、人(=法律専門家かな?)によっては、そういう見解になる、というところに興味を覚えております

個人的には…憲法十七条は、「和」の精神をベースにした成文法であったと思っています。種々の外来思想の言葉と法律をいろいろ調べて摂取して、古代日本人なりに、いわゆる「日本的魔改造」というプロセスで組み立てたものが、憲法十七条だったのではないかと思っています。

物語的な直感ですが、憲法十七条は、どう考えても、聖徳太子1人の手になる作品だとは思えない…、国内の慣習法と、大陸の法律の両方に通じた、大勢のブレーンの気配を感じるのですね。おそらく渡来人系が半数を超えていた筈。皇室の祖先・親戚含めて、渡来人は大勢居ましたが、渡来人による占領国家的・独裁的な取り決めでも無かったし、国内豪族もしくは皇室の独裁を可能にするための取り決めでも無かった筈なのです…

憲法十七条。

あの当時としては、国内情勢の安定を目的として、相当に知恵を絞ったユニークな法律だったと思います。当時は豪族同士の暗闘があって全然平和じゃなかったし、皇族でさえも豪族と対立すれば殺される情勢だったし、蘇我氏と物部氏の抗争は、あと一歩で大和朝廷全体を巻き込む、一大宗教戦争に入るところだった…

しかも当時の一般庶民は、相次ぐ飢饉と疫病と災害で、それどころじゃ無かった筈…

☆参考[仏教はなぜ日本で普及したのか(永井俊哉ドットコム)
蘇我稲目が大臣になった宣化元年(536年)における宣化天皇の詔=食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えをいやすことはできない。真珠が一千箱あっても、どうして凍えるのを救えようか
※当時、すさまじい異常気象が続いた事が知られています。この詔からは、一般庶民の間で、深刻な飢えと凍死が多かった事がうかがえるのです…

泥沼の豪族至上主義&宗教戦争への恐れが生み出したのが、あの憲法十七条だったと思う…

豪族同士の抗争で乱れっぱなしの国内を早期に安定させ、足並みそろえて効率的に国内外問題に広く取り組むために、中央集権の担保として天皇を担ぎ出したので、天皇中心の形態を支持してくれ(=挙国一致体制を支持してくれ=)、という事情があったのではないか…

…憲法十七条が、一見、独裁体制(中央集権)を支持しているようにも読めるのは、そういう事情があったと推測されるのです。

そういう「急場の挙国一致体制リーダーシップ」…その体制を規定する成文法というのが、現代政治学の意味でも古代政治学の意味でも、「大王独裁化や豪族の官僚化を成立させたもの」と言えるかどうかについては、疑問符が付くのではなかろうか…

(あのような内容になっている以上、中央集権形成への意思は明らかにあったと思いますが、それをもってストレートに、大王独裁体制成立と同一視するのは、多くの誤解を招くのではないかと思いました。中央集権であっても独裁体制じゃない組織は、いくらでもあります。会社組織とか、ボランティア組織とか…ただ、ブラック企業とかになると、また違うかも知れません)

古代日本人は、古代ギリシャの民主的ポリス社会を築いていなかったし、「民主主義」という言葉も無かったし、現代的な意味で「憲法十七条は、大王権力の絶対性を保証するための成文法であった」と評価できるかどうかは…はっきりとした確証は無いと考えられます(近いところで、ローマ的な元老院スタイル、というのは、可能性としてはあったかも知れませんが…)

当時の天皇の地位は、豪族の意のままに上下左右に振り回される、ものすごく不安定なものだったと言われています。それがようやく「古代的な独裁体制」的な意味で安定したのは、100年も後、律令体制の確立(飛鳥浄御原令)と、中央集権国家に関する軍事力の裏づけが堅牢になった、天武持統体制になってから…(持統天皇は、本当にものすごい政治家だったと思う…)

だから、憲法十七条は、現代的な意味で言う「大王独裁体制の誕生」とは直接的な関係は無い…という風に言える、と思われるのです。むしろ、現代的な意味で、権力の身勝手な暴走を食い止める方向になったと思う。そういう意味では、現代の民主主義の機能を一部含んでいると言える、と思います。

…あと、本当に「得体の知れない神さまとの合体の下に独裁をやった」天皇は、中世の後醍醐天皇だったりするかも。でも彼はその後、中央政界から追放されてしまったし、日本に実際に、「憲法十七条に基づくカルト的・天皇独裁」と言える時代があったのかどうか、相当に怪しくなってまいります…(汗)

五箇条の誓文も、古代と同じようなカオス情勢の下で、憲法十七条と同じように中央集権の形成を目的として、魔改造的に作られたものだったように思う…

明治維新の頃にどれだけの血みどろの内戦があったかを考えると、五箇条の誓文は、天皇を媒介にした神前契約じゃ無かった場合、とても国内がまとまったとは思えない…

当時の大名含む上級武士の大部分は「陽明学」の深い教養がありましたし、陽明学の神聖性に対抗できる神的な存在は、江戸幕府が壊れてしまった後は、天皇くらいしか無かったと思います。「陽明教国家」というのも、可能性としてはかなり興味深いですが…「マルクス教国家」っぽくなったかも知れません

現代でも、民主主義の大国として知られているアメリカでは、アメリカ大統領が就任の際に『聖書』を媒介に神前契約していますが、あんな風じゃないと、普通、「国家レイヤー」というのは、中央集権的な状態でまとまらないと思います…(政治と祭祀≒宗教思想≒国家神話のアヤシイ関係)

最後になりますが、民主主義にも問題点はあると考えております。「大衆権力による独裁」「多数派閥による圧力」「お金の力による派閥化&分裂化」という可能性を、常にはらんでいる…という意味においてです。

口コミやマスコミによる宣伝が効果的に行なわれれば、大衆はそれに従って権力を行使し、ヒトラーやスターリンのような独裁者を生むことができるのです(※破壊革命的な政権さえ、成立できるのです。この危険性については、既に「目の前の現実=民主党政権」という動かぬ証拠があるかも…)。

「天神地祇に誓うところの天皇独裁体制」と「民主主義国家の神話の下における大衆独裁体制」、どちらにしても危険性は変わらないと思われました


考察材料:宣伝、または工作世論の危険性

世界史bot@history_theory(2023.03.12)ツイッターメモ
https://twitter.com/history_theory/status/1634751610562936836

倉山満『大間違いの太平洋戦争』2014
“なぜ日本はアメリカのような、勝てるはずのない巨大な国と戦ったのだろう?"という、いわゆる“太平洋戦争への道"史観を全否定! 負けるはずのない世界最強の帝国陸海軍がありながら、敗戦に至った近現代史の真実をあぶり出す。アメリカなんぞはマイナー国家! ! 太平洋戦争の本質は対英関係にあり! 対英関係がわからなければ、戦前の日本は理解できない! ! https://amazon.co.jp/dp/4584135878/

「ロンドン会議が日米開戦の元凶だった」という史観があります。
しかし、むしろ条約締結は大成功だったのです。
10月1日に枢密院で可決し、11月14日に浜口首相が暗殺未遂に遭ったため「そこから軍国主義の足音が」と言う人がいますが、その弾がそれていたり、対米開戦がなかったりしたら、ロンドン会議のことなど誰も覚えていなかったでしょう。
1928年ジュネーブ会議のことを誰も覚えていないように。
この時点で本当に日本にとって有害だったのは英米ではなく、北一輝ら民間右翼をはじめとして「英米一体論」と「統帥権干犯問題」を煽った連中です。
大前提として
この頃までの大日本帝国は滅びるはずのない国でした。
英米協調か米英協調かという対立が外務省の中にあるとき、石井菊次郎が正論中の正論を言っています。
「英米は仮想敵国に等しいような敵対関係にある。結局アジアが太平洋で日本の言うことを聞かねばどうにもならないのだから、いずれ両方がすり寄ってくる。そのときに日本は両方と仲良くすればいい」
それを正反対にも
「英米一体で敵だ」
と煽り、統帥権干犯問題を煽りまくり、ソ連のことがすっぽり抜けているのです。
ロンドン会議は日英米の三国でソ連や蒋介石を抑え込もうという枠組みづくりなのに、逆にわけがわからない世論を煽って「英米が敵だ」という話にしてしまったのがこの連中です。
(略)
この時は、統帥権干犯論は粉砕されました。
しかし、この時の敗者が復活して、のちに大日本帝国を撹乱してきます。
正しい言論が勝たねば国家は滅びる、の見本のような状態になります。

togetter覚書:近代以前の「山」

「橋本麻里さん、伊藤剛さん、おかざき先生らが展開されている『阿・吽 3巻』での丹生の里の記述から空海伝説、日本の鉱山、採掘技術、近代以前の「山」の情景にまつわる一連の考察が面白すぎて仕事が手につかない」

http://togetter.com/li/914955☆発言者アカウント,余談を省略

「丹生」という地名は、基本的には水銀から朱を作った場所、水銀鉱床、朱を作っている技能者の棲む集落に付けられる。奈良、三重、和歌山に多く、一部は香川や京都にもあるのだけれども。でも、日本で一ヶ所だけ、それがうまく当てはまらないところがある。群馬県富岡市の、貫前神社の奥だ。

群馬の丹生の歴史は古くて、10世紀前後には丹生神社という社名が記載されているのだけれども。でも、その辺りは新しい堆積岩で水銀鉱床はないし、甘楽の奥を考えても、ヒ素や銅鉛亜鉛鉱床はあっても、水銀鉱はない。なんでここに丹生の名が付いているのだろう?

伊勢の水銀は、日本で一番古くから知られるものです。続日本紀にすでに出てきます。

岐阜県の旧丹生川村もそうだったのでしょうか?

ああそうか。大野郡のそこがありましたね。あの辺は水銀鉱床は確かなかった、ような。川のずっと上に磁硫鉄鉱の鉱山がありますが、弁柄なのかしら・・・。

丹生川村、水銀出てますよ。「呂瀬(ろっせ)金山」です。約30年まえ現地に行きましたが、その10年くらい前に「水銀があるので」鉱山跡を全部埋めてしまったと地元のひとに聞きました。文献的には伊藤洋輔「岐阜県の鉱物」参照。

おかざき真里『阿・吽』3巻にも丹生の里が登場します。オトコ前な不死の美女「にうつ様」がツボった…(溜息)。

まだ3巻読んでないんです・・・。空海と水銀伝説は、今、古い死霊をかき集めて、当たってます。なかなか面白いですねこれ。

いやー、中国の神仙思想も絡まってきてしまうし、水銀は深くてうかつに手を出せませんが、ほんっとに面白いです。

調べてみると、えらく古いんですよね。今昔物語にもう水銀商の話が出てきますし、続日本紀に、伊勢、常陸、備前、伊予、日向、豊後の朱の話が出てきます。誰

そうですね、私の把握している範囲でも、文字資料だと「続日本紀」が最古。いま奈文研の木簡データベース検索で見たら、「丹生」で15件がヒットしました。同じく奈文研の古代地名検索システムでも丹生のつく地名は24件。既に失われた地名を探すにはいいかも。

おそらくは、推古天皇のころに、仏教渡来と同時に仏具関連の製造原料で水銀および辰砂が入ってきてるんでしょうね。そこから100年間の間に、辰砂が伊勢をはじめとして日本に存在しているのを見い出した人がいるはずです。そこの資料に行きあたらない。

ん。ごめんなさい間違い。確か弥生-古墳時代には辰砂は壁画にもう使われてたんです。そこで一回情報と技術の断絶があり、その後に仏教渡来で再燃してるんですよね。んで、江戸期にまた情報が大部分失われ、明治になるとまた国産水銀の開発が始まります。

そそ、いま「水銀朱は使ってまっせ」と書こうとしてました(笑)。「辰砂が伊勢をはじめとして日本に存在しているのを見い出した人」、ここで空海伝説になっちゃうのですかね。

朱の起源と歴史は、どっかで一回死霊を整理しないとよくわからないですね。明らかに、技術継承が数回断絶してるんですよね。たぶん、朱を水銀鉱から作れる専門職「丹生」が渡来人の血が強く、あまり技術をオープンにしなかったのではないかと。

空海は大学中退して留学組ですよね。鉱産物の勉強はどこでしたんでしょうかね。

留学期間も短いですからね(ホントは10年のところを勝手に切り上げて帰国)。興味深いです。私も手許の資料をボチボチ調べてみます。

古代の水銀朱に関しては葬送儀礼との関連も深いのでその話題で「死霊を整理」という字面というのが妙にしっくりきます。

最近の研究がどうなっているのか存じませんが、早稲田大学の松田壽男先生による『丹生の研究―歴史地理学から見た日本の水銀』(1970)があり、その後出た『古代の朱』には同じく早稲田の矢嶋澄策さんが協力されています。取りあえず『古代の朱』読み直してみます。

その本は「東海鉱物採集ガイドブック」制作のとき参照しました。なお三重の丹生/水銀については、同書のコラムで三重の稲葉幸郎さんがお書きになっています。たしか私も加筆したはず。

『丹生の研究』にも、そこ水銀出る? という土地の記述がありましたね。あと即身仏になる際の五穀断ちを体内の水銀濃度を上げて死後の防腐をうながす効果をねらったものとする仮説は「?」でした。

それから、高知の韮生鉱山はマンガン鉱山ですが、これは「丹生」の転訛でいいかなと思っています。辰砂が出てるんですよね。先述の稲葉さんに聞いた話では、鉱山前の沢でパンニングすると自然水銀の粒が採れるんだそう。

え。韮生って、堆積性マンガン鉱床ですよね。そんなに辰砂が出てくるんですか?

私のブログ(http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20051003)に韮生の辰砂の写真載せてます。検索でみてください。辰砂は層状マンガン鉱床にはときおり伴われ、埼玉や奥多摩でも記録ありますね。大和鉱山からも出てます。

ホントだ。穴内のヤツですね。(http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20051003/p2)モグラ沢のちっこい辰砂ぐらいにしか思ってなかったので、こんなリッチなものがあるんだと思ってびっくりしました。

大和鉱山(奄美のほう)の辰砂は、鮮赤色、強い光沢の小結晶で、大M先生が「これはきっといいもんだぞ」と思って分析したら辰砂でした~、という。えーこのうえ辰砂まであるんじゃ、ますます分からなくなるじゃんと思いました。

あ、穴内でしたか。まー話の大筋には影響しませんね。なので「丹生の研究」に記されている福井の遠敷(おにゅう)は、層状マンガン鉱床に伴われるものなら可能性ありかなと。

そんな鉱床まで昔の人は気づいてたんですね。パンニングで鉱床探査するんですかね。北海道の辰砂鉱床は、みんな砂金掘りがパンニングで見っけだしたものですよね。

「東海鉱物採集ガイドブック」のコラムは、三重県のあのあたりの中世における水銀採掘についてもチラとですが言及していたはずです。

実証は難しいですけどね。(昔、マンガ持ち込み時代、水銀や金属を扱う山間非定住民・丹生氏の末裔がどうこうという伝奇モノを考えていて資料を集めていたことがあるのは内緒だ)

「東海鉱物ガイドブック」は、低変成度の層状マンガン鉱床と、変ハンレイ岩など超苦鉄質岩中の鉱物産地を入れられなかったのが心残りだったんだよね。(そしてTLに共著者の方がおられる)

(http://www1.lixil.co.jp/gallery/exhibition/detail/d_003358.html)森野旧薬園のある大宇陀は、ほかにたくさんの古い薬屋のある地域ですが、当初は水銀の産地だったと。推古天皇が薬猟をした記録もあるそうです。

ああ、そうですね。大宇陀の山地は水銀鉱床が多いです。今ざらっと見ただけでも、黒木鉱山、大蔵鉱山、大東鉱山、谷脇鉱山、岩清水鉱山、藤井鉱山、神戸鉱山、本郷鉱山、大峠鉱山、と。みんな水銀の鉱山です。

考古学情報/【其山有丹】中国の歴史書『三国志』「魏書」東夷伝倭人条(「魏志」倭人伝)には,倭人が丹(朱)を生産していたことが記されています。この丹が有る山とは,どこの山なのか。阿南市の若杉山遺跡は弥生時代から古墳時代に朱の原料となる辰砂を採掘したことがうかがえる日本で唯一の遺跡

論文ありました。日本古代朱の研究https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/36463/1/Gaiyo-5395.pdf

辰砂についての記述もあるのですね。染料の「藍」を調べていた時、『魏志倭人伝』に、正始4年(243)、倭王が魏に対して絳青縑(藍と赤、2色の糸で織りなした絹織物?)を献上したという記述があって驚いたことが。

気づいたらすごいディープな話になっていた…w 私は人文学系での最近の研究に関して、環境省国立水俣病総合研究センターでの総合的水銀研究推進事業「我が国における歴史的な水銀産生および利用等に関する実証的研究」あたりを掘っていこうと思います。

弥生・古墳時代は、辰砂を含んだ鉱石を砕いて、水の中でゆすって精製して朱にしていたんですよね。辰砂は密度が大きいので、砂よりも下に沈みます。もうちょっとして大陸から製錬技術が入ってくると

辰砂を含んだ鉱石を粉にして強熱し、分解させてできた水銀を一回蒸留して取り出します。これで集めた水銀をもう一回硫黄と加熱し、合成の辰砂(朱)を作っていたようです。こちらの方が取り出す効率が良いようです。

一緒に、二酸化硫黄(亜硫酸ガス)が出てきて、ひどく臭かったはずです。ですので、この絵であっているんではないでしょうか。

蒸留装置は、松田著『古代の朱』にあるようなものだったようですね。気密は保てないでしょうから、作業従事者は長生きできなかったでしょうね

やはり古い時代は水簸なんですね。勉強になりまふ。

四国の遺跡を調べると、やっぱり水簸だそうです。辰砂は重いので、それが一番やりやすいのでしょうね。鉱床を見つけるのも、川に入って岩盤の上にたまった砂を洗って、辰砂もしくは自然水銀を探して、川を遡行して鉱床探査してると思います。

ちょうどそこらへんを調べてたんですよね。空海の山師っぷりとか辰砂とか。偶然というのは恐ろしい・・・。

最初に河で探すのは出雲の砂鉄と同じですね。その後、山で鉄を掘り始め、流れた廃液が揖斐川を赤く汚し、下流の農耕民と争いになったという山と里の争いが、八岐大蛇(=汚染された河)伝説の背景だという話で以前も盛り上がったような。

というか、文明自体が…。平城京に大寺院を作りまくったおかげで、あの一帯の巨木は早い時期に伐り尽くされてしまったというのを、林業史の本で読んだ覚えがあります。

やっぱり、鉱業は環境保全とあんまり仲よく出来ないんですよね。。。鉄穴流しも同様に。

鉱業と冶金製錬は、強い火を使うので、木を切り炭を作るんですよね。鉄穴流しは範囲を広く掘って広く浅く散った砂鉄を集めるのでなおさら。やはり、金属文明こそが森を切る元凶なのでしょうね。

ああ、燃料用の用材の伐採は確かに大きいですね。

そうそう。坑道掘りは支保(坑木)を多く使うんですが、それよりも何よりも、冶金製錬に多量の木炭を使います。鉄は特に高温が必要なので、木炭でたたら吹きしていた時代は、周囲の山はみんな切られて禿山になったでしょうね。

戦後の植林政策で日本の山は杉の木一色になりましたが、それまでは実は禿山が多かったのではないかということ、これが鉱床を見つけやすい要因になっていたのではないか、ということ。続

見つけました辰砂から丹生の精製の道具の図は、沸騰させました水蒸気を集める陶器が描かれておりました。はてさて、今で言う公害の問題ともかなり背中合わせに暮らしていたのでは…と思いましたが、漫画では、まあ、触れずにおります

たぶんその頃は坑内水が排水できず、あの辺りで深い坑道掘りはできなかったのはご推測の通りです。西洋では錬金術師の一元素にされた水銀ですが、日本でも化学の黎明期の技術だったはずです。

蒸留、江戸時代ではランビキですが、日本の化学の歴史で、一番最初に蒸留装置を作って蒸留精製したのが水銀だと思ってます。

たぶんにこのへんの技術は唐または隋からの輸入でしょうから、そちらを当たっていかないといけなくなりますね

三巻で勤操の眼が青いという描写をしましたが、たぶんに当時のほうが国際交流活発でしたよね

そうでしょうね。外国から、もしくは渡来人からうまく技術を引き継いだものと思います。

日本史の中では、奈良時代と桃山時代が特に国際交流の盛んな時代とされてますね。いま東大寺に行くと、アジアからの観光客が大勢訪れていて周囲で日本語がまったく聞こえない、なんて状況もありますが、まさに当時はそんな雰囲気だったろうな、と。

はい。はい。遣唐使を調べていてちょっと面白いことも見つけました(たぶん漫画に描くので秘密)が、当時の…言語一つをとっても多種多様であったろうと想いをはせます。

『東海鉱物採集ガイドブック』の三重の丹生についての記述は、中世の丹生採取は風化土壌など表土を採取しきったと思われるため、痕跡を見出しにくく、そのため現在水銀の鉱徴が見つかるのが中央構造線の片側に集中してしまうが、実際は両側に水銀の鉱徴地があったと推測される…といった内容でした。(本が出てこないので記憶で書いてます)

あんなに鉱床が見つかるのの説明がつく、お仰っていて、もちろん推察の文章ではありますが印象に残りました。拙著でただいま奈良・平安の山を描いていて、例えば高野山・比叡山は現在杉の木だらけですけれども、当時の人たちが山を駆けるのに、あんなに高く見通しが悪い木ばかりではなかっただろうと。かといって他に仮説もたてられず連載を続けているのですが、ずっと頭にあります。お名前出して失礼いたしました。

東大寺建立による森林伐採を原因とした水銀鉱床発見というのもあるのでしょうが、おそらく、丹生と呼ばれる渡来人を多く含んだ人たちは、深い森から水銀鉱床を発見探鉱する技術を持ってたんでしょうね。そして空海も。

そうなのですよ。昔の絵を見るとほとんどが岩山で。それが水墨画の様式美と捉えるか、事実禿山が多かったのか。答えを出せず少し気持ち悪いまま描いております。並行して時間がある時に調べたい(その前に仏教のこともいろいろと)

その辺の技術の具体的な記述をずっと探しております…本編にはそれ程影響しない部分なので個人的に「気持ち悪さ」を無くすために。(わからないまま描くってものすごく気持ち悪いのです)

もうちょっと死霊を集めてみますね。今昔物語にある水銀商(みずかねあきない)も、蜂を自在に扱う、俗人の人智を超えた畏怖すべき存在としての色があります。彼らもまた、丹生の末裔だったのでしょう。

個別にどの山が、という話は難しいですが、コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたのか』(築地書館)は、古代・近世の森林伐採の状況について、たとえば桓武帝の森林利用に関する政策なども紹介しています。こんな図も載ってます。右は推定図ですけれども。

※コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたのか』https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784806722403

絵画について、特に近世以前に景観を描いたものは、あまり実景との関連はないことが多いです。まだ景観の写生という意識がないので。水墨画が主題としているのはあくまで「胸中の山水」であり、せいぜいあるとしても中国の風景で、日本の、現にそこにある風景ではありません。雪舟の「天橋立図」は日本の風景を水墨で描いた非常に珍しい作品ですが、あれも絵師の視点は、航空機でなければ到達することもできない上空に置かれています。近世以前に描かれた絵は仏画や中国の風景、貴人の肖像など、「描くに足る」対象をモチーフとしており、凡庸な「日本の風景」は対象になり得ませんでした。それでも中世末期に洛中洛外図や名所絵が少しずつ登場し、実際そうであったように都市を描いているのか、絵師あるいは施主の願望が含まれているのかという議論はありつつも、景観年代を論じる手がかりになっていくのです。

中国の煉丹術については、島尾永康『中国科学史』(朝倉書店)で一章を割いて詳述されていますね。これ非常に面白いです。古代編はそれほど長くないですし、さらっと読めるかと。

やはりイメージ上の風景画であり憧れの対象でなければモチーフたり得なかったのですね。禿山かどうか以前に あんな断崖絶壁、奇岩が日本には無いなあと。なるほどなるほど。ありがとうございます

とはいえ、社寺参詣曼荼羅や寺社縁起などに描かれたものは、それなりに当時の景観とも連続性があると思います。今度、平安時代の密教仏具(ナマ)の見学に行きましょう。