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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

岸辺篇1

「アルス・マグナ」

アルス ars:ラテン語。自然 natura ナトゥーラの対義語、基本的意味は「人為」。有名なフレーズ「"ars longa, vita brevis" アルスは長く、人生は短い」…意外に日本にも類似フレーズがある⇒「命には終りあり、能には果てあるべからず(風姿花伝)」


第一部 ヤツマタ・・・第一章 十六夜★閉幕

記念すべき第一部・第一章があがったところで、ちょっと乾杯。いきなりスタートした感じでしたので、この辺りで少し立ち止まって、そもそも、何故この物語を創作し始めたのか?きっかけは?について、『深森の帝國』制作委員会を代表して、美月まとめで、語りたいと思います…

元々、日本の中世時代について、美学とか、社会文化、神仏習合などの点で興味があった…というところから、発生しています。

特に能狂言とか、世阿弥…『風姿花伝』など…それから不思議な事に、人形劇にも興味を…近松門左衛門の「曽根崎心中」とかで使われる、あの人形です。ひところ、テレビで流れていた「三国志」人形劇の影響もあったかも知れません。

その不思議な人形の祖先が傀儡(クグツ)人形だということで、しばらく傀儡(クグツ)を調べ、さらに人形の歴史をさかのぼって神事に使われる人形をネットで色々拝見し、(からくり人形も、もちろん大好き^^)細男(セイノウ)と云うとても古くて奇妙な神事(海部・アマベの神事?)に辿りついて、そこでも「?」をいっぱい浮かべつつ、関連史料めぐりを。未だ消化できてませんが…

細男神事は、本物は見た事が無くて、未だに何か歴史的に論理的にいえるほど理解してるわけじゃないのですが、「細男(セイノウ)」というのが日本の種々の神秘的人形の始祖みたいな感じ――で受け取っています。(誤解は多々あるかも知れませんが、そのように感じました。)

そうしていて、学生時代のお話なのですが、ある日、能「葵上」を見たのです。若手の修行舞台だったのか、招聘か何かだったのかは、もう覚えてないのですが。急ごしらえっぽい能舞台がステージに作られており、その上で能が舞われてました。

人が、人ならざるものへ。そして、人ならざるものが、人へ。核(コア)と呼ぶべき実体が無く、「絶対」と呼ぶべき何かも、中心軸も無く…見立て――あるいは変身、というより「変容」――という概念が、現実世界に立ち現れた事。あれは、本当に――ぴったりの言い方が見つからないのですが――鳥肌が立ちました。

日本を構成する基礎と感じるのに、いつも説明に窮してしまう「なにものか」――それを読み解く強いキーワードは、「あの仮面性(または人形性)」「あの支軸(輪郭)無き変容性」ではないのか――と。

「仮面性(人形性)」に対し、すごく本質を突いていた文章を引用:

・・・すべて深いものは、仮面を愛する。
それどころかこの上なく深いものは、自分の映像や肖像を撮られる事を憎みさえする。もしかしたら、全く反対の姿に化ける事こそが、まず何よりも、おのれを羞恥して神がまとう適切この上ない変装なのではないだろうか。・・・
・・・すべての深い精神は仮面を必要とする。いやそればかりではない。すべての深い精神の周りには、絶えず仮面が生じてくる。というのも、彼の発する一語一語、彼の足取りの一歩一歩、彼の示す生活の兆候の一つ一つがみな、絶えず誤った、つまり浅薄皮相な解釈を蒙るからなのである。・・・
『善悪』40・ニーチェ著

日本は――あらゆる文明、あらゆる文化の行き果つる境界、弧状列島でもあります。という事は、限りなく深い境界/深淵なくして、種類雑多なものを受け入れていながら、正気で居られるはずが無い…と。

「日本人論」という数多の仮面に分厚く覆われ、いくつもの名前と顔を持っているが、その裏にあるものは「本当の顔(或いは固定的な姿)」を持たない深淵である…

これが、制作委員会の見る『日本』です。

中世と、能と、人形と…流れが混乱してますが…

言挙げもせずに沈黙し続ける仮面の奥を尋ね、自分なりの解釈で物語ってみたい、これが、『深森の帝國』創作に至るひとつの経緯…きっかけのひとつとなりました。制作委員会を立ち上げるまで結構、長い年数(厳密な数はヒミツ)が空いてます^^

今の時点で、まだまだ書き足りない事がありますので、特別にもうひとつ、断章を入れます(予想外の二部式)^^;

以上:岸辺篇2に続く

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