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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

黒いお金「阿片」・6

心身ともにキツイ調査ですが、どんどん行きます(次の7で終了の予定です)^^;

・・・単なる直感ですが、日本の政界にも「軍閥」に似た組織はあるかも、と思いつきました。明治維新直後の日本社会では「華族」とか「士族」というのがあったそうで、廃藩置県の記憶も新しい頃なので、同郷の士族をまとめる、何らかの「幇/軍閥/藩閥」的な連結は、色濃く残っていたはずです。その徳川300年の構造が、150年やそこらで、そうたやすく崩れたとは思えないのですね。方言も含めて。それが戦争中の軍部上層部の、妙な「支離滅裂」につながっていたのではあるまいか…

西南戦争と戊辰戦争があったから、単純に言って考えられるのは「西南閥」と「戊辰閥」。聞くところによれば、例えば、麻生元首相は西南出身で、鳩山首相は戊辰出身(=選挙区が北海道だったでしょうか?)だという話なので、妙に適合するような、しないような…

  • 明治=西南閥の系統中心
  • 大正=微妙に戊辰閥の系統
  • 昭和=微妙に西南閥の系統(たとえば岸信介元首相は、山口県出身みたい)
  • 平成=西南閥(麻生氏)終わり・・・現在は戊辰閥(鳩山氏)

こうやって見ると、日本列島内部の東西問題はまだ堅固なんだなあと、縄文・弥生時代から関ヶ原を挟んで続いているおかしな怨念に、妙に感心してしまったり…現在は、さすがに華族・士族の記憶も薄れてきているみたいですが…皇室がありますから、そうでもないでしょうか。

全般的に見ると、小沢氏もそうなのですが、戊辰閥の系統は義理人情で動く方が多いみたいです。微妙に人治主義?その分、何だか政治がグズグズになったりとか、おかしな団体にひきずられたりとか。

戊辰閥の系統には「親分肌で優しい人が多い」と言えばそうなのでしょうが、戦争の後始末など、厳格な法治主義が問われる時代には余り向かないようです。どちらかといえば日本古層に近く、土着の風。反対に、法治主義やシビアな国際戦略の時代に向くのは、どちらかと言えば西南閥。開国時にイギリスの影響が強く入ったからかも知れませんが、殺人や裏切りが多いような、後味の悪いところがあるような…^^;

地方ごとの特徴があるのかも、という事で、時代に合わせて気質の組み合わせを上手く使えるようになれば良いかなあ、と思います。基本的には、日本は「和を以って貴しとなす」がポリシーだと思いますし…^^

・・・気ままでおかしな前置きは、以上です…^^;

1937盧溝橋事件・第二次上海事変・抗日戦線―日中戦争(1937-1945)…過程は省略

日中戦争が激化し、蒋介石は南京から重慶へ逃れた(重慶政府)。

蒋介石に対し、米英仏ソなどは、仏領インドシナやビルマ、雲南、新疆から重慶に通じる「援蒋ルート」によって、莫大な軍事経済援助を行っていた。この援助が続けられる限り、「いわゆる日中戦争」が長期化し、解決されないことは明白だった。

  • ベトナムのハイフォンからの<仏印ルート>
  • ラングーンから昆明に向う<ビルマルート>
  • 寧波、香港、広州などを経由する<南支ルート>
  • ソ連から新彊を経て入る<西北ルート>

この「援蒋ルート」をめぐる攻防戦(例えばインパール作戦が有名)を通じて、日本 vs 南京政府・アメリカ・イギリスという構図に広がっていった。ソ連もまた、日ソ中立条約が締結されるまで、独自に新疆方面などから蒋介石に支援物資を送った。欧州での対ドイツ戦に専念するために、日本軍を蒋介石問題に張り付けておきたかったのだと言われている。

この後、「援蒋ルート」を守るため、ABCD包囲が行なわれた。

太平洋戦争(1941.12.8-1945.9.2)がスタート。

一方、日中戦争中に、南京国民政府=汪兆銘政権(1940-1945)が成立。日本軍とは軍事協力せず、もっぱら共産ゲリラ討伐に動いていたと言われている。

日本軍占領下の上海では堂々とアヘン事業が行なわれ、満州・東北アヘンが大量に運び込まれた。上海の至るところに阿片市場ができ、当時の上海市長はあらゆる関係を利用して阿片事業から上前をはねるだけでなく、戒烟の名目で阿片を売りまくった(「戒烟局」という看板を掲げた施設で、阿片が吸えるようになっていた。阿片吸引者を登録制にし、特許証を交付して特許料を徴収するスタイル)

1945年=日本敗退。

日本敗退後の上海では、残された阿片を南京政府の特務が接収し、勝手に転売して暴利をむさぼっていた。まだ租界が残っていたので、租界内部の阿片がなかなか根絶されなかった上に、黒社会における密造・運搬などの手口が巧妙になった事もあって、取締りが困難だったと言われている。

また、日本国内でも内地への引揚げ者の中に阿片・モルヒネ・コカインの密売業者・吸引者が多く含まれており、手荷物の中に隠されて持ち込まれた麻薬の量、軍隊の中に戦略物資として残っていた麻薬在庫の量は、共に膨大だった。内地での中毒者が増えていたが、その理由は、飛行機の搭乗員や軍需工場の深夜作業に覚醒剤(ヒロポン)を使わせて作業させたケースが多かったからだと言われている。

【数的データ】・・・陸海軍が戦略物資として保管していた麻薬:
生阿片52,722kg/粗製モルヒネ2,844kg/粗製コカイン35kg/コカ葉17,000kg/エクゴニン195kg
(※敗戦後、半年経った時点でのデータであり、半年の間に闇に流れた分は不明だという)

この結果、日本では終戦後6年のうちに、ヒロポン、セドリン、パーテンなどの乱売・乱用を招き、一時は150万人もの人々が乱用者となったという記録がある。また、日本国内に残った朝鮮人による海外からの密輸阿片の供給と、暴力団の資金の需要とが結びつき、新たな麻薬中毒者が水面下で急増した。これには売春の増加が関わっていた。折りしも第1次インドシナ戦争でフランスが敗退して、ベトナム戦争にアメリカが介入していた頃で、アメリカ基地周辺で公然と売春が行なわれ、外貨稼ぎのひとつとなっていた頃の事であった。

一方、南京国民政府は、それまでの軍事費の累積によって膨大な財政赤字を抱えた。アメリカなどの援助金は、蒋介石・宋子文・孔祥煕・陳果夫(陳立夫)の四大家族の私腹を肥やす事に使われたと言われており、人民の反発が高まった。

国民党 vs 共産党の内戦スタート。

1949年=中華人民共和国の成立。

雲南省・ビルマに逃れた国民党勢力は、「大陸反攻」を決意して山中に立てこもる。1950年に成立した台湾国民政府からの援助物資もまた、「援蒋ルート」を通って運ばれた。この「援蒋ルート」が貫通する山岳地帯は、「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれる一大阿片生産地となっており、〈阿片経済〉によって国民党残党の勢力を支えた。

朝鮮戦争(1950-1953)…実際の戦闘については省略。

同時期に中国共産党は阿片根絶のキャンペーンを展開。各省平均で4人に1人が阿片中毒者であり、大都市になると住民の半分以上が阿片喫煙者であったと言われる。

朝鮮戦争を通じてアメリカ資本主義への憎悪が高まり、「反革命罪」が明文化された。さらに戦時体制を維持するため「三反五反(1951-1953)」運動が奨励され、「反革命分子」のレッテルを張られた者は次々に処刑されたと言われている。

>>「三反」は1951年に提唱された国家機関または国営企業に対する指針。
「反貪汚」(反汚職)
「反浪費」
「反官僚主義」
>>「五反」は1952年に提唱された私営企業に対する指針。
「反行賄」(賄賂しない)
「反偸税漏税」(脱税しない。「偸」は「盗む」の意)
「反偸工減料」(仕事の手を抜き、原料をごまかさない)
「反盗騙国家財産」(国家財産を盗まない)
「反盗窃国家経済情報」(国家経済情報の悪用をしない)

この「三反五反」運動に使われた労力があまりに多かったため、例えば天津市では卸売業の取引が半減、銀行の融資が停止したという報告がある。

こうした流通遮断は全国に広がり、「京杭大運河」を筆頭とする水運流通もストップした。結果的に表面上は、シナ本土より〈阿片経済〉を消滅させる事になった(※阿片=日常の消耗品であったため、流通遮断による影響を大きく受けた。台湾国民政府が維持した「援蒋ルート」を除く)

その後、毛沢東・周恩来は、急激に不足した国家財源をまかなうため、再び〈阿片経済〉を復活させたと言う話がある。

熱帯に属しながら標高が高く、冷涼な貴州省・雲南省がケシ栽培にうってつけであり、山岳地帯が主要な生産地となったと言われている。一般に平地の富裕な「漢人」ではなく、山岳地帯の貧しい少数民族がケシ栽培を担当した。必然として、政府の意思に関わらず、地方の富裕な漢人が少数民族を搾取する構図が多かった。

特に雲南省は「民族の十字路」という立脚条件の元にあり、1960年代以降、東南アジア方面に急速に〈阿片経済〉が普及する役割を果たした。これは東南アジアへのマオイズムの輸出と同時に行なわれ、戦争と共に莫大な利益を生み出した。

また、戦後経済において〈阿片経済〉は、各国のヤクザ組織やCIA組織、新興宗教組織、ゲリラ・テロ組織の資金源として活用され、いっそう繁栄しているのが現実であると言われている。先進国における薬物乱用の風潮と、貧困国における密造・密輸ビジネスとがペアになっているため、根絶が困難となっている。

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