忍者ブログ

制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

深森イラスト遊戯「主人公たち」

★第一のイラスト「鏡&戈郎@聖麻王宮」

まずは、物語設定のイメージイラストで、聖麻王宮にて鏡さんと戈郎さんが語らうひととき。

当サイトの物語では、鏡さんが満月の夜に花洛の都を出奔するところから始まってますが、その数年前にあたる頃のイメージイラストです。鏡さんは聖麻王宮の貴人の鏡研ぎを一手に負っている職人の家の者で、研ぎ終わった鏡を持って王宮に上がってました。

戈郎さんの持ち場と鏡さんの出勤ルートは、たびたび重なっていました。鏡さんと戈郎さんが幼馴染&親友というのもその辺りから来てます。鏡さんはごくごく穏やかな性格で人当たりが良く、また聞き上手な人なので、結構、貴人たち(ユカル王子含む)から話しかけられていたと思うのであります(鏡はだいたい女性の道具なので、聞き上手&気配り上手な人じゃないと長続きしなかったと思います・汗)。

戈郎さんは王宮のエリート衛兵というか、衛士(えじ)という役職であるという設定でしたので、こんな感じかなと。王宮とは言っても、花洛の大内裏の方じゃなくて、大貴族の邸宅が並ぶエリアの中の上程度のところに、それなりの異国風味の大貴族の邸宅っぽいものがあって、それが聖麻王宮という設定。

一応、物語の中で、列島に亡命してきたという歴史のある聖麻王国の王様は居て、花洛にて何らかの実入りの良い副大臣クラスの座を占めてますが、何の役職かはまだ決めてないです。外交関係というか、接待関係の役職。

戈郎さんの頭にくっついているのはカジュアルで活動しやすい「侍烏帽子」。形がよく分からなかったので、資料写真のシルエットから単純に造形して、「こんな感じだろうて」という感じで描画。

ちなみに戈郎さんの衣についている紋章は、「聖麻王国の紋章」という設定です。ちょっと角度を変えた麻の葉ではありますが…(大陸の諸王国はむしろ遊牧騎馬系で、単純なデザインを染めた旗じゃないと視認しにくかったと思います。その名残と言う事で…)^^;

★第二のイラスト「戈郎さんのコスプレ@近代バージョン」

完全に脱線の遊びですが、近代バージョンのエリート衛兵なら、こんな感じでしょうか。

イメージがヨーロッパ近代的な感じなので、紋章も適当にそんな感じで。

ちなみに、「軍服」でイメージ検索して、最初に出てきた着物みたいな派手な軍服を料理させていただきました。人気コミック『鋼の錬金術師』デザインの軍服だそうです。

敬礼のポーズを描画するのは初めてでしたが、上手くいったと自画自賛。

PR

私製詩歌「神無月叙情」

秋風は もみずる袖をひるがえし
梢に 陽差し斜めなり

澄み明らかなり 青き空
雲無き真昼の青空よ
果てなき空のわだつみよ

紺碧の 遥けき天(あめ)の彼方より
光は黄金(きん)と零(こぼ)れ落ち
木の葉と共に舞い降りる

…いよいよ冷たく冴ゆる季節(とき)…
白き風なり 白き風!
誰が袖ふれし 風の色!

冬近き 緑は黄金(きん)を照り返し
さらさらさやぎ しきりに揺すれ

…たまゆらの あやしき歌を 織り成しぬ…

冬を貫く 常盤(ときわ)の緑
寂静の緑の焔の 不動の悲しみ

重き荷を背負いて 傷ついて
それでも見上ぐ 《無限》の底を

…紺碧の空に白き風神…

秋風は もみずる袖をひるがえし
木の葉に 陽差し斜めなり

梢の先に 風が鳴る 風が鳴る――

中世・伊勢熊野の海賊の研究・後篇

研究に使用したテキスト
『海と列島文化』―第8巻―「伊勢と熊野の海」/1992小学館
要約抜粋&保存の部分の著者=稲本紀昭

【伊勢・志摩の交通と交易】

続・海の南北朝=要約=泊浦をめぐる諸勢力の角逐

鎌倉幕府の崩壊は、同時に伊勢志摩の秩序の崩壊をもたらし、諸勢力の紛争が一挙に表面化した。これら諸勢力の中で、もっとも活発に活動したのが熊野海賊であった。伊勢志摩には熊野出身という伝承を持った多くの領主がいるが、彼らが伊勢志摩に勢力を拡大したのはこの頃のことであった。

泊浦には鎌倉幕府の守護所が置かれていたが、はやくも元弘2年=正慶元年(1332)、大塔宮の令旨を帯びて熊野より伊勢に来襲し、守護代宿所を焼き払った竹原八郎入道(=熊野海賊)の例がある。他にも鳥羽九鬼氏、鳥羽小浜氏、五ヶ所浦の愛洲氏などが居た。

『伊勢泊浦具書 一巻』の記録に、〝建武元年(1334)の前年7月、「阿曾宮(=懐良かねよし親王か)」から恩賞の令旨を得たと称し、「加津良嶋大夫房」なる者が泊浦に乱入し狼藉を働いた〟という事件が言及されている。熊野海賊ではないが、情勢変化に敏感に反応して行動を起こしたことが注目される。

◆補足=「加津良嶋大夫房」を動かすほどの、中世日本の情報網の発達が興味深い。熊野御師の活動は全国レベルであり、全国の情報が伊勢熊野エリアに集まってきたことを推測させるものである。また、布教活動と商業活動を同時並行で行なう新興宗教団体の信者ネットワークが出現し始めていることが報告されている。この頃から忍者の活躍も広がっていた筈=

建武元年10月、「大里住人与一五郎兄弟三人、江向住人兵衛三郎、竹内兵衛入道、大門左衛門次郎、井留賀右近允父子、蔵人父子」以下が、「有間以下所々悪党」を語らい乱入し、抵抗すれば放火すると威嚇して年貢を奪い取り、そのまま江向を占領するという事件が生じた。

◆補足=井留賀氏は、現在の南牟婁郡紀和町入鹿と関係があるらしい。入鹿地方は鉱山として有名であり、鉱山を通じて熊野神社と関係が深い。入鹿には、南北朝期に入鹿氏が来てここを支配した、という伝承があるが、その名前からすると、本来は海民であった可能性が強く、熊野海賊の一員であったと思われる=

暦応元年=延元3年(1338)、泊浦は再び悪党に襲われる。この年9月、北朝方の伊勢守護・高師秋(こう・もろあき)は神山(こうやま・松阪市)、立利(たてり)縄手の戦いで敗退し、南伊勢は、ほぼ南朝方に制圧される事となった。

この頃、南朝方のVIPであった北畠親房は、関東経略のため、義良(のりよし)親王らを奉じて、山田下市庭の権宮掌黒法師太郎家助らの協力によって、大湊を出航している。北畠親房の行動とシンクロしたかのように、泊浦に乱入していた悪党の働きは、北畠ら南朝方の戦略の一環であった可能性が強い。

翌年、悪党(=熊野海賊)らは江向を「警固料所」として給与されたと称し、占領した。北朝方・室町幕府は守護を通じて退去を命じたが、南朝方と結んでいた悪党らは、「合戦に及ばん」とするなど抵抗し、伊勢志摩の軍事制海権に執着したため、事態の打開には数年かかってしまった。

泊浦が、南朝勢力の拠点であった大湊と並んで、伊勢・三河湾を押さえる軍事的要衝であった事を考えると、彼ら悪党の行動が、単純な略奪を目的とするような一時的なものではなかったことが理解されよう。

◆補足=当時の紀伊半島沿岸航路は、南朝方の支配を実現していた。悪党らは南朝方の一員として動いていたが、悪党ら自身の事情もあった。このあたりは各々の利益計算が働いていたものと思われる=

泊浦を占領した勢力は、当地の在地領主、三河湾を掌握した海の領主、熊野海賊の諸勢力からなり、その目的は、紀伊半島から志摩国にかけての航路の掌握にあったといえるのである。

続・海の南北朝=要約=九鬼氏の進出

その後、泊浦は一転して北朝・室町幕府方の勢力下に入り、しばしば、南北両軍の戦場となった。

在家は荒廃し、貞治5年(1366)、泊浦御厨下司越中守重朝は、「泊浦軍勢、確執」のため御贄の名吉(=鯔)、シダタミ(=きさご貝)などを減らさざるを得なかったと内宮に報じており、特に九鬼氏を名指しして、江向当給主と称して九鬼氏が御贄を抑留していると述べている。

九鬼氏が、北条氏崩壊のあとに勢力を伸ばし、泊浦に定着したという事が読み取れるエピソードである。

【追記】戦国時代の伊勢・志摩エリアの変遷=織田信長-第一次伊勢攻めについての資料
※個人運営の歴史研究サイト『織田信長-下天-夢紀行』より(アニメ有・表紙は重い感じ)
フレーム有=http://tenkafubu.fc2web.com/isezeme/html/eiroku10.htm
フレーム無=http://tenkafubu.fc2web.com/isezeme/html/eiroku10-02.htm