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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

西洋中世研究3中東の学芸文化

※中東エリアの話ですが、こちらも「西」なので、西洋カテゴリに

【ジュンディー=シャープール学派の成立/5世紀-7世紀】

当時のキリスト教神学は、ギリシャ哲学を使っていました。従って、各地にキリスト教を布教する場合、必然として、ギリシャ哲学も一緒に紹介する事が必要になってきました。

431年のエフェソス公会議で異端宣告を受け、追放されていたネストリオス派は、東ローマ帝国に迫害されていた事もあり、ギリシャ語を積極的に捨てて、土着のシリア語で布教を行なっていました。彼らは、シリア語に訳された聖書、神学書、哲学書を用いて布教していました(北方ではアルメニア語・グルジア語への翻訳運動がさかんに行なわれていた事が指摘されています)

その結果としてネストリオス派は、シリア語訳されたアリストテレス哲学や新プラトン主義、それにヘレニズム科学技術の各種を、西アジアに普及するという事になったのです。

シリア化された各種の科学・学術は、ササン朝ペルシャの冬の離宮のあった都市、ジュンディー=シャープール(スサ近郊)に集中し、洗練されてゆきます。

元々ジュンディー=シャープールとは、ササン朝ペルシャ初期の王シャープール1世が、260年エデッサの戦いでローマ皇帝ウァレリアヌスの軍と戦い、これを徹底的に撃破し、皇帝を含めたローマ捕虜を収容したところです。「シャープールのキャンプ」という意味ですが、このときローマ技術が相当に流入したと言われています。

このような経緯から始まったジュンディー=シャープールの町でしたが、早くからネストリオス派の学者を招聘して、シリア語訳を通じて、ギリシャ=ヘレニズム文化が盛んに学ばれていたのであります。

特にこのギリシャ=ヘレニズム文化の愛好者でもあったホスロー1世(在位年:531-579)が即位すると、この町にアレクサンドリアのムーセイオンを模した立派な研究所が作られました。付属病院や天文台も設置され、医学、天文学、数学などの研究が奨励されました。

※ホスロー1世は、首都クテシフォンにも学問の都を作りました。ジュンディー=シャープールがローマ風建築だったのに対して、クテシフォンは純粋なオリエント・イラン建築だったと伝えられています。ちなみに、クテシフォンの宮廷を彩ったペルシャ人貴族たちは、夏の避暑用に膨大な量の氷を保存していたそうです

ジュンディー=シャープールでの教育は、エデッサやニシビス同様に、当時のリンガ・フランカ(共通文化語)であったシリア語で行なわれました。カリキュラムの必要に伴い、当時最先端の学術のシリア訳が、大量に作られる事になったのです。

525年に東ローマ帝国ユスティヌス1世(在位年:518-527)がアテナイの学校を閉鎖した際にも、ギリシャ本土の学界から追われた第一線の学者たち―シンプリキオス、ダマスキオス、プリスキアノス等―も、ジュンディー=シャープールに受け入られています。

更にインドの学者も多く招聘されています。このようにして、ジュンディー=シャープールにおいてシリア・ヘレニズムの頂点が築かれたのであります。シリア・ヘレニズムとは、ギリシャ、インド、ペルシャ各地から到来した最高の伝統文化の、統合の試みに他なりませんでした。

アレクサンドリアが衰退した後の時代においては、シリア・パレスチナ・ペルシャが、世界随一の学芸文化の先進地帯でありました。シリア・ヘレニズムを通じてジュンディー=シャープールに花開いた一大総合文化こそ、後のアラビア科学の成立と発展の基礎となったものなのです。

実際、アッバース朝の科学文化の大きな支柱となったものの中に、ジュンディー=シャープールの学派がありました。アラビアの高い文化は、ジュンディー=シャープールに結集したペルシャ文化を、アッバース朝の時代になってバグダードに移転する事によって、初めて可能になったのです。

【ペルシャ・ヘレニズム&アラビア・ルネサンス/7世紀-9世紀】

ジュンディー=シャープール学派を育てたオリエントの強国、ササン朝ペルシャは、642年ニハーヴァンドの戦いで、新興勢力の正統カリフ=イスラーム軍と衝突し、敗退・滅亡します。

当時のイスラームは「大征服の時代」のさなかにあり、アラビア半島を中心に急速に領土を拡大。第2代カリフ、ウマル・ブン・アルハッターブ(634即位-644没)は中東の広範な地域を征服していきました。

イスラーム=アラビア語圏の著しい特徴は、その急激な拡大速度にあります。

イスラームという新興宗教がもたらした情熱は、『コーラン』によって特徴付けられたアラビア世界をアラビア半島部に留めるものでは到底なく、たちまちのうちに多くの世界を巻き込んでいったのであります。その極大期のイスラーム世界は、東はシナに達し、西は地中海沿岸、南はアフリカ、北はハザールに達するものでありました。

アラブの大征服に伴うイスラームの急激な拡大は、必然、イスラーム圏に壮大な思想潮流を巻き起こさずにはおきませんでした。それはまず、マホメット死後の『コーラン』の法的解釈の分裂を引き起こし、次いで、思弁神学の分派(スーフィズム等)を生み出してゆく事となります。

またビザンツ帝国と接触した折、輝かしいビザンツ文化も吸収したのであります(初期のモスクは、征服した土地の東方キリスト教の聖堂を借用したものです。それを祖にして、モスク建築が生まれました)。

やがてイスラームはウマイヤ朝(661-750)の時代を迎えます。そして、重要な事件が起こります。ヒジュラ暦61年(西暦680年)のアーシューラーの日に、シーア派の第3代イマームとされるフサインが、カルバラーのムスリムと共にウマイヤ朝軍に虐殺された、いわゆる「カルバラーの悲劇」が発生したのです。

これによって、スンナ派がイスラーム世界における覇権を確立する事になりましたが、シーア派との深き対立の始まりでもありました。ちなみに、スンナ派イスラームのウマイヤ朝そのものは、次第に世俗化してゆきました。

ウマイヤ朝は、「征服王国」という性格上、強烈なアラブ至上主義の王国であり、イスラームに改宗したペルシャ人含む外国人(マワーリー等)は疎んじられる傾向にありました。アラブの伝統的な文法や韻律、コーランに伴う法律といった「固有の学」は研究されたものの、いわゆる「外来の学」である哲学や科学には殆ど関心が払われなかったと言われています。

さて、シーア派の主力は、ペルシャ東方のホラーサーン地方にありました(ちなみに、ウマイヤ朝の首都はシリアのダマスカスです。故に、当時のスンナ派の主力はシリア・パレスチナ方面に集結していたと考えてよいだろう、と思われます)。

イスラーム世界における反体制諸勢力を含めてウマイヤ朝の支配に不満を抱く人々は数多く、750年、ホラーサーン地方のシーア派の反乱に始まる「アッバース革命」が発生します。

「アッバース革命」と同時に、イスラームの中心を担うカリフの都も、バグダード、コルドバ、カイロの三都市に分かたれたのだ、といっても過言では無いようです。このアッバース朝(750-1258)の成立を以って、イスラーム世界に大きな転回点が形成されました。

転回点とはどういう事かといいますと、「アラブ人による征服王朝」から「普遍的世界帝国(イスラーム帝国)」への拡張が起こったという事です。その中で、イスラーム世界のペルシャ化が急速に進行しました(751年、タラス河畔の戦で唐の軍隊を撃退し、中央アジアへのイスラーム拡大も同時に進行しました。ちなみにこの時に、シナ人捕虜を通じて、製紙技術が西方に流入したのは、有名なエピソードです)

初期アッバース王朝の歴代宰相を輩出したバルマク家は、ホラーサーン地方の都市メルヴの出身ですが、都市メルヴの古名は「アレクサンドリア・マルギアーナ」、即ちヘレニズム諸都市の1つでありました。アッバース朝の有力な豪族であったバルマク家のギリシャ文化愛好は、やがてアッバース朝の中枢にペルシャ・ヘレニズム運動を巻き起こすまでになったのであります。

762年からバグダードに新都マディーナ・アッ=サラーム「平安の都」が造営され始めると、イスラームの学問の中心となりつつあったバスラやクーファから著名な学者が集結しました。シリア・ヘレニズムの頂点を形成していたジュンディー=シャープール学派もまた、多く移り住みました。

ペルシャ・ヘレニズム運動における文明移転に際して特に重要な役割を果たした、翻訳の巨人として有名な学者が、フナイン・イブン・イスハーク(808頃-873頃)とサービト・イブン=クッラ(826-901)です。

フナインは多言語に通じたネストリオス派キリスト教徒の学者で、母語はシリア語でした。サービトは、シリア北部の町ハッラーン生まれのサービア教徒(独特な星辰崇拝を持つグノーシス派)で、同じく多言語に通じた学者でした。彼らの仕事は、優れた次世代翻訳家を多く生み出します。

ペルシャ・ヘレニズム…、その驚異的なまでの翻訳活動を通じて、砂漠を横断する通商の民が使う単純な言葉に過ぎなかった貧弱なアラビア語は、急速に語彙を豊かにし、あらゆる学芸文化を包含しうる程の近代的なアラビア語に成長していったのです。

以上のようなペルシャ・ヘレニズムの興隆を経て、アッバース朝第5代カリフ、ハールーン・アッ=ラシードの下で、遂にアラビア・ルネサンスが開花したと言われています。アラビア‐ペルシャ融合文化の確立でもありました。

11世紀頃、アラビアの学術は頂点に達します。それは、高度成長を遂げたアラビア語の語彙力を以って、メソポタミア、エジプト、ペルシャ、インド、シナ各地から流れてきた文明を融合させ、発展させる事に成功した「イスラーム文明圏」の黄金時代に他なりませんでした。

イスラーム科学や哲学の発展は、ペルシャ文芸復興期(9世紀-15世紀)と進行したという側面を持っています。ここでなされた業績は、後にコルドバを通じてヨーロッパに流入し、11世紀-12世紀のスコラ学に始まる革新、および15世紀-16世紀の西欧ルネサンスの原動力となったのでありました。

・・・超・駆け足でまとめ

ここまでで、一応、「中世」の確立(すなわち諸国の暁闇の時代)の記述はオシマイです。


◆その後の西洋史に関する私見◆

自分の理解するところによると、文明的には大体似通ったコースを並走していた、中東エリアと欧州エリアの運命は、この後、大きく分かれてゆきます。

その原因となったのが、アレクサンドロス大帝国の発生ならぬモンゴル大帝国の発生だったと考えられます。 モンゴル帝国の衝撃は、欧州と中東との間で、壮大な「東西のねじれ」を発生します。それは、欧州にかつて発生した「ゲルマンとスラブのねじれ/カトリックと東方正教会のねじれ」よりも、遥かに巨大で深刻な影響を、西洋の時空にもたらすものでありました。

西洋史(欧州&中東)は、モンゴル帝国以前と以後とで、全く様相が変わっていると言えます。 特にロシア(=当時の呼称はルーシ;キエフ公国の力が衰え、分裂状況にあった=)は、モンゴル帝国の支配下に置かれ、その状況は、「タタールのくびき(1240-1480)」と表現されるものでありました。

モンゴル帝国の時代を挟んで、ロシアの歴史は決定的に分断されています。実際、ルーシは「帝国」を名乗らなかったのですが、「タタールのくびき」の時代が終わった後は、「ロシア」という呼称を使い始め、「ツァーリ(ロシア皇帝の称号)」も発生しました。強烈な専制政治(ツァーリズム)の試みもありました。

この辺りの流れは、詳細を無視すれば、東洋における殷周時代から秦漢時代への歴史的プロセスを連想させるものではあります。そしてモスクワ公国を経て、17世紀には、モスクワを都とするロマノフ朝が始まるのであります(後に、サンクト・ペテルブルグへ首都移転)。

そしてオロシャは、大モンゴル帝国の再来よろしく、際限なき領土拡大に邁進する「恐るべき巨大ランドパワー国家」として振舞うようになるのであります… そして江戸時代には、カムチャツカ半島までやって来て、わが国を驚かせるのでした

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西洋中世研究2ゲルマン諸国文化

ヨーロッパは500年前後を中心として、ゲルマンの諸王国に分割されました。

北西地域では(つまり現在のフランスやドイツでは)フランク族とブルグンド族が建国。その南東に当るイタリアでは、ロンバルド族と東ゴート族、南西方面(スペイン)では西ゴート族が建国。アングル族及びサクソン族は、ケルトの地ブリテン島を侵略し始めていました。

ついでに言えば、ヴァンダル族はスペイン、ついで北アフリカに渡来し、各々王国を打ち立てた事が知られています。しかしその寿命は短く、「国」未満の軍事統治体でしかなかったであろうと言われています。

一方、東ローマ帝国は、オリエント風の君主政治体制を整備しつつありました。4世紀頃からビザンツ中心となったこの帝国は、皇帝を神とする宮廷政治を展開し、人民は古代版の行政官に奉仕するのでは無く、皇帝に直接奉仕するのだという中世的な思考を普及させていました。

そして法律によって定められる階級制度を発生し、皇族、貴族、名士、長老、騎士といった中世的な階級社会を構築したのであります(6世紀頃『ローマ法大全』完成)。

そうした時代的変化に伴い、網の目のように構築された官僚機構が、強力な政治介入パワーを以って階級社会を侵食するようになりました(官僚の特権など)。

人民は租税を免除してもらうために、或る程度の自治権を認められていた大土地支配者の下に保護を求めるようになります。これが荘園領主、すなわち封建領主の発生を促しました。こうして中央と地方の政治パワーが逆転しました。この後、帝国は軍管区に代表される軍事的統制を強めましたが、何度も経済的分裂の危機に見舞われることになります。

総じて4世紀から5世紀は、欧州における巨大な東西変容の世紀でありました。

第1にキリスト教が東西で異なる発展をした事、第2に蛮族侵攻の衝撃が東西で異なる様相を来たした事が挙げられます。これらの東西のねじれは、現代に至ってもなお、宗教・民族の東西問題として、ヨーロッパを揺さぶっています。

特に修道院制度の発達があった事は、後世の欧州社会に大きな影響をもたらしました(テンプル騎士団の発生など)。

更に辺境へのキリスト教の拡大もありました:グレゴリウス開明者によるアルメニア布教、フルメンチウスによるアビシニア布教、ウルフィラによるゴート社会への布教、ネストリオス派によるペルシャへの流入などです。

さて、西ヨーロッパにおいて、ローマ帝政と並行する時代のゲルマン諸族は、狩猟生活から脱したばかりであり、原始的な農法しか持ち合わせていなかったと言われています。ローマ帝国の滅亡後も、彼らは都市に住みたがらず、多くのローマ都市が荒廃したのであります。

しかしながら、ゲルマン諸族が知性と活力に欠けていたわけではありません。彼らの置かれていた状況からして、彼らの関心は、都市設備の維持よりも、まず基本的な物質生活面での要求にあった筈です。

中世初期のヨーロッパは深い森に覆われており、狼や熊が出没するような環境の下にありました。そうした中で、細々と森を切り開いて建てられた教会が点在しており…、という光景であったろうと想像されます。

かろうじてローマ時代の知的遺産が保存されたのは、北西の最果て、アイルランドでありました。そのため、アイルランドは「学者の島」とも呼ばれたのであります。

彼らゲルマン諸族が諸王国を打ち立てるにあたり、ヨーロッパに持ち込んだものは、毛皮、ズボン、フェルト、スキー、樽や桶の製造、クロワゾネ七宝、オート麦やライ麦、ホップ、鷹狩などが知られています。

※…驚くべき事に、従来のローマ・ファッションには、「ズボン」というものは無かったのです!…^^;

中世前期のヨーロッパの生産基本は、農業でした。ゆえに、中世ヨーロッパにおける革命的な変化は、早くから注意と努力が払われていた農業分野からスタートしたのであります。

9世紀ないし10世紀、それまで主流であったローマ時代由来の二圃式農業(冬雨型の気候のもとで小麦の冬作と休閑を繰り返す農法)が、次第に三圃式農業(北ヨーロッパの気候風土・夏雨型に適する農法)へ切り替わりました。簡単に言えば冬穀・夏穀・休耕地(放牧地)のローテーションを組んだものであります。

以上のような農業スタイルの切り替えと並行して、古典的な「くびき」から近代的な「はみ」への移行が起こり、農業用役蓄の牽引エネルギー効率が急に高まりました。

牽引エネルギーの効率化は連繋用馬具の発明にも繋がり、四頭立て馬車・六頭立て馬車と言った大規模な輸送形式をも可能としました。また、蹄鉄の発明は馬の足を保護することにより、荒れた地面における輸送コストを下げ、ヨーロッパ交易路のいっそうの拡大に寄与したのであります。

中世前期における各種の技術向上は、このような無名の職人達の発明によっているのであります。

工業用動力としては、水車が登場しました。ローマ時代(及びガロ・ローマ時代)は奴隷が安価に使えたため、動力としての水車の活用は乏しいレベルに終わっていたのでありましたが、ゲルマン諸国においては穀類を挽いたり、大工の鋸や鍛冶のふいごを動かすのに積極的に用いられ、車輪動力の技術が伸びてゆきます。

12世紀になると、ノルマンディ地方において、風車の使用が始まりました。このようにして産業における機械化は急速に進みます。こうした変化は、後の建築技術の進展にも、大きく関わりました。

建築では、高度な石造建築の技術が急速に普及しました。とりわけ石造建築は、後のカール大帝によるゲルマン統一王朝を生み出した世紀を経て、急速に技術を深めてゆきました。これらの建築と資材の流通を担ったのが、各地の職人・商人グループであったろう(中世ギルドの前身)と言われています。

当時、教会建築に関わった職人達が、教会の傍に建てられた集会所で、グループ結成のための友愛の儀式を行なった事が知られています。これが中世のギルドの始原であったと言われています(別の説によれば、ギルドはローマ時代に由来すると言われています。主に宗教団体・友愛団体としての形で存続し、交易・商業・手工業に手を染めるようになっても、宗教的結社としての特徴が残されていたという事になっています)。

最も勢力を誇ったギルドこそが、中世のフリーメーソンのように、大規模建築に関わったギルドであろうと言われています(近代オカルト結社の思弁的フリーメーソンとは別)。築城、大聖堂、橋梁といった大規模建築は、石材、モルタル、鉛、材木、鉄といった大量の物資を必要とし、広範囲の流通経路と人脈とを開きました。

フリーメーソンを含めて、ある種のギルドは最先端技術者を抱えた集団でもあり、未知の問題に対応するために、錬金術などの様々なハイテク分野と深く関わっていました。「大学」が登場する前のヨーロッパ中世の科学技術は、このような場で体系化されていったと推測されます。

そして11世紀から12世紀にかけ、モン・サン・ミシェルやノートル・ダムなどの巨大な教会建築に見られるような、建築技術のブレークスルーがありました。著しく伸びた車輪動力の技術を利用して、中世後期には建築用クレーンや荷揚げ用クレーンも設置されるようになったのであります。

ちなみに12世紀ルネサンスによってアラビア学術が流入した時、大翻訳運動が起こり、イタリアを中心に大学が増加した事が指摘されています。この頃は卑金属から黄金を作る変成技術や占星術的な関心が大多数であり、更にその中心には、錬金術による「哲学者の石(エリクシール)」の探求がありました(この神秘主義的傾向は『聖杯探求物語』などの騎士道文学に影響を与えています)。

更に、ルネサンスの立役者となった封建領主の中に、名君と呼ばれるべき領主がいた事は興味深い事です。例:神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世(在位1215-50)。それまでの神学研究がメインだった修道院的な大学とは全く異なる大学をナポリに建立しました(=ナポリ大学)。この新しい大学では、政治を研究して「有能な官僚集団」を輩出する事と、種々学術を研究して「有能な技術者集団」を輩出する事を目的としていたと推察されているそうです。官僚とテクノクラートの力を使って領地を活性化するという点で、現在の政治スタイルにも通じる部分があります。

後世、13-14世紀に火薬が伝わってくると、大砲の開発が始まりました(当時の大砲は青銅製ですが、真鍮製という説もあり)。また大砲の登場によって、築城術も造船術も、大いに変容を遂げる事になります。

中世は、ゲルマン諸族の国王・諸侯とヴァイキング、更にはアラブ勢力による群雄割拠の時代でありましたが、職人・商人ギルドの登場、交易ネットワークと技術革命の時代であったとも言えるのです…

★「中世」の完成に至る要素が整理できたと思います。次は中東です^^

西洋中世研究1スラブの黎明期

ゲルマン諸族の大移動は4世紀。スラブ諸国の黎明期もまた、4世紀にさかのぼるものであったようです。ゲルマン諸族が移動した後のエルベ川以東の地やバルカン半島には、スラブ民族が広がりました。

スラブ人社会の成立は古く、ゲルマン人の社会成立とほぼ同時期に進行したと言われていますが、遊牧騎馬民族の侵入が繰り返され、情勢が長く安定しなかった事もあり、その歴史ははっきりしていないそうです。

現代のポーランド及びロシア地域に相当するヨーロッパ部分一帯は、森林に覆われた広大な平原であり、境界を定める事の難しい地勢となっていました。この大平原の領有を巡って、古来、様々な民族が入り乱れてきました。この地域の民族勢力図が、現代に近い状態で安定したのは、13世紀になってからの事です。

紀元前からのスラブ人の移動先は東方、すなわちロシア地域がメインだったと言われています。そして、紀元後5世紀から6世紀にかけてスラブ人は方向を変え、西方と南方に大移動を始めました。ゲルマン勢力が西欧に定着し、東欧からすっぽり抜け落ちたというのが大きい理由の一つですが、もう一つの理由は、東方(ロシア方面)に強大な騎馬民族勢力が出現し、東方への移動が阻まれたという歴史的事実にあります。

まずフン族=匈奴勢力が東方に立ちふさがり、フン族が内紛で解体すると、その場所に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が再び勢力を伸ばしてきました。一方、はるか東方では気候変動と群雄割拠とが進み、突厥・ハザールなど、遊牧騎馬系の巨大勢力が登場してきました。その突厥に追われて西進してきたのがアヴァール人であり、スラブ人はアヴァール人の侵入にも悩まされる事になったのです(後にはヴァイキングにも追われる事になる)。

続く7世紀、ハザール族とブルガール族(=フン族の残党勢力)とに圧迫され、スラブ人はバルカン半島を南下し、エーゲ海方面へ押し出されてきます。殆ど毎年のようにスラブ人の集団がドナウ川を渡り、都市テッサロニケ(マケドニア王国の中心都市)に続々と入り込んでいた事が知られています。

やがて彼らは、アドリア海沿岸に沿って北上し、モラヴィア、クロアチア、スロヴェニア、セルビアへも移動しました。10世紀には、バルカン半島で最も人数の多い民族になっていたという事です。彼らは遂にバルカン半島全体に広がり、ここに、「バルカン半島におけるスラブ問題」が根を下ろしたのです。

突厥帝国とアヴァール汗国が勢力を誇ってスラブ人を西方・南方へと追い出していたのが6世紀末であり、7世紀後半にスラブ人による第1次ブルガリア帝国が出来ましたが、この頃にはスラブ人とブルガール族は既に同化していたと考えられています。ブルガリア帝国は東欧の雄として、長い間ビザンツ帝国を悩ませました。

ブルガリア帝国で有名なのは、ビザンツの正教会によるキリスト教布教と、キリル文字の普及です。後世のスラブ文化に、決定的な影響を与えたと言われています。

一方、8世紀頃のキエフでは、スラブ人が部族社会を構成して住んでいたと言われていますが、実態はよく分かっていません。8世紀キエフのスラブ人社会を蹂躙したのがヴァイキング(=ノルマン人)でした。ノルマン人は多くのスラブ人を捕獲し、奴隷交易の商品として南方(アラブ方面)に売り払ってゆきます。

いずれにせよ、彼らノルマン人がロシアの地に持ち込んだのは、先進的な航海術、飽くなき戦闘力、交易術など、様々な分野に及ぶものでありました。ロシアに巨大なヴァイキング交易権が構築されたという事象を無視する事は出来ません。

当時のロシアは、ビザンツ帝国からの呼称で「ルス」ないし「ロース」と呼ばれた最果ての辺境でした。

ロシア建国神話は、このヴァイキングのうち、ヴァリャーグと呼ばれた一族の王、リューリクから始まります。ヴァリャーグは極めて強大な一族で、何度も黒海方面に遠征し、846年にバグダード襲撃、860年にコンスタンティノープル襲撃など、大きな事件を起こしてきました。最終的にはハザール汗国と関係を持ちながら、キエフに定着したと考えられています。

リューリクの代、ノヴゴロドに、複数のヴァイキング部族による連合国家「ルス」が建国されました(後に、スラブ民族に同化したとされています)。リューリクの時代から50年ほど後には、コンスタンティノープルを襲撃し、有利な条件で通商条約を結んだ事が知られています。日本学術文献では「キエフ大公国」としていますが、当時の正式呼称は「ルーシ(亦はルス)」で、ビザンツ帝国は「ルーシ」という呼称を使っていたという事です。

歴史的に見ると、10世紀のルーシ(キエフ大公国)は富強の大国でした。ビザンツ帝国との通商で豊かになったのに加え、ビザンツ文化が大量に流入したからです。

10世紀当時のヨーロッパは、東西教会分裂の兆候が明らかになっていました(1054年東西教会分裂/ギリシャ正教会成立)。キエフ大公国は基本的にはヴァイキングの神々を信奉する多神教の国で、この豊かな大国が、東方の正教会と西方のカトリックと、どちらに改宗するかが注目されていました。

ちなみに、ドイツ(当時は神聖ローマ帝国)のカトリック教会は盛んに東方布教を行なっており、バルト海沿岸やボヘミアまで勢力を拡大していました。スラブ系の王国ポーランドは、この頃、既にカトリックを国教とする国になっていたという事です(966年:西欧キリスト教界により「ポーランド公国」承認)。

★次回は、ゲルマン諸族の動向についてであります…^^