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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

論考・身体のわだつみ

違和感の正体を見極めるのは、実は難しい。


何故ならばそれは、非言語の領域に属するものだからだ。


違和感の根拠となっている知覚は、身体という名の、闇の領域に属する。「身体知」「体験知(暗黙知)」に直結するものであり、マニュアル言語化を拒否するものなのだ。


違和感――それは、身体や世界の《相転移》を精妙に知覚する「未だ知られざる器官(能力)」が感じる感覚である。違和感を感じる身体と、他界の存在とは、密接に関係している。


他界――それは、この「現世」を発生する《無限》の場だ。あるものをあらしめる、限界の無さだ。


我々の身体には、そういう異次元の知覚能力を発達させる可能性が開かれているのだ。


違和感を感じる知覚がよく発達しており、かつよく制御しえた人を、我々の先人は、「審神者(サニワ)」と呼んだ。ゆえに、この「未だ知られざる知覚」を、「サニワ感覚」と表現しても良いだろう。


『境界知のダイナミズム』(瀬名秀明、梅田聡、橋本敬・著/岩波書店)では、以下のように論じられている。

「違和」を感じ、そこに何かを見出そうとする私たちの知のあり方を、境界の知、すなわち「境界知」と呼ぼう。境界を発見することで、私たちは新たな行動に転じ、自分のあり方をデザインし直そうとして、次の状況を引き寄せる。違和感の正体を見極めることで、私たち人間の持つ新しい「知」が見えてくるのではないか。

「サニワの能力」を通じて見極めた「違和感」を言語化する――という作業には、常に、非言語領域のものを言語化するという困難が付いて回る。


古代のサニワが、あらゆる既知の神々の伝承や神学・哲学に通暁しなければならなかったのは、こうした言語化の困難に直面せざるを得なかったためだ。サニワは、更に、人間そのものについての、深い総合知をも持っていなければならなかった。


違和感の正確な知覚と、その言語化。それは、《無》から新たな概念や言葉を生み出すに等しい荒業だ。


「我々は、自分が体験した《現実》を、正確に、ありのままに言語化できるのか?」


――思考は言語によって構成される。世界とは言語だ。


この厳粛な事実を基底とするこの現世においては、全ての《知/思考》は、言語化されなければ世に存在することはできない。世に存在しえなかった《知/思考》は、人に伝わらない。文化として後世に残ることもできない。


身体知も暗黙知も、この条件下においては、同様なのだ。


違和感を生み出す身体知は、「未だ言語化されざる知」でもある。


身体とは、《無限》から授かった「有限の器」だ。無限の地平線が――無限の他界が、有限の身体の中に折り畳まれている。《無》から《有》を生み出す場としての身体の中では、《無》と《有》とが対立しあい、あらゆる可能性を秘めた《運命》という名の、壮大な渦を巻いている。


身体とは、言語を生成する場だ。そしてあらゆる時空を、あらゆる世界次元を生成する、「私」という名の場だ。生命をも生成する、母なる深淵…それを、「身体のわだつみ」と名付けよう。


現代の問題として、我々は、余りにも身体から遠くなってしまったという事実がある。現代は、身体と心とが、互いにすれ違ったまま、漂流している時代である。


現代人の身体は、ただ平板で薄っぺらい。寄る辺も無く、命の終わりまで空しく時を重ねるだけの物体に成り果てている身体が、余りにも多いのだ。違和感をただ感じているだけで、それを言語化できず、説明も出来なくなっているというのは、そのような理由によるのだろう。


現代の我々の言語概念は、全き《無/無限》との対決の果てに、多くの《言語》《意味》を切り出してきた古代人の、驚くべき知性の自主性に依存している。


このような我々が、古代人の高度な身体感覚―身体知を取り戻すことは、やはり容易なことでは無い。


しかし、新たな時代の新たな知を確立するためには、たとえわずかではあっても、言論のための言論に依存しない、生命本来の身体知を取り戻す必要があるだろう。そして身体知を言語化するための「知性の自主性」を、我が身の内に確立することから始める必要があるだろう。


探索者は、明るく整備された道を歩む者では、決してありえない。探索者は、報われないことが多いということを覚悟するべきだ。


「探求―理解―表現」という行為は、本来は、地図も無くして未知の魔境を探り出すに等しい、極めて難解なものなのだ。理解に至るまでの道なき道は、どんなに迷っても、自力で探さなければならない。それが「知性の自主性」ということであろう。


理解の段階まで到達したところで、行きっぱなしで帰還して来ない人も居る。


表現とは、異次元からの回帰だ。違和感の言語化を含めて、他界なるものの表現のプロセスは全て、「行きて帰りし物語」ないし「永劫回帰」のスタイルを取る。


古代のサニワが、苦心の末に、違和感の正体を「あだし神」と表現したように――である。


「違和感」を含む身体知は、既知の「世界」に反逆する可能性を秘めている。


身体が、現代の価値観において、最底辺の領域に押し込められた存在であるからだ。「世界」への反逆は、常に、最底辺の領域、或いは境界(マージナル)から発生する。


違和感の正体を見極めることは、「新たな世界の創造」という可能性をも秘めている筈なのだ。

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ツイッターメモ,神託についてのプチ民俗学

『神託』

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372272809230045186

この神託所は希臘最古といわれ、3つの異なる文化層が確認され、「初めに樫の神木の崇拝があり、次いで大地の女神ゲーの崇拝、そして最後に紀元前13世紀になって、樫の神木の崇拝とゼウス信仰が結びついた」(ファンデンベルク『神託』)という

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372276268780036097

「巫女や祭司たちが、樫の木のざわめきから神の声を聴きとるというのも異様だが、最も特異な仕掛けは……ドドナの銅鑼の音だろう。
……ドドナでは、2500年も前に、人造の声が作られていたのだ」(ファンデンベルク『神託』)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372303148186890243

「紀元前5世紀の終わりごろまで、ゼウスの樫の神託所は一度も石垣で囲まれたことがない。それぞれひとつずつ青銅の鉢を吊り下げた三脚の台架が、びっしりと連なって垣のようになっていた。
……訪問者はこの入り口を通り抜けて樫の神木の神域に入るとき、

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372303727219023872

どうしても左右の鉢に触れることになる。すると、銅鑼を打ったような音が生じて、それがずらりと並んだ鉢の全部に共鳴する。そして、どの鉢もそれぞれ大きさが違うので、さまざまな音響を発することになる」(ファンデンベルク『神託』)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372306094668705794

ここで思い出されるのがわが国の銅鐸である。「音を出して「聞く」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的へと変化した」とするのが妥当であろう。
そして吊すことから連想されるのは、またしても天岩戸の根こそぎの榊に吊された青銅の「鏡」のことである。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372635153462292484

「天上の山からよく茂った常緑樹を根こそぎにしてきて、その上の枝には……曲玉の飾りを、中の枝には……鏡を掛け、下の枝には白と青の布の四手を垂らした」。
「この鏡はまさしくアマテラスを表象しながら、樹に掛かっていた」(吉田敦彦『太陽の神話と祭り』)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372637611764813825

鏡は、本来、青銅でつくられたものである。用途はもちろん磨きあげられた表面にあるが、しかし意味はその裏に彫られた彫り物にある。
図は唐代の銅鏡の裏面。
そこには「宇宙」が表象されているのである。「円」には初めも終わりもない(と、昔の占星術師なら強調する)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372638505747111937

この「吊された鏡」から、吉田敦彦は「吊された太陽の娘」=ヘレーネーを連想するのに何の妨げもないとするのである。
あのトロイ戦争の原因をなしたへレネーが、最期は鈴懸の樹に縊れて(あるいは吊されて)死んだことは、日本人にはあまり知られていない。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1373034065754947589

エジプトの太陽は2本のシカモアイチジクの樹の間から昇り、シカモアイチジクの樹の間に沈むという。シカモアイチジクは「生命の樹」である。
対して中国の太陽は扶桑樹から昇る。が、当初、太陽は十個あって人間を苦しめたので、羿が9個まで射落として現在に至るという。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1373037740963426308

扶桑(樹)が現実の何に当たるかは明らかでない。仏桑花(ぶっそうげ)というの説もあるが、「生命の樹」(でなければ「世界樹」)でなければおかしいから、当たらない。
桑は希臘語でμορέα (Morus nigra)。バビュローンを舞台にピューラモスとティスベーの悲恋伝承がある。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1373040749617377281

その伝承では、桑の実は2人の血で赤くなったのだというのだが、実際は(「クロミグワ」の名があるとおり)黒くもある。実際の血潮が(特に静脈血が)どれほど黒いか、希臘の歌人はよく知っていた。
それを、「ギリシア人の色の表現はしばしば読者を当惑させる」などと……。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1373042417444646912

「吊された」といえばタロットXII「吊された男(女ではない!)」。ヴィーヴル版(右図)は北方ヨーロッパ起源とカテゴライズされ、「意図的な上下反転操作」の可能性があるという(井上教子『タロットの歴史』)。
なぜ正立しているのか、その理路がなかなか見出せないが……。

異世界ファンタジー絵:ケモ耳少女、ケモミミ少女

出典作品:『宿命の人 運命の人―瑠璃花敷波―』(後に「狼少女と青き盾」に改題)

キャラクター:水のルーリエ(通称「ルーリー」)/水のサフィール、同一人物

ラフ絵/2018.07.01制作

レイヤー20枚ほど、デジタル彩色絵(手動)その1/2020.01.04~2020.01.11完成

レイヤー30枚ほど、デジタル彩色絵(手動)その2/2020.01.04~2020.01.11完成

比較/参考

全自動彩色バージョンの場合/2020.01.04試行