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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

イギリスの知られざる戦略「国際防衛関与戦略」とは?

イギリスの知られざる戦略「国際防衛関与戦略」とは?
URL〔http://thepage.jp/detail/20160129-00000011-wordleaf〕

冷戦後、自衛隊は海外でも活動するようになりました。国連平和維持活動(PKO)や海賊対処はその典型です。しかし、日本には、自衛隊の海外活動のあり方を分野横断的に整理した戦略が未だにありません。一方、英国には、外交・経済・軍事など複数の分野を踏まえて作られた、「国際防衛関与戦略」(以下、関与戦略)があります。関与戦略の柱になっているのが、防衛分野の人材や装備品などを外交の観点からも活用する「防衛外交」という考え方です。関与戦略には、途上国の軍隊を支援する「能力構築」や、産業振興の観点も踏まえた「武器輸出」などの取り組みも含まれています。「安全保障」「繁栄」「自由」を国益に掲げる英国は、諸外国に関与することで危機の発生を予防し、自国の安全保障と、経済活動に必要な地域の安定を確保しようとしています。

防衛外交:防衛分野の人材等を外交面でも活用する

英国は、防衛分野の人材、ノウハウ、装備品などを外交の観点からも活用しています。これが、「防衛外交」(defence diplomacy)と呼ばれる考え方です。防衛外交は、2013年に英国防省が打ち出した『国際防衛関与戦略』(International Defence Engagement Strategy)の柱として位置付けられています。防衛外交に該当する活動としては、諸外国の軍隊との人的交流、国内外で行う他国軍に対する教育や訓練、情報交換や調整業務を行う連絡官の他国への派遣などがあります。例えば、英海軍は海上自衛隊に連絡官を派遣しています。連絡官を派遣することで、日英の防衛実務者同士が日常的に情報を交換できるようになり、日英関係を補完することになります。

能力構築:地域の安定に寄与しつつ、影響力を保つ

「繁栄」を国益の一つに掲げている英国は、その基礎となる地域の安定に寄与するために、諸外国の軍関係者などに対して英国の国内外で教育や訓練を行っています。その中でも、途上国の軍人の技能や軍隊の能力などを高めようとする取り組みは、「能力構築」(capacity building)と呼ばれています。例えば、英国は、イスラム過激派組織の脅威に対応するために、ナイジェリアへ軍事顧問団を派遣し、ナイジェリア軍に対して訓練を行っています。ちなみに、英国防省の文書でも触れられているように、英国は教育や訓練を通じて国造りに関与することで、相手国における英国の影響力を維持しようとしています。何故なら、英国の『国家安全保障戦略』の中でも言及されているとおり、英国は影響力こそ国力の源泉だと考えているからです。

武器輸出:経済・外交両面からも促進する

10万人の雇用を抱える航空宇宙産業が主要産業となっている英国は、戦闘機などの装備品や関連する防衛技術を、経済・外交両面においても活用しています。英国政府は、主力産業の一翼を担う戦闘機などの装備品の輸出を促進するために、世界最大級となる武器の展示会の開催を支援しています。また、相手国との関係を強化しつつ、自国にない技術を取り入れ、より良い装備品を開発するために、防衛技術に関する協力も諸外国と行っています。例えば、英国は日本と新型ミサイルの共同研究を行っています。装備品や防衛技術に関する協力を進めることで、日英間には防衛当局者が集まる定期協議の場などが設置され、従来なかった結びつきが生まれています。こうした新たな繋がりが、日英関係をより深いものにしています。

対外政策に軍の有用性を活かす英国

英国は、防衛分野の人材などを外交の観点からも活用する「防衛外交」という考え方を柱とした、分野横断的な『国際防衛関与戦略』をつくり、能力構築や武器輸出を通じて諸外国に関与することで、国益を確保しようとしています。一方、初めて自衛隊を海外での任務に派遣してから四半世紀が経つ日本には、自衛隊の海外活動に関する展望を、複合的観点から示した戦略はありません。確かに、防衛省には、諸外国の防衛当局との交流のあり方について示した「基本方針」はあります。しかし、それは、政府全体ではなく、防衛省としての一体性と整合性を確保しようとしたものに過ぎません。冷戦終結から25年。中国の海洋進出や北朝鮮の核開発など、日本を取り巻く安全保障環境は大きく変わりました。今後は、英国のように、防衛分野の人材などがもつ有用性に着目し、外交や経済など様々な観点から自衛隊の活用方法を考えてみると、日本の外交・安全保障政策にも幅と深みが出るのかも知れません。

(廣瀬泰輔/国会議員秘書)
廣瀬泰輔(ひろせ・たいすけ)。元米戦略国際問題研究所(CSIS)客員研究員。日本財団国際フェローシップ(2期)。EU短期招聘訪問プログラム(EUVP、2015年派遣)。防衛大学校卒。松下政経塾卒。予備自衛官。
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論考・身体のわだつみ

違和感の正体を見極めるのは、実は難しい。


何故ならばそれは、非言語の領域に属するものだからだ。


違和感の根拠となっている知覚は、身体という名の、闇の領域に属する。「身体知」「体験知(暗黙知)」に直結するものであり、マニュアル言語化を拒否するものなのだ。


違和感――それは、身体や世界の《相転移》を精妙に知覚する「未だ知られざる器官(能力)」が感じる感覚である。違和感を感じる身体と、他界の存在とは、密接に関係している。


他界――それは、この「現世」を発生する《無限》の場だ。あるものをあらしめる、限界の無さだ。


我々の身体には、そういう異次元の知覚能力を発達させる可能性が開かれているのだ。


違和感を感じる知覚がよく発達しており、かつよく制御しえた人を、我々の先人は、「審神者(サニワ)」と呼んだ。ゆえに、この「未だ知られざる知覚」を、「サニワ感覚」と表現しても良いだろう。


『境界知のダイナミズム』(瀬名秀明、梅田聡、橋本敬・著/岩波書店)では、以下のように論じられている。

「違和」を感じ、そこに何かを見出そうとする私たちの知のあり方を、境界の知、すなわち「境界知」と呼ぼう。境界を発見することで、私たちは新たな行動に転じ、自分のあり方をデザインし直そうとして、次の状況を引き寄せる。違和感の正体を見極めることで、私たち人間の持つ新しい「知」が見えてくるのではないか。

「サニワの能力」を通じて見極めた「違和感」を言語化する――という作業には、常に、非言語領域のものを言語化するという困難が付いて回る。


古代のサニワが、あらゆる既知の神々の伝承や神学・哲学に通暁しなければならなかったのは、こうした言語化の困難に直面せざるを得なかったためだ。サニワは、更に、人間そのものについての、深い総合知をも持っていなければならなかった。


違和感の正確な知覚と、その言語化。それは、《無》から新たな概念や言葉を生み出すに等しい荒業だ。


「我々は、自分が体験した《現実》を、正確に、ありのままに言語化できるのか?」


――思考は言語によって構成される。世界とは言語だ。


この厳粛な事実を基底とするこの現世においては、全ての《知/思考》は、言語化されなければ世に存在することはできない。世に存在しえなかった《知/思考》は、人に伝わらない。文化として後世に残ることもできない。


身体知も暗黙知も、この条件下においては、同様なのだ。


違和感を生み出す身体知は、「未だ言語化されざる知」でもある。


身体とは、《無限》から授かった「有限の器」だ。無限の地平線が――無限の他界が、有限の身体の中に折り畳まれている。《無》から《有》を生み出す場としての身体の中では、《無》と《有》とが対立しあい、あらゆる可能性を秘めた《運命》という名の、壮大な渦を巻いている。


身体とは、言語を生成する場だ。そしてあらゆる時空を、あらゆる世界次元を生成する、「私」という名の場だ。生命をも生成する、母なる深淵…それを、「身体のわだつみ」と名付けよう。


現代の問題として、我々は、余りにも身体から遠くなってしまったという事実がある。現代は、身体と心とが、互いにすれ違ったまま、漂流している時代である。


現代人の身体は、ただ平板で薄っぺらい。寄る辺も無く、命の終わりまで空しく時を重ねるだけの物体に成り果てている身体が、余りにも多いのだ。違和感をただ感じているだけで、それを言語化できず、説明も出来なくなっているというのは、そのような理由によるのだろう。


現代の我々の言語概念は、全き《無/無限》との対決の果てに、多くの《言語》《意味》を切り出してきた古代人の、驚くべき知性の自主性に依存している。


このような我々が、古代人の高度な身体感覚―身体知を取り戻すことは、やはり容易なことでは無い。


しかし、新たな時代の新たな知を確立するためには、たとえわずかではあっても、言論のための言論に依存しない、生命本来の身体知を取り戻す必要があるだろう。そして身体知を言語化するための「知性の自主性」を、我が身の内に確立することから始める必要があるだろう。


探索者は、明るく整備された道を歩む者では、決してありえない。探索者は、報われないことが多いということを覚悟するべきだ。


「探求―理解―表現」という行為は、本来は、地図も無くして未知の魔境を探り出すに等しい、極めて難解なものなのだ。理解に至るまでの道なき道は、どんなに迷っても、自力で探さなければならない。それが「知性の自主性」ということであろう。


理解の段階まで到達したところで、行きっぱなしで帰還して来ない人も居る。


表現とは、異次元からの回帰だ。違和感の言語化を含めて、他界なるものの表現のプロセスは全て、「行きて帰りし物語」ないし「永劫回帰」のスタイルを取る。


古代のサニワが、苦心の末に、違和感の正体を「あだし神」と表現したように――である。


「違和感」を含む身体知は、既知の「世界」に反逆する可能性を秘めている。


身体が、現代の価値観において、最底辺の領域に押し込められた存在であるからだ。「世界」への反逆は、常に、最底辺の領域、或いは境界(マージナル)から発生する。


違和感の正体を見極めることは、「新たな世界の創造」という可能性をも秘めている筈なのだ。

ツイッターメモ,神託についてのプチ民俗学

『神託』

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372272809230045186

この神託所は希臘最古といわれ、3つの異なる文化層が確認され、「初めに樫の神木の崇拝があり、次いで大地の女神ゲーの崇拝、そして最後に紀元前13世紀になって、樫の神木の崇拝とゼウス信仰が結びついた」(ファンデンベルク『神託』)という

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372276268780036097

「巫女や祭司たちが、樫の木のざわめきから神の声を聴きとるというのも異様だが、最も特異な仕掛けは……ドドナの銅鑼の音だろう。
……ドドナでは、2500年も前に、人造の声が作られていたのだ」(ファンデンベルク『神託』)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372303148186890243

「紀元前5世紀の終わりごろまで、ゼウスの樫の神託所は一度も石垣で囲まれたことがない。それぞれひとつずつ青銅の鉢を吊り下げた三脚の台架が、びっしりと連なって垣のようになっていた。
……訪問者はこの入り口を通り抜けて樫の神木の神域に入るとき、

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372303727219023872

どうしても左右の鉢に触れることになる。すると、銅鑼を打ったような音が生じて、それがずらりと並んだ鉢の全部に共鳴する。そして、どの鉢もそれぞれ大きさが違うので、さまざまな音響を発することになる」(ファンデンベルク『神託』)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372306094668705794

ここで思い出されるのがわが国の銅鐸である。「音を出して「聞く」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的へと変化した」とするのが妥当であろう。
そして吊すことから連想されるのは、またしても天岩戸の根こそぎの榊に吊された青銅の「鏡」のことである。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372635153462292484

「天上の山からよく茂った常緑樹を根こそぎにしてきて、その上の枝には……曲玉の飾りを、中の枝には……鏡を掛け、下の枝には白と青の布の四手を垂らした」。
「この鏡はまさしくアマテラスを表象しながら、樹に掛かっていた」(吉田敦彦『太陽の神話と祭り』)。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372637611764813825

鏡は、本来、青銅でつくられたものである。用途はもちろん磨きあげられた表面にあるが、しかし意味はその裏に彫られた彫り物にある。
図は唐代の銅鏡の裏面。
そこには「宇宙」が表象されているのである。「円」には初めも終わりもない(と、昔の占星術師なら強調する)

https://twitter.com/Prokoptas/status/1372638505747111937

この「吊された鏡」から、吉田敦彦は「吊された太陽の娘」=ヘレーネーを連想するのに何の妨げもないとするのである。
あのトロイ戦争の原因をなしたへレネーが、最期は鈴懸の樹に縊れて(あるいは吊されて)死んだことは、日本人にはあまり知られていない。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1373034065754947589

エジプトの太陽は2本のシカモアイチジクの樹の間から昇り、シカモアイチジクの樹の間に沈むという。シカモアイチジクは「生命の樹」である。
対して中国の太陽は扶桑樹から昇る。が、当初、太陽は十個あって人間を苦しめたので、羿が9個まで射落として現在に至るという。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1373037740963426308

扶桑(樹)が現実の何に当たるかは明らかでない。仏桑花(ぶっそうげ)というの説もあるが、「生命の樹」(でなければ「世界樹」)でなければおかしいから、当たらない。
桑は希臘語でμορέα (Morus nigra)。バビュローンを舞台にピューラモスとティスベーの悲恋伝承がある。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1373040749617377281

その伝承では、桑の実は2人の血で赤くなったのだというのだが、実際は(「クロミグワ」の名があるとおり)黒くもある。実際の血潮が(特に静脈血が)どれほど黒いか、希臘の歌人はよく知っていた。
それを、「ギリシア人の色の表現はしばしば読者を当惑させる」などと……。

https://twitter.com/Prokoptas/status/1373042417444646912

「吊された」といえばタロットXII「吊された男(女ではない!)」。ヴィーヴル版(右図)は北方ヨーロッパ起源とカテゴライズされ、「意図的な上下反転操作」の可能性があるという(井上教子『タロットの歴史』)。
なぜ正立しているのか、その理路がなかなか見出せないが……。