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制作日誌/深森の帝國

〝認識が言語を予感するように、言語は認識を想起する〟・・・ヘルダーリン(ドイツ詩人)

制作プロットのメモ「高千穂」「大宰府」

第三部マレヒト@第九章「高千穂」プロット

日付は全てストーリー上の架空の旧暦のもの

たかちほのくしぶる峰ぞ仰がるる天の鈿女のはじめと思へば
藤原俊成/夫木抄、巻廿一、雑三(9036)

■09/30■

日食(真昼)、鏡青年、乗っていた船から落ちて海中へ。イオ、タスキ、後を追って救助作業。鏡青年はユカル王子に弓矢で撃たれていて怪我。

イオ、タスキ、鏡青年の身柄確保、3人は海の中で不思議なものを目撃。

混沌の海から新たな事象が生まれる(海上で進行していた戦いなどのアレコレについて、その象徴的な部分が海の中に反映される形。海の底=無意識領域に、様々な情報が流れ込む)

水銀の巫女が出て来て、鏡青年に水銀の壺を託す。

聖麻の国章の改変が起こる。新生の神と「ユカル王子の聖麻」の結びつき。※従来の聖麻ではない

イオのアザミ衆としての異能を通じて、3人は、海中から地上(高千穂)へ高飛び。

鏡は意識がなくなったため、詳細を覚えていない。怪我によって体調を崩し、高熱で寝込む。

■10/04■

高千穂、集落の中の一軒家。

鏡、昼ごろに意識が戻る。ヨドミと名乗る老女の家。

弓矢による怪我は処置済み。タスキが付き添っている状態。聖麻のその後の話など、簡単に情報交換。

イオの方も、非常な長距離の高飛びをしたため、体調を崩して寝込んでいる。

■10/05■

未明、聖麻の神(旧神)による幻夢(透視・神夢)。母親の死の真相が展開する。聖麻の王宮としている邸宅の、数々の蔵の間=殺害現場。

夜明け、日の出。朝食の刻、鏡は長い夢で少しボンヤリ。タスキが起こしに来て、朝食の世話。

イオは既に体調が戻っており、老女ヨドミと共に早朝の外出中。

鏡は、イオと老女ヨドミの行き先に少し興味を持ち、タスキが案内する。

峡谷の一角、慰霊の場。かつて死亡していたアザミ衆の幼女・露の弔いをしていた。

老女ヨドミ、日食の間に何があったかについて、鏡視点での話を聞き、新たに考察。

まもなくカモさん一行が鏡を探して高千穂を訪れる見込み。カモさんが到着したら、また詳しく話を、ということになる。


第三部マレヒト@第十章「大宰府」プロット

日付は全てストーリー上の架空の旧暦のもの

大君(おほきみ)の遠(とほ)の朝廷(みかど)とあり通(がよ)ふ島門(しまと)を見れば神代(かみよ)し思ほゆ
柿本人麻呂『万葉集』3-304

*****

■09/30■

深夜、別府の港の宿場町。

カモさん一行、宿場に宿泊。鏡父も一緒に行動。夕食後、今後の行動方針などの計画。

■10/01■

別府の港を出港。カモさん一行が乗ったのは船は渡辺党のベテラン船長の船。出港間もなく、沿岸を雨竜島沈没の後の大量の漂流物が浮遊し、他の船も航行に難儀。

国東半島を回る。宇佐神宮が派遣した船と、海上で出逢う。

宇佐神宮の船に従い、渡辺党の船長の船(カモさん一行)、宇佐神宮最寄りの港へ寄る。

昼頃、カモさん一行、宇佐神宮の鳥居をくぐる。宇佐の神託「ユツ・イワムラの瀬戸」を受ける。日ノ巫女の託宣、水銀の託宣(水銀の巫女)。日=杼つながり。瀬都の兄が何となく思い出し、織物や糸の話になる。雪森郷で瀬都は機織りをよく手伝っていた。

カモさん一行、宇佐神宮を出発。関門海峡~壇之浦~小倉。

夕方、小倉に着。小倉の城の城下町の市場を散策。

市場のとある屋台店で、吉野ケ里あたりの古墳から出てきた品を扱っている。いわくありそうな水銀の壺。ネコマタ2匹で、宇佐神宮の神託とつなげてピコーンと来る。水銀のカゴメの鳥など、8月の謎の台風とつながる。

夜、小倉の城下町の宿場に宿泊。

鹿深氏、いろいろと直感し、思うところがある。シヅ・倭文(しとり)~機織りの神とつながる。ミカボシとも多少のかかわりが思い浮かぶ。

■10/02■

小倉を出発。カモさん一行、北九州の街道をゆく。

■10/03■

北九州の街道。おもに唐津街道。大宰府を目指す。日没後、大宰府の官衙に到着、近くに売宿を取る。かねてからカモさん一行を見張っていた帥の宮が、早速、宿へ足を運ぶ。瀬都の兄、仰天しきり。

帥の宮とカモさん、しばらく気心の知れた押し問答。

■10/04■

カモさん一行、鏡青年を探すための特別チームを分ける(ハイタカ、リョウ、カモさん、ネコマタのハイネ)。朝駆けの形で、いそぎ、高千穂へ出発。速度を稼ぐため、乗馬。

帥の宮と共に、鏡父や鹿深氏などは、特別チームを見送り。大宰府の官衙をひとめぐりして、海外の情勢などを少し耳にする。

太宰府天満宮の宿場町に滞在の為の宿を取る予定。鹿深氏の一行、大宰府天満宮へ向かう。サヤ糸や職人の話。鹿深氏、再び思案に沈む。辻占、夕占あり。

みづひきの-白糸はへて-織るはたは-旅の衣に-たちや重ねむ
天(あま)つ星-道も宿りも-ありながら-空にうきても-思ほゆるかな

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天逆鉾(あめのさかほこ、あまのさかほこ)

日本の中世神話に登場する矛。一般的に記紀に登場する天沼矛の別名とされているが、その位置付けや性質は異なっている。中世神話上では、金剛宝杵(こんごうほうしょ)、天魔反戈(あまのまがえしのほこ)ともいう。宮崎県・鹿児島県境の高千穂峰山頂部(宮崎県西諸県郡高原町)に突き立てられているものが有名(ウィキペディア)

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《水銀についてのメモ/世界大百科事典より抜き書き》

水銀は適量を用いれば新陳代謝を促す作用を持つため、中国では丹砂から作った丹薬は不老長寿の薬として道士の秘術とされたが、一方で、永遠の生命を得るべくこの延命の薬を飲みすぎて死亡した皇帝や貴族も多かったらしい。日本でも即身仏(ミイラ)の一部から水銀が検出されている。

高野山は全山が水銀鉱脈の上にあり、その壇上には高野明神と丹生明神の2神が地主神として祀られており、麓の天野にも丹生都比売神社がある。

また即身仏が多く出た湯殿山の奥の院の宝前の付近からは高品位の水銀が検出され、近年まで「ゆあか」と称する水銀含有の聖水が売られていた。真言修験の徒も単に精神的な修行に従っていただけでなく、水銀を求めて入山し丹薬を製して服用したり、これを商って暮らしていた者もあったと思われる。

《水銀についてのメモ/東方出版「インド錬金術」佐藤任・小森田精子訳・著》

仏教の聖典「華厳経」が中国語に翻訳されたのが3-4世紀ごろ、その中に水銀の薬効や長寿の霊薬に関する記述があり、そこには赤色を作りだす辰砂が多く使用された記録があります。その配合や実験に関わったのが聖典を訳した仏教僧であり、インド大乗仏教、特に密教と関わりのあった高名な錬金術師もいたことから、空海も関心を持っていたとの説もあります。
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読書覚書:中国の中間層:民変と士民公議

資料=『世界歴史体系 中国史4 明-清』神田信夫・編、山川出版社1999

明末清初の税役問題の処理には、国家権力ないし中央の一方的意思のみによっては決定しえず、地方の世論が様々な形で提起され、政策に影響する状況が看取される。特に不当、あるいは不平等な負担が強いられる場合、抗議・要求する民衆が実力行使に出るのを「民変」と言う。

明末、直接に経済的利害をめぐって発生した大規模な民変としては鉱税の賦課、およびその徴収にあたった宦官以下の誅求に抗議して運河沿岸や江南の諸都市で起こったものが有名である。

このような大規模なものの他に、税役負担をめぐって、府県レベルで小規模な民変が発生している。とりわけ、郷紳の優免特権による負担の甚だしい不平等に起因する徭役問題=「役困」の解決では、均田均役と呼ばれる改革が明末清初に進行するが、湖州府などで民変が発生している。

このような民変は、負担が集中する中間層、つまり或る程度の資産を有し、担税能力ありと認定されているが郷紳身分を持たない庶民身分の階層がリーダーシップを取っていたと思われる。このような中人層は、実際において、下級読書人層、特に官僚身分を獲得してはいないが科挙の第一段階を通過した「生員」層と、重なり合う存在であった。

士大夫の末端に位置する生員層には、わずかながら優免が与えられていたが、雀の涙であった。生員層にはかろうじて「館師」=住込家庭教師で生活を支えている者も少なくは無かったが、やはり貧困の細民は少なく、相当の資産を有する者が多かった。従って、重い役負担に悩む者が少なくなかった事は、史料にしばしば見出されるところであり、徭役改革を求める運動の主導者となるのである。

このような階層が展開する運動は、必ずしも実力行使の形を取るとは限らず、むしろそれは事態が順調に進行せぬ場合の例外的状況であったと考えられる。むしろ彼らは、公開の場に会同して問題を検討し、解決策を形成する方途を追求する。それは主に府学・県学、時には城隍廟や大寺院を会合場所とする、知府、知県など官憲との会議として現れる。

往々にしてそこには郷紳が出席し、更に古風に「耆老(きろう)」或いは「父老」と表現される、庶民身分の有力者も出席する。全国については確認できないが、少なくとも江南デルタはじめ華中・華南の相当の県でこのような慣行が定着しつつあり、「士民公議」或いは「地方公議」と呼ばれるようになる。

このように明末には、中央集権的権力の一方的な統治・支配には収束されぬ、県を単位とする地方政治の場が成立しつつあった。それは一面、経済力を背景とする「地方」の「中央」に対する成立と見る事も可能であろう。

「士大夫」と概念的に区別される社会存在としての「郷紳」層の成立も、このような県を場とする政治社会の形成と相関していた。このように、「郷論」が形作られる場のヘゲモニー(人々の合意に基づく指導権)を握ったのが、郷紳層であった。彼らのうち東林派に表現される開明派は、変動する社会・経済に対応して、安定しかつバランスの取れた秩序を極力維持すべく(端的には民変などの生起を防止すべく)、理不尽で恣意的な収奪や特権享受を自制すべき事を説くのである。

明末の著名な思想家・顧炎武が「封建論」=地方分権論を説いて、財政・人事・立法などの権限の地方分与を主張し、また黄宗羲が「学校論」=地方公議論を説いて、天下・地方の大事は宰相・地方長官が国子監・府県学に学生を集めて検討すべき事を語ったのも、決して彼らの思弁のみの空想の産物ではなく、当時の社会の現実を反映していたのである。

清初、生員層が政治を談ずる事は厳禁された。統治能力を喪失しつつあった末期の明朝と異なり、精気に溢れていた初期清朝は、このような地方公議の芽を摘んだのである。しかしともあれ、郷紳、或いは紳衿層の合意の上で知県の治政が実現する構造は、明末以降の大勢となっていたと言えるであろう。

※以上、この部分の文章は奥崎裕司・著※


《感想》・・・明末期にちらほらと現れていた地方公議システムが、文明を変容させる力を持っていたかどうかは不明ですが、こうした民間の変容は、「清の登場がもっと遅かったら?/清がもっと無能で弱小な支配者だったとしたら?」という可能性を感じさせるものでした

清は秘密警察を使って地方の実情を探っていたと言う話があり、秘密結社のルートを使ったとしても、明末期に続いて地方公議が発展してゆくのは難しかっただろうと思います

長く続いた支配にも関わらず「漢族っぽくない」という違和感が清帝国に付いて回ったのは、このような、人民の間での自然な変化を強力に弾圧し続けたと言う行動のせいだったのであろうか、と想像しました

地方分権については、清末期に二度目のチャンスがあった筈でしたが、その時にはもう、西洋列強や日本との渡り合いで、それどころでは無かったのだと考察するところです

読書覚書:中国文明の特質・宗教と結社

資料=『世界歴史体系 中国史4 明-清』神田信夫・編、山川出版社1999

中国では2000年以上も「万人の万人に対する闘争」とでも言うべき状況が進行していた。これはまた「自律的団体結合の欠如を特質とする中国社会のありかた」とも表現される。これを過大評価すると「自由と活力と競争に富む社会」となるが、実は人々が散砂に近い状況でひしめきあっていたとも言えよう。中央権力はこの状態を維持し、更に散砂化を促進する事によって「平天下」の実現を目指してきたかに見える。官僚が横に連合する事は許されなかったし、民の連合は一族や郷村内の相互扶助のみに限定された。

しかし、中央権力のおとろえた明代後期に状況は変化した。明末清初は中国の歴史では稀な「結会・結社の時代」と言われ、また「民間宗教簇生(そうせい)の時期」とされる。

知識人だけでなく庶民に対しても陽明学が情熱的に伝道された事は、その傾向を促進した。無学な人々に対する羅教の普及もまたその傾向を強めた。陽明学と羅教は中国史では稀な人間結合をもたらす運動であったのである。陽明学は結局、党争の激化を招き、明朝崩壊の原因ともされた。羅教は民衆の無数の秘密結社と言う形で後世に継承された。

だが、中央権力は一貫して、民衆の血縁地縁を超える結合を危険視して弾圧したから、民衆の結社はすべて秘密結社の形を取らざるを得なかった。しかし、少なくとも数百年、おそらくは数千年の散砂の状態にあり続けた民衆は新しい結合の仕方に慣れていない。よく知っているのは皇帝が散砂の民衆を支配すると言う形式であった。しかも組織全体を権力から守らなければならない。

従って民衆の秘密結社は指導部のみが全体を把握し、構成員は横のつながりを持たないという組織原則にならざるを得なかった。民衆独自の結社においてまでも民衆は散砂であり続けなければならなかったのである。此処に中国文明の特質のひとつが示されていると言えよう。

※以上、この部分の文章は奥崎裕司・著※


《明代の白蓮教・無為教》(奥崎裕司・著より、要約)

明代の民衆宗教は儒教・仏教・道教が混合したものであったが、大きく二系統に分かれていた:

  • 「浄土信仰」&「弥勒信仰」⇒白蓮教(元末に成立)
  • 「無生父母信仰」⇒無為教(明代中期に成立)

白蓮教は南宋以来、近現代に至る中国民間の代表的宗教結社。初めは阿弥陀信仰(南宋の時代)であったが、勢力拡大を危険視されて弾圧される。元代になると一時は布教を許されたが、結局は、摩尼・白雲と並ぶ異端邪教の代表となった。元の末期頃、白蓮教に弥勒教が入って来たと言われており、弥勒下生により現世に理想社会が実現すると言う、現世救済の教義が速やかに成立した。

弥勒仏を名乗ったカリスマ的指導者はメシア的性格を持つため、白蓮教の教徒はしばしば反乱を起こした。紅巾の乱もそのひとつであり、明成立のきっかけになったが、後に明の皇帝になった洪武帝は、その後、白蓮教を妖術として弾圧し禁止した。

白蓮教結社はその後も反政府活動を続け、他方では密貿易や新田開発に手を染めていた。清の時代も活動は続き、義和団事件(1900)にも関与している。白蓮教の一派は少なくとも最近まで「在理教」などの名で続いていた。「在理」とは儒仏道三教の理の中に在るを言う。

白蓮教をはじめとする明・清時代の多くの宗教結社に共通している最大の点はカタストロフィ到来必然の信仰と強烈なメシア待望論であった(キリスト教タイプの終末思想=千年王国信仰と多くの共通点がある)。

嘉靖年間(明、嘉靖帝1522-1566)、李普明の創始した民衆宗教「黄天道」の宝巻「弥勒出西宝巻」の内容は以下の通り:

「弥勒の世は黄金や宝石で作られた美しい世界であり、果実や穀物が豊かに実り、人間はそれらを食して飢えず、貧窮に苦しむ者も居ず、気候は温和で乱れず、太平の春を謳歌する。人間は不老長寿となり、聡明で美貌、仁義礼智信の五徳は正され、何処に住む人々も心が同じとなり、みな兄弟姉妹のようになる。路に落ちている物を拾う者や盗賊が無くなり、金や銀を貯めておくなどという事は少しもしない。国法も無く穀物や税金を納めることも無い。92億の肉親姉妹が8万1000年の太平を享受し、昼には毎日まばゆいばかりの美しい着物で宴会をする。弥勒仏の治世が終われば人々は皆共に(天上の)都・斗宮に行って無生老母(嬢親)にまみえる」

これは無為教の影響を受けて成立した新しい白蓮教と言われている(つまり、古い方の白蓮教とは明らかに別物)。

無為教は羅清(らせい・羅祖)という人物が創始した。

「心は万物に先立って存在し、不増不減不生不滅であり、あらゆる事象による区別や拘束を受けず、完全無欠である。心(自己の本性)は絶対的なものである。この心は修行によって作られるものでもなく、証明される必要もなく完全無欠である。従って、この教えを無為教と言う(※ただし、心の探求・心の発見は重要であり、未熟者が本性の現成をとなえて心の探求をしないのは誤りである)」

※羅祖の大虚空は光であり禅宗の用語では「本来の面目」であった。王陽明と似た宗教的悟り(到良知)でありながら、「光に照らされ光に満ち満ちる体験をし、しかもそれが慈悲の光であり、慈悲によって体験できた(最高神と理想郷の実在を感得した)」という宗教体験に羅祖の特色がある。

羅祖は大乗的な方法を選び無為教の宗教結社を結成したが、民衆の間での拡大が著しく無数の結社を生んだだめ、既存の団体・官憲からは危険視され、明末新仏教とも対立した。後に無為教が弥勒下生信仰と結合すると更に弾圧されるようになった。

元々、無為教は白蓮教や弥勒信仰を邪教として遠ざけていたが、明末になると白蓮教も無為教も混合し変質した。その際、無為教の神「無生父母」は、男性神と分かれ、「無生老母」という女性神として成長した。「無生老母」には救世主としての性格も付与され、この神の主宰する理想郷は「真空家郷」と呼ばれた。無生老母は、民間信仰の女性神「観音」「泰山娘娘」「西王母」などとも混ざり合った。

羅教は、禅宗の民衆化したものとも言われており、禅宗と共通する問題を含んでいた。羅教や、羅教と混合した白蓮教には、霊体験志向と超能力志向があり、その方面での努力はするが、その他の修行や工夫は軽視する傾向があった。そのため、霊力(超能力)信仰が強まるという側面があった。